浪漫の騎士   作:南蛮うどん

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一番長いです。鈴音編は今回で終わり。


第5話 その宿命を

 よく勘違いされることだが、別に人が人を殺すことは異常ではない。

 ただ、そういう機会、あるいは必然性があるのならば、人は割とあっさりと人を殺してしまう。例えば、戦争。例えば、正当防衛。

 要するに、他者から罰することが無い場合や、やむに得ない場合に置いて、人は割と人を殺す傾向にある。もちろん、殺す理由があれば、だが。

 では、なぜ一般社会ではそれを忌避として扱うのか?

 そうした方が人の集団の中では生きやすいからだ。誰しも、誰かが自分の命を狙うかもしれない、という警戒と疑念を抱いて生きていくのは御免だ。そんな毎日、心が擦り切れてやさぐれてしまうだろう。

 だから、集団意識として『人を傷つけない』、あるいは『人を殺してはいけない』という思想を共有する。そして、人殺しは異常なことであると定義する。

 そうした方が、誰だって生きやすい。

 よく、捻くれた子供などが大人に尋ねるだろう。

 なぜ人を殺してはいけないのか?

 その質問をする者は大抵、大人を困らせてやりたいだけの捻くれ者であって、そういう質問をする時点で、心底では人殺しは面倒な物であり、やりたくもない、という感情が存在するのだ。そして、それを無意識で理解しつつ、『人とは違うことを考える俺ってかっこいい』という自己陶酔に浸る。まぁ、大人からしたらいい迷惑だ。

 逆に、異常者と呼ばれている者はそんな質問をしない。なぜなら、人殺しは法律で禁じられており、殺したら罰せられると理解しているからだ。捻くれ者のように、『じゃあ、法律で禁じられてなかったら殺してもいいの?』なんて無駄な質問はしない。そんな仮定に意味などない。禁じられているものは、禁じられているものとして納得する。

 そして、いざ、殺す必要がある段階になったらあっさりと殺すのだ。何の感慨も無く、必要性があるからと言って、殺すのだ。なぜなら、そうしなければならない理由があるのだから。

 自己陶酔などしない。なぜなら、それは異常ではないから。殺人鬼と呼ばれる殺人を趣味とする者でもなければ、外れた異常者は必要のある殺しを躊躇わない。

 そんな者は居ないと思うだろうか? いや、居るのだ。環境や時代が変われば、割とあっさりと。平和な世界で教育された者でなければわりと。その異常者の名前は、ちゃんと教科書にも載っている。

 そう、歴史に名を残す英雄(異常者)として。

 前例があるのならば、その子孫にもそういう異常者の例が出てもおかしくない。そういう血筋に生まれついた物なら尚更だ。

 例えば――――猫憑きの分家に生まれてしまった少女など。

 

 

●●●

 

 

 シロが蔵森家にやってから一年が経った頃である。

 鈴音はアニマルセラピーのおかげか、あるいは、一つの場所に長く留まったおかげか、その枯れた性格を多少なりとも矯正していた。

 恋愛とか、そういう物には興味は無かったが、飼い猫の話題で偶然意気投合した友達が数人ほど居たり、愛想笑いを覚えるくらいには、社交的になったのだ。当初、娘の枯れ具合に心配していた両親も、この頃やっと胸を撫で下ろした。

 全てが、順調だった。

 最初は理不尽な痛みに苦労させられた鈴音だったが、シロを飼い始めてから少しずつ、生活が良い方向へと向かって行っているような気持だった。事実、鈴音に友達もできたし、家族内の雰囲気は明るい物へと変わっていったのだから、本当に何かあったのかもしれない。

 ただ、どうにも鈴音という少女は生まれながらにしてそういう縁……あるいは『運命』を持っているのか、理不尽な出来事に人生を左右される傾向にあるらしい。

 そういう理由でもなければ、鈴音は自身の不幸と不吉に納得できないだろう。

 ある日突然、平和な家庭に殺人鬼がやってくるなんて。

『××県、△町で起きた連続児童殺人事件ですが――――』

 鈴音にとって、その日はいつも通りの変わらない休日だった。

 いつも通り、朝の報道番組は物騒な事件や、政治家の失言などを流していて、それらに興味のない鈴音は、毎週見ている仮面ライダーへと番組を変えた。

 仮面ライダーを視る鈴音の隣には、ふてぶてしい顔をしたシロが座っている。シロは賢い猫だったが、飼い主である鈴音がテレビや読書に夢中になると、そっと寄り添うように隣に座るという習性があった。猫は飼い主が集中している時に限って甘えたがる傾向にあるというが、どうやらそれはシロも同じだったようだ。

「お母さん、ちょっと買い物に行ってくるから。知らない人が来ても、玄関のカギを開けちゃいけないわよ」

「わかっているって。お母さん、私もう中学二年生だよ?」

 母親はうっかり食材を買い忘れていたので、スーパーへと買い物へ出かけた。父親は休日出勤だった。青い顔をしていたが、転勤族をやっていたほどではないと笑っていたのを鈴音は覚えていた。だから、ほんの僅かな間、鈴音は家で一人きりの留守番……正確にはシロが居るのだが、そういうことになった。

