空を鼠色一色へと染める雲が地面へ水滴を降らして叩きつける。屋根が雨水を受け止めまた何処かへと流れ落ち、室内へと入りたがる雨粒たちが締め切った窓のガラスを叩き続ける。
その雨で生まれるいくつもの音の響きが、ひとつに集まってザーザーと聞こえた。
降り注ぐ雨はアジトの前に大きな水たまりを作っている。もう4日も経つが、雨は水たまりを小さくする気はないようで、むしろ日に日に水面を広げている。
「止みませんね」
「……そうだな」
一人用のハンモックだと言うのに、俺の横に腰かけるコユキがぽつりと小さくつぶやいた。
照明もつけずに分厚い雲を抜けた光だけの部屋は薄暗く、そんなただの一室に俺含めて4人全員揃っていた。ここは俺の自室のはずなのにだ。
彼女たちは何をしてる訳でもなく、呆けた様に視線を天井に這わせてるだけで、だらっと動かずに無気力のままソファで横になっている。ソファが2つしかないためコユキがあぶれたのだろう。
「もういっそ雨の中出かけません?」
焦れったさを隠せなくなったコユキが部屋にいる全員へ問いかけたが、答えは皆同じなのか誰も返事を返さない。そんな反応の無い俺たちの様子に、むくれたコユキはため息を吐きながらハンモックに深く座りなおした。
重くのしかかる増えた重量に、軋んだ支柱だけが唯一彼女に返事をした。
「……腹が減った」
「じゃあ猶更出かけないと何もないですよ。諦めてください」
日が昇る随分と前に食べたのを最後に何も食べていない。
いつもは何かしら小さい物を常に口に入れていたのだが、この大雨のせいか届けられる筈の食料だったりの荷物が来てないのだ。
常備していた物をついには無くなってしまい、部屋の角に開けられた段ボールの中には、食って出たゴミが大量に押し込まれていた。
「だいたい、何故こんな大雨が続くんだ」
「まあ、梅雨の時期ですし、しょうがないですよ」
「……ツユの時期?」
馴染みのない言葉に俺は聞き返しす。顔をあまり動かさずに見上げると、コユキは少し驚いた顔で俺を見ていた。本当に一瞬の事で、彼女は直ぐに顔を崩すと口を開いた。
何故だか、見下ろされる形で意気揚々と喋られると、全然内容が頭に入ってこない上に少し苛立ちが募った。
しかし、先生が合間に分かりやすく言葉を纏めてくれたおかげで、ざっくりとコユキの話を理解出来た。
どうやら、キヴォトスでは月日が経つにつれて、暑くなったり寒くなったりするのだという。その間の過程で、強風が吹いたり雨が長々と降り続いたりするそうだ。
俺が暮らしていた所は年中曇り漬けで、雨なんかより雪の方が多かった。ただ、どちらも降る事自体珍しかった。
「梅雨ってのはいつまで続くんだ?」
「大体七月の半ばぐらいですかね」
「……あとどれぐらいだ?」
ドサッ、と音を立て誰かがソファから床に落ちた。振り向けばモエが床で伸びており、テーブルを挟んだ反対側のトキも、体を起こして驚いた様子でモエを見ていた。
そしてなぜか、落ちた本人も驚いた表情をしていた。
「えっリーダー本気で言ってる?今までどうやって生きてきたのさ」
「見たまんまだろ。好きに生きてた」
「でも、……まぁ、そうなんだろうけども……」
勢いのまま言葉を続けようとしていたが、柄にもなく遠慮したモエが口を濁した。
だがモエが言わんとしてることは何となく分かる。俺はキヴォトスでの文化や、住んでいればおのずと知るはずの知識どころか、ごく普通人の持つ一般常識というものをあまり持ち合わせていない。
月日の概念は向こうで教えてもらった記憶があるが学べる機会はあれど、誰かに教えてもらうのも知識を得るのもつくづく苦手だった。
「354+1763」
「は?」
トキが急に問題を口にする。他の奴らも俺を見て答えをいついつ言うのか待っている。
354+1763……、まず7だろ。そのあと――……頭の中で思考し答えを求める傍ら、実は既に自分の中で答えが決まっていた。
胸の内に問いかける様に先生に助けを求めるが、席を外したかのように静かで言葉が返ってこない。自力で考えろと言っているのだろうが、俺は早々に自力で解くことが不可能だと思っている。
「リーダー……」
「……まぁ、待て」
先生がその気ならもう少し考えてみるべきだろうか。
