やっとだ……やっと……謎過ぎた雫の鈍感属性を終わらせられる。
でもどうしてだろう。仁と雫にはこのまま友人以上恋人未満の関係でずっとモヤモヤして欲しい気持ちもある。
……やっばい。インフルにかかったにも関わらず仕事に行ってたら職場でクラスター起きた。
…………し~らないっと。
巨大な円柱形の氷柱を中央に構えた広い空間の中で、激しい剣戟の音が響き渡る。
そこにあるのは二つの人影、対照的な黒と白。常人にはもはや霞んでしか見えない超高速の世界の中で、
氷の床を滑るように駆け、壁を走り、天井を踏み台にして跳躍する。それは重力などまるで感じさせない動き。しかしそれでいて、確かな重みを感じさせる金属同士の衝突音を響かせながら、鏡合わせのような二人の少女は一切速度を落とさないまま並走を続ける。そんな彼女達の間では、フェイントも交えた数百も剣閃が常に絶えることなく交わり続けていた。
「てっ! やっ! そこ!」
『はっ! っ……やりずらい。まるで機械ね』
同じ速さ。同じ軌道。まるで吸い寄せられるかのように衝突を繰り返す二つの刀。衝突の際に生じる激しい火花はその戦いの凄まじさを示しているかのようだが、二人の戦いは互角と呼べるようなものではなかった。
「はぁああ!!」
『随分と器用なのね。それだけ心を乱されていながら、剣筋のブレを最小限にまで抑えてる。でも、それだけじゃあ私を乗り越えるだなんて夢のまた夢よ』
桃色の刀と漆黒の刀がぶつかり合う。拮抗は数秒、やがて漆黒の刀が押し勝ち、弾かれた雫は片手を刀で塞がれているというのに、片腕でバク転して数メートルほど距離を離して着地。そして追撃として襲い来ていた斬撃の全てを斬り落とした。
『可哀想な特技ね。望んで得たのではなく、そうでもしないと周りに溶け込むこともできなかった貴女の弱さの象徴。でも今はそれに感謝するといいわ。それがなかったら、もう七度はその首を落としてるもの』
「はぁはぁ……」
見下すように。それでいて同情するような口調で黒刀を納刀する白い雫に対して、黒髪の雫は肩で荒い息を繰り返す。返事を返す余裕すら今の彼女にはない。
雫は現在、仁やハジメと同じく虚像の自分と戦っていた。
相対する虚像は彼らのものとは異なり限りなく白い。白髪ポニーテールに白磁のような肌。刀を除き衣服も全てが白。赤黒い炯々たる瞳がやけに映えている。
白い雫は普段の雫ならば絶対にしないであろう人を小馬鹿にしたニヤニヤとした笑みを見せながら口を開く。先程からずっと続いてくることだ。仁やハジメの時と同様、言葉による精神攻撃。その内容は当然、雫が普段隠している負の部分に土足で踏み入るようなものだった。
『貴女はずっと隠してた。辛い時も、苦しい時も、悲しい時も、そして……幸せを感じた時でさえ。自分自身にすらね。それこそ、異世界に来るよりもずっと前から。私は貴女なのだから全部分かってるわ。……そう、全部』
既に戦闘が始まって十五分は過ぎている。その間に雫の刃が届いたことはなく、白い雫は綺麗なままだ。
対照的に、大きな傷こそ負っていないものの、体中のあちこちを浅く切り裂かれた雫は血汗に濡れそぼっていた。頬から流れた血を彼女は手の甲で拭う。
『本当は剣術なんてやりたくはなかった。本当は道着や和服より、フリルの付いた可愛い洋服を着たかった。手に持つのは竹刀よりもお人形やキラキラしたアクセサリーがよかった』
「黙りなさい」
雫が祖父に導かれて初めて竹刀を持ったのは四歳の時だ。八重樫流という古流剣術を受け継ぐ八重樫家の当主だった祖父は、きっと戯れに持たせてみただけだったのだろう。だが、あろうことか齢四歳にして、雫は才能の片鱗を見せてしまった。
可愛い孫が流派の才能を受け継いでいると知った祖父は、普段の仏頂面も崩して、それはもう嬉しそうに微笑んだのを雫は今でもはっきり覚えている。
その日から、雫にとって剣術と剣道の稽古が生活の一部となった。祖父も父も、道場の皆も、すごいすごいと褒めてくれて……
でも、本当は……
『光輝が家に入門して来たとき、王子様がやって来たのかと思った。"雫ちゃん
「黙りなさい!」
怒りを表現するかのように刀を強く握りしめ、雫は一瞬の内に地面を何度も蹴って消えるように移動。白い雫の背後に周ると同時に抜刀して一閃。情けも躊躇いもなく、敵を両断せんと描かれた軌道。
しかしそれは、雫の方を一瞥もせずに構えられた純白の刀に阻まれてしまう。
諦めず、続けて剣戟を繰り出そうとするが、雫が刀を引くよりも先に白い雫が鞘の先端で脇腹を突く。刃こそないものの、痛みに動きを止め、無防備な隙を晒した雫は振り返りざまに腹を蹴られ、意識が吹き飛びそうな衝撃と痛みに襲われながら盛大に吹き飛んだ。
『光輝がもたらしたのは、貴女に対するやっかみだけだった。そうでしょう? 小学生の時から正義感と優しさに溢れ、何でもこなせる光輝は女の子達の注目の的だった。女の癖に竹刀を振り、髪は短く、服装は地味で、女の子らしい話題にも付いていけない貴女が、そんな彼の傍にいることが、女の子達には我慢ならなかったのね。そうそう、あの言葉は今でも覚えているわ。光輝を好いてる女の子の一人に言われた言葉。"あんた女だったの?"って。ショックだったわよね?』
「黙ってって言ってるでしょ!!」
雫の脳裏に小学生時代の苦い記憶が蘇る。その頃は稽古の為に髪は短く切り揃えられ、服装も地味なものが多く、可愛いというより美人系の顔立ちだったこともあり確かに女の子らしさというものとは縁遠かった。
そんな雫が、小学生の頃から人気のあった光輝と一緒にいれば女子達が黙っているわけもなく、子供故の加減や容赦というものがないやっかみを受けていた。そんな中で、今でも忘れられない言葉がそれだった。外見や剣術のことはともかく、中身は女の子そのものだった雫にとっては、何より辛くショックの大きな言葉だった。
光輝に助けを求めたこともある。だが、そんな時、光輝が言うセリフは決まっていた。すなわち、「きっと悪気はなかった」「みんな、いい子達だよ?」「話せばわかる」などだ。その言葉通り、雫に対する言動について光輝が女の子達に話し合いに行ってしまい、風当たりが強くなったのは言うまでもない。それも光輝にばれないよう巧妙さを増して。
『だから貴女は光輝に縋ることを止めた。でもそれで? 何かが変わった? 龍太郎はそもそもイジメがあったことすら知らなかった。香織はいつも傍にいてくれたけど、本当にそれだけ。結局貴女を助けようとしてくれる人なんていない。ずっと、ずっとそう思ってたわよね。でも――――』
「っ……!」
