「あれ? この〝気〟ってもしかして……」
苦戦こそしたものの無事に虚像の試練を突破した雫は、大迷宮の深部へ続く通路を進み、行き止まりに辿り着いていた。
雫はどこかで道を間違えたのではないかと不安を覚えた。しかし、扉の向こう側から感じられる覚えのある〝気〟に気づき、安心したようとほっと一息ついてから一歩歩みを進める。
ほどなくして、雫の接近に反応した氷壁が溶けるように消え、雫は新たな空間へと足を踏み入れる。そしてその先には、予想していた通りの人物がいた。
「ユエさん……やっぱりね」
それはユエだった。雫の時と同じく、広い空間の中央に円柱型の巨大な氷柱が立てられていて、その傍で静かに佇んでいる。その存在を察知していた雫は驚きこそなかったものの、頼れる仲間との再会に喜色を浮かべて声をかけようとし……気づいた。
妙にボロボロなユエの服装に。
〝自動再生〟によって外傷こそ見られないが、衣服のあちこちが破れ、穿たれ、焼け爛れ、凍りついている。紛れもなくそれは、何度も攻撃を受けたという証だった。
周囲にユエ以外の気配はなく、雫が出てきた通路の他にも二つの通路が見えることから、既に彼女が虚像を倒したことは明らか。ただ、そこまでの過程で無傷ではいられないほどの攻撃を受けたのだと、今のユエの姿は物語っていた。
どこか近寄りがたい雰囲気を纏うユエに、雫は僅かに二の足を踏んだ。しかしそれでも、彼女は恐る恐る声をかける。
「ユエさん……大丈夫?」
「っ……雫?」
静かではあるものの確かなその声音に、ユエは一瞬だけビクッと驚いたように体を震わせてから、勢いよく振り返った。しかし、声の主が雫であると気づくと、ユエは安堵の息を漏らす。まるで、
「……部屋は繋がってた?」
「ええ、そうみたい。私もさっき試練を終えてここまで来たの。ユエさんもちょうど終わった……って感じでいいの?」
「……ん。問題……ない」
「そう? でもその割には……」
雫の視線から、ユエはようやく自分の衣服の惨状に気が付いた。そして若干恥ずかしそうに〝再生魔法〟を使ってあっという間に衣服を修復させていく。そしてそのついでと言わんばかりに、自分と同様、虚像との戦いで衣服がボロボロになっていた雫にも〝再生魔法〟を使用した。
「わぁ……あ、ありがと、ユエさん」
「ん……構わない。それより雫、刀は?」
「え、えぇっと……その、ちょっと壊れちゃって……」
「ハジメが作った刀が? ……もしかして負け――」
「勝ったわよ。じゃないとここにいないでしょ? もう、そんなことより次の通路が現れているのなら早く進みましょう?」
全身ボロボロで、刀も折れるくらいに苦戦したというに一体どうやって虚像を倒したのか。ユエの頭の中で雫が虚像と殴り合うイメージを浮かべるも、そんなわけがないかと、呆れたように微笑を見せる。
しかし雫は髪を結んでいた
ユエが違和感を抱いているのと同様に、その時、雫もユエに何があったか聞くべきなのか、躊躇いを感じていた。
虚像と戦う前、誰よりも自信ありげに精神攻撃など無意味と宣言していたあのユエが、あの言動がフリであるかのようにボロボロとなっている。それは過剰に攻撃を受けるくらいには動揺してしまったということだろう。
それに加え、服の修復も忘れて雫の接近にすら気づけないなど、普段のユエでは考えられないことだ。だからこそ雫は、揺らぐユエにどんな言葉をかけるべきか、それとも後に再開するであろうハジメに全て丸投げするか逡巡してしまう。
「皆、無事に攻略できてるといいわね。単純な試練としては樹海の時より難易度は低いと思うけど……内容が内容だもの」
「……ん、勇者(笑)辺りは無理かも」
「うぐっ……く、悔しいけど否定できない」
新たな通路を進む道中、二人は他愛ない雑談に花を咲かせる。ユエがさり気なく光輝に辛辣な評価を下していたりするが、雫が否定しきれないのが何とも言えないところだ。ご都合解釈大好きな光輝には、確かに色々と突きつけられる今回の試練は相当堪えるだろう。
雫は己の内に沈みがちとなるユエに対する励ましの意味も込めて会話を続けようと試みるが、残念なことにユエと雫の間にはそう深い関係性はない。その上、ユエは単純なコミュニケーション能力という点だけで見れば豹変する前のハジメ以下。いかにどんな相手であろうとも大抵とは仲良くなれる高い陽キャ適正を持った雫でも、長時間会話を続けるには無理があった。
雫の努力も虚しく、ふとした拍子にユエの意識は再び遠くの方へと向けられる。瞳が微妙に焦点を失い、遥か彼方でも見ているかのように彷徨い始めた。
「っ……」
雫が現れる前、ユエが戦っていた彼女の虚像は、彼女自身が受けた三百年前の悲劇を示唆する言葉を放ち続け、嗤っていた。ユエがこれまで心の奥底で気づいていながらも、見て見ぬふりを続けていたソレを目覚めさせるために。
詳しい詳細については省くとして。三百年前、若くして吸血鬼族の王であったユエは最も信頼していた叔父に裏切られ、【オルクス大迷宮】の奈落へと幽閉された。
客観的な目線で見れば、それは叔父が野心故に国王の座を狙って起こしたクーデターにしか見えなかっただろう。事実、ユエも三百年の幽閉の中で、現実に屈するように叔父に裏切られたのだと思うようになった。
(……どうして叔父……あの男は、私を殺さなかった?)
だが今更になって、ユエは己の虚像に嗤われ、その不自然さに違和感を抱いた。
ユエの〝自動再生〟は希少かつ強力ではあるものの、無敵ではない。魔力に依存する力である以上、魔力が枯渇するまで攻撃を続ければ殺しきることは可能だ。そして叔父には、ユエを殺しきるだけの強さがあり、ユエには抵抗する意志がなかった。
(……あの男は、私を殺すのではなく封印しなければならなかった。……それは何故?)