合わせた数字を頭の中で維持できないのなら、天井に合わせた数字を想起しメモを取りながら次の数を合わせればいい。
天井を見上げ黙々と考えている間にも時間は過ぎていき、俺は最終的な答えを口にした。
「よしラパン、俺の代わりに答えていいぞ」
「今の時間は何だったんですか」
これだけ長く考えた末の俺の答えにトキが最もな反応を返す。俺だって答えが3桁になるまでは分かっただが、考えてる途中から数字が頭から離れてしまい最後まで続かないのだ。
「もしかして、今まで会計を私に任せてたのって……」
「確かにリーダーがお金出してる所、一度も見たことないかも」
思わぬ話題から普段支払いを人任せにしていた理由が発覚してしまった。
実際、彼女たちも薄々俺に物を考える頭が無いってことは分かっていただろうが、程度の低さがここまで露見されると俺も気まずいところがあった。
「流石に時計は読めますよね?」
「……多少」
もうここまで来たら取り繕っても仕方なかったが、それでも全く読めないとはまでは言わなかった。だが、俺の言い方で察してるのか彼女たちはどこか納得していた。
「集合時間がいつも曖昧だったのそういうことか、うける」
雨音に搔き消されてしまいそうな程小さな声でモエが呟いた。一人で笑っている所で悪いが俺には聞こえているからな。
ソファから降りて立ち上がったトキは体を逸らす様に腰を伸ばすと、四則演算ぐらいは出来た方が良いと俺に言った。
この雨の中で手持ち無沙汰になった彼女の暇つぶしか。だが、トキから教わるのは少し癪だしする必要などないと首を振って断った。
「でも繰り上がりの計算も出来ないって、幼稚園児並みですよ!にはははっ――あだっ!?」
横になったまま体を捻り、彼女の尻から掬い上げる形で足を振り上げた。ケラケラと小ばかにして笑っていたコユキは抵抗する暇もなくハンモックから蹴落とされ尻もちをついた。
小柄なせいか床にケツを打っても軽い音しかならなかった。
たいした痛みもないのに痛がる素振りを見せるコユキは、「でも、流石にあるていど教養はあった方がいいですよ」とお尻をさすりながら立ち上がる。他の奴らも珍しくコユキの意見に賛同しているのか静かに頷いていた。
「まぁ、
「えっ、中学への進級程度なら
ニジシキもセイフ、どちらも聞いたことない言葉で分からずただ黙って聞こえなかったふりをした。
だがそんな安い演技もする必要なかったのか、モエの話したニジシキにコユキは疑問を見せた。
どうやら、彼女たち学園ごとに勉学の進行が違うらしい。コユキ曰くモエの所だとかなり進みが早いのだとか。
夜な夜な自室で液晶画面とにらみ合っていたり、主に爆薬や兵器ばかり熟知してるだけかと思えばヘリなどの運転など操縦系は全般出来るなど、彼女の印象以上に何だかんだ頭が良いらしい。
この中で一番思考のおかしい彼女が、この中で一番頭が良いのは世の中の不条理を感じる。
「でも私が居た所ではまだ試験には出て無かったですね」
「えっ?トキって今何年生なの?」
「一応、今は中学2年です」
「ホントですか!?じゃあ私たち皆同級生じゃないですか!」
同じ2年生と聞いてコユキは喜ぶが、同じく聞いていたモエは逆に何処か悍ましい物を見たかの表情をしていた。
「2年で正負も出ないって、もはやゲヘナじゃん」
「割と緩い学校ってのもあります。……まぁ私はそこを退学して一浪してるんですけどね」
俺たちを見ながら澄ました顔で話すトキだったが、それを自虐を交えた冗談だとしっかりと分かっているのは俺だけだろう。
彼女の余り動かない表情もあってか、他の二人は笑っていいのか分からず困った様に苦笑していた。
その様子に「笑う所ですよ」何て言っているが、トキの事情を勝手に覗き見て上で知っている俺たちに、その冗談をすんなり笑うのは難しいだろう。
「えー……そしたらシュトリヒさんのとこは進学校だったんですか?」
気まずさで一番最初に耐え切れなくなったコユキが何とか話題を変えた。流石のモエも気まずさを感じていたのか、その話題に便乗して先ほどの空気感を無かった事にした。
「別に他所を抜きんでるほど頭良いって訳じゃないけど、ただ当時は勉強だけが取り柄みたいな所があったからさ」