 この時、不運だったのは鈴音の父親が気合いを入れて、アパートではなく平屋の一戸建てを購入したことだろうか。長い転勤族生活で、コツコツためた貯金をつぎ込んで、この土地に永住するつもりで購入したらしい。購入したこと自体は何も悪くなく、むしろ家族サービスに努める父親としては素晴らしいと賞賛すべきことなのだろう。なにせ、新築の住居を買う時に、誰もそんな心配なんてしないからだ。

 殺人鬼が、工具で窓を壊して侵入してくるなんて。

「いひひひひひひひひひひひひひっひひひひひひひ」

 狂った笑い声だった。

 それが、ガラスの割れる音と共に、鈴音の元へと這い寄ってきた。その時、不幸中の幸いだったのが、鈴音は仮面ライダーを視終えた後で、テレビへの集中を拡散させていた時だったのだから。

「いひひひひ、きゃはっ♪」

 殺人鬼は灰色のコートを、頭からすっぽりと、フードも被って着用していた。その手元には、どこで購入したのか、子供ぐらいだったら腕も切り落とせそうなほどの大型ナイフ。加えて、何か電動ドリルのような物を携えていた。

 大胆な侵入に加えて、甲高い殺人鬼の奇声。

 すぐに、隣の住民は異常に気付いたという。もちろん、警察に通報もした。けれど、自らの身を危険に晒してまで、鈴音を助けに行こうとは思わなかったようだ。

 結果、数分間の悲劇が生まれることになる。

「いひひひっ、おーじょーさーん!」

 殺人鬼はまず、ドリルを乱暴に捨てて、恐怖に固まる鈴音の髪を掴んだ。当時の鈴音はまだ女の子らしく髪も長かったので、髪を乱暴に掴まれては逃げられなかったのだ。

「くーらーもーり、さんっ? 君もクラモリなのかなっ?」

 怯える鈴音の表情を覗き込むように、殺人鬼は甲高い声で呼びかける。

 高身長の上、全身をコートで隠していたので、当時の鈴音にはわからなかったことだが、その殺人者は女性だった。女性だったが、怯える鈴音にとってはそんなものはどうでもよかった。

 それよりも、目が、怖かった。人間の目じゃなかったのである。文字通り、の意味で。

 確かに狂気に染まっていた。

 おかしな発言もしていた。

 だからといって…………人間の瞳が、猫の如く鋭く、満ち欠けする月の如く絞られていていい訳が無い。フードから零れる長い黒髪に対して、化物のように赤い目をしているということは、有り得ない。

 化物だ。

 鈴音は、その殺人鬼をまるで先ほどまで視ていた仮面ライダーに出てくる、怪人のように思った。

「いーなぁ! いーなぁ! 分家の君はぁ! 私はこうなっちゃったのになぁ! ずるいよ、不公平だぁ! だーかーらーさぁ! きぃーみぃーもぉー」

 間延びした声で殺人鬼が鈴音に語り掛けようとしたとき、シロがその顔に襲い掛かり、爪を立てた。鳴き声すら無く、静かに、狩猟動物としての本能を駆動させて。

「がぁ!? こいつ!」

 シロは暴れる殺人鬼の顔面にしがみ付き、爪を立て、離れない。その真っ白な体をナイフで切られ、赤く染められたとしても。

「…………ぁあ!!」

 鈴音は震える足に喝を入れて、その場から駆け出した。

 逃げたのでない。このままでは、あの化物にシロが殺されると鈴音は直感していた。そのために必要なことは、本能で理解していた。

「ったく、このゴミが! ゴミが! ゴミが! 畜生の分際で! 分際でぇええええ!!」

 だから、それを携えて鈴音が戻った時…………シロを襤褸切れのように蹴飛ばし、ナイフでめった刺しにする光景を見てしまった時、躊躇いは無かった。

 やり方は漫画で読んでいた。確か、腕じゃなくて、腰で構えて突進していくのがいいらしい。

「――あっ?」

 どっ、と殺人鬼の脇腹に軽い衝撃が奔った。

 そこには、大きな肉包丁が一本。内臓に突き刺さるほど深く、刺さっていた。涙を流し、唇から血が流れるほど怒りを噛みしめていた鈴音が、殺人鬼に包丁を刺していた。

「おまっ、おまっ、おまえぇえええええええ!?」

 ナイフを持っていない手で、力任せに殺人鬼は鈴音を殴り飛ばす。けれど、刺さった包丁はもはや、持ち手が居なくとも落ちないほどに深く刺さっている。致命傷だ。

「あぁああああああっ! ころ、ころ、殺してやる! いひひいひひぃ!」

 致命傷だが、即死では無かった。

 だから、最後に殺人鬼は鈴音を道連れにしようとナイフを振りかぶった。既に痛みすらない。興奮と死の間際で、殺人鬼の体は消えかけの蝋燭の如く、獰猛に動いている。

 殺人鬼がナイフを振りかぶった時、鈴音の体感時間が加速された。俗に言う走馬灯という奴だ。脳が死を感知して、処理を早めて対抗策を探しているのだ。しかし、まだ成熟していない少女の体では、この危機に対応することなんて不可能で。ただ、襲い掛かる理不尽に対して、黒い憎悪の炎を燃やすだけで精いっぱいだった。