これ以上彼女に喋らせてはならない。精神的にも勝利するためにもそれが最善であると考えた雫は確固たる拒絶の意志を込めて刀を振るう。だが今回の試練においてそれは悪手に他ならない。
白い雫は三日月のように裂けた笑みを見せると、その場から消える。勿論、それはただの超高速移動による回避に過ぎないのだが、少なくとも雫には消えたようにしか見えなかった。そして次の瞬間、雫の背後から声が届く。
『――仁は違った』
反射的に振り向きながら振るった刀は当たり前のように空を切り、同時に突かれた白刀が雫の肩を貫く。強烈な痛みが襲う――が、ジャネンバに両腕の骨を粉々に砕かれたことを思い出せば、大した痛みではないと雫は歯を食いしばって耐え、後ろへ飛んで距離を取ろうとする。しかしそれを分かっていたかのように、そして自分との実力差を見せつけるかのように、再び背後に現れた白い雫に今度は背を斜めに切り裂かれる。
「ぐっ……やぁあああっ!!」
『あら? やっと動揺してくれたわね』
傷口から血が噴き出すのも気にせず四肢に力を込めた雫はキッ! と己の虚像を睨み、刀を振り上げる。しかしそれは技とすら呼べないただの力任せな一振り。白い雫はあっさりと受け止め、軽く弾き返した。
徐々に、だが確かに、雫からは冷静さが奪われていた。普段決して剥がれることのない『皆の頼れる八重樫雫』という強固な仮面が剝がれかけていたのだ。
『仁だけだったわね。貴女をただ一人のか弱い女の子として見てくれたのは。その他大勢の一人じゃない。貴女を……八重樫雫という女の子を助けるためだけに彼は自分を犠牲にしてくれた。嬉しかったわよね。彼が変わった理由を知って。例えそのやり方が納得できないものだったとしても、彼は自分の全てを変えてまで、八重樫雫という愚かな女を助けようとしてくれた』
「いい加減に、しなさいっ!」
ギリギリで繋いでいた雫の冷静な部分が我武者羅な突進を止め、冷静さを失った太刀筋を囮に、エネルギー弾で奇襲を仕掛ける。
虚像は、対象の負の感情を読み取り、それを元に作り上げられたものだ。そして、曝け出されたその感情を受け入れられなければ、その強さを際限なく増していく。逆に、受け入れさえすれば、弱体化していくのだが……今の雫は前者の状態だった。
どれだけ表面を偽ろうとも、雫は心の底から白い雫を拒絶している。故に、力を上げていく白い雫にとって、自分自身が考えそうな不意打ちなどに引っかかるはずがない。
完全に意表を突いたかに思えた攻撃は軽くあしらわれ、逆に洗練された剣技が叩き込まれる。肉体的なダメージと精神的な不調。そして大迷宮に入ってから長時間にわたる活動による疲労と失った血液のせいで鈍くなってきている体と思考。雫は、更に手傷を負わされ、それが焦燥となって募っていき、また動きが鈍くなる。完全に悪循環だった。
そんな雫に、白い雫は更に追い討ちをかける為、嗤いながら口を開く。
『この世界に来てからもそうだった。不安で一杯だった時、仁は慰めてくれた。始めて魔物を殺した時も、誰よりも早く心配してくれた。気づけば貴女にとって、風磨仁という人は理想と違っていたとしても、求めていた人になっていた』
「何が言いたいの!」
『もうとっくに気づいてるはずよ貴女は私。私が分かってることが、貴女に分からないはずがない。それでも分からないフリを続けるというのなら教えてあげる』
雫が放った斬撃が更に大きな斬撃に飲み込まれ、雫へと戻ってくる。咄嗟に自身の横腹へエネルギー弾を当てて吹き飛ぶことで回避に成功したようだが、その代償に雫の腹部には大きな焼き焦げた跡。威力こそ抑えていたものの、ダメージは無視できないものだった。
白い雫は、やたら赤く見える唇をスーと裂きながら、流れ出すヘドロのように粘つき澱んだ言葉を紡ぐ。
『
「…………ぇ?」
痛みに歪んでいた雫の顔が呆けたものへと変わる。まるで、本気でその言葉の意味を理解していないかのように。
『どうして驚いたフリなんかしてるの? ずっと望んでたことでしょう? 普通の女の子みたいに誰かに愛されることを。そして誰かを愛することを』
「ち、ちが……私と仁はそういうのじゃ……」
『貴女の考えてることが手に取るように分かるわ。そうやって自分を誤魔化して、必死に気づかないようにしてる? でももう手遅れでしょ。だって、貴女はもうとっくに気づいてる。いくら貴女が鈍感とはいえ、あんなにあからさまなアピールされて気づかないはずがない。思い出して、あんな風に照れる彼の姿は可愛かったわよね』
「し、知らない。私はそんなこと……」
決して認めたくない、認めるわけにはいかない何かを言われてしまうような気がして、咄嗟に雫は否定の言葉を叫ぼうとする。だが、そんな抵抗は無駄だとでも言うかのように、白い雫は容赦なく続けて言葉を解き放った。
『"知らない"……ね。そう言ってる時点で、もう貴女は自覚しているの。でもそうよね。貴女は認めるわけにはいかない。貴女には彼の隣に立つ資格がない。だって
「止めて、それ以上は……」
白い雫が何を言うのか分かってしまったからだろう。まるで幼子のようにイヤイヤと首を振る雫に、虚像は八重樫雫がこれまで蓋をし続けてきた思い出したくもない過去を突き付ける。
『――誰よりも早く、仁を裏切った』
「っ……」
雫は声を詰まらせる。首は相変わらず否定するように振られたままだ。全身を襲う痛みを気にする余裕もない。
なぜなら、それは忘れたくとも忘れられない八重樫雫の最初の罪。否定の言葉を放つ余力もないほど精神的に追い詰められた雫に、虚像はただ事実を突きつける。
『
「……」
小学生時代、雫だって最初からイジメを受けていたわけではない。最初の頃はまだ、香織程とまではいかなくとも、雫にだって友人と呼べる女の子達はいた。だが恵まれていたからこその焦りが、彼女にはあったのだ。
男女問わずに人気な光輝。男らしいあり方でクラスの兄貴分として頼られていた龍太郎。そして、当時から学校のマドンナ的存在だった香織。そんな眩しすぎる幼馴染達に囲まれていた雫は"人気者にならないと見捨てられる"と本気で思い込んでいた。
光輝が代表例だろう。強い思い込みは思いがけない行動力へと変換される。雫もそうだった。何気ない女子トークにすら積極的に入り込み。自分という存在を周囲にアピールし続けた。そんな雫を気味悪がる者も当然いたが、誰もそれを言葉にしなかったために雫はそのことにすら気づけない。
そんなある日、雫はよく集まるグループの女子達と、ある話題について盛り上がった。それはある意味、とても小学生らしく可愛らしい話題。性別関係なく、誰もが経験したことがあるであろう普遍的な題材。