記憶を辿れば辿るほど、これまで気づこうともしていなかった矛盾に気づく。闇の中で記憶の深奥に押し込めた真実が、少しずつ色を取り戻していった。
――ユエを封じる立体キューブ。そこから覗くユエの頬を愛しげに撫でる暖かな手の感触。
――【メルジーネ海底遺跡】の試練で目にした狂った国の人々と似通った雰囲気を纏う両親。
――自国と不自然なくらいに関わりが薄かった宗教。
――まるで魔人族のフリードのように、戦闘となれば何体もの魔物を使役する強力な魔物使いであった叔父。
徐々に彼女は思い出していく。
(……私と距離を置き始めた頃のあの男は……とても辛そうだった)
記憶がどれだけ薄れようとも、感情がどれだけそれを否定しようとも忘れることはない。常に苦悩に眉根を寄せ、急速に老けていく叔父。しかしそれでも、そこには野心や欲望とはかけ離れた家族としての情があった。
ユエはずっと、叔父は野心の為に自分を裏切り、長い長い暗闇の牢獄へと閉じ込めたと信じていた。だが、虚像の言葉に揺るがされ、蘇ってきた記憶の断片は少しずつ他の可能性を示し始める。
それは客観的な視点から外れた一つの疑問。
すなわち、なぜ叔父は自分を封印しなければならなかったのか?
同時に、虚像の言葉が蘇る。
――本当に、ずっと彼の傍にいられるなんて思ってるの?
「っ……」
ユエの全身を恐怖が駆け抜ける。思わず、自分で自分を抱き締めて震えそうになる体を押さえつけた。
ハジメはユエにとっての光だ。暗闇を切り裂いて現れた、自分を照らし、温め、安らぎと幸せをくれる光。それを失うなど、ユエにとっては死に等しい。
だが…もし…本当に…傍にいられなくなるのなら……
「ユエさん!」
「っ……!? し、ずく?」
気がつけば、ユエは雫に肩を掴まれ、真正面から真剣な眼差しで見つめられていた。一体、どれくらいの間、己の思考に没頭していたのか。もう既に自分と向き合う雫の背後に行き止まりが見えており、通路の終わりまで来ていたことをようやく理解する。
呆けるユエに対し、雫はその華奢な肩から手を離して、一歩距離を取る。そうして再びユエへと視線を向けたその顔には、酷く心配している様子が見て取れた。
「ユエさん、やっぱり変よ。私が聞いてもいいか迷ってたけどもうはっきり言わせてもらうわ。一体、何を言われたの?」
「それは……」
ユエの尋常でない様子に雫は逡巡を捨てストレートに尋ねた。しかしユエは言葉を濁す。それは彼女自身、自分の心を整理しきれていないというのもあるが、
ハジメやシア、ティオや香織のように自分がユエから信頼されてないことぐらい雫は自覚している。もしこの場にその四人の内誰かがいたならば、迷うことなくそちらに任せただろう。だが今のユエはどうみても〝大丈夫〟ではなく、彼女の前にいるのは雫だけ。
そんな状況でユエを放っておけないお人好し。それが八重樫雫という
「知ってるわ。私は南雲君やシアさん達みたいに頼りにはなれないかもしれない。でもなんとなくだけど、分かるの。ユエさんの悩みって南雲君達には言いずらいことなんでしょ? それなら、むしろ関係の薄い私の方が話しやすいんじゃない?」
「……」
顎に手を当て、ユエは内心で『……確かに』と呟いた。
自分の過去を、自分の心を、まったくと言っていいほど浅い関係性の雫に話したところで、ユエが望む返答が返ってくることはないだろう。それでも、雫の言うように今の自分が普段とはズレていることを、ユエは嫌でも分かっていた。
誰かに話すだけでも、悩みが解消することはある。以前、ハジメが実体験から口にしていたことをユエは思い出し、決然とした様子の雫に一度視線を向けてから、溜息を吐いた。
「……ん。分かった……話す」
「ええ、ありがとう」
そしてユエは語った。叔父に裏切られた過去を、虚像に突き付けられた現実を。そして……自分が見て見ぬふりをしていた違和感について。
不思議と最初の第一声以降は、ユエは自分でも驚くほどにスラスラと口が回った。価値はなくとも、意味はあったのだろう。ユエ自身無自覚ではあったが、〝誰かに話す〟という行為そのものがつい先程まで心を覆っていた靄を僅かながらも晴らしていた。
「――そう、そんなことが……ごめんなさい。無理に辛いことを言わせて」
「……昔の話。気にしなくていい」
「そうなの? なら私もお言葉に甘えて少し言わせてもらうわ」
最後まで話し終えたユエに、雫は同情するかのような憐みの視線を向ける。普通の反応だ。そんな話を聞いて普段通り接せられる者の方が少ない。しかしこれは、ユエの悲劇であり、何も知らない他人に同情されるなど屈辱に他ならない。
少しムッとした反応を見せるユエ。だが雫は同情の中に僅かな困惑も混じった曖昧な表情でそんなユエを見返す。
「やっぱり私には、どうしてユエさんがそこまで悩んでるのかよく分からなくて……」
「……話聞いてた?」
「聞いた上でそう思ったの。ユエさんを裏切ったはずの叔父さんに、もしかしたら別の理由があったかもしれないってことよね? でもそれって嫌なことなの? だって、それが本当ならユエさんは裏切られたわけじゃなかったってことになるんでしょ。むしろ良いことじゃない?」
「……ぇ」
不思議そうに首を傾げながら返した雫の言葉はユエの意表を突かれた。
これまで裏切られたとばかり思い込んでいた叔父の叛逆には別の目的があり、それがもしかしたら自分を想っての行動だったかもしれない。もしその仮定が真実であったならば、それはユエにとって喜ぶべきことのはず。
ならばなぜ、ユエは今精神的な負担を感じているのか。誰でもすぐに気づきそうなその矛盾に、ユエは雫から告げられて初めて自覚した。聡明なユエがそんな単純なことにこれまで察しもしなかったのだ。それは明らかな異常である。
続けて雫は語る。
「それにこれからも南雲君の傍にいられるかわからないって……どうしてそう思ったのよ。叔父さんの件と南雲君は関係ないでしょ。少し前までユエさんの方から逃がさないって自信満々に言ってたじゃない」
「そ、そうだけど……」
ユエの動揺が如実に表れる。