 そして、それで充分だった。

《なぁあああああああああああごぉ!!》

 吠え猛るような鳴き声。

 鈴音しか聞くことのできないそれは、異能発現の合図である。

「―――あ?」

 殺人鬼がナイフを振り下ろすより前に、白い影がその腕を食いちぎった。

《なぁああああああああ!!》

 怒り狂うようにして、もう一撃。首を裂く。指を食いちぎる。足を噛み千切る。肉をばらして、骨を砕く。

 白い影が嵐となって、殺人鬼の体を削っていく。

 僅か数秒の逆転劇にして、解体ショー。

 それを成した鈴音は、呆然と目の前に散らばる肉片を呆然と……否、その肉片の隣に居る、既にボロボロになって死んだはずの飼い猫の死体を眺めて。

ゆっくりと、歩み寄った。

 ぐちゃり、ぐちゃりと、殺人鬼の死体を踏みつぶして。

「…………シロ」

 愛おし気にその死体を抱きしめ、泣いた。

 これが、蔵森鈴音の最初の殺人だった。

 

 

●●●

 

 

「これが、私がやった異常なことです。あれ以来、私の中にはずっとシロが居ます。そして、私の感情が荒立つと、まるでシロが私の感情を晴らすように、相手に『不幸』を起こすようなんです…………」

 鈴音は最初、殺人の告白をするつもりは無かった。

 けれど、森近が真摯な表情で適度に相槌を打ってくれるので、つい、という言い方ではおかしいが、胸の中にわだかまっていた物を吐き出してしまったのである。元々、決壊寸前だったところもあったのだろう。鈴音の告白は、ある意味、自然の結果だったのかもしれない。

「ふむ、そうだな」

 森近は鈴音の告白を聞き終えると、しばらく目を瞑り、瞑想するかのように沈黙した。

 そして、一言、ぽつりと呟く。

「大丈夫だな」

「え?」

 思わず聞き返す鈴音。そんな鈴音に、森近は笑顔を作って、今度は聞き取りやすいように、柔らかい口調で告げた。

「君は大丈夫だよ、鈴音ちゃん。異能発現してから今まで二年ほどかな? その間、ずっと自分の負の感情を律して、自動発動していた異能を抑え込めていたんだ。だから、少しだけ訓練と補助具みたいなものがあれば、もう暴発する心配はなくなるから」

「本当、ですか?」

「あははは、大丈夫、俺はめったに嘘はつかないぜ?」

 へらり、と笑う姿は、知らない物からすればただの近所の気の良い兄ちゃんの笑顔に過ぎない。しかし、鈴音の異常性を聞いた後で、そういう笑顔ができる者は、少ない。特に、鈴音が今まで暮らしていた日常では。

「それより、何だかんだで立ち話させちゃって悪かったなぁ。ちょっとお茶でも……って、もう日も沈んできたか。梅子さん、悪いけど鈴音ちゃんの自転車ごと自宅に送って行ってくれないかな? 詳しい話や、対策はまた後日ということで」

「了解しました」

 恭しく頭を下げる梅子。

「この坂を上ってくるのは辛かったでしょう? 梅子様。今度から、私が学校まで迎えに行きましょう。こちらが私の携帯番号になるのでいつでもお呼びくださいませ」

「え、でも、自転車もあるし……」

「問題ありません。私の相棒は軽トラですので」

「軽トラ!?」

 物事のメリハリはついているらしく、こういう時はまさしくメイドの鏡のような対応をする梅子だった。もっとも、メイドと軽トラという組み合わせなアンバランスこの上ない物だったのだけれど。

「鈴音様」

「あ、はい。なな、なんですか? 梅子さん」

 帰り道。

 軽トラの運転中、梅子は無表情のまま、鈴音に話しかけた。

「森近様は多少頼りなさそうなところはありますが、鈴音さんの件については間違いなく任せておいて大丈夫ですよ。なにせ、森近様はそういう方面での鬼才であり、なにより……」

 そして、無表情を僅かに崩して、誇らしげに微笑む。

「馬鹿がつくほどのお人よしですから」

 その微笑みにつられて、鈴音もつい笑ってしまった。

 安堵と納得と、小さく芽吹いた暖かな何かを感じながら。

 

 

●●●

 

 

 梅子が鈴音を送っていったすぐ後の事である。

「うがぁあああああああっ!! どーするよ、俺!? どーすんだよ、俺ェ!? かなりの厄ネタと難題を、あっさり引き受けちゃってさぁ!?」

 森近はうめき声を上げながら、地面をごろごろと転がっていた。先ほどまでの、理解ある格好いい大人の姿とはまるで別人である。

「蔵森ってあれだろ? 元々は蔵守……こっちの世界じゃ有名な憑き物筋の家系じゃねーか! しかも、神秘の歴史は水守と比肩するほどだし……加えて、鈴音ちゃんは先祖返りの上、魔眼が複合されているしぃ!」

 猫憑きや、犬神、あるいは狐憑きといった憑き物筋の家系は、代々、恐れと畏れ、そして、蔑視を受けてきた存在である。それは元々、『あの家はどうしてあんなに繁盛しているのか?』という妬みや、嫉妬というネガティブな感情からくる、『出る釘は打たれる』という集団心理の産物でもある。あの家は猫が憑いてるから、ずるいことをしているから豊かなのだと。

 だが、たまにあるのだ、本物が。

 いまだにそういう風習を残している家の中に、魔術の世界に食い込むほどの神秘を保存している家系が存在する。蔵守という家もその内の一つ。蔵を守る……つまり、鼠という存在を駆逐する狩人として、猫を憑ける者。そういう意味合いで、その名を貫いているのだ。