クラスメイトの恋愛事情。
『あの子は誰々が好き』とか『あの子が隣のクラスの子に告白した』とか、ありふれた会話だ。子供なら別に珍しいことでもなんでもないだろう。そんな話の最中、少しでも注目を浴びたかった雫はある"
『"仁が香織を好き"。だなんて、また酷い嘘を。もしそれが本当だったとしても、それは最低な裏切りよ。でも貴女はそれで良かった。だって貴女……仁のこと嫌いだったものね』
「そんなわけ!」
『じゃあなんで仁だったの? 光輝でも香織でも龍太郎でも他の誰かでも良かったじゃない。でも貴女は仁を選んだ。気に入らなかったんでしょ。自分は家でも学校でも皆に追いつくために頑張ってるのに、何も努力してない彼が光輝達の甘い汁だけ吸ってるのが』
あり得ない話ではない。香織のように優しく、可愛い幼馴染がいれば自然とその感情が芽生えていたとしてもおかしくはなかった。だが、そんな憶測にも満たない段階で、雫はまるでそれが事実であるかのように友人達に話してしまった。そこには確かな、仁に対する嫉妬の感情があったことに気づかないふりをして。
そして、それが全ての始まりだった。
『だから仁はイジメられるようになった』
噂というのは、流した当人が想定している以上に早く、そして広く広まるもの。当時もそれは同じだった。
奇しくもその状況は以前のハジメに近いだろう。仁が香織に想いを寄せていることを知った男子達は非常に不快だった。これが光輝であれば、皆仕方ないと諦めたことだろう。しかし、仁に対してそんな謙遜を抱く者はいない。
誰もが思ったことだろう。"なんであんな奴が"と。
光輝と違い、カリスマ性はなく顔も平凡。運動も勉強もいまひとつ。性格だってどちらかといえば隠キャ寄り。それでも、ただ幼馴染というだけで白崎香織の近くにいれる。そんな分かりやすく不満をぶつけていい対象がイジメられないはずがない。
そう、雫こそが仁がイジメられるきっかけを作った張本人だったのである。
『貴女のせいで、彼は何度も何度も何度も酷い扱いを受けた。なのに貴女は助けもしないで、見て見ぬフリ。あろうことか、恥ずかしげもなく助けを求めた上で実際に行動してくれた彼を否定した。本当に馬鹿な
「っ……でも……私にできることなんて――」
『――何もない。分かってるじゃない。貴女には仁を助けられる力も人脈もなかった。頼みの綱だった光輝もまるで役に立たない。確かに何もできることはなかったわ。……でも責任はある』
「っ……」
恐怖に顔を蒼褪め、震える手で刀を握り、怖気ずくように後ずさる雫に、虚像は止めの言葉をそっと贈った。まるで手向けの花のように。
『貴女なんか仁の隣に立つ資格はない。――この裏切り者』
雫の膝が折れた。辛うじて刀を支えに膝立ちで堪えているが、瞳からは意志の光が消えつつある。
それだけ、己の心に突き付けられた言葉は……強烈だった。
雫だって最初から分かっていた。自分が仁に許されてはならないことをしたことぐらい。それでも、仁は雫へずっと変わることのない想いを向け続けていた。いくら鈍感な雫でもあそこまであからさまでは気づかないフリをするにも限界がある。
やがてその想いは仁から雫へ向かう一方通行のものではなくなった。それに雫が気づいた時にはもう手遅れだった。
仁が奈落に落ちた時、自分の中にあった大切な何かが崩れ去ったかのような絶望を味わった。再び会えた時、涙を堪えることができなくなるくらいに嬉しかった。一緒に修行をした時、戦っている最中だというのにあまりに距離が近くて心臓が異常なまでに高鳴った。何度も繰り返した何気ない会話を永遠に続いて欲しいと願った。仁がリリアーナから告白されたと知った時、胸が締め付けられたかのような悲しみを覚えた。
どうしようもない。抑えようとしてもあふれ出てしまう好意。雫は自分自身を誤魔化して、何も知らない自分を演じ続けた。それこそ、もうどれが自分の本心か分からなくなるくらいに。
だが過去は変わらない。白い雫――雫の負の感情は、心の深奥は、これまで偽ってきた感情を"正し"た。
『しかも貴女は仁を攻撃した。もしかして本当は彼が憎かった? いいえ、そんな簡単な話じゃないわよね』
「わ、たしは……」
『好きで、好きで、どうしようもないくらい好きで。あっちも好意を寄せてくれた。なのに、彼は自分のものにならないし、なれない。それどころか、他の女に惹かれ始めてた。だから許せなかったのよね。自分を好きなくせに、他人のものになろうとした彼を攻撃対象にした。……本当に理不尽』
「っ……」
もはや目を背けることは叶わない。眼前の敵は、それを許してはくれない。言葉の矢が突き刺さる度に、反論の言葉も射抜かれ砕け散り、手足から漏れ出すように力が失われていく。反対に、白い雫の方は溢れんばかりに力が充溢していた。
それを証明するように、白い雫は雫が反応することすら許さない速さで迫り、下方からすくい上げるように蹴りを放った。
「がはっ!?」
呼気を漏らし、かち上げられ宙に浮く雫に、力強く踏み込んだ白い雫は真正面は突きを放つ。無意識レベルで刀を盾代わりにかざすが、そんなもので防げるはずもない。刀ごしに激しい衝撃を受けた雫は凄まじい勢いで吹き飛び、氷壁に背中から叩きつけられる。あまりの衝撃に背後の氷壁が放射状に粉砕された。
肺の中の空気を全て強制的に吐き出され、全身がバラバラになりそうな衝撃と、もうどこが痛いのかもわからないほど刻まれた傷により、体が限界を告げた。雫は、そのまま氷壁をずるりと滑り落ちて手足を投げ出しながら氷壁に背中を預ける形で座り込む。
氷壁にはべったりと血が付着し、地面にも血溜まりができ始めた。雫は、霞む瞳で悠然と歩み寄って来るもう一人の自分を見る。体は動かない。度重なる精神への負荷が、動こうとする意志をも萎えさせる。
『貧乏くじばかり引いてしまう馬鹿らしい人生もここで終幕。こんな結末の原因は、自分を殺しすぎたことよ、本当に馬鹿な貴女』
雫は答えない。ただ、黙って白い雫を見上げている。微動だにせず満身創痍の見た目からは既に事切れているようにも見えた。
『最後に何か言い残すことはあるかしら? 氷壁にでも刻んでおいてあげる。ここはそれぞれの空間と繋がっているから、運がよければ自分の試練を突破した誰かがやって来て遺言を見つけるかもしれないわよ?』
「……」
雫は答えない。代わりに、雫の脳裏にはこれまでの人生が濁流のように流れ始めた。
祖父に剣の腕を認められたはじまりの記憶。小学生時代の苦い思い出。仁とすれ違い続けた数年間。鈴や恵理、ハジメと出会った人生の転換期。そして異世界に召喚されてからの辛いばかりの毎日。