雫の言う通りだった。叔父の件とハジメと一緒にいられるかどうかはまったく関係のない話。にも関わらず、ユエはそれを繋げて考えていた。それがどうしてかはユエ本人にも分からない。いいや、分からない
無意識の内に目を背ける自身の負の感情。ユエにとってのそれは、まさに今雫が指摘した部分にあった。
本来、虚像によって自覚させられるはずの感情。だが中途半端な状態で試練を攻略してしまったユエは未だその感情を乗り越えられてはいない。だからこそ、雫の真を突く言葉は深々と彼女の心に突き刺さる。
そして肝心の雫は、ユエが隠したがっている本心に気づいてしまった。
「ユエさん。貴女は一体何を怖がっているの?」
「っ……」
嘘や誤魔化しは許さないと、先ほどまで自分自身が虚像にされていたように、雫はトドメとなる言葉をユエの目を真っすぐと見つめて言い放つ。
それにユエは目に見えて混乱した。それも仕方ないだろう。他でもないユエ自身ですら把握しきれていない心の深い部分に、部外者である雫が無遠慮に足を踏み入れようとしているのだから。
(……なるほど、これは仁が嫌うわけね)
ユエの内心を悟った雫はわかりやすく動揺するその姿を見て納得する。これまで、仁とユエがなんとなく不仲であることは分かってはいたが、ようやくその理由に見当がついたのだ。
これはユエに対して非常に失礼なことではあるが、彼女は似てるのだ……天之河光輝に。
彼女の為に言っておくが、性格とか強さの面とかでは断じてない。少なくともユエはあの勇者(笑)のように自己中心的な正義を掲げてはいないし、あの程度の強さで粋がることもない。
ただこの二人には……
生まれた時から恵まれた力を、容姿を、立場を持ち合わせた存在。仁やハジメ、雫とは違って世界に祝福された者。それが光輝やユエのような人間の特徴だ。
加えて、これまで光輝の幼馴染をやってきた雫はそういう人間が持つ欠点もよく知っている。
まず前提として、自分を疑わない。最初から強者であり続け、失敗のない人生を歩んだ者には自分が間違えていたなどという選択肢すら存在しないのだ。
加えて、そういうタイプは絶対的な自信が少しでも揺らいだ時、酷く不安定となる。まさに今のユエやハジメに香織を連れていかれた時の光輝のように。
だから仁は、最初からユエが気に入らなかったのだ。
(これは……少し荒治療が必要ね)
これまでの雫であれば、ここで優しく寄り添い、ユエの悩みを静かに聞いていただけだっただろう。だが虚像の試練で精神的成長を遂げた雫は、ここで優しくするのは間違っていると判断した。だからこそ彼女は、敢えて
「貴女の気持ち、よく分かるわ。私も似たようなことを考えたことがあるもの……」
未だ自分の本心に向き合いきれていないユエへ、雫は先に辿り着いた答えを突き付ける。
「ユエさん。貴女はね……
「っ……!?」
ユエは咄嗟に否定しようとする。だが言葉が出てこない。どれだけ頭が否定しようとも、雫のその言葉を恐ろしいほど自然に心が受け入れていた。それをどうしても認めたくなくて、ユエの首が小さく横に振るわれる。
「もっと言うと、信じてくれた相手を裏切ってしまうのが怖い……そっちの方が分かりやすい? さっき自分で言ってたでしょ。叔父さんにはもしかしたら別の目的があったのかもしれない。それは自分を想っての行動なのかもって」
「……それが、何」
「分かってるはずよ。もしそれが本当だったなら、貴女がこれまで叔父さんに抱いていた怒りや憎しみは、自分を信じてくれた人に対する裏切りになる。そうは思わない?」
真剣な顔をした雫が一歩迫ると、ユエが一歩距離を取る。実力的にはユエに大きく劣る雫だったが、心の奥底に隠していた弱みをジワジワと暴いてくるその不気味な雰囲気に、ユエは自然と気圧されてしまう。
嘘とは、互いに嘘だと理解している者同士の間で行わなければ、一方にとっての真実となる。実際、もし本当に叔父が愛情故にユエを奈落へ幽閉したのだとしても、それを理解していないユエからしてみれば突然反逆され、傷つけられ、閉じ込められたのだ。
後からその真意に気づいたとして、当時抱いていた黒い感情が叔父に対する裏切りになどなるはずがない。いくらなんでも言い過ぎだ。だがユエには、心の底から信頼できる相手が叔父しかいなかった。だからこそ、その小さな感情を悪であると定めてしまう。
雫も同じだ。0か1かしか考えられなかった不器用な性格から、誰もが持つありふれた罪悪感が心を蝕むまでに肥大化してしまっていた。だから雫には、ユエの気持ちを自分のことのように理解できてしまう。
「南雲君を盲目的なまでに信頼してる理由だってそう。ユエさんは裏切りたくないから、疑問を抱きたくないから、必要以上に信頼することで、彼に対して疑惑の気持ちが生まれないようにしてる」
「ち、違う……私は……」
「じゃあどうしてシアさんを認めたの? きっとそこには私じゃあ分からない理由があったんでしょうね。でもそれは、貴女の男を他の女と共有してもいいほどのものなの? 違うでしょ。本当は、南雲君がシアさんに惹かれているのに気づいてたから、ユエさんは妥協した」
「……っ、そんなこと――」
〝そんなことない!〟大したことでもないそんなセリフが、ユエは口から出てこなかった。
認めたわけじゃない。でも納得はしてしまう。ユエにとってシアは奈落から出て最初に出来た友達であり、仲間であり、そして妹のような存在だと思っている。だからこそ、他の女には絶対に許さない〝特別〟の座をシェアすることも許容した。
しかし……しかし……しかしだ。
大切な友達だから? 仲間だから? 妹のようだから? そんな
嫌な例ではあるが、ガハルドなんかその代表だろう。あれほどまでに、欲の強い王はそういない。
「心の底から相手を信じることは綺麗よ。それが一生続けば尚更ね。でもそれだけ。筆の置かれた真っ白なキャンバスと一緒。それ以上汚れることも、彩られることもない」
「……それは、間違ってるの?」
「間違ってないと思ってるの?」
「っ……」
ユエは言い返せない。雫の言うように、そういう在り方はユエも綺麗だとは思う。だが同時に、そこにはどうしようもない寂しさもあった。