 対応する魔術体系は呪術。魔術協会の中でも専門とする者は少なく、その詳しい原理や手順が秘匿されている物だ。中には、対魔力を込めた礼装すらもすり抜けて、呪殺するという強力な秘法も存在するのだとか。

 その中でも、鈴音の異能は特に異端だった。

 音は変えずに、森の中に隠すように分家となった蔵森。その家系の中で、どこで魔眼を持つ者と血が混じったのかは誰も知らない。けれど、よりにもよって鈴音はその者と、猫憑きとしての異能が混じって顕現してしまったのである。

 それによって生まれたのは、一工程による呪術行使。

 見るだけで対象に呪いを与え、不幸という因果改ざんも、超能力の如き別法則で生み出される物理攻撃も、行使者の意思によって選択可能な魔眼。

 間違いなく、ノウブルカラーに属する魔眼である。

「いやぁあああああっ! この情報が流出したら、どれだけの魔術師どもがサンプル確保に来るか……あぁ、もう! コネを最大限に使ってもしもの時に備えないとぉ! 俺も本意じゃないけど、自己防衛以上の魔術開発もしないといけないだろうし……そんなもんしてたら、あっという間に金が、資金が尽きてしまう……」

 頭を抱えながら、苦悶の表情を浮かべて奇天烈な動きをする森近。

 セカンドオーナーとして、無粋な侵入者は排除しなければならない。

 一人の大人として、苦しむ女子高生の悩みを解消してやらなければならない。

 両方やらなければならない所が辛いところだが、それでも成せなければ、陰惨な悲劇がこの街で生まれてしまうだけだ。

 そんなもの、森近は認めない。

「…………ふぅ、散々弱音を吐いたら少し落ち着いたぜ」

 ゆっくりと、森近は立ち上がった。

「………………」

 じぃ、と既に日が暮れた後の空を、紫がかった暗い空を眺めて思考を開始する。

 別に高速で思考するわけではない。並列に思考できるわけでもない。ただ、森近は飛ばすことが出来るだけだ。己の才覚で、鬼才と評されるその思考回路で、文字通り常識的な思考過程を飛ばして結論に辿り着くことだけ。しかし、それで充分である。

 そして、静かに森近は思考結果を呟いた。

「うん、できるな。んじゃ、やろうか」

 思考結果は実現可能。

 であるならば、やらない理由は無いと、当たり前に呟いて行動をする。それがどれだけ傲慢な行為かも知らず。

 もっとも、例えその傲慢さを知ったところで森近は己の行動を自重するつもりはまったくないだろうが。

 それは、優越感からではなく、自尊心からでもなく、ただ『やらなければいけないことはやり通す』という意地と義務感からだろう。

 なぜなら、森近は魔術師である前に、ただのお人よしであるから。

 

 

●●●

 

 

 森近と出会ってからの鈴音の生活は一変した。

 そう、まるで運命のように、変わったのである。心持ちが変われば、ここまで変わるのか、という具合に、鈴音は明るくなった。

「スズちゃん! 一緒にダイビング部に入らないかな?」

 光とは嫉妬を交えず、鈴音は笑い合えるようになった。けれど、ダイビング部はちょっと勘弁して欲しいと思っているらしい。どうにも、鈴音は昔から水の中というのが苦手なのである。それこそ、猫のように。

「えと、それじゃ、一緒に海に行くのはどうかな? 夏ももうすぐ終わりだし」

 双葉とはよく気が合った。元々、性根というか、内気なところが似通っていたのか、共感するところが多く、よく本を貸し借りするような仲になった。海ぐらいだったら、水に浸からなければ大丈夫だろうと、その誘いに応じることにした.

「うん! それじゃ、ぴかりのおばあちゃん自慢のトン汁を楽しみにしているぜ!」

「存分に楽しみにしていてね! とっても美味しくて、私の好物なんだー」

「…………ちっちゃいころは、トン汁になりたいって言ってたらしいからねー」

「あぁ、わかるよ。幼稚園ぐらいの頃って摩訶不思議な思考回路を有しているよなぁ」

 光と双葉と鈴音。

 その三人は、同じクラスでよく一緒に居るような仲になった。少なくとも、放課後。光と双葉の部活が無い時は、一緒にどこかへ遊びに行こうかと話す程度には。

 クラスの中でも明るい光と、友達になったおかげか、はたまた、鈴音の性格が明るくなったおかげか、二人以外にも雑談ぐらいはするようなクラスメイトが、鈴音にも出来た。

 どこにでもあるような、馬鹿な話題で笑い合い。

 どこにでもいるような、クラスメイトの話に興味を示したり。

 まるで、鈴音は普通の女子高生のようだった。

 そんな彼女の右手首には、鈴のアクセサリーが付いたブレスレットがある。まるで、猫の首輪のようなそれは、森近から貰った『必要な時だけ鳴る』鈴というアイテムだった。

「それはいわば、鼠が猫の首輪に付けるような対処療法的な物だ。直接異能の発動を抑止するわけではなく、異能が発動しようとするとき、その前段階。君が誰かに悪感情を抱いた時だけ、鳴るようにしている。鈴の音事態に特別な効果は無いが、まぁ、本当にそこまで悪感情を抱くべきことなのか? とワンクッション置くぐらいはできるだろうさ」