「……い、や……だ……」
気づけば、頬に涙が流れ落ちていた。ただ静かに、光りの粒がはらはらと頬を伝い、ポタリポタリと膝の上に染みを作っていく。
辛いこと、苦しいことはあった。どうして自分だけがと理不尽に思うこともあった。でも、それだけじゃなかった。
「……」
ただ涙を流す雫を無言で見つめながら、白い雫は抜き身の刀をグッと後方へ引き絞った。半身になり、鞘を持つ手をまるで照準するように突き出す。その先は、雫の頭部だ。あの黒刀ならば、額を貫き痛みすら感じることなく絶命させることは可能だろう。
「……しに、たく…ない」
香織が、光輝が、龍太郎が、鈴が、そして仁が、辛く苦しい時であっても傍にいた。雫には辛い時間を分かち合える仲間がいた。それは、それだけは間違いないと断言できる雫が幸福であったという事実。
自分を照準する鋒を前にして、雫の内に何かが湧き上がる。死の恐怖を前にして、彼女の中には人としてあるべき当然の欲求が膨れ上がったのだ。
"生きたい"という人としてごく当たり前の欲求が。
「あ……そう、だったんだ」
『残念。もう何をしようとも手遅れよ』
「私って……幸せ、だったんだ……」
刀を杖替わりに、立ち上がろうとする雫の心境に違和感を感じた虚像はの雫の額目掛けて、命を貫く黒き凶刃がを真っ直ぐと突き出された。
「そうなんだ。それなら……」
その瞬間、雫から凄まじい純白の光が溢れ出し、それが奔流となって天井へと竜巻のごとく巻き上がった。そして、自身の命を刈ろうとする黒刀を下から上に斬り上げ、白い雫の腕ごと弾き上げる。突然の異変に、白い雫は目を丸くする。
実際に目にしたことはなくとも、彼女はその変化の理由を知識として知っていたから。
『まさか、"限界突破"!? この状況で目覚めたとでも言うの!』
元からその土台は出来上がっていた。
仁との修行によって人間としてのレベルを大きく超えた彼女はとっくにその技能を扱えるだけの領域に達していた。あとは、きっかけさえあればいい。仁はそういう鍛え方を雫にした。だからこそ、これは奇跡でもなんでもない。この土壇場でその可能性を引き寄せた雫の実力に他ならない。
「――まだ死ねない!」
竜巻のごとく荒れ狂う光の奔流がまるで清流のようになって雫の体へと静かに収束し始める。すると立ち上がった雫はバックステップで距離を取った自身の虚像へ刀の先を向け、先程までのボロボロの状態はなんだったのかと思うほど堂々と宣言する。
雫の魔力はおろか、気も爆発的に膨れ上がり、その莫大なエネルギーの上昇に雫が愛用していた紫色のヘアゴムが千切れ、トレードマークであったポニーテールがほどかれる。だが雫がそれを気にした様子はない。香織程とまではいかなくとも長い髪を靡かせながら、強い怒りの感情を宿した瞳で目の前の敵を睨む。
「
『っ……一体、どこにそんな力がっ!』
雫は地を這うような低い姿勢で一気に飛び出し、白い雫へ向けて刀を十字に振るう。防御に間に合った白い雫だが、その衝撃は想像を絶するものだった。刀越しに数メートルも弾き飛ばされた。
雫はまだ止まらない。まるで氷上を滑るように進み、白い雫へ向けて刀を振り上げる。しかしそれは完璧な殺意を込めたブラフ。黒刀に阻まれる直前、柄から手を離した雫は至近距離にあるムカつく顔に
『ごふっ!?』
「仁の気持ちに気づいてたかって? そんなの気づいてるに決まってるでしょ! あの馬鹿はいつもいつもいつもっ、自分のことより私を優先して……そんなのどうやっても誤魔化せるわけないじゃない! だからずっと気づいてないふりをしてたのに……貴女はァ!!」
『うぐっ! ひあっ! あたっ!』
続けて、雫は自身の虚像へ拳を振るう。あの雫が、剣道美少女の雫が……とても様になったファイティングポーズを取って白い雫を一方的に攻撃していたのだ。――"拳"で。
雫の中にある何かが吹っ切れたのだろう。先程までの絶望を恐怖を、全て怒りに変換したかのように鬼のような形相で彼女は拳を振るう。
「私の罪は許されていいはずない! でも、それを責める権利があるのは貴女じゃないっ。私を責めていいのは……仁だけ! 貴女みたいな部外者が、気軽に踏み込んでいい問題じゃないのよ!」
『っ……だったらなに! 貴女は自分が許されるとでも思って――』
「――ないわ! でもだからって、ここで死んでいいはずない! 私は絶対に生きて戻って、仁に謝らないといけないの!」
顔面に左ジャブを二回。ボディーブローで体をくの字に折れ曲げさせ、下がった顎をアッパーカットで打ち上げる。そこに右から、左からフックを連打し、白い雫の首がグングンと左右に揺れる。
そしてとどめの回し蹴りによって白い雫は吹き飛ばされた。
はい! 『そこはパンチじゃないのか』とか思わない。彼女はボクサーじゃなくて剣士。それを忘れないように。
「私は、生きるために、
「なっ……くっ!」
雫は先程手放した刀を拾いながら、蹴り飛ばした虚像へと向けて走る。両手で握った刀には溢れるばかりの気が込められ、それに同調するように雫の気も際限なく上昇を続けていた。迫る雫に白い雫は焦る。"あれを受けたら死ぬ"と。
しかし、あと数歩。それで間合いに届くといった所で、雫はガクンと膝から力が抜けそのまま前のめりに倒れ込んでしまった。
「……あ…え?」
『は、はは……』
"限界突破"のタイムリミットだ。
雫の習得したばかりの"限界突破"は初期の光輝の半分も維持することができなかった。そして、最悪なことに、とっくに限界を超えた体を"限界突破"で無理矢理動かしていた雫が受けた代償は本来の弱体化などという生温いものではなく、体が麻痺したように一切動かないというもの。
そして、その手に握られていた刀も、許容量を超えた魔力と気に耐えきれずに砕け散る。
「そ、んな……」
『はあ…はあ……惜しかったわね。貴女が最初から"
倒れる雫に、全身痣だらけになりながらも立ち上がった白い雫は白刀を振り上げる。殺意はない。そこには、ただ敗者へと向ける憐みがあった。あと数秒もしない内に、その刃は雫へと向けて振り下ろされることだろう。
『満足して死になさい。
雫は思わずギュッと眼を閉じる。そして、命を刈る黒き凶刃が振り下ろされた。
……
……
……
「ぇ……きゃあ!?」
『……なっ、嘘でしょう?』
しかし次の瞬間、雫を襲ったのは肉を切り裂く痛みではなく、何かが自身に触れたような温かい感覚と同時にやってきた浮遊感だった。そして雫はすぐ近くまで迫っていた白い雫の声が急速に遠ざかっていったことにも気づく。
恐る恐る雫は目を開いた。
そこには……
「え、え?」