冷酷に重く低い声で告げられた雫の言葉に、ユエは黙りこくるしかない。
「もしも……もしも南雲君とシアさんが本気で、一切の躊躇いもなく殺し合いを始めたら……ユエさんはどうする?」
「そ、んなの……」
「ああ、勿論二人を仲裁するだなんて光輝みたいな答えはやめて。もっと絶望的で、抗いようのない状況を想像して。貴女は一体……どっちの味方をするの?」
咄嗟に絞りだそうとした答えを先んじて潰され、ユエは無言でイメージする。ハジメもシアもユエにとっての〝特別〟だ。よりにもよってあの二人が敵対するだなんて考えられない……でも、ユエは悩むまでもなく即断してしまった。もし百万分の一にも満たないその可能性が起きたとして、自分がどうするのかを。
自分自身ですら驚くほど、当然のように脳内で弾きだされたその結論に、ユエは動揺を隠しきれず呆然とする。雫はそんなユエの反応に自分の仮設が間違っていなかったのだと確信した。
「ほらね、貴女はシアさんを引き合いに出されたとしても、南雲君を選ぶことしかできない。そしてそれは、南雲君だって同じはずよ。彼も他の誰よりもユエさんを優先するし、ユエさんを一切疑う余地もなく信じ切ってる。その気持ちは……愛でも恋でもない」
「……し、雫?」
「教えてあげる。貴女達みたいな関係性のこと――」
更に距離を縮める雫に距離を取ろうとするが、あまりに精神的動揺が大きかったからだろう。たったの一歩しか下がれない。雫はそんなユエの耳元に口元を寄せ、囁くように告げた。
「――
直後、雫の頬を掠めるようにユエの掌から風の刃が吹き荒れた。
「……いい加減にッ!」
「図星を突かれたから力で捻じ伏せる。随分と分かりやすわね」
首を僅かに傾げ、風の刃を躱した雫はユエから数歩離れる。そして香織がハジメに着いて行こうとした時の光輝を思い出してフッと笑う。確かあの時も、プライドをズタズタに切り裂かれた光輝は勝てもしないのにハジメに食いかかっていた。
あの時と違いがあるとすれば、今の攻撃が風属性の初級魔法というユエにしては加減の見られる攻撃であったということと、単にユエの方が雫よりも強いというシンプルな戦闘力差。
「いいわ。どうせぶつかり合わないとユエさんは分からなさそうだし、相手をしてあげる」
「……正気?」
「油断してるわね。でもいいの?」
ユエには自分の方が強いという確信があり、雫には一度ユエに負けたという過去がある。だが雫は余裕の笑みを崩さない。おもむろに右腕を持ち上げ、髪を結んでいたピンク色のリボンに触れる。
その瞬間だった。なんと、ピンク色のリボンは突如蠢き変形すると、桃色の刀となって雫の手の内に収まった。同時に、結ばれていた髪が解け、ばさりと長い黒髪が下ろされる。
そう、これまでユエが髪飾りだとばかりだと思っていたリボンは虚像との戦いで雫の手へと渡った、
いくら危険性がないとはいえ、刀を抜き身のまま持っているわけにもいかなかった雫は、なんとなく元仁の分裂達であった刀に「もっと運びやすくて危険じゃない形になってくれない?」と冗談交じりに頼んでみたのだ。
するとびっくり、雫の言葉に従うかのように刀は変形し、まるで仮〇ライダーが着けるようなベルトへと変形して雫の腰に巻き付いた。それを恥ずかしいからと雫が再び変形させたのが、ちょうど虚像との戦いで切れてしまった髪紐の代用品である。
雫が虚像との戦いで何を得たのか知らないユエは髪飾りに変形していた刀に一瞬驚愕するも、所詮はその程度と決めつけ、散々好き勝手言ってくれた雫を睨みつける。対して、雫の方も凍えるような冷たい視線でユエを強く睨み返した。
「――今の私、ちょっとだけ強いわよ」
ビシッと刀をユエに向けて突き出した雫の宣言と同時に、戦いの火蓋は切られた。
〇
各々が虚像達と戦い続ける中、香織もまた他のメンバーと同様、中央に円柱形の巨大な氷柱がある大きな空間で虚像の自分と死闘を繰り広げていた……しかし、それももう過去のこと。
戦いは、香織の勝利という形で幕を閉じた――だけであったなら、どれほどよかったことだろう。
香織は虚像との戦いに苦戦を強いられていた。元々、ユエに対して嫉妬心や劣等感を覚えていた彼女には、負の感情なんて自覚させるまでもなくたっぷりと抱いている。故に、虚像の放つ言葉はナイフより鋭く、ハジメの弾丸よりも正確に、香織の弱い部分を切り裂き、抉り抜いてきた。
だがそれでも、香織が倒れることはなかった。劣等感や焦燥感、そして嫉妬する心ならば、【メルジーネ海底遺跡】でとっくに吹っ切っている。
もちろん、完全に割り切れたわけではないし、むしろ、シアがハジメに受け入れられた時は激しく嫉妬した。しかし、それも直ぐに祝福する気持ちが湧き上がったのも事実。もう、ただ焦燥感や劣等感、嫉妬に囚われて自分を卑下したり、無理をするようなことはなかった。それどころか、ユエ以外の女もハジメが受け入れることはあるのだと証明されて喜べたくらいだ。
自分は成長している。誰かを羨むよりも、願いを叶える為に己を高めることが出来ている。だから、目の前の自分に負けるわけにはいかない。
満身創痍である心を奮い立たせ、疲弊した体に鞭を打ち続けながらも香織は戦った。
己の汚い部分を突きつけられ、傷つき、苦悩しながら、それでもそれを受け入れ、呑み込み、己の力に変えていく。それはとても王道で、確かで、素晴らしい成長だった。しかし戦いがいよいよ佳境に入った時、それは起きた。
あらゆる全てを斬り裂くような暴力的かつ巨大な
あれには香織も呆然した後に、驚愕の声を上げるしかなかった。
「うぅ、なんで私ばっかりこんな目に……」
「香織さん。仕方ありませんよ。絶対あれは仁さんの仕業です。あとでとっちめてやりましょう」
地面に両膝と両手を着き、項垂れる香織の背中をシアが優しくさする。
シアは香織よりも早く敵対していた虚像を倒し、その後に現れた氷の通路を進み、この空間へとやって来ていた。そして彼女もまた虚像が理不尽そのものと言っていい斬撃に敗れた場面に居合わせた目撃者の一人である。