 諌める鈴。

 本当にそんな感情を抱くことなのかと、もう一度考え直させてくれる鈴の音。

 これは、思いの他、鈴音の心によく響いた。二十四時間、いつでも付けているわけにはいかないけれど、森近の手回しで授業中以外は学校でも付けても良しということになったそれは、最初のころは良く鳴っていたものの、今ではそんなに鳴らなくなった。

 もちろん、イラッとすることもあり、あいつはちょっとお仕置きした方がいいんじゃないか? という時は、鈴音はこっそりと相手の足の小指がどこかの角にぶつかる程度の異能行使は行うが、自分勝手な嫉妬や、怒りなどでは異能を使うことは無くなった。そういう、自分で悪感情に区切りを付け、異能を『使わない』という選択を得ることが出来るようになったのである。

 鈴のブレスレットを付けてから、わずか二週間でこの効果! ということなので、自分はなんて素晴らしい物を貰ったのだろうと、喜んで森近にお礼を言った鈴音だったが、

「いや、それは普通に鈴音ちゃんの努力だね。ほら、うちに来て色々異能の練習とか、瞑想とかしているじゃん? それらを真面目にやった君の成果だよ、誇りなさい」

 そんな風に褒められてしまった。

 確かに、そういう練習は週に三回ほど、梅子に送迎されて鈴音は森近の屋敷でよくやっていた。けれど、頑張れたのは森近が優しく指南してくれたおかげだった。

 いつもは誰の言葉も、声も、ささくれだった鈴音の精神をかき乱すだけだったのが、森近の声は不思議と、そういう反感や苛立ちを起こさないのである。

 だから、そんな声で褒められれば鈴音は嬉しかったし……森近を『特別な誰か』と想うのには、早々時間が掛からなかった。

「…………喜んでくれるかなぁ? 森近さん」

 休日。

 珍しくスカートを履いて、光と双葉に相談してもらいながら服を一緒に選んでもらって。鈴音は精一杯の可愛らしさを演出しつつ、自宅から森近の屋敷への道を歩いていた。

 その手には可愛らしい猫のキャラクターがふてぶてしく眠っている模様がある、小さめのポシェットが。そして、ポシェットの中には、午前中全てを使って選んだ森近へのプレゼントが。

「大丈夫かな? 大丈夫だよね?」

 何度も、何度も、不安げにポシェットの中を確認する鈴音。

 そのポシェットの中には、梅子にこっそり森近の好みを尋ねたり、それを元に友達に相談したプレゼントが入っているのだ。可愛らしくラッピングされた紙袋の中に入っているのは、銀のネックレスだ。小さな猫のアクセサリーが吊り下げられた、なかなかおしゃれ度が高そうな銀のネックレス。お値段それなりで、高校生のお小遣いでも無理なく買える程度の代物。けれど、露店でチャラい……けれど、意外と真面目な性格をした人から買った一点もの。

『そうですね……森近様は意外と猫が好きですよ。後、ケバフとか、ラノベとか、地味にアクセサリーとかも集めていますね。以前、旅をされていたので、記念に小物を買っていたらコレクションするのが趣味になったようです』

 鈴音は梅子の言葉を思い出し、よし、大丈夫だ、とガッツポーズと小さく作る。

 猫に、小物に、アクセサリー、完璧である。あぁいや、でも、残る物じゃなくて、消え物を選んだ方がよかったんじゃないか? でも、自分で選んでネックレスを身に着けてくれたなら、凄く嬉しくて、幸せだ。

「うにゃぁ……」

 悶々と乙女らしい妄想やらで頬を染めながら、身をくねらせる鈴音。

 以前の鈴音が見たら、恐らく、恥ずかしすぎて発狂するような有様だろう。しかし、現在の鈴音はこれでいいと思っている。ずっと俯いて、過去を引きずって。自分で自分を苦しめているよりは、恥ずかしくても、笑われても、この方がずっと――――

 

「あははははっ! 随分と女の子になりましたねぇ、蔵森鈴音さん?」

 

 しかし、鈴音は忘れていたのだ。

 いつだって、鈴音が幸せになろうとすれば、理不尽は笑みを湛えてやってきて、痛みを与えて幸せを奪い取るのだと。

 それが鈴音の宿命なのだと。

「人殺しが幸せになれるとでも?」

 不快な声だった。

 黒板を獣が爪で引っ掻いたような、そんな、耳障りな甲高い声。

「ちゃんちゃら――――おかしいですねぇ」

 鈴音が声の主を振り返ると、そこには学生服の少年――否、性別不明の中肉中背な人間が居た。学生服を着こんでは居る者の、髪は肩にかかるほど長く、その色は焼け尽きたような灰色だ。細目で、狐を連想させる目つきと、にたにたと歪んだ口元。

 なにより、学生服の外れた第一ボタンの奥から覗く、醜い喉の火傷跡。

 一目見て、異常者とわかる風貌だった。

「誰だよ、お前」

「申し遅れましたぁ、私は……そうですね、キツネとお呼びください。あぁ、別に貴方と同じ憑き物筋というわけではなくて、ただのあだ名ですよ、あだ名」

「…………」

 学生服の奇人――キツネは歪な笑い声を漏らす。恐らく、喉の火傷跡から見るに、何かの事故でまともな声を失ったのだろうが……鈴音は同情や憐憫よりもまず、警戒が先に来た。