自分の事を話すのが気恥ずかしいのか、少し照れくさそうにモエは話をつづけた。彼女は同級生の中でも頻繁に集まって勉強会という、聞いてるだけじゃ何も面白くなさそうなことを毎日していたらしい。
その中では比較的出来が良かったらしく、他の生徒たちに分かりやすく教えていた事もあったらしい。
「どうせなら私が算数教えてあげよっか?」
「えっ?、……だったら私が教えますよ!」
満更でもなさそうな態度を見るにモエは教えたがりなのだろうか。同じくコユキも手を挙げてまで俺に教えたがっている。さっきも言ったが俺は他人から物事を教えてもらうのは嫌いだ。
そう言っているにも関わらず俺の意志は関係ないのか、二人とも譲らない態度で目を合わせて睨み合っていた。ついヤジを飛ばしたくなってしまい、阿保でも人に教えることが出来るのかと言うとコユキは憤慨した。
「リーダーよりはできますよ!私だって見かけによらずとも、一度授業を受ければ何でも理解できるくらい頭はいいんですから!」
それはそうかもしれない。
「じゃあラパン、人に教えるの苦手でしょ」
「うぐっ」
コユキは俗にいう天才タイプ。電子ロックや暗号も
モエも一緒じゃないかと思ったが、退廃的にも思える彼女は以外にも日頃からコツコツと勉強を続けていたタイプだったらしい。
図星だったのかすぐに言い返せないコユキは口ごもって俺を見ると、何か思いついたかの様に俺を指差した。
「でもリーダー絶対話聞かないから、多分私と同じ感覚派ですよ」
「おい」
何を言い出すかと思ったら俺を出しに使いやがった。それも癪だったが、それを聞いたモエも一理あると言わんばかりに頷いて唸るのも腹が立ちそうだった。
初めから教えなくて良いと言ってるにも関わらず、不要で不愉快な会話は二人の間で長く続いた。
そんな戦いにトキも途中から入りたそうにしていたが、勉学に関しては自信が無いのかソワソワと会話を見届けるだけで参加はしなかった。
しかしずっと喋っていれば自ずと疲れが出始め、やがて息切れを起こし話が途切れた頃、その時になってやっとトキは口を開いた。
「まずは常識から教えるべきなのでは?」
「……」
「……」
トキの言葉で冷静になったのか、3人が俺の方を向き直りジッと目を向けた。……何だお前ら、見せもんじゃないんだこっちを見るな。
刺さるような視線を手を振って払うが、揃いも揃ってカレンダーも読めない奴だと思っている。事実、キヴォトスの字は読めないため間違ってはいないだが、それでも人から教えてもらいたいとは思っていない。
「教えようとしなくていい。めんどくさいし、人から教わるのが嫌いだって言ってるだろ」
俺が出来なくとも、お前らが代わりにやれば済む話だと結論づけ話を終わらせる。部屋に彼女たちのため息が鳴るが、また打ち付ける雨がかき消して再び水の音で満たした。
◇
◇
◇
・
◆
◆
◆
雨の音が止んで静かになった事を感じ、ゆっくりと瞼を開ける。雨で締め切った部屋の中で深く吸った息は少し淀んでいる気がした。
あの3人は自室に戻ったのか部屋の中は俺一人しかおらず、今になって自分の中で張っていたどこかの糸をようやく緩めた。
窓を見ればガラス越しに見る外の景色は、少し赤みがかった日がぼやけて見える。
今はもう夕方なのだろう。ハンモックから降りて、ここ数日締め切ったままだった窓を全開にした。
「……」
外気の湿った冷たい風がそよぐ様に部屋へと入り込む。雨はようやく止んだようだった。
まだ空の殆どは雲に覆われているが少し雲の薄い所だけ、へこんだ様に雲の少ない所だけがその裏で沈もうとする夕日の光で橙色に滲んでいた。
俺は窓枠に頬杖をつき、楽な姿勢でゆっくりと流れる雲を眺めた。
「また、雲が赤くなってる」
『……ユウリの居た町では違うのか?』
そうだな。あの町は、いつ土砂降りになるか分からない程分厚い雲が頭の上にあった。ずっと、朝も、昼も、夜も常に雲の切れ間無く何処までも続く曇天が空を覆っていた。
明るくなると気が滅入る憂鬱な空だったし、暗くなれば寒気がするほど不安な夜空に見えた。
だから、雲ひとつない晴天なんてものは見たことが無かった。キヴォトスに来るまでは。
