裏路地よりマシな職場   作:群青くらげ

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風船

 

 

 

 ひとたび脱走騒ぎが起きれば悲鳴と血潮で染まる社内も、平時であれば平和なものだ。事務職は変わらず書類整理や施設稼働に尽力するし、管理職はアブノーマリティに対峙していないときはメインルームでつかの間の休息を謳歌している。

 しかし今の俺に、どうやら休息はないようだ。

 

 俺は今、福祉部門にある収容室の前に立っている。

 オブジェクト分類T-04-359『渇望する大地』危険レベルTETHのアブノーマリティだ。

 

 なんで懲戒部門から福祉部門まで来させられたのだろうか。

 ほぼ同期ということで少し仲良くなったリラに愚痴ると「私も昨日は輸送部門まで行きました。ここの管理人さんは各部門の危険レベルの低いアブノーマリティを新人に担当させているのかもしれませんね」と苦笑いとともに言われた。ちょうど懲戒部門なんだからあのまま『予言屋』の担当にしてくれてもいいのに。

 

 ちなみに部門間はエレベーターで繋がっている。本社の方ではエレベーターにかのW社の特異点が施されているという噂だが、ここの支部にはそんなものはない。

 この福祉部門の収容室に着くまでには、大体2~3分は鉄の箱に揺られる必要がある。まさか施設維持にはエネルギーをあまり割いていないんじゃないだろうな。機会があれば口外してやろう。

 

 俺は鬱憤を込めたため息をつき、タブレットに目を落とした。今回俺は本能作業を行うことになっている。しかし『渇望する大地』は配置されてからそれほど経っていないため観測が完全ではない。エンサイクロペディアに空欄は多いが生産できるエネルギーも少ないため、管理人も積極的に観測を進めないのかもしれない。

 俺はエンサイクロペディアにある数少ない過去の作業記録に目を通した。

 

 ──愛着作業を行った新人職員オノリオの作業結果は「普通」だった。収容室から出てきた彼女の身体にはいくつかの打撲痕があったようだ。E.G.Oの損傷具合やバイタルチェック等の結果、情報部門は『渇望する大地』がRED属性の攻撃を行うと結論付けた。──

 

 ──クリフォト暴走により脱走した『渇望する大地』は材質が変容し、鉛のような硬度と重量を獲得した。ハートの指し示す先に向け、自由落下を伴って職員を砕いていった。──

 

 ──風船の向きが変わったら注意しろ。脱走の兆候かもしれない。──

 

 エンサイクロペディアを一読した感想としては、この支部においては比較的安全なアブノーマリティだと思ったくらいか。職員数名を容易く屠れないアブノーマリティは危険ランクTETHが妥当といえる。もちろん危険ランクTETHとはいえ、危険には変わりはない。アブノーマリティを侮った職員が手に握るのは退社の切符である。血で作られたマニュアルを自身の鮮血で上塗りするほど俺は愚かではないつもりだ。

 

 さて、そろそろ作業を始めなければならない。この会社は残業時間には緩いがノルマには厳しいところがある。

 覗き窓から中を伺うと、ピンクの風船が上下逆さまに浮いていた。風船にはスマイリーフェイスが描かれており、風船の紐の先にはピンクのハート型の立体が付いている。風船はゆったりと収容室内を漂っていた。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 これが『渇望する大地』。風船に見えるが実は資料のように鉛なのか、それとも空気よりも重い気体が入っているのか。まぁ、細かいことはどうでもいいか。

 

 今回の作業内容は『渇望する大地』を清潔にすることになっている。俺は壁の棚から羽根はたきを取り出した。黒鳥の羽根を使っているらしく、アブノーマリティの攻撃でも滅多に壊れないのだとか。黒鳥って何だろう。

 俺はカードキーを使い、収容室の扉を開いた。

 

 

 

 室内には風船が逆さまになってふわふわと漂っている。俺は胸ポケットに手を入れ、ボイスレコーダーのスイッチを押した。

 

 渇望する大地の表層はゴム製に見えた。表面のスマイリーフェイスもマジックペンで書かれたような印象を受ける。

 

 薄らと埃を被っていたため羽根はたきで表面を清掃していくと、ヘリウムガスの入った風船のようにゆらりと揺れた。この状態では鉛のような材質ではないらしい。

 