 なぜなら、先ほどからずっと…………この通りに人がやってこない。

 キツネと鈴音以外、人が居ない。

「あぁ? 気づきました? これねぇ、人払いの結界なんですよぅ。うちの組織に所属する便利屋さんが張ってくれましてねぇ。でも、セカンドオーナーに感知されるから、早く用事を済まさないといけないわけでして」

「…………何の用だ?」

「あはははっ、そうそう、鈴音さんに用がありまして。大切な、大切な用事なんですよ」

 警戒心剥き出しの鈴音に、キツネは特に警戒を払うことも無く、手を差し伸べた。

「お仲間になりません? 私はですね、私や貴方みたいな異常者が集まった組織のスカウト役なんですよー。こつこつね、足で回って、こうやって訪ねて回っているんです」

「…………」

 じり、と後ずさる鈴音。

 そんな鈴音を眺めて、にこりとキツネは笑う。

「あぁ、大丈夫。そんな、無理やり拉致をするような真似はしませんよ、ええ。だってほら、大抵はね――――家族や友人がちょっと不幸なことになると、進んでお仲間になってくれるのですよぅ」

 その言葉で、笑みで、鈴音は確信した。

 こいつは間違いなく敵対者であり、一欠けらも心を許すことはできない異常者なのだと。

「知っているかよ、お前。こういう言葉があるんだ」

「ほう、なんでしょうか?」

 にたにたと笑いながら尋ねるキツネに、鈴音は敵意と覚悟を以て答えた。

「一人殺したら、二人も三人も同じだってな!」

「なるほど、それは素晴らしい」

 鈴音が吼えるように啖呵を切り、それをキツネが受け入れる。

 こうして、平和な町の昼間に、異能バトルが始まった。

 

 

●●●

 

 

 蔵森鈴音は異能者である。

 最近は訓練を経て、いくらか己の異能について学んで制御できるようになったのだが、それでも、元はただの女子高生である。

 故に、生粋の戦闘者ではない。いくら強力な魔眼を持とうが、それを扱う物に戦闘の才能が無ければ、戦闘を専門とする者にとっては手玉に取ることも容易い。

「おらぁっ!!」

「おぶっ!?」

 そう思って油断と慢心をしていたら、思いっきり腹部をブーツのつま先で蹴り上げられたキツネだった。鋭い踏み込みで、瞬く間に蹴りが決まっていたという。

「うらぁっ! しゃ! 死ね! 死ね! 死ね!」

「ちょ、やめ、くそ、この……」

 腹を抱えて背中を丸くするキツネに、容赦なく鈴音は蹴りを加え続ける。これでこいつが死んでも構わない、という躊躇いのない蹴りだった。筋力こそ、普通の女子高生だから少ない物の、人間の力で躊躇いなく体の柔らかいところを的確に蹴りこまれてはいくら素人の蹴りとはいえ、キツネでも難儀しているようである。

「やめ、この…………焼けろ!」

「ぎにゃっ!?」

 じゅう、と肉の焼ける音と痛みを感じて、鈴音はキツネから距離を取った。見ると、ブーツの上から、太ももにかけてが赤く腫れている。

「油断…………しましたねぇ。まさか、こんなに乱暴な方だとは」

 よろめきながら立ち上がるキツネ。その鋭く絞られた目は、赤く輝いていた。鈴音と同じく、魔眼の所有者であるという証だ。

「くそ、こっちもだ。一撃喰らわせた後、首を搔っ切ってやればよかった」

「怖い怖い、実際に実現可能だった人が言うと、背筋が凍えますよぅ」

 にやにやと笑うキツネの表情にはまだ、余裕があるが、油断は無い。一方、足の痛みに顔を顰めながらも、鈴音はキツネから視線を外さない。

 キツネが所有するのは、燃焼の魔眼だ。見るだけで、対象を焼く魔眼。炎焼ほどに、火力が高いわけでもなく、ノウブルカラーに近しいとはいえ、火力不足が否めない。それでも、人間の顔などを焼き、視線を込め続ければ内臓を燃やすことも可能である。だが、鈴音を殺してしまっては本末転倒だ。できれば、気絶ぐらいで確保したいと考えている。

 対して、鈴音は、

「おいで、シロ」

《なぁーご》

 一片の容赦も無く、異能を発動させ、キツネの脇腹を穿った。

「がぁっ!?」

 ちりん、と鈴が鳴る。ちりん、ちりん、と鈴音を諌め続けるが、鈴音の胸の内に宿った憎悪の炎は消えない。相手が悲鳴を上げようが、戦闘不可能だろうが、関係ない。

 痛みを与えようとする理不尽には、力で対抗すべきだから。

「掻き毟れ」

 容赦ない追撃。

 白い影が、かつての殺人と同じようにキツネの体を削る。最初に狙ったのは眼球、そこを潰せば、異能者同士の戦いではもう鈴音が買ったも同然だ。それを本能で分かっていたのか、しつこく顔面や急所を狙っているのだが、キツネも魔眼相手の戦闘経験から、急所で隠したり、何か障害物を使って鈴音の視界から逃したりなど、紙一重で避けている。