「危機一髪でのオレ参上! ってな。ナイスパンチだったぜ八重樫」
自分を見下ろす仁の顔があった。
「じ、仁?」
「え、なに? もうオレの顔忘れたの……っと! おいおい、もう少し空気読んでくれない?」
『っ、このっ』
呆ける雫へドッキリが成功したかのような楽し気な声音で仁は声をかける。だがそんな安息な時間さえ許そうとしない白い雫は雫を
『何故……』
「それはどういう意味での質問だ? オレがオレをイジメに追いやった八重樫を助けた理由についてか? それとも、この危機的状況に割り込めたことについてか?」
『誤魔化すのはやめて。私は知ってるのよ。貴方はまだ……
大迷宮によって生み出された虚像達は、お互いの状況こそ把握できなくとも、同族個体の生死くらいならば情報を共有することができる。それがあるからこそ、白い雫は分からなかった。
虚像の仁が未だ生きているというのに、目の前に仁がいるこの矛盾を。
今回の試練は、各々がもう一人の自分を倒さなければ先に進むことなんてできない。先程、彼女が"それぞれの空間は繋がってる"とは言ったが、いくらなんでも試練をクリアしないまま別の部屋に入るなんてことはできるはずがない。
ならば何故仁がこの場にいるのか? その答えは単純だった。
「本当に、仁なの?」
「いいや、偽物だな」
「え、え? でも?」
「落ちつけ。今頃、本物のオレなら別のとこで戦ってる。ここにいるオレは"八重樫を守って欲しい"って命令でおまえにこっそりついてきた風磨仁の分裂体だ。といっても、オレとオリジナルの間に大した違いはない。精々、あっちの方が強いくらいだ。そういう意味で言えば、ある意味オレも本物と言えるかな?」
仁は大迷宮に突入する少し前から、もし【ハルツィナ大迷宮】の時のように雫と離れ離れにされた場合を考慮して雫に小型化させた分裂体を同行させていた。基本的には大迷宮攻略を優先して手は出さないものの、雫の危機的状況であれば躊躇うことなく救いの手を差し伸べるソレが、まさに今、迫る刃から雫を救った仁の正体である。ちなみにサイズに関しては変化自由らしい。
性格や容姿についてはほとんど一緒だが、強さに関しては大本の仁に遠く届かない。ハジメにすら負けるかもしれないほど弱い仁。それが彼だ。
分裂体の説明に聞き耳を立てていた白い雫はなるほどと、納得する。それならば、この矛盾にも説明がつく。仁がここに来たのではなく、最初から二人いた仁が雫にくっついていた。それだけの話なのだ。流石の大迷宮もそんな状況は想定していない。
『仲良くおしゃべりなんて、随分と余裕ね。もしかして今の状況を忘れてるの? それとも、今度は彼女の代わりに貴方が戦うつもり? それは
「安心しろよ、ホワイト八重樫。そんなつもりはない。ただちょっとだけ時間をくれ、それまでに準備を整えてやるからよ」
『それを私が待つとでも……』
「かかってくるのは勝手だが……まあ、死ぬぞ?」
既に一度負けている以上できれば雫に休ませる隙など与えたくなかった白い雫だったが、仁の警告を受けて不満げに黒刀を鞘に納めると、腕を組む。しばらく手出ししないという、彼女なりの意思表示だろう。大迷宮の試練によって生み出された虚像であり、そこでしか生きられない命だとしても彼女に――彼女達に心がないわけではない。
強い自分自身と戦いたい。本物の自分を殺したい。本物に自分という負の感情を知っていて欲しい。ただただ自分という存在が気に入らない。自分自身に成長して欲しい。
彼らには思い思いの考えがあり、それを叶えるために本物の自分と戦っている。
そして白い雫にもまた戦う理由はある。"負けたくない"というごくありふれた理由が。
例え相手が自分であっても――いや、自分が相手だからこそ負けたくない。その感情が彼女を突き動かしていた。だからこそ、雫が負の感情を乗り越えた時点で既に敗北しているというのに彼女は命を絶つことに拘った。
とはいえ仁にそう言われてしまえば彼女も黒刀を振るうわけにはいかない。実際、弱体化しているとはいえ仁に勝つことは今の白い雫には不可能であるし、なによりも、お互いに偽物であるとはいえ、彼女は仁を傷つけたくなかった。
彼女もまた、八重樫雫なのだから。
『
「ふぇ? ……っ!?」
とはいえ、このまま言いなりとなるのもどこか癪だったため、彼女は拗ねたようにオリジナルへと声をかける。
至近距離にある仁の顔。接触部分から伝わる肌の温もり。間一髪救われた絵物語のようなシチュエーション。そして理解し、認めてしまった自分の感情。数々の要因が重なり、硬直したまま頬を赤くしてただ仁の顔を見つめていた雫は、もう一人の自分の言葉に現実へと引き戻される。
そして彼女は気づいた。今の自分の体勢に。
現在、背中と膝裏に腕を回され、横向きに抱きかかえられた姿。それは一般的に、"お姫様だっこ"と呼ばれる状態だった。
「お、降ろして!」
「え、いやどうした急に。別にあっちの八重樫が襲ってくる様子はないぞ?」
「いいからっ」
「はいはい……」
顔を真っ赤にした雫が必至に懇願し、仁は不思議に思いながらも雫を優しく降ろす。自分の本心を認めた雫は自分が本当はお姫様のような扱いを望んでいることを知っている。だがそれは本当に知っているだけであって、実際にされたらされたで恥ずかしいのだ。
しかもその相手が現在進行形で想いを寄せている相手なのだから、その羞恥心も倍増。加えて近くには恐らく誰よりも自分を知っているであろうもう一人の自分。雫は一瞬で我慢の限界を超えた。
しかし同時に、違和感にも気づく。
「あ、あれ? 体が……」
「やっと気づいたか。治しといたぞ」
「あ、ありがとう……」
つい先程まで満身創痍だった雫の体がほとんど万全の状態まで回復していたのだ。
仁の"回復の術"である。最初に白い雫の刀から雫を守った時には、仁は"回復の術"で雫の体力を回復させていた。それは今の雫が肉体的にも精神的にも万全の状態を取り戻したことを意味している。想定外の優しさに、再び雫は顔を真っ赤にして顔を逸らす。
「まったく、貴方も少しは緊張……」
今目の前にいる相手に惚れているのは雫だけじゃなく仁も同じだというのに、どうしてこの至近距離で仁は少しも照れたり恥ずかしがったりしないのか。ふてくされたように雫は口を開きかけるも、突如脳内にとある記憶が駆け巡る。
【オルクス大迷宮】へと挑戦する前日の夜に胸に抱き着いたこと。樹海で二人だけのダンスパーティーをしたこと。ジャネンバとの戦いの後、目を覚ました仁の胸に飛び込んだこと。自身の過去の行動、発言を思い出し、雫は思う。
(あ、あれ? もしかして私の方が凄い事してる?)