あんなにも晴れ晴れとして、透き通っている空を見たのは初めてだった。
「……いや、でも2回だけあの町の綺麗な空を見たことがあった」
『ほう、晴れたのか?』
「違う、晴れた訳じゃない。ただ、……分厚い雲に穴が開いていたんだ」
足元が見える程度に明るくなった頃、俺はたまたま開けた場所に居た。ただ隅で小さく膝を追って座っていただけ。
だから本当の偶然。少し離れた雲に小さな穴が空いて、そこから町に差し込むように薄明が空に線を作っていた。
掴めてしまいそうな程くっきりと存在していた。薄暗い街中を突き立てた日の光がとても綺麗で、今でも思い出せば目に焼き付いている。
「ほんの少しの間だけだったけど、それでもあの時は口を閉じるのも忘れて魅入っていた」
『……薄明光線、天使の梯子と呼ばれる奴だ』
「名前があったのか」
話過ぎたのかもしれない。先生の返す言葉がいつになく優し気だった。
空から地上へ延びる天使の梯子、あの光が通る穴の先には一体何があるのだろうか。当時の俺は何も思わずただ綺麗とばかり思っていたが、そんな仰々しい名前があるとは知らなかった。
天使という言葉で気なって自分の頭上にあるだろうソレへ手を伸ばすが、手が空ぶるだけで何も掴めやしなかった。
彼女たち、このキヴォトスの生徒たちは皆頭の上にヘイローを浮かばせている。そして俺にだってある。
何の実害も無いため余り深く考えたことは無かったが、これだって何の為にあるのかも分からない程未知の物体だ。
『ユウリは、……私の話も余り好きでは無いか?』
「……?」
何を指した話なのかが分からず呆然としてしまう。話が好きでは無い?……ああ、そういう事か、先生はさっきまであの3人との会話の内容を言っているのだ。
「好きか嫌いかで言えば好きじゃない」
『……そう、か』
「それでも、不快でもないし嫌いじゃない」
『……そうか』
確かに先生は日常的に俺の知らない事柄を注釈や説明をしてくれる。短く済むときもあれば、長々と話すこともあるがこれまで出会って来た人の中で、話を聞いていて一番聞いていて楽だ。
他の人にではなく、先生にだから教わっても何とも思わないのだろう。先生は先生ただ一人で、もう誰も代わることが出来ない。
でも、そんな些細な事を先生が気にしていると知ると、少し笑ってしまいそうだった。
「でも長い話は嫌い」
『うっ、……すまない』
日が次第に沈みかけて空は徐々に暗く染まりつつある。そういえば、初めて天使の梯子を見た時は朝方だったが、その次は日が沈む少し前だった事を思い出した。
その時の記憶は、初めて見た時の記憶より喜ばしい物ではなく、今も鮮明に思い出そうとはしたくない。
なぜなら、俺はその日に死んだのだから。
あの日はもう全てが限界で、生きている事だけで精一杯だった俺には余裕なんて無かった。なのに、これまでのツケが悪運と重なって路地裏に奴らたちを引き寄せた。
過去に盗みで手を出していた奴で、互いに初見というわけは無かった。
そんな奴らに気づかずぶつかってしまい、顔を見られどうにか逃げ切れたものの、焼かれた様に痛む横腹の穴から俺の命が徐々に流れて落ちて止まらなかった。
それからの記憶は朧気で、ふらふらと覚束ない足で暗い道を彷徨い何処かで倒れたはずだ。雪が少し降っていて、触れた地面から徐々に冷たさが体に広がり、凍えるような苦しさが俺の意識を少しずつ奪っていた。
「……あの時には、もう……いやまだか」
『どうかしたか?』
「いや、何でもない」
あの時、俺は追っ手を確かに振り切ったと思っている。だけど意識が消える直前、真っ暗な視界の中で耳の奥に僅かに足音が残っていたような気がする。
倒れこんだ際に地面へ衝突した音だろうか。……駄目だ、何も思い出せない。
それなのに事実か俺の空想か、ゆっくりと歩み寄る靴底の音が自分の中で気色の悪い引っ掛かりを作っている。
自分の死に際の事を想起して、イメージから出る恐怖感でありもしなかった事を生み出してしまっただけだろう。
そうやって今考えていた事を頭から振り払う。やっぱり思い出すべきではなかったのだ。
でも、もう遅かったのかしれない。俺は恐らく、不意にこの事が頭を過ってしまう。