シアはあの斬撃の色合いと火力から問答無用で仁が悪いと決めつけているようだが、その真実はまあお察しの通り、雫が虚像の自分へと放ったトドメの一撃である。そんなことを知らない香織とユエは今回に関してはまったく悪くない仁へと憤りを見せた。仁、憐れなり。
「え……こ、これって」
傷心している香織を慰めながら、『私、なんで香織さんを慰めてるんでしょう?』という根本的な疑問に振り返っていたシアだったが、その優秀な感知能力が近くの氷壁の向こう側に感じ慣れた気配を捉え、難しい表情でウサミミをピコピコと動かすと、直後、驚愕に目を見開いた。
「シア? どうし――」
突然様子の変わったシアに気づいた香織も、その視線の先を辿って氷壁の方へ目を向ける。ちょうどそのタイミングだった。
ズドォオオオオオオオッ!!! という凄まじい爆音と同時に、まさに今視線を向けていた氷壁が爆発したのは。
「ふぇ!?」
「な、なんですかぁ!?」
突然の出来事に唖然とする二人。彼女達は、その視線の先で刀を盾にしたまま爆炎から飛び出してくるトレードマークのポニーテールを崩した雫と、氷壁に空けられた穴からゆっくりと歩いて来る頬から僅かな血を垂れ流したユエに驚愕もあらわに目を見開いた。
更に、
「こんな狭いところでそんな派手なだけの大技。優雅さの欠片もないわね。そんなに私に喋らせるのが怖い? いいわよ、それなら存分に教えてあげる。貴女達の関係がどれだけ歪んでいるのかを」
香織とシアは顔を見合わせる。そして、何か通じ合ったのか頷き合うと、香織が意を決したように対峙する雫とユエに声をかけた。
「あ、あのユエ? 雫ちゃん? 一体、何をして――」
「……うるさい。何も知らないくせに、私とハジメの関係を勝手に決めつけて。少し優しくしてあげたからって調子に乗りすぎ。〝共依存〟なんて、安い言葉に私達を含めるな。この恋愛下手くそ鈍感女」
「へ、へぇ……言ってくれるじゃないユエさん――いいえ、ユエ。そこまで言うってことは、覚悟できてるわよね」
香織はまるっと無視された。雫とユエは視線すら向けてくれない。香織の目の端がキラリと光り、シアが同情するように肩をポンポンと叩く。
一方、怒りのあまり頭に血が昇ったユエは普段の口数が少ない彼女とは打って変わり、怒気を強めに雫へと暴言を吐いた。それほど、他人が、それも雫のような弱者が自分の心の闇に触れてきたことが許せないのだろう。
ユエの怒りを
直後、ユエの怒りを示すように頭上に暗雲が立ち込め始める。ユエの十八番である〝雷龍〟の住処だ。ゴロゴロッと雷鳴の轟く音が響く。
「……降参するなら今のうち、オカン属性唐変木」
「それはこっちのセリフよ、合法ロリ」
方や一切感情を隠す気がなく、方や笑顔の裏に怒気を隠しながらも露骨に、二人は〝私怒ってます〟というオーラをぶつけ合う。
そして、
「あ、あの二人とも? ちょっと落ち着こう? 何があったのかは知らな――」
「……黒焦げにして、格の違いを教えて上げる」
「随分と狭い差ね。一歩で追い抜けそう」
ユエの掲げる暗雲から〝雷龍〟が咆哮を上げながら雫に飛びかかった。対する雫は、刀を地面に突き刺し、回避行動を取ろうともしない。
「……ぐすっ、私って、やっぱりダメな子なのかな……」
「香織さん、気をしっかりしてください! 今貴女までダメになったらこのカオスな状況に取り残された私はどうすればいいんですか!?」
「……うぅ、やっぱり私、ダメなんだ」
「そういう意味じゃないですよ、面倒くさいですね!? どうしてユエさんと雫さんが喧嘩してるか知りませんが、早く止めないと雫さんが死にますよ!」
完璧に無視されて再び泣きべそを掻き始めた香織をシアが慰める。香織の蔑ろにされっぷりに同情せずにはいられなかったが、それ以上にシアの中には非常に面倒臭いと思う気持ちで一杯だ。こんな女に長年想いを寄せられてきたのかと、シアは内心ハジメを憐む。
そんな二人を尻目に、雫とユエの初めての大喧嘩は激化の一途を辿っていた。
刀が変形し、楕円形の卵のような形状となって雫を包み込む。直後、〝雷龍〟が雫を呑み込むも、〝雷龍〟が通り去った後には無傷の桃色の球体が当たり前のように存在し、その中からやはり無傷の雫が姿を見せる。
過ぎ去った〝雷龍〟が方向転換し、再び雫へと顎門を開いて迫るも、その時には既に刀を元の形状に戻していた雫は爆発的な踏み込みでユエに肉薄していた。
それを〝空間魔法〟による空間遮断型障壁によって受け止めるユエは更に、空間振動による衝撃波を発生させて雫を吹き飛ばそうとする。しかし、雫は衝撃波そのものを両断し、魔法も技能も一切使うことなく無効化して見せた。
刀の性質によって仁の気を借り受けられる雫は、その膨大な力で物理的法則を凌駕した超常現象を引き起こす。目に見えないものを斬り裂くことくらい、今の雫にとっては難しいことでもなんでもない。その気になれば、音や空間ですら斬ることもできるだろう。
「甘いわ。言ったでしょ、ちょっと強いって。それともなに、私が弱いからって簡単に勝てるとでも慢心してたの? そんな余裕があるから、〝特別〟を共有するだなんてみっともない考えが出てくるんじゃない?」
「……自分の力でもないくせにっ! さっさと沈んで!」
「羨ましいの? そうよね、ただ信頼されてるだけの貴女にはないものだもの」
鋭い金属音が響き、氷壁や地面がパクリと割れたように裂ける。爆炎が空間を舐め尽くし、雷が空気を灼き焦がす。刀と魔法が幾度となく衝突を繰り返し、空間全体を揺らすように衝撃波が絶えず続いた。
仁の気を借りているとはいえ、肉体的な防御力に関してだけは一切変化のない雫はユエの広範囲に及ぶ魔法を一度でも受けてしまえばその瞬間敗北が決定する。だからこそ雫は一度としてユエの攻撃を受けない。否、受けられない。その全てを回避、または防御で凌いでく。
対するユエは雫から感じられる妙に不気味な気配から、雫の強さの秘密が仁に関係していると察したはいいものの、その原理がどれだけ考えようとも見抜けず、攻めあぐねていた。
刻一刻と激しさを増す超高速戦闘は同時に二人の本気度を示しているかのようだった。ただ、拮抗している戦いとは対照的に、口論の方は一方的な展開になりつつある。