「…………これは、やばいですね。深刻に――――正当防衛をしなければ」

 既にキツネは腹に致命傷ではないが、重症に近い攻撃を受けていた。故に、鈴音という人材は惜しいが、殺すことを決意する。既にこれは、殺さなければ死ぬ戦いだ。

「――焼けろ」

 鈴音の顔面へと燃焼の異能を行使するキツネ。

「っつあ! あちぃ! くそが!」

「――ちぃ!? そう来ますか!」

 だが、鈴音は既に学んでいた。

 キツネの燃焼の異能が、視線に乗せる者であり、視線を通さなければ無意味だということを。魔眼相手に致命傷を防ぐには、視線を遮ることが有効であると。

 結果、両腕で交差するようにして疾走することにより、鈴音は眼球や急所を燃焼範囲から外した。顔面の激痛は奥歯を食いしばり耐え、むしろそれを憎悪の原動力として、一歩、鋭く踏み込む。

「あぁっ! 焼けろ! 焼けろ! 焼けろぉ!!」

 もはや余裕がなくなってきたのか、異能を連続で発動させようとするキツネ。けれど、それを呼んでいたかのように、鈴音は肩に掛けていたポシェットをキツネの眼前に放り投げた。ポシェットによって視線は区切られ、燃焼が届くのはその可愛らしいポシェットまで。

 友達に選んでもらった可愛らしいポシェットと、大切なプレゼント。

 それを犠牲にして、さらなる憎悪の糧として、鈴音は異能を行使する。

「掻き毟れェ――――」

「駄目だ! 鈴音ちゃん!!」

 キツネの命が繋がったのは、奇跡に近い。

 人払いの結界を探知し、やりかけていた研究もその場で放り出して、自らのメイドに、自分を抱えて全力疾走しろと命じなければ、間に合わなかっただろう。

 もっとも、その掻き毟られて、柘榴のように肉が露出した手足がまともに動くには、かなりの時間が必要になるが。

「…………森近、さん?」

「ぜぃ、ぜぇ……大丈夫、落ち着いて。落ち着くんだ、鈴音ちゃん。君が、殺すことは無い。そんな不快なことは、子供がやるもんじゃない」

 目を見開き、戸惑う鈴音に、森近は出来るだけ優しく声を掛ける。

 しかし、人間、焦りと全力疾走をした後にいつも通りの挙動ができるのは凄腕の役者ぐらいで。結果、息も絶え絶えで、青い顔をした森近は――――勘違いされてしまった。

 鈴音を恐れているのだと、鈴音に勘違いされてしまったのである。

「あ、アァ――――」

 そして、異能は暴走した。

 か細い悲鳴を上げ、鈴音は己の憎悪と衝動に飲み込まれてしまったのである。

 白い影は、不規則に暴風の如く荒れ回り、あたりを掻き毟る。硝子だろうが、アスファルトだろうが、木の幹だろうが、掻き毟り、削る。

「…………ぐ、まずいな」

 過度の異能行使に鈴音の肉体が耐え切れず、その両目からは血の涙が流れ始めていた。早くしなければ、失明の危険性……いや、精神が反転して、異能をばら撒くだけの化物になる可能性すらある。

「森近様、ここは私が」

 故に、背後に控えていた梅子が森近の前に出る。不死という幻想を備え、当て身によって、意識を失わせることが出来る梅子は、確保には最適の人材だろう。

「いや、ここは俺が行くよ」

 だが、森近はその申し出を断り、自ら荒れ狂う不可視の暴風へと進んで行った。

「本人の意思に関係なく強制終了させると、どんなバグが起こるか分からない。それにさ、俺は大人だからさ」

 ゆっくりと、けれど確かな足取りで森近は前に進む。

「子供の後始末ぐらいは、しないとね」

「…………やれ、乙女心が分かっていないというか、なんというか。はぁ、とりあえず、森近様。死んだら殺しますので、ご注意を」

「はいはい、任せておいてよっと」

 へらりと、いつも通りの笑みで森近は応えた。

「あぁ、あぁあああああ!」

 悲鳴と共に破壊の風が万象を穿つ。当然、森近も例外ではない。足の肉を、腕の肉を、腹の肉を、魔獣に掻き毟られたように怪我を負う。

 それでも、森近は歩みを止めない。

 身に着けた礼装では、鈴音の異能を防げないと知っていても、それでも、前へ。

「鈴音ちゃん」

 ついに鈴音の眼前へと迫った森近。

 ちりん、ちりんと響く鈴の音に、掻き毟られる己の肉体の音が混じる。それでも、苦痛は慣れているので、笑顔で告げた。

「大丈夫だって」

 森近の右目が穿たれた。

 それでも、意地と根性で動じず、森近は鈴音の頭に優しく掌を乗せる。

 

「誰も君を嫌いになったりなんかしないさ」

 

 その温度と、声で、鈴音はやっと正気に戻った。

「あ……え? どう、して? 森近、さん? あ……め、目が……」

「はぁーい、落ち着いてー、鈴音ちゃん。感情を高ぶらせると、今度こそ、俺やばいからね。まぁ、でもこれくらいなら超余裕だからさ」

「だって、右目、右目が!」

「だから大丈夫だって。超余裕」

「血が、だらだらって!」

「大丈夫、大丈夫」

「足がふらふらしてる…………」

「ははは、ちょっとお酒を飲み過ぎてたんだよ。まぁ、そんなわけで」

 泣きじゃくる鈴音を、そっと抱き寄せて森近は、ぽんぽん、と優しく頭を撫でる。

「一緒に屋敷に帰ろうぜ、鈴音ちゃん」

「…………っ、は、はい」

 鈴音は罪悪感と悲壮感を抱きながらも、その優しさに身を委ねた。

 

 

●●●

 

 

