畳と味噌汁の匂い。
何年も嗅いでなくとも、意識が微かに浮上した敦がそれと判ったのは日本人の本能の様なものだろうか。
呆っとした精神のまま目を開けると、天井が見えた。半分引かれた窓帳から朝の光が差し込んでいて、優しく敦を起こしてくれる。
こんな穏やかな目覚めはいつ振りだろうと半身をおこした所で、ようやく脳味噌が正常に働き始めた。
「ここ、どこだ……」
「……敦、起きたの?」
疑問を浮かべる敦に、動き出した気配を感じた鏡花が勝手元から声を掛ける。
「鏡花ちゃん……?ここは……?」
「武装探偵社の社員寮。――敦、昨日の事はどこまで覚えてる?」
「きのう……」
鏡花の言葉に、敦は一瞬黙して記憶を振り返る。昨日は、いつものように終わりの見えない襲撃による疲労を回復させるため、人気のない河原で夕べまで休んでいて。そうだ、お腹が減ってふらふらと川沿いに歩きはじめたら、人の足が――。
「ああー!!!」
「……思い出した?」
「そうだよ、僕が虎だって!バレちゃたよね!太宰さんの目の前で変身しちゃったよね!?如何しよう~!軍警に突き出される!縛り首だ!銃殺刑だ!殺処分だぁ!」
「落ち着いて、敦」
頭を抱え、悶えながら情けなく嘆き散らす敦に、鏡花が冷静に制止の声をあげる。
しかしどうにも悲観に陥っている敦は悪い想像ばかり浮かぶらしく、顔を青ざめたまま。
その時、場違いに軽快なメロディーが鳴り響く。
「え!?なにっ?」
「……携帯」
殺風景な部屋の畳に無造作に置かれた折り畳み式の携帯電話。
鏡花は小さな手でそれを取り苦も無くボタンを操作して自分と敦の間に置いた。
『やあ、お二人さん。新しい下宿寮はどうだい?善く眠れた?』
「え、下宿?」
「はい。お蔭様で」
鏡花は着信を取ってスピーカー状態に設定したらしい。十分聞こえる音量で、昨日であった太宰の声が機械から発せられた。
太宰から出た下宿という言葉に身に覚えのない敦が理解できずにいるも、隣の鏡花はごく普通に受け答えしている。
どうやら思っているようなことにはなってない様だとようやく敦が察し胸を撫で下ろした辺りで太宰が続きを述べる。
「助けて。死にそう」
********
「やあ。よく来たね」
部屋に用意されていた衣服に着替え、携帯の指示に従って向かった先。そこには助けを求められたのだから当然太宰がいたのだが、その姿があまりにも珍妙であった。
鏡花と共に並んで太宰を見下ろす。
「早速だが助けて」
「え……?なんですかこれ?」
「何だと思うね?」
「朝の幻覚?」
「違う」
ドラム缶に決して小さいとは言えない体をくの字に曲げて入っているのだろうか?成人男性がドラム缶にずっぽりと嵌っているという理解できない(したくない)光景に敦は思考を放棄したくなりながらも真面目に答えた。ちなみに鏡花は全く動じず、いつも通り平静な顔で太宰を見ている。何処で買えるんだろう、その精神力。
「こうした自殺方があると聞き早速試してみたのだ。が、苦しいばかりで一向に死ねない。腹に力を入れてないと徐々に嵌まる。そろそろ限界」
「はあ……」
「……自殺なら、そのままいけば死ねるんじゃ?」
「私は自殺は好きだが、苦しいのも痛いのも嫌いなのだ。当然だろう」
食い気味に言う太宰。自殺が好きってなんかすごい言葉だなと思いながら、敦は鏡花と目を合わせ、同時にドラム缶をひっくり返した。
********
「助かったよ、二人とも~。君達が居なかったら、腰からぽっきり二つ折りになるところだった」
「他の同僚の方に助けを求めなかったのですか?」
「求めたよ。でも私が『死にそうなのだ』と助けを請うた時何と答えたと思う?