 それを確認すると、身体の内から欲が湧いてきた。この風船に触れたい、触れてみたいと。心胆から湧いてきた好奇心が、接触を求めて訴えてきたのだ。

 欲望の赴くままに思わず手が伸びそうになるが、俺は被りを振った。この誘惑は異常だ、と自分を自制する。

 かつての教育部門の部署長が残した言葉がある。この会社での変化は異常であると。好奇心は猫どころか自分の命に届くと。

 

 誘惑を払い除けた俺がクリップボードに今の現象を記載しようとしたとき、風船の先に付いているピンクのハートの部位がくるりと向きを変えるのが目の入った。何だ? と思うと同時に、俺の腹に重い衝撃が叩き込まれた。

 

「……ぐっ!? ……おっ……」

 

 衝撃は身体が一瞬浮かぶほどであり、堪らず透明な胃液を吐き出した。時間が無いと朝食を抜いたのが幸をそうしたようだ。

 骨が何本か折れてるのか、足に力は入らない。

 

「がっ……! ……は……」

 

 四つん這いになりながら腹を押さえて顔を上げると、渇望する大地が地面と平行の向きになっていた。風船が重力に逆らって真横に伸び、ゆらゆらと揺れている。まるで的に突き刺さった矢のようだ。

 そして渇望する大地はピンクからグレーに色が変わっており、表面のスマイリーフェイスは口元が180度回転した表情に変質していた。紐の先のハートも向きが180度回転している。おそらく風船の部分が俺に当たったのだろう。それにしては重かったが。

 

 そして渇望する大地はその勢いで収容室の扉に勢いよく突撃をし、金属が曲がる音とともに収容室の扉を破っていった。

 

 脱走だ。

 

 

 ──EMERGENCY!! ──

 

 

『アブノーマリティが脱走しました。個体名『渇望する大地』が脱走しました。各員鎮圧にあたってください』

 

 無機質な機械音声が非常事態を告げている。辺りには壊れた収容室の扉、部屋の隅にとんだ羽根はたき、吹っ飛んだクリップボード、吐かれた胃液。俺の前に残されたものは何とも情けない限りだ。

 

「くっ……そが……!」

 

 俺は全身に鞭打ち立ち上がった。身体中が錆びついたロボットのようにギシギシと軋む感覚がする。それに全身が重い。このまま沈みそうな感覚に陥る。

 しかし泣き言ばかりも言ってはいられない。俺は警棒を手に持ち、震える足でひしゃげた扉をくぐった。

 

 

 廊下に出ると黒い風船が正面の壁に激突していた。紐の先のハートが、まるで迷うようにキュルンキュルンと向きを変えている。しかしすぐにハートは廊下の先へ向きを固定し、壁から浮き出た風船が宙を滑っていった。

 

「うわぁぁぁああああ!! 来るな、来るなぁぁあああ!!」

 

 悲鳴に似た叫び声がした方に目を向けると、福祉部門の腕章を着けた事務職員が拳銃で応戦しているところだった。

 

 俺は知っている。たかが事務職の持つ支給拳銃は戦闘力になり得ないことを。恐怖と混乱で乱射される拳銃の弾は、なんら風船の障害にはなりえていなかった。

 俺は「逃げろ!」と叫ぼうとしたが、腹部に走る激痛が掠れ声しか許さなかった。

 直後、事務職の頭蓋は風船と衝突し、廊下に緋色が混ざった。拳銃を取り落とし弾き飛ばされた事務職の身体は宙を舞い、廊下の壁に拓を残した。

 

 風船は自由落下の勢いのまま、メインルームの方向へと加速していく。

 風船が廊下の奥へ消えたのを確認すると、滲むように俺の視界が白ばんだ。痛みが限界を迎えたのかもしれない。禄に思考もできずに力の入らない四肢を放り出し、俺は意識を手放した。

 

 

 

 目を覚ますと、俺はベッドに横たわっていた。ベッドの脇には緑色の薬液で満たされた点滴が吊られており、管が俺に繋がっている。どうやら俺は助かったらしい。どこの誰が運んだかは知らないが、感謝しておこう。

 