正解である。
雫はこれまで、ただの幼馴染とは思えない距離感で仁と接していた。まだその時は自分の想いを自覚しようとしていなかった雫だったが、仁はそうではない。ガッツリ雫に矢印を向けた状態で、その距離感に耐え続けていたのだ。
つまりは仁は慣れていた。今更、お姫様だっこ程度であたふたしないのはそのためだ。
やっと過去の自分に羞恥心を覚えた雫が顔を両手で覆って蹲っていると、後ろから呆れたように仁が語り掛ける。
「……八重樫、おまえに言いたいことがある」
「な、なに?」
至って真面目に切り出す仁に雫は肩をビクッと揺らしてから恐る恐る振り向く。基本、このセリフからの流れは告白。今までの鈍さが嘘のように、
しかし仁の言葉は雫の想定とは180度違った。
「なんというか……すまん、さっきの話……聞いてた」
「えっ……」
真っ赤だった雫の顔が徐々に蒼褪めていく。
"さっきの話"。それは間違いなく、先程の白い雫との戦闘中に行った会話のこと。それ以外にあるはずがない。
この分裂体は、雫を守るため、雫と一緒に行動していたのだから、あの時の会話も当然耳にしている。
要するに、雫は思いっきり仁に惚れてることを本人のすぐ傍で暴露されてしまったわけであるが、そこに関しては今は置いておこう。いや、雫からしてみれば全然置いとける話ではないが、今の雫にはそれ以上に、かつての過ちを知られたたことに対する恐怖に襲われていた。
雫はもうその罪を受け入れている。だがそれでも怖いものは怖いのだ。
「正直に言うと……ちょっとイラッとはしたな。オレがイジメられる原因作ったくせに、オレに助けを求めたなんてよ。でもまあ、最終的におまえをどうするかについてはオリジナルのオレが決めることだ。だからまあ……」
恐怖のあまり肩をビクビクと震わせる雫を見ながら、どうしたものかと後頭部を掻いてから仁は告げた。
「なんとかなるだろ」
「…………え?」
完全に想定の範囲から外れたその言葉に、雫は唖然とする。ポカンと口を開けたまま驚いている雫を見て仁はクスリと小さく笑う。
「確かにあのイジメはオレの中でも一、二を争うレベルのトラウマだ。でもな、言ってしまえばそれだけなんだよ。所詮過去は過去。八重樫が本気で悪いと思っていて、本気で謝ったんなら余程のことがない限りオリジナルは許すはずだ。それこそ、あの天之河にだってな。…………いや、やっぱ天之河はダメだな」
「そんな簡単な……」
「いいだろ簡単で。難しかったり、重すぎるよりかは全然いい。悪いことをしたら"ごめんなさい"。小学生でも習う簡単なことだぜ」
確かに簡単だ。雫は思う。
だがそんな簡単なことをずっとできなかったから、こうなってしまった。その一言が言えなかったから、自分はここまで歪んでしまった。ほんの少し勇気を出せばもっと違う未来を選べたかもしれなかったのに、その勇気を絞り出そうともしなかった。
数多くの後悔が彼女を襲う。だが、同時に雫は覚悟を決めた。やるべきことは……ただ一つ。
「……頑張れるか?」
雫の瞳に炎が宿ったことに気づいた仁が問う。
「うん、頑張る」
対して雫は仁の顔をまっすぐと見返すと、強い意志を込めてしっかりと頷いた。
未だ雫の心の奥底に僅かながら残っていた迷いも、これでなくなった。今の雫は、完全に己の負の感情を乗り越えた。ならばもう、この程度の試練で彼女は止まらない。
――後は、勝つだけでいい。
「よし、だったらあとは何すればいいか分かるな」
「……ええ、任せて。……って言いたいけど、その前に――」
「――分かってる。刀がいるんだろ?」
「ええ、そう。用意してくれるかしら?」
「任せとけ。とっておきのをくれてやる」
"限界突破"を使用した影響で、過剰な魔力と気に耐えきれなかった雫の刀は砕けてしまった。本来、ハジメの作った武器がその程度で壊れるはずがないのだが、それはハジメが気という概念への理解が浅いのと、雫の成長速度を読み違えたからだろう。寿命数日の短い命である。
それでも自分の本心を受け入れた雫であれば弱体化した白い雫程度、拳で倒せそうではあるのだが……彼女は剣士だ。少なくとも殴る方の拳士ではない。やはりここぞという場面では、刀を握っているべきである。
仁は雫の目を真っすぐと見つめ返したと思うと、己の胸に掌を押し付ける。
「おまえの刀なら……ここに用意してある」
「……?」
また何かのなぞなぞかと、雫は首を傾げる。
しかしそれは何かの比喩とか暗示とかではなく、
「最強の武器には、最強の素材が必要だ。硬く、柔らかく。熱く、冷たく。大きさに際限はなく変幻自在。あらゆる全てを弾き、あらゆる全てを吸収する。そんな最強の素材は……この世界に一つしかない」
雫に伝えるというよりも、自分自身に言い聞かせるように呟く仁は無詠唱で魔法を発動させた。
すると次の瞬間、仁の体に赤いスパークが走り、同時に肉体が歪に変形を始めた。普段の流動的な変化とは違う。別の特定の形に固定しようとしているかのような奇妙な変形。
「仁? ……一体何を?」
「まあ見とけって。オレがおまえの刀になってやる」
「……は?」
自分で自分に魔法を使っているのなら、きっと害はない。そう確信していた雫だったが、あまりに理解不能なその発言に思わず唖然とした。だが仁の体に走るスパークは激しさを増していき、やがて眩いばかりの閃光となってその身体を包み込んだ。
赤く輝く閃光は更に激しさを増していく。激しい魔力の嵐に雫は近づくことすらできない。それは遠くで静観を決めていた白い雫も同様だった。突如、輝きに包まれた仁に彼女もオリジナルと同様、困惑するしかない。
それから数秒後、閃光は魔力の減衰と共に収まりを見せた。そして雫の瞳に仁の――仁であった物の姿が映る。
「貴方……馬鹿よ……」
つい、そんな言葉が雫の口から漏れる。
彼女の前に、もう仁の姿はない。代わりにそこにあるのは、一振りの刀のみ。