「死ねばいいじゃん」
「おめでとうございます?」
「御名答」
敦と鏡花が思い思いに回答すれば、太宰はその通りと不満そうな顔で大きく頷く。内心、同僚方の気持ちが分かるなあと思いつつ敦はずっと聞きたかった事を問う。
「ところで、あの部屋は?」
「おや、鏡花ちゃんから聞いてないかい?流石に未成年で女の子もいる訳だし野宿ってのも危ないだろう?だから紹介させてもらった訳だけど」
「そうだったんですね!ありがとうございます」
朝は起きてすぐに太宰から電話があり、機会を逸していたがそのような成り行きがあったとは。敦はジーンと感動して礼を述べた。
その横を並んで歩いていた鏡花が敦を挟んで太宰を見上げる。
「何処へ向かっているの?」
「うん、君たちに仕事を斡旋しようと思ってね」
「え!?」
「鏡花ちゃんのご両親を探すにも、先立つものが必要だろう?」
「太宰さん、本当に何から何まで……!」
「伝手の心当たりがあるから先ずは探偵社に行こう」
優し気に言う太宰に、敦の目が輝く。きらきらとしたその眼差しを一心に受けながら、太宰は胸を張って言う。
「私に任せておけば万事大丈夫!なぜなら私は太宰。社の信頼と民草の崇敬を一身に浴す男なのだから」
「こんな所に居ったか太宰!――この包帯無駄遣い装置がぁ!!!」
格好つけた太宰の横面を張ったのは、昨日太宰の同僚として出会った国木田。よく通る声で太宰に罵声を浴びせる。
「……国木田君。今の呼称はどうかと思う」
「(ちょっと傷ついてる)」
「誰が‘社の信頼を一身に浴する男’だ?お前が浴びてるのは文句と呪いと苦情の電話だ!」
国木田の迫力のある異議申し立てに、敦と鏡花はゆっくりと国木田の方を向いた。そして出てくる太宰の奇行の数々。
敦は内心、この人に仕事の斡旋をしてもらって本当に大丈夫だろうかと呟きながら、ボコボコにされる太宰を見た。
「おお!そうだ。太宰の馬鹿を相手にして、一分も無駄にしてしまった。探偵社に急ぐぞ!」
「何で?」
「緊急事態だ。爆弾魔が人質を連れて探偵社に立て篭もった!」
「爆弾魔……!」
緊迫した空気に、敦は息を呑んだ。
********
重厚な煉瓦造りのビルディングの四階に、武装探偵社は入居していた。
室内灯は消えたのか消されたのか。窓から入る日の光だけが光源になっていて薄暗い。
そのフロアの奥。だれか偉い人の席なのか、窓際で他の社員の机に向かうように配置された上に座り込んだ若い男が件の爆弾魔らしかった。
「ぜんぶお前等の所為だ……『武装探偵社』が悪いンだ!」
「社長は何処だ。早く出せ!でないと――爆弾で皆吹っ飛んで死ンじゃうよ!」
男は学生服を着た少女の肩を掴み、もう片手で爆弾のスイッチらしきものを掲げながら叫んだ。
爆弾は今も機械音を規則的に鳴らし、敦は危機感を覚える。
「鏡花ちゃんはビルから避難した方が……」
「大丈夫」
「いや、大丈夫じゃなくてね?」
「怨恨か。面倒なタイプだね」
「犯人は余程、探偵社に怒り心頭らしい」
「ウチは色んな処から恨み買うからねえ」
小声で鏡花を説得している敦を無視して、太宰と国木田は爆弾魔を観察する。
太宰の見立てによれば、爆弾魔が用意したのは高性能爆薬と呼ばれる爆発性の高い爆弾で、このフロア程度なら容易に吹き飛ぶ、と推測された。
そして、爆弾魔の目的である探偵社社長は出張中。とくれば、要求の満たされない犯人がどのような手段に講じるか分からない。
どうするのだろうと二人を見上げる敦の前で、太宰と国木田が同時に腕を振り上げた。
――ぽん
チョキとチョキ。
――ぽんっ
パーとパー。
滅茶苦茶真剣な顔でジャンケンしている。本当に緊急事態なのだろうか、いや、少女が人質に取られて爆弾がある以上、緊急事態であることは疑いようもないのだが。
大真面目にふざけたことをする二人に敦は脳がバグるのを感じざる得なかった。
――ぽんっ
パーとグー。
相子が続き、三戦目にして勝者が決まる。グーを出した太宰がさっと道を示す。国木田は舌打ちしながらも爆弾魔の元へ説得に向かった。
「おい、落ち着け少年」
「来るなァ!社長以外に用はない!」
しかし、爆弾魔は起爆スイッチを見せて接近を拒む。
「知ってるぞ、アンタは国木田だ!アンタもあの嫌味な『能力』とやらを使うンだろ!?妙な素振りをしたら皆道連れだ!」
男は今にも爆弾を爆発させるような気迫で叫んだ。流石の国木田もこれだけ警戒されているとどうも出来ず引き下がる。