 後日談。

 森近は超余裕と強がっていたが、もちろん余裕な訳は無く、しかし、魔術師として呑気に一般の病院に掛かっていいわけも無く、結局、自分で麻酔をかけながら応急処置を施し、梅子が呼んでくれた専門医に掛かることによって、何とか生き残ることが出来た森近だった。

 先祖代々の魔術刻印を継承しているのならともかく、どうにも素の魔術回路はさほど多くないらしく、わりと血液量がギリギリだったらしい。もちろん、そのことは、鈴音には秘密にしたようだが。

 鈴音を狙っていたキツネなる人物は、森近が治療を受けている間、きっちりと梅子が所属する組織と片を付けたらしい。なんでも、

「こっちに手を出したら全力で全滅させると脅して、一つ施設を壊滅させてやりました。馬鹿でなければ手を出してこないでしょう」

 と無表情で淡々に森近へと報告したようだ。

 メイドの怒りは恐ろしいのである。

 そんなこんなでごたごたが全部片付いた週の中ごろ。

「…………とと、さすがに平衡感覚が鈍るなぁ。わりと慣れてきたけど」

 右目を黒の眼帯で覆った森近は、椅子から立ち上がった瞬間、ぐらりとバランスを崩してしまうが、たたらを踏んで何とか耐えた。どうにも、この様子ではしばらく魔術研究は不可能なようで、森近はここ最近、ラノベを読んで暇を潰している。

 ちなみに今読んでいるのは、『俺の同級生がメイドになって大変すぎる』というまぁ、ドタバタ定番系ラブコメなのだが。これが中々掛け合いが面白く、特に一巻の終わりでメイドヒロインが主人公を暗殺しようとするところなど傑作だ、と森近は楽しんでいた。

「まぁ、そんな非現実的な事、有り得ないだろうけど」

 魔術の世界という非日常に属している森近にとってはあるまじき台詞である。加えて、幼い頃からメイドに世話をされてきたという経歴を持つ者も、現代日本では稀すぎるのだが、そこら辺、森近は棚に上げているようだ。

 けれど、森近はすぐに知ることになる。

 有り得ないなんてことは有り得ない、という名言を証明する出来事を。

「森近様、少し早いですが、お食事をお持ちしました」

「ん、入っていいよ、梅子さん」

 控えめなノックの音と共に、聞きなれた声が掛けられる。その声に、いつも通りに森近は返事をして、さて、今日の夕飯はなんだろうなと待っていたのだが、

「お、お待たせしました……」

「………………は?」

 目の前に起きた現象に脳が対処できず、ぽかんと、情けなく口を半開きにしてしまう。

 その現象とは、メイドだった。

 いつもの梅子ではない…………なんと、現役女子高生である蔵森鈴音がメイド服を着て、給仕をしていたのである。

「きょ、今日は私が作ったオムライスです……あの、梅子さんみたいに美味しくはまだ、できませんけど……」

「いえいえ、いまどきの女子高生にしては上出来ですよ、鈴音さん」

 おどおどと、お盆に乗せられたオムライスの皿を机に乗せる鈴音。その様子を眺めて、無表情ながらも、梅子は満足げに頷く。

「…………梅子さん? これはどういうことかな?」

「鈴音さんが何か森近様の手助けをしたいと言っていたので、メイドとして雇いました。放課後と休日限定の女子高生メイドです。元気が出たでしょう?」

「相変わらず梅子さんは発想が斜め上だなぁ、ちくしょう!」

 まさかラノベみたいなことが現実に起きるとは、と森近は呻く。しかも、森近は成人していて、鈴音はリアル女子高生だ。この組み合わせはレディースコミックだろうが、少年漫画だろうが、エロくなるイベント盛りだくさんの設定である。いや、残った片目に賭けて、森近は断じて未成年にそんなことをするつもりは無いが。

「……あの、私、ご迷惑だったでしょうか?」

「いやいやいや、ご迷惑なんてとんでもないというか、無理しなくても大丈夫だよ? ほら、友達と遊びたい年頃だろうし――――」

「いえ! 相談したら友達も『頑張って』って応援してくれました!」

「そうだね、あの二人だったらよく考えてそう言いそうだね……」

全力で友達の背中を押してあげる、二人の姿が目に浮かぶ森近だった。もっとも、その友達二人が心配なく応援できたのは、メイドとして給仕する対象が森近だったから、というのもあったのだろう。

 良くも悪くも信頼されている森近だった。

「あの、それとも、やっぱり、余計なお世話だったでしょうか?」

「う…………」

 鈴音は潤んだ瞳で森近をじぃ、と見つめる。しかも、睨むような目つきではなく、可愛らしい上目遣いだ。こっそり、梅子が鈴音に仕込んでいたらしい。

「あぁもう、わかったよ。その代わり、ちゃんとお給金とかは出すからね。受け取り拒否とかしないように!」

「はい! ありがとうございます、森近様!」

「様はやめようか」

 こうして鈴音は森近のメイドとして働くことになった。

 罪悪感と、期待と、嬉しさが複雑に渦巻く感情を胸に秘めて。

「それじゃ、よろしくね、鈴音ちゃん」

「はい、よろしくお願いします、森近さん!」

 差し出された森近の手をしっかりと握った。

 もう二度と大切な人を傷つけないようにと、理不尽に奪われないようにと、誓いと決意を込めて。

 その宿命と向かい合い、戦い抜くことを決めた。

 

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