鈍く輝く桃色に染められた刀身に濤乱刃と呼ばれるうねりの出た波のような刃文。刀身中程から浅く反っており、いわゆる打刀と呼ばれる刀に酷似していた。宙に固定されたその刀からは、凄まじい存在感が放たれ、怖気づきそうになるも、同時に雫は気づいてしまった。
その刀は、仁であるのだと。
発せられる邪悪な気から、その色合いから、先ほどの仁の言葉から、そして勘から、雫は理解できてしまった。それは仁そのものであり、風磨仁が八重樫雫に"生きて欲しい"という願いを込めて造り上げた贈り物であるということに。
仁は元から、そのつもりだった。
かつて、オスカー・オルクスが作り上げた。この世のあらゆる全てに鉱物という概念を付与するアーティファクト。今ではもうユエのネックレスと成り果ててしまったそれだったが、仁はそこに僅かだが残っていた概念魔法の残滓を抜き出し、修復を進めていた。
そして【氷雪洞窟】へと挑む前、一度しか使えないという制限こそあれど、その修繕に成功させたのだ。
そしてその魔法を仁は、大迷宮攻略に向かう際に自分の分裂体へと使用した。
もし雫が得物を失い、危機的状況に追い詰められたのならば、自分自身を武器にしてでも雫を助けようと。そこには、雫への武器を何度か作っているハジメに対する対抗心もあっただろう。
「っ……本当に、馬鹿。ここまでする必要はなかったのに……」
涙が出そうになるのを雫は堪える。例え偽物であろうとも、ついさっきまで当たり前のように話していた仁が目の前から消えたのだ。辛くないはずがない。
でも同時に嬉しい気持ちもあった。あの仁が、自分の好きな人が、昔と同じように八重樫雫のため、自分の全てを投げ捨ててくれたのだから。
だから雫は、あの日……仁が陰で助けてくれたあの時には言えなかった言葉を口にする。
「……ありがとう」
悲しくて、辛くて、苦しくて、怖くて……でも嬉しくて。ぐっちゃぐちゃな感情を整理しきれない複雑な表情のまま、雫は仁であった刀を抱き寄せるように自分の元へと引き寄せる。
「ふふっ……あたたかい……」
仁であった名残か、刀にはまだ体温に近い温もりが残っていた。当たり前のことであるが、抜き身の刀に素手で触れるのは普通に危ない。だが雫はなんの躊躇いもなく、抱き締める。確信しているのだ。仁が自分を傷つけることはないと。
それを証明するかのように、何度刃先が皮膚に触れようとも雫が傷つくことはなかった。自然と笑みを零した彼女は仁であった刀に口付けすると、頬を薄らと染める。続けて火照った額に峰の部分を押し当てた。
「我儘な私でごめんなさい。でも仁、お願い。…………また、私と一緒に戦って」
雫の言葉に応えるように、刀は鮮やかなピンク色に輝き、刀そのものから膨大な気が溢れ出す。仁のものと同質の邪悪な気は柄を握る両手から雫へと流れ込み、今度は雫の気が爆発的に膨れ上がった。
仁は自分自身を刀として作り変える際、とある仕組みを組み込んだ。
――気の譲渡。
本体と通じている分裂体を元に作られたその刀は、仁の気を使用者である雫に与える中間地点としての役割も担っているのだ。つまりはこれにより、雫は一時的にではあるが、仁から気を貰い大幅なパワーアップが可能となる。
「……。うん、私も貴方と一緒なら負ける気がしない」
物言わぬ刀となった仁から心の声でも聞き取ったのか、雫は静かに闘志を燃やすと、刀を握り直し、再び己の虚像と相対する。それを白い雫は黒刀を納刀したまま静かに待っていた。
『よくまぁ、敵を前にしてイチャイチャと。どう見ても恋する乙女の顔をしてたわよ』
「そう? なら良かった。私がどんな表情を見せてもどうせ仁は受け入れてくれるでしょうけど、やっぱり見せるなら可愛い方がいいわよね」
『あらあら、やっぱりその選択をするのね。でもいいの? 貴女は――』
「不毛な会話は止めましょう。こんな自問自答に意味はないわ。生きて、もう一度、私は仁に会う。全てはそれからよ」
『……』
ダメもとで揺さぶりをかけてみたはいいものの、揺るがない雫に白い雫は押し黙る。もう完全に、雫は自分の感情を自覚し、受け入れ、そして乗り越えていた。それはつまり、白い雫にとってに勝機が消えたということでもある。
「私は仁の隣に立っていい人間じゃない。でもそれは、"今"の話。怒られるかもしれないし、酷いショックを覚えさせてしまうかもしれない。軽蔑だってされるかもね。でも、私はもう決めたわ。何度だって構わない。仁に許してもらえるまで幾らだって謝るし、どんな罰も受け入れて見せる。"いつの日か"、本当の意味で仁の隣に立てるようになるまで」
『……拒絶されるかもしれないのに?』
「そうね。でも、最初に拒絶したのは私。それなら、今更仁に拒絶されたって何度だってアタックするまでよ。女は度胸って言うでしょ? 貴女の言うように、私は色んなものを押し殺して生きて来た。でもね、その結果得たものも、もう捨てられないくらいに大切なの。だから、これからは素敵なものを得られるように自分から行動することにするわ。……だって彼が好きな私は、戦う私でも、可愛い私でも、弱い私でもない。どんな私だって、あの人は受け入れてくれるんだから」
『……べた惚れね。自分で言ってて恥ずかしくないの?』
「勿論、凄い恥ずかしいわ。でも貴女も知ってるんでしょ? 私って本心を隠すのが得意なの」
雫は、スっと刀を持ち上げ、剣先を白い雫へ向ける。
「待っててくれてありがとう、
『ふふ、なるほど。凄い気ね。それなら私も、余力を全てこの一撃に込める。全力で行くわ。私だって負けたくないもの』
漆黒と純白の気が交じり合い、雫から溢れ出す。"回復の術"により全治した雫の体ならば、幾度もの打ち合いは可能であるが、敢えて一撃で終わらせることを彼女は選んだ。それは自分の本心に気づくことのできる機会をくれた白い雫に対する感謝の気持ち故だろう。最高の一撃をもう一人の自分に刻み付けるために。
土壇場での覚醒。まるで少年漫画のような展開に白い雫は一瞬、苦笑いを浮かべた。そして彼女もスっと腰を落として軽く足を引き半身となって抜刀術の構えをとる。