「ほらっ、また狙いがズレた。それがユエの〝いつも通り〟なの? だとしたら随分と不安定ね。まあそれも仕方ないか。だって貴女はいつも不安定」
「……うるっさい! 私は……私はっ!」
「そうやって自分の嫌な部分から目を逸らしてるようじゃ、少し前までの私や光輝と同じよ。これまで、いつだって変われる機会はあったのにそれをしてこなかった。そこで足踏みを続けるだけの前に進めない人間になる」
「っ……私はちが――」
「――一緒よ。何も違わない。ただ綺麗な世界を夢見て、見たくないもの、汚いものから目を逸らし続けてるだけの未熟な子供。私もユエもその一人なの」
ユエとは違い、雫には日本で鍛え上げられた論破力がある。そこそこ序盤で罵りボキャブラリーが尽きたユエでは相手にもならない。そんな二人の大喧嘩を、先に部屋にいた香織とシアはどうしてよいか分からず狼狽えながらも静観を続ける。
二人も最初こそ雫とユエの喧嘩を止めなければならないと必死だった。ユエが桁違いの強さを持つことは周知の事実。どうひっくり返っても彼女達の脳裏には雫が殺されてしまう未来しか思い浮かばなかった。
――雫がユエ相手に互角の戦いをしてみせるまでは。
酷く邪悪な気を漂わせながら、人外レベルの戦いを繰り広げる雫の姿に香織もシアも、『なぁにあれ』と唖然とする他なかったのは自然な反応だ。そのため最初の緊張感も薄れ、今はもはやただそこにいるだけの存在となり果ててしまった。
「ど、ど、ど、どうしようシアァ!? あれどうすればいいの!」
「わ、私に聞かれたって分かりませんよぉ! 止めるしかないんじゃないですかぁ!」
悲しきかな。普段は謎の凄みがあるというのに香織もシアもこういう時に限って役に立たない。焦り過ぎて逆に何もできていない二人だったが、やがて「ああ、もうこうなったらヤケですぅ!」とシアがおもむろにドリュッケンを肩に担ぐ。
「二人とも殴れば解決っですぅ!」
「っ……まさかアレに突っ込む気!? ダメだよ死んじゃうよ!」
「じゃあどうするんですか! 香織さんが行きますか?」
「うえっ……それは、そのー……」
戦場に踏み込む決断をしたシアとは対照的に、香織は言い淀む。いくら戦う手段があるとはいえ、あくまで〝治癒師〟である彼女にとってあの人外達の戦いに割って入るなど、自殺行為に等しい。ならば、まだバグった身体能力を持つシアの方が十分可能性はあるだろう。
そして、
「仲良くしやがれですぅ! シャオラアアアア!!」
香織の静止も聞かず、力と物量、速さと技。お互いの長所をぶつけ合って生まれた嵐の中へシアは一気に踏み込んだ。まずはユエよりも倒しやすそうな雫が標的だ。素早く背後に回って後頭部へ一撃をお見舞いする。
「どっっせぇぇええええいっ!!」
「……シアさん。不意打ちする時は声に出さない方がいいわよ」
しかし、完璧に決まったかと思われた背後からの一撃は、振り向きもされないまま雫が左手に持った短刀に遮られていた。高い身体能力を持ったシアの火力特化に改造されたドリュッケンがたった一本の刀でだ。
おかしいのは、まさに今シアのドリュッケンを受け止めたというのに、現在進行形でユエの魔法を
「えっ!? ちょっ、嘘ぉ!?」
動揺するシアに構うことなく雫がドリュッケンの力の流れを逸らす。そしてバランスを崩したシアは無防備な状態で地面に倒された。
「あわわわ!?」
急いで立ち上がろうと顔を上げたシア。しかしそこには激しくスパークする〝雷龍〟の顎門が、「いただきまーす!」とでも言うかのように大きく開いて待ち構えていた。
顔を蒼褪め、悲鳴を上げながらシアはドリュッケンで迎撃を試みるも、倒れた状態かつこの至近距離では対処は厳しい。咄嗟に目を閉じて痛みに耐えようとしたその時、シアは何か包まれたかのような温かさと奇妙な浮遊感を味わった。
その感触にシアは覚えがあった。かつて、ハジメにお姫様抱っこで運ばれた時と同じ感覚だったのだ。加えて、いつまで経ってもやってこない痛みにシアの中には〝もしかして〟という可能性が浮かび上がる。
彼が助けてくれたのだ。自分の窮地にあの愛おしい彼が……。
シアは確信を持って瞼を開いた。
「ハジメさ――」
「舌を噛まないように気をつけて、シアさん。少し手荒に行くから」
残念、ハズレ。ユエの魔法からシアをお姫様抱っこで救い出したのは雫だった。
「え、雫さ――って、ちょっと上! 上見てくださいよぉ!」
「わかってるからそんな騒がないの」
驚愕と勘違いしていた事実に顔をトマトのように真っ赤に染めたシアだったが、雫の真上から〝雷龍〟が迫っているのに気づく。必死に雫の肩を何度も叩き、指を差して危機を伝える。当然雫は、シアに言われるまでもなく気づいていた。
バックステップで真上から墜落してきた〝雷龍〟を躱す。だが〝雷龍〟は勢いを弱めるどころか、地面を砕きながらも方向転換し、雫へ狙いを定めていく。
今の雫はシアをお姫様抱っこしているため両腕が使えない。それは刀を握れないということでもある。ならば迎撃は不可能か……いいや、雫はもうその常識を超えている。両手が塞がっているのなら、
「……うっそん」
シアが目を丸くして驚く。それも無理はない。なぜなら、雫の刀が意志でも宿ったかのように浮かび上がり、自発的に〝雷龍〟の迎撃を始めたのだから。
ハジメが持つクロスビッドも持ち主の手を離れて行動するドローンのようなものだが、いくらなんでもユエの〝雷龍〟と渡り合うドローンなど、あまりの反則技だ。そんなものがあったら、ハジメが速攻手に入れようとしている。
驚愕するシアを抱えたまま高速移動を繰り返す雫は、やがて遠くで観戦していた香織の元まで移動すると、シアを優しく地面に降ろした。その姿は味方によれば御伽噺に登場する王子様のように洗練された動きに見えるだろう。
「シアさん、心配させてごめんなさい。でももう少しで終わると思うからちょっとだけ待っててね」
「あ……は、はい」
「いい子ね。ありがとう」