姿形、場所すら違うと言うのにあの足音はまだ、俺へと向かって追って来ている様な気がした。
「……駄目だな。飯を食いに行こう」
やむを得ない、外で何か食べものを探しに行こう。燻される様な熱が胃を刺激して、空腹感が酷くなってきた。
腹が減っているから変な事を考えてしまうのだ。腹が満たされればきっと気分も良くなる。
外に出ようと窓枠に足を掛けるの同時に、後方で部屋のドアが開かれる。居たのはコユキだった。
「あれ出掛けるんですか?」
「ああ」
窓の外に飛び出しいつも通りワイヤーの機動で屋上まで飛び上がる。普段いつも使っているせいか、先端を突き刺している壁がもう穴だらけになってしまっている。次からは違う壁にしないと崩れてしまいそうだ。
空中で体を捻って出ていき窓を見るとコユキが何か叫んでいたが、余り意識していなかったのもあって風の音で全く聞こえなかった。聞きに戻っても良かったが、どうせ自分も連れてけとかだと思い置いて行く事にした。
ブラックマーケット側へと出るように建物を乗り越えならが一直線に突っ切っていく。雨上がりの地面から立ち上る土の香りと、水を得た草と葉の匂いが大きく風を切るたびに全身を抜けていった。
まだ水の捌けていない屋根は土汚れと交ざって滑りやすく、足を引っかけられそうな場所を見つけてはそこを選んで移動する。
このゴーストタウンも随分と見慣れてきた為、こうやって自由に移動しているとブラックマーケットに入るまであっという間だった。
『そういえば、普段は彼女たちが会計を払っていたが、自分の所持金は持ってきたのか?』
「……」
思わず咄嗟に電柱を足場にして止まる。さっきコユキが俺を呼び止めようとしていたのはこの為だったのか。金を忘れてたまま無一文で出てきてしまったが、もう今からアジトに戻るのも面倒だ。
なら、そこら辺で適当な奴を探して金を巻き上げるか。少し前まで大雨が降っていたが、ブラックマーケットになら不良の一人や二人すぐに見つけられるはずだ。
「金持ってそうな大人からスってもいいな」
不良生徒たちの持ち歩いている所持金何てたかが知れている。周りに人が居ない事を確認し、真下の歩道へと電柱の上から飛び降りた。
浅い水たまりの真ん中に着地すると水面が高く跳ね上がり、俺の服に泥が掛かってしまったが軽く手で払ってやるだけで、水でシミが出来るどころか泥すらも付かなかった。
耳を澄まして周囲を探ってみるが、水滴が落ちる音ばかりで足音が全く聞こえなかった。水たまりの大きさを見ると、殆どが通せんぼをするかのように肩を広げている。他の道も恐らく同じ筈で避けて歩く事は難しいだろう。
「……これ室内じゃなくて外だな」
少し離れた所にある路地裏から人の声がする。3人組で少女の声がするので恐らみんな生徒、その場から動かずに壁へ一人の生徒を追い込んでいるようだ。
つまり、2人の生徒が一人の生徒を囲っているわけだ。
「すごいな、既にカツアゲしてる奴が居るぞ」
屋根から降りる雨水管を上って現場まで直行する。濡れているせいか靴が擦れる度に詰まった様な音がキュッと鳴るため、近づいてからゆっくりと上から見下ろしてみると、一人の生徒が壁まで押し込まれ恫喝されていた。
やはり俺の予想はあっていた。だが、状況はチンピラが一般人に絡んでいると言ったものではなかった。
「おい!さっきからいっちょ前にガン飛ばしるけどさぁあ?!」
「ずっと黙ってるだけじゃ会話にならないんですけどぉ?口ついてますよねぇ?」
「……」
突っかかってる奴らは何処にでもいる不良の生徒だが、壁を背にしたその生徒は目の前の奴らに対して眉のひとつも動かしていなかった。
慣れているのか彼女はただ細長い目で一瞥するだけで何もしない。少し強い目尻のせいか怒っているようにも見えるのに、何故か先に手を出せば勝てる距離だというのに睨み続けている。
不良の二人もさっさと沈めて金でも取れば良いのに、彼女の強面に押されて手を出そうにも怖がって何も出来ないでいた。
そんな巾着状態に嫌気がさしたのか、少し目を伏せた後やっと彼女は口を開いた。
「……ねぇ、もう行っていい?」
彼女の怒りを帯びた外見とは対照的に、その柔らかく落ち着いた声が路地裏で静かに響いた。