急速に膨れ上がっていくプレッシャー。互いに発する打倒の意志そのもので相手を斬り裂かんとしているかのようだ。冷気とは異なった、鋭く冷たい気が周囲の空間に満ちていく。
雫が緊張に刀を握る力が強まると、刀から不思議と『もっと力抜け。気軽に行けば楽勝だ』と背中を押す言葉が聞こえた気がする。きっと勘違いだろう。だが雫の口元には笑みが浮かんでいた。彼女にとって他の誰よりも、自分を信じてくれている人が今、共に戦っているのだから。
「――ふっ」
『はぁっ!!』
踏み込んだのは同時。髪を流星のようになびかせた雫と白い雫が交差する。
~~~
同時刻、【氷雪洞窟】にいた全ての者達がその異変に反応を見せた。
「な、な、なんだぁあああ!? 地震か!?」
龍太郎は、大迷宮全体を巻き込むその現象を地震と勘違いし、虚像の自分と一緒に氷の床をゴロゴロと転がっていく。
「……ハジメでも、仁でもない。……一体誰が?」
ユエは、その現象をすぐさま解析し、仲間達の中で
「逝ったか、オレ。八重樫のこと、頼んだぞ」
仁は、ただ一人正確な状況分析に辿り着き、もう既に人の形は保ってはいないであろう自分自身へ別れの言葉を贈る。
「おいおい、嘘だろ?」
そしてハジメは、誰よりも早く虚像の試練をクリアし、氷の通路を進みながらその異変の真相を見抜き、呆れたように一人呟いた。
「一体誰だよ……
〇
雫と白い雫は、互いに背を向けたまま数メートル先で残心する。
『……見事、ね』
「……」
白い雫が口から血を垂れ流しながら最期の言葉を吐くと、ズルリと体がずれた。体を両断されたのだ。だが雫が断ったのは白い雫だけではない。
部屋の中央にある巨大な円柱形の氷柱。氷で作られた部屋の壁。そしてその奥……大迷宮の果てまでにも雫の刃は届いていた。白い雫と同じように、大迷宮全体がズレる。いくら自己修復機能を持つ大迷宮であるとはいえ、この大損害を完全修復するには流石に時間がかかる。
現在、大迷宮は雫の斬撃により切断され、それを修復しようとする機能によって、激しい地震のような揺れを繰り返していた。
「ありがとう、もう一人の私。貴女のおかげで、やっと私は前に進める」
どこか満足そうな顔を綻ばせながら、ゆらりと姿をぶれさせて宙に溶け込むように消えていく白い雫に、雫は感謝を告げる。
きっとこの機会がなければ、雫は永遠に自分の本心を隠し続けていたことだろう。気に入らない相手ではあったが、そこに関して雫は心の底から感謝していた。部屋の氷壁の一部が溶け出し、奥の通路が現れたのはちょうどそんなタイミング。
「……仁、ありがと」
そしてそんな呟きと共に、雫は通路の奥へと進んで行くのだった。その顔にはこれから仁へと告げる謝罪の覚悟を決めながらも、自分の感情に気づいた今どう顔を合わせればいいかでせめぎあう、微妙な表情を見せていた。
【八重樫雫】
今回の主役。大々的な超強化イベントを乗り越えた。
限界突破を習得し、刀化した仁をゲット。
自分の気持ちにも仁の気持ちにも気づき、もうブレーキのなくなった恋愛暴走列車となる予定。
一応、鈍感属性自体は持ち合わせているのだが、それ以上に仁に対する罪悪感が強く、仁からのアピールに気づかないフリをし続けた結果、本当に自分の気持ちが分からなくなっていた。
今後はどんどんヒロインしていく予定。
・雫の限界突破
光輝、ハジメ、仁といった当たり前のように限界突破の最終派生に辿り着くメンバーとは違い、あくまで倍率は三倍で落ち着いている。ただし、元の強さが限界突破使用時の光輝よりも強いため、恐らく、装備なし、技能なし、通常状態のハジメくらいになら勝てる。
本来、雫には限界突破を使える才能は持ち合わせていなかったものの、仁との修行と危機的状況に陥ったことで覚醒を見せた。
・刀版 仁
仁の分裂体が雫の刀になった姿。
オスカーの残した概念付与アーティファクトの魔法を一度だけ復元し、自分に使うことで自分自身に"鉱物"の概念を付与。その後は生成魔法と錬成のコンボで自分を刀にした。
本体の仁から気を吸い取り、
一応仁の分裂体の体が変形しただけであるため、意識は消えていない。しかし会話や意思疎通は不可能。
雫以外が使おうとすればサイコロステーキになる。
つまりは愛の結晶。
・雫の過去
これまで、雫と仁がイジメを受けていて、雫の助けを聞いた仁が光輝に助けを求め、それが失敗したため仁がちょっとした闇落ちしたという話は出ていたが、その前の話。
自分とは違ってあまりクラスに馴染む努力をしていなかった仁を気に入らなかった雫が『仁が香織のことを好き』というデマを流した。
結果、その噂に超尾ヒレがついて学校中に広まり、仁のイジメの原因となる。
その日以降、雫はそのことをずっと引きずっている。
Q. もし、仁がイジメ問題を解決するために何をしたか雫が最初から気づいていたら?
A. 雫は本気で仁を拒絶。二人は絶交し、同じ中学にも高校にも通わない。原作ルートに入り、ハジメのヒロインとなる。
・仁の分裂体
仁(本体)からの命令で雫にくっついてきた仁(分身)。
白い雫との戦闘中、途中まではまだ勝ちの目があったからこそ、手出ししていなかったが、限界突破の副作用で動けなくなったタイミングで「頃合いか……」と満を持して登場。
そっから、ちょっと回復させたら刀になった。
これからは喋りこそしないが、雫の刀として活躍予定。
本来の仁よりちょっと冷静。
・おまけ 雫の斬撃による最大の被害者
香織「私は、負けない! ユエにもシアにも負けないくらいいい女になって、ハジメくんに振り向いて貰うんだから! 守りたい人達を守って、皆と一緒に日本へ帰るんだから!」
香織(偽)『……もう、どんな言葉も貴女を折ることは出来ないみたいだね。……いいよ。全力で来て! 私の弱さを断ち切って!』
雫の斬撃『あっ、ちょっとそこ通るね』
香織(偽)『きゃぁああああああああっ!!!?』
香織「わ、
白崎香織、試練突破!