シアの髪を優しく撫でて微笑んだ雫は自身の手の内に刀を引き寄せると、再びユエへと向かって走っていく。喧嘩を仲裁しに向かったシアが雫に助けられて帰ってきた。しかもお姫様抱っこで。もう香織はどう反応すればいいのかさえわからない。
「ち、違う……私にはハジメさんが。あっ、でも雫さんは女の子だから大丈夫? いやいやでもハジメさん以外に見惚れるなんて……でも……」
「落ち着いてシア! 多分その扉は開いちゃいけないと思うな!?」
なにやら新しい世界へ足を踏み入れようとしているシアだったが、そんなことはお構いなしに雫とユエの戦いは佳境に入っていく。〝自動再生〟により見た目上のダメージは一切ないが、ボロボロに切り刻まれた衣服のユエと、その真逆に全くの無傷の雫。
一見雫の方が有利に見えなくもないが、現実は互角。むしろ雫の方が不利な状況にあった。ユエは連続した上級魔法の発動と〝自動再生〟で魔力を大幅に消耗しており、雫の肉体は使い慣れていない仁の力にとうとう悲鳴を上げていた。
ユエの場合は魔晶石から魔力を補充すればすぐに全快するが、それはユエからしてみれば負けにも等しい行為。するつもりはなかったし、その隙を雫が見逃してくれるはずもない。
両者ともに肩で息をする状態。だがシンプルに種族としての差がある以上、持久戦では雫の不利。
「いい加減に認めたらどう? ユエにそのトラウマがある限り、貴女と南雲君はお互いに縋り続けるだけの張りぼての関係でしかない」
「っ……それは……」
「はい。油断した」
だからこそ、雫は精神への追撃を強める。
雫の挑発に逆らおうとはしたものの、それよりも早く感情に支配されたユエは特大の〝雷龍〟を作り出し、天に腕を掲げた。しかしその直後、地面から飛び出した桃色の刃にユエの足が貫かれる。激情のあまり警戒を怠っていた隙を見て、雫が地面に突き刺した刀を伸ばし、奇襲を仕掛けたのだ。
だが主が傷を負ったとはいえ、消滅することのない〝雷龍〟はそのまま雫へ迫る。今の雫にはこの大魔法を正面から受ける体力はない。故に、雫は〝雷龍〟の下を搔い潜り、ユエに肉薄する。当然、後ろからUターンして顎門を開いて呑み込もうとしてくるが、やられる前にユエを倒そうという魂胆だ。
しかし
「――〝破壊〟」
その声を聞いた途端、雫はその判断が間違っていたのだと悟った。
ジャネンバとの戦いで初披露したユエが生み出した最新の神代魔法。〝破壊魔法〟は文字通りの一撃必殺。ユエがどれだけ加減しようとも掠りでもすれば必ず相手を破壊する魔法だ。だからこそ、雫はこの戦いでそれを使うことはないと思っていた。
想定外なのは、ユエが雫の想定以上に頭に血を登らせていたこと。普段あまり怒った様子を見せないユエだからこそ、雫は怒りが殺意へと変わるギリギリのラインを掴めなかったのだ。
「これは……やるしか、ないわね!」
後ろからは特大サイズの〝雷龍〟。前からはユエの〝破壊玉〟。逃げ場はない。雫はその場で立ち止まり抜刀術の構えを取る。不思議と刀も最初はなかった鞘に納刀されていた。
「はぁっ!!」
直後、雫は回転しながら抜刀を行い、360度全方位に向けて斬撃を放った。八重樫流抜刀術の一つ、〝水月・漣〟である。
全力を込めた一撃は〝雷竜〟も〝破壊玉〟も切り裂き、大迷宮そのものを再び両断する。危機的状況の回避に成功した雫だったが、当時に肉体の限界もまた襲い来る。
「あ、ぐぅ……」
全身が罅割れるかのように痛み、立っていられなくなった雫が膝を着く。長時間、仁の気という膨大な力を使い続けた副作用だ。しかしその時、雫は見た。
「はぁはぁ……けほっ」
冷たい氷の地面の上で、雫と同じように膝を着き、荒い息を吐いていたユエを。完全に魔力枯渇の状態である。それもそのはず、ただでさえ〝自動再生〟によってみるみると体力が削られているにもかかわらず、あそこまで魔法を連発し、〝破壊魔法〟まで使ったのだ。むしろここまで自分の魔力のみで保てたことの方が異常だ。
「……ユエ。貴女、本気じゃなかったでしょ」
「……」
痛む体を無理矢理動かし、雫は片足を引きずりながらもユエに近づく。
最後にユエが放った〝破壊魔法〟。それを気の力で消し飛ばした雫はあまりの手応えのなさに気づいていた。いくら未完成かつ、念入りに魔力を練る時間がなかったとはいえ、あんな
「もう、わかったのよね……」
「っ……」
雫が言うように、ユエは分かってしまった。
雫が口にするたび、心をかき乱される感覚は虚像との戦いで感じた感覚に酷似していた。だから感情がどれだけ否定しようとも、ユエの理性的な部分はそれを納得していた。聡明なユエだからこそ、感情よりも先に論理的にその言葉が正しいと認めてしまっていたのだ。
「……でも、それでも」
しかし、それを認めたからとはいえ、受け入れられるほどユエの心は大人ではない。普段の彼女からは想像もできないような感情的な声が漏れ出す
「――私はハジメを、信じたい」
静寂に支配された氷の空間に、ユエの声が響く。その嘆きにも近い言葉を、ユエ同様に荒い息を繰り返す雫は黙ったまま静かに聞いていく。
「……雫の言う通りだった。私は叔父様の時みたいに愛してくれた誰かを恨むのが怖い。またあの時みたいに憎悪で頭の中がいっぱいになる思いなんてしたくもない。だからもう同じ失敗をしたくなくて……ずっと誤魔化してた」
ユエがこれまで、ハジメに対して微塵も不満も抱かなかったなんてことはない。どんなカップルだって喧嘩はする。だがユエはずっとその小さな気持ちに気づかれないよう誤魔化し続けてきた。その気持ちがバレてしまえば、どう思われるか分からないという恐怖から。
そんな控えめな隠し事が、叔父のことを思い出したユエには心に深く刻まれた大きな傷となった。それを雫に押し広げられ、もはやユエは受け入れるしかない。
「……ハジメが私を捨てるなんてこと絶対にないのは分かってる。でも私の方が、本当にハジメを裏切らずにいられるか自信がなかった。……私は一度、叔父様を信じられなかったから」
いつの間にか、ユエはポロポロと涙を零していた。どれだけ時が経とうとも、〝特別〟を手に入れようとも、未だに過去を乗り越えられない自分が悔しくて、辛くて、腹立たしくて。