観葉植物の影から様子を見守ていた三人は爆弾魔の言葉に、緊張感が走った。
「まずいね、これは」
「……社員の顔と名前を調べてる。異能力者かどうかも」
「ええ?じゃあ、太宰さんも?」
「だろうね。社員の私が行っても余計警戒されるだけだ。却説、どうしたもの、か」
太宰の言葉に、突然猛烈に嫌な予感が湧き上がる。見れば、太宰はにやりと笑って敦を見ている。
「い、いやです」
秘儀・言われる前にお断り。
しかし、短い付き合いながらも太宰の口の器用さはよく分かっている。また、鏡花がいる以上敦としてもここで爆発なんてさせるわけにはいかない。
それに敦が行かなければ鏡花が出ていきそうだ。というか将に立候補しようとしていた。切実にやめてほしい。
不本意ながらも、騒ぎを聞きつけた一般市民Aとして説得に乗り出す。太宰は犯人の気を逸らせば後は我々がすると云っていたが、敦のような小心者には荷が重い。
がたがたと生まれたての小鹿だってまだマシという程に震えながら、敦は太宰お手製の拡声器を命綱とばかりに握り、爆弾魔の元へ歩みを進めた。
「な、何だ。アンタっ」
「ぼぼ、僕は――さ騒ぎを、き聞きつけた一般市民ですっ!いい生きてれば好いことあるよ!」
「誰だか知らないが無責任に云うな!みんな死ねば良いンだ!」
矢張り探偵社員ではない敦には警戒も緩むのか、それとも単に敦があまりにもビビっているからか、爆弾魔は国木田程強硬な姿勢は見せない。
敦は太宰の指令通り気を引くべく言葉を続けた。
「ぼ、僕なんか孤児で悪いやつらに攫われてこき使われて、この前やっと逃げ出せたけど行くあても伝手も無いんだ!」
「え……いや。それは」
「しかも害獣指定されて軍警にバレたらたぶん縛り首だし。とりたてて特技も長所も無いし誰が見ても社会のゴミだけどヤケにならずに生きてるんだ!だ、だだだから」
あまりにも悲壮な自虐に、爆弾魔すらドン引いている。情感の籠ったゆえの妙な迫力というべきその言葉に、男は先程までの勢いを失って言葉に困惑していた。
「敦君、駄目人間の演技うまいなぁ……」
「あれ演技じゃない。素」
小声で呟いた太宰に鏡花が返す。敦は虫ケラだってだって生きている!と、熱く語っていた。
「ね、だから爆弾捨てて。一緒に仕事探そう……?」
控えめに言って、なんかもうそういう怪異じゃないかというぐらいおどろおどろしい。爆弾魔も思わず逃げを打つ。
太宰はその隙を見逃さず、控えていた国木田へ合図を送った。
『独歩吟客』
国木田独歩の異能は、手帳の頁に書いたものを具現化する能力。
頁は鉄線銃に変わり、国木田は構えたそれを使って起爆スイッチを奪い爆弾魔を制圧した。
「一丁あがり~。はいはい皆さんお疲れ様~」
悠々と歩く太宰の声に、敦は安堵のため息を吐いた。事務室内の社員と思わしき人々も同様に落ち着きを取り戻し始めている。
特に、太宰と国木田などはもう喧嘩(というか、じゃれ合い?)を始めていて思わず苦笑いを浮かべてしまう。
その二人の横を小走りで鏡花が通る。
「鏡花ちゃん」
「敦、お疲れ様」
柔らかな笑みに、緊張が解れるのを感じた。自然と肩の力が抜けていく。
鏡花は敦を労うと、そのまま人質になっていた少女の拘束に手をかけた。一瞬手伝おうかとも思ったが、相手は敦と同世代の女子である。異性に微かとはいえ触れられるのは嫌かもしれない。
鏡花がやってくれているし、任せればいいかと思って身を引いたその時だった。
「きゃあー!」
上がった悲鳴に前を向くと、爆弾魔がいつの間にか拘束を抜け出して起爆スイッチを掲げていた。
一体なにがあったのか。考える暇もなくスイッチが押される。
――ピッ……ピッ……ピッ……
敦の背後、執務机に置かれた爆弾のカウントダウンが始まった。
刻一刻と迫る死の気配。僅かな猶予ではどんな対策も時間が足りない。
それでも頭を回して回して、周囲を見渡した敦に鏡花たちの姿が目に入った。人質の少女は拘束のせいで逃げることは出来ない。いくら身体能力の優れた鏡花であってもこの短時間で爆破の危険範囲から脱することは不可能。
『――爆弾に何か覆い被せれば、ある程度は爆風を抑えられるだろうけど』
ふと、太宰の言葉が蘇った。
もう考える余裕はない。
気が付いたら、少女と鏡花を太宰らへ突き飛ばす様に逃がして爆弾に覆いかぶさっていた。
「なっ、莫迦!」
「敦!」
太宰と鏡花の焦る声に、内心何やっているんだと罵る。