 ここはどこだろう、設備からして医務室だろうか。上体を起こそうとしたところ、胴に包帯と添え木の感触がしたため断念した。包帯が巻かれていない首だけを回して、見える範囲で辺りを確認する。

 

 俺の横たわるベッドを含めて六つのベッドがある四角い部屋で、俺以外に人はいない。天井は照明がついてるだけの寂しいものだ。傍らのローテーブルに置かれた時計を見るに、脱走騒ぎから二、三時間くらいってところだろう。

 

 とにかく、業務も途中だったし一度懲戒部門に帰らないと。いや、カウンセリングルームに向かうのが先か。とにかく回復具合の確認もあるし、人を呼ばないと。……ナースコール設備は備わっていないのか。

 寂れた食事処のように俺が呼ぶしかないのか? そんなことあるか? 腹に力入れるのは怖いんだが。

 

「あー……誰かー、いないのk「ごきげんよう、お目覚めのようだね」

 

 控えめに声を出すのとほとんど同じタイミングで、出入口の扉が勢いよく開け放たれた。ッバ──ン! と強かに壁にぶつかった扉は、蝶番から断末魔をあげて沈黙した。

 

「おや、またやってしまったか。まぁ私の登場に彩りを与えたのだ、扉も本望だろう」

 

 苔むした深緑のコートを着た眼前の男は、パイプをふかしながら顎をさすった。銀縁眼鏡と立派な口髭が良く似合っている。三、四十代くらいだろうか。腕には福祉部門の腕章をつけている。

 何はともあれ、彼はここの関係者だろう。呼ぶ手間が省けたと考えれば重畳だ。

 

「ド派手に来てくれたところ悪いんですが、状況の説明を頼めますか? あいにく俺は目覚めたばかりで何も分からないんですが」

 

「ふむ、ふむふむ、良いだろう」

 

 そう言うと男はくるりと一回転をし、カッと踵を揃える。そして両手を勢いよく広げ、辺りには紙吹雪が舞い上がった。裏路地で一度だけ見た、たった一人の自称サーカス団を思い出す演出だった。

 

「私はこの福祉部門が部署長、クローバーだ! 日々諸職員たちの命を繋ぐため、研究に明け暮れる救世の探求者さ。その成果として、この福祉部門ではアブノーマリティによる被害は施設一低いのだよ。……まぁ福祉部門はいつでも人手不足だがね。ハッハッハッハ!」

 

 状況説明ではなく自己紹介を声高にされた。紙吹雪を散らしながら眼鏡を光らせる彼は不敵に口角を上げている。自己顕示欲でも強いのかもしれない。

 

「それで、ここは? 今はどういう状況なんです?」

 

「ここは福祉部門の治療セクターだ。社内のメインルームに配備された再生リアクターや精神汚染中和ガスなんかの濃度が高いものがここには施されている。私の管轄だから他の部門よりも高性能に改造してあるのだよ。そこの点滴もK社のナノテクノロジー療法で用いられるものを使用しているのさ。私の研究の構想であり、終着点であり、障壁でもある。特異点に相当する技術を私の手が作り出した瞬間を想像してみたまえよ君。あぁそれはとても素晴らしい。たったの一人で翼の末席に手が届くその──」

 

「脱走したアブノーマリティはどうなったんだ?」

 

「ふむ、先ほどの『渇望する大地』の脱走に際して負傷が一名、死亡が二名。管理職の死傷者が君だけだったのは幸いだったよ。……あぁ、ちなみに現在風船は鎮圧済みだ。前回の脱走と同じく落下しながら加速し、メインルームの隔壁に衝突して弾けたよ。退避だけで鎮圧ができるというのは部門の責任者として気持ちが楽だね。それにしてもあのハート型のコア、自在に重力の方向を操るというのは面白い。あぁこんなことなら情報部門の部署長を目指すのも悪くはなかったのかも──」

 

 この変人は自分で口が閉じれないのだろうか。段々と苛立ちが募ってくる。思わず張り付けた敬語が剥がれる程度には。

 ただの喋りたがりのような彼は、聞いてもいないことを話す才能に長けているようだ。対話型の愛着作業に関して優秀な実績でもあるのかもしれない。

 