色んな感情が混じりに混じって飽和して、自分でも整理のつかない感情が涙となって溢れ出した。
「……でも、それでも私はハジメを信じたい! この気持ちは間違いなんかじゃないって信じたい! ハジメを信じた私は誰よりも幸せなんだって信じたい! だから……」
だがユエは変わらない。いいや、変わろうとしない。それが歪であるのだと、奇妙であるのだと分かっていながらユエは涙を拭い、怒気を強めた声音で宣言する。
「私はそれでも、ハジメを信じる!!」
顔も体もボロボロの状態のユエを見下ろしていた雫は、歩くだけでも激痛が走る体を必死に動かしながら、ユエに近寄っていく。
「滅茶苦茶よ。異常だってことが分かっていながら、その生き方を貫くなんて。不気味……と言ってもいいわ。だけど……」
「雫……」
「貴女はそれでいい……」
「……ぇ」
膝を着き、ボロボロな様子のユエを雫はそっと抱き締めた。眼差しも抱き締めた腕の力強さも、とびっきり優しい。ユエは涙で歪む視界を通して、ジッと雫を見つめ返した。
「それでいいの。別に嫌な気持ちにだってなったっていい。裏切られるのを怖がるなんて当たり前。だから、大切なのはそんな色んな気持ちがあったとしても〝それでも〟って言える気持ち。それだけなの」
「……し、ずく」
「さっきは色々言ってごめんなさい。それをユエにも知って欲しかったの。迷う必要なんかないわ、安心して。貴女と南雲君の間には間違いなく〝愛〟がある」
「……そ、んな、の、当たり前」
「そうね。当たり前なの。でもそれに慣れてしまうのはダメ。そこには何も特別感がない。また迷ってしまう。だからそんな当たり前を大切にするの。分かった?」
「……んっ」
雫はユエの涙を丁寧に拭いてあげてから立ち上がらせると、その両手をギュッと握る。ユエもまた少し強めに握り返した
静かな時間が流れる。心なし肌を撫でる空気まで優しくなったようだ。
これまでユエの周りには、愛してくれる人、大切に想う人はいてくれた。だが彼女のことを想い、厳しく叱ってくれる人はいなかった。つまりこれはユエにとって人生初のお説教だったのだ。辛かったものの、その初めての経験にユエの頬が自然とほころぶ。
「……雫、お母様って呼んでもいい?」
「……それは止めて。なんか複雑だから」
「じゃあ、お姉様で」
「えっと、なんでそうなるの? 普通に名前じゃダメなの?」
ユエの心情の変化による突発的な提案に雫は戸惑いを隠せないが、それ以上に肉体の限界を察し、意識が朦朧とし始める。だが最後にこれだけは言わなければならないと、雫に優しく微笑んでから言った。
「ユエ、貴女の過去について知りたいなら、仁に聞くといいわ」
「……? 仁に?」
「ええ、どうしてかは知らないけど、仁はユエの過去を知ってるみたい。多分間違いないわ。だから多分、あいつは貴女の悩みをヒントを持ってるはず……」
「……ん、分かった」
そして最後に、雫は再開してからの仁がユエへ向ける対応からの推測を口にすると……意識を手放し、ユエに体を預けるようにして倒れた。
「えっ……」
「あっ……雫ちゃん、大丈夫!」
「ちょっと、今度はなんなんですか!」
これまで体を酷使し過ぎた代償に堪え切れず意識を失ったのだ。まあ当然といえば当然だ。だが雫が得た強さの原理を詳しくは知らないユエは唖然とし、やっと戦いが終わったと説教する気満々で近づいてきていた香織とシアも急いで駆け寄ってくる。
「香織、
「うん、任せて。大丈夫だよ雫ちゃん! すぐに治して…………待ってユエ今なんて言ったの!?」
「いちいちツッコんでる場合じゃないでしょう今は! それと後で喧嘩の原因は絶対に聞かせてもらいますからね!」
そうして、静寂を取り戻した大部屋には再び騒がしさが舞い戻る。雫がただ気絶しているだけだと判明するのは、その数十秒後のこと。
とっくに出現した新たな通路は、何だかとても虚しい感じだった。
【ユエ】
ヒロインその1
原作においては、自分に何があるか分からないと「自分に何かあったらハジメをお願い」的なことを言ってシアと大喧嘩を始めるのだが、今作ではヒロイン同士の戦いを見たいという作者の欲望ダダ洩れな感情によって雫と戦うこととなった少女。
まだ雫は仁の気を使いこなせてはいないため、本当の意味で殺し合いをしたらユエの勝利は確実なのだが、やはり雫はレスバ力が強かった。
今後、雫のことを親愛と尊敬の念も込めてお姉様と呼ぶことになるのだが、香織やシア、ハジメからしてみれば非情に微妙な感じとなる。まあオカンと呼ばれるよりはマシだろう。
【八重樫雫】
ヒロインその2
ユエが抱えている感情に気づいていないことに気づき、同じく自分自身も己の気持ちを誤魔化していたことがあり、お節介を焼いたメインヒロイン。結果がこの殺し合い。
つい先程手に入れた仁の力を乱用しまくった挙句、肉体が限界に達し意識を飛ばしてしまう。
ユエに対しては、性質が光輝に似ているというところもあって手のかかる妹を見ているような気分になるだとか、この後お姉様と呼ばれて満更でもない感じに。
・ピンクソード 正式名称:なし
雫のため、仁が分裂体の体に鉱物という概念を付与して造り上げたピンク色の刀。
仁の体を素体にしているため、形状を自由自在に変更が可能であり、刃の部分を伸ばしたり、薄く広げて盾のようにしたりすることも可能。戦闘時以外では、雫の髪飾りとしての役割を全うしている。
そこにあった仁の人格こそ薄れているものの、雫を守るため勝手に行動することもあるため、自立行動も可。
欠点としては色合いが異様に派手であることと、雫の八重樫流剣術は抜刀術が主であるため少し相性が悪いことにある。
雫以外が使用しようとした場合、刀が殺しにかかってくるため実質妖刀ともいえる。
・雫が戦っている時の仁の反応
仁「おおう、なんで八重樫がユエとマジで戦ってんの? というかあいつ、オレの気を容赦なく持ってくな。死ぬぞ」
・雫が当たり前のようにユエに斬りかかれる理由
理由に関してはユエをボコボコにしていた時の仁に近い。
すなわち、治るからちょっと手荒にしても大丈夫でしょという感じ。
このヒロイン、割と仲間傷つけることに躊躇いない。