異能も使わず、素の肉体で即死したら超回復も効かないとか。
今まで自分がどれだけ意地汚く生にしがみついてきたかとか。
走馬燈のように頭がグルグルと回る。それでも爆弾は離せず、連続した機械音を腹に抱えたままぎゅっと目を閉じた。
何も起こらない。
流石におかしいぞ、と思いながらそろそろと目を開く。
「やれやれ……」
呆れを隠さぬ声。先程とは真逆の至極落ち着いた国木田、太宰、そしてなぜか爆弾魔が床に蹲う敦を見下ろしていた。
「莫迦とは思っていたが、これほどとは」
「彼には自殺愛好家の才能があるよ。――そうは思わないかい?谷崎君」
太宰は爆弾魔の青年に対して親し気に問いかけた。
爆弾魔――谷崎と呼ばれた彼も、先程の狂気的な雰囲気が欠片も見当たらない。穏やかな気弱な青年にしかもう見えなかった。
「ごめんねー。大丈夫だったァ?」
しかも、心配までしてくれた。
「――え゛?」
「ああーん。お兄様ぁ!大丈夫でしたかぁぁ!?」
人質にとられていた少女はそう言ってすごい勢いで谷崎に飛びついた。そこには凶悪犯と人質の暗い空気はない。
ここまでくれば、流石の敦も理解できる。――バイトさんも、犯人も、皆グルだ。
敦は引きつった顔のまま、鏡花に視線を写した。苦楽を共にした彼女にまで騙されてたら、もう何も信じられない。
姿勢よく佇んでいた鏡花は敦が自分を見ていることに気付くとひとつ頷いた。
「ごめん」
もう誰も信じられない。
「小僧。恨むなら太宰を恨め。若しくは仕事斡旋人の選定を間違えた己を恨め」
鏡花にまで裏切られ崩れ落ちた敦に国木田が声を掛ける。敦は仕事という言葉に朝の記憶を思い出した。
そういえば、仕事を紹介してくれるって言っていたのだった。まさか、と思い太宰を見遣る。
「そう云うことだよ、敦君。――つまりこれは一種の入社試験だね」
「入社……試験?」
「その通りだ」
疑問に満ちた敦の言葉に、新たに現れた壮年の男が答えた。
国木田がいち早く反応し、頭をさげる。
「社長」
「しゃ、社長!?」
驚く敦を余所に、探偵社社長――福沢諭吉は威厳ある佇まいで経緯を説明する。
「そこの太宰めが『有能なる若者が居る』と云うゆえ、その魂の真贋試させて貰った」
「君を社員に推薦したのだけど如何せん君は区の災害指定猛獣。そして経歴も潔白とは云い難い。保護すべきか社内でも揉めてね」
流れが。話の流れが全くついていけない。
開いた口が閉まらない敦を置いて、探偵社員たちは話を進める。
「それで、社長。どのようなご判断を?」
国木田の確認に、福沢はじっと見下ろして重く口を開いた。
「太宰に一任する」
「お任せください」
既に結果が予測できていたのだろう。太宰はそう答えた。
そのまま福沢は背を向けて去ろうとし、ふと足を止めて敦と鏡花に声をかけた。
「……ご苦労だったな。奴らから逃亡を続けるのは、容易いことではなかっただろう」
逃げてきた組織のことを知っている口ぶりに敦は疑問を覚える。察した鏡花が説明する。
「敦、ここ江戸川乱歩さんがいるところ」
鏡花が鉛筆書きの脱走計画書を見せながら簡潔に云った。
「じゃあ――」
聞いたことがある。当時、第一席の座にいた少年を連れ去ったという銀髪の武人。
さっと、社長へ向き直り驚きを隠さないまま自然と口から言葉が出た。
「あの、お姫様抱っこで脱出した……?」
「まって、なんかすんごく面白そうな単語が出てきた!」
「お姫様抱っこ!?したの!?社長が!?」
俄かに盛り上がる探偵社員に、福沢が渋面を浮かべる。福沢としてはなぜよりにもよってその話がまず出てきたのか聞きたい。確かに、12年前そのような体勢になったのは否定しないが、それは乱歩が両手両足を折られ、全身、特に腹部がどす黒くなる程打たれていた故である。福沢は一番痛みの少ない運び方をしただけだ。
かといって、弁明するのもなんだか違う気がして、福沢は興味津々の社員から背を向けて今度こそ社長室に去っていった。
何とも言えない空気を切り替えるように、太宰がコホンと咳払いを一つして敦に向かい合った。
「合格だってさ」
「つ、つまり……?僕に斡旋する仕事っていうのは。此処の……?」
探偵社への就職なんて寝耳に水でしかない敦は恐る恐る太宰を見つめ返す。しかし、現実は変わることはない。ドッキリの札を無駄とは思いつつ望んでしまうのは元々の小心者さ故か。
冷や汗を流す敦に太宰はクスリと笑っていった。
「武装探偵社へようこそ」
――中島敦君?