「……で? 俺はもう自分の部門に戻っていいのか?」

 

「──してアブノーマリティから抽出され……ん? まだいたのかね君、全快なのだから早いとこ懲戒部門に顔を出しておやりよ。ちなみにここの治療セクターは目覚めたころには全治しているのが自慢でね。これは私の改造の賜物で──」

 

「治療どうも、失礼する」

 

 あほらしい、長話に付き合うだけ損だろう。俺は腹回りの添え木を放ってベッドから降り、足早に扉の壊れた治療ルームを後にした。

 

 

 

「──られたエネルギーを本社が……ふむ、あれが噂の事務職上がり君か。部署長たちが盛り上がっていたが、私はあれはただの人だと思うがね。まぁ何事だろうと必要なのはサンプルだ、研究でも作業でも。……今度、記録部門に菓子でも持っていってみようか」

 

 

 

 カウンセリングはつつがなく終了した。担当したフィオナ曰く、『渇望する大地』による誘惑の前例はないため要検証だろうと。記録部門への報告が心底嫌そうな顔をしていたのが印象深い。

 

「記録部門の連中は真面目が過ぎて退屈だね。きっと部署長の教育が浸透しているんだろうさ。加えてさらに最悪なのは他のやつにも真面目を押し付けることだよ。あんたも記録部門に行く機会が今後あるかもしれないけど、データ以外の話は聞く必要はないよ。無視しときゃぁいいのよあんなもん」

 

 煙草の煙を吐きながら漏らした彼女のありがたい言葉だ。半信半疑で金言としておいた。

 

 懲戒部門のメインルームに戻ると、クローディアがソファでサンドイッチを食べているのが目に入った。手元の袋を見るに11区に展開している「リトルエッグ」という店の商品だろう。事務職たちが美味しいサンドイッチの店があると話題にあげていたのを聞き及んだ記憶がある。

 そういえば昼食をとっていないなとぼーっと見ていると、クローディアが俺に気づいて声をかけてきた。

 

「おかえり、脱走騒ぎは耳に入ったよ。災難だったね。……それにしても福祉部門の医療チームは相変わらず優秀ね。肉体損傷程度なら直せちゃうんだ」

 

「おかげさまで。クローバーさんに絡まれる事故もありましたけどね」

 

「あぁー、あの人は語りたがりだからね。また変な癖が再発してないといいんだけど……」

 

「また? 先輩はクローバーさんと面識があるんですか?」

 

「まぁね、私は前から勤務する部門が転々としててさ。今は懲戒部門に落ち着いてるけど、福祉部門に配属された期間もあったんだよ。今でもあそこの部署長を相手にするのは慣れないよ本当に」

 

 クローディアが珍しくため息を吐いた。確かにあの変人ぶりには辟易としたが、クローディアがこうも言うならあれが常なのだろう。

 福祉部門が人手不足というのも部署長が原因なんじゃないだろうか。

 

 するとクローディアの腕時計からピピピとアラームが鳴った。クローディアは一瞬だけ煩わしそうな顔になったが、すぐに元の笑顔に戻りアラームを止めた。

 

「もう時間かー、この後『レミングス』の作業が入ってるんだよ。気を抜いてると笛を吹かれちゃうから疲れるんだよね。あ、サンドイッチ。一つ余ったから君にあげるよ」

 

 そう言ってクローディアは手元のサンドイッチを俺に投げて寄越した。パンと具が空中分解するかと焦ったが、無事に俺の手に収まったことで杞憂に終わった。

「美味しかったから君も気に入ると嬉しいな」と言い残しクローディアはメインルームを後にした。

 

 

 俺は砕かれたはずの腹をさすった。痛みも違和感もない。クローバー自慢の医療設備は伊達ではないようだ。

『渇望する大地』が脱走した際、俺は確かに恐怖を感じた。俺はまだ心のどこかでアブノーマリティを安全だと信仰している部分があったのかもしれない。

 

 クローディアから貰ったサンドイッチを口にした。サクサクしたままのパンと具材が絡んで大変美味しかった。ハムと卵は俺も好きな組み合わせだ。

 次の休暇に寄ってみるのもいいかもしれない。

 

 

 




*11区に「リトルエッグ」の名の店があることは確認できていない。
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