次が長くなる伏線です、多分。
空に蒼。
風には潮の香。
手に赤。
響くは風鈴の音。
夏の終わり、僕は殺人を犯した。
●●●
萩原 藍(はぎはら あい)は殺人者だ。
罪を犯してから、二か月ほど警察に手から逃げ回った犯罪者である。
年は十六。元高校一年生。華奢な体つきに、子犬を連想させる童顔と茶色のショートヘア。身長は低く、驚くことに150センチメートルにも満たない。
服装はシャツと、チェックのスカートに黒いタイツ。
全体的にラフで、少しふるふわの入った可愛い系のファッションコーディネートだった。
そんな恰好をして逃げ回っている『元男子高校生の犯罪者』は、この広大な世界に置いても、現在は藍一人であろう。
そう、藍は犯罪者だ……だが、それ以前に男だ。名前の響きと中性的な見た目から勘違いされることも多いが、真っ当な男である。そして、殺人の罪を犯してからは、幼い頃からの趣味であった女装を用いて警察から逃げ回っていたのである。ちなみにさすがに髪はウィッグの予備から三日おきに、様々な髪型をローテーションして女装している。
馬鹿としか言えない所業だが、事実、その能力で警察から逃げ回っているのだから、結局、やれた者勝ちの現実なのかもしれない。
もっとも、
「うへへへへへ…………三途の川が見えるよママン……」
空腹で目を回して浜辺で倒れている藍の姿は到底、勝ち組には見えないだろうが。
はっきり言って、二か月間に及ぶ逃亡生活は、ちょっと女装好きの男子高校生にしてみれば無謀も良いところの所業だったのである。警察の手が及ぶ前に何とか新幹線や鈍行の電車を乗り継いで、自身でもどこへ向かっているか分からずふらふらと逃げ回る日々。野宿などしたことも無いので安いビジネスホテルで夜を凌ぎ、それでも数少ない持ち出した金を減らしながら生活し続けて。
その逃亡生活の果てに、藍はこの場所に辿り着いたのだ。
元々、藍には無理な話だったのだ。
想像してみて欲しい。例えば、明日、何らかの事情で殺人を犯したとするだろう。大抵の人間はまず、自首する。殺人という罪に耐え切れずに。残りの者は殺人自体を偽装したり、藍と同じように逃げ回る。だが、それも一時的な出来事だ。大抵、警察によって捉えられて、罪を司法によって裁かれる定めだ。罪から逃げ切れたものはごくわずか。加えて、よっぽどの悪人であり、人間的に破綻しなければ、逃げている最中も絶えず殺人という罪が逃亡者の人格を削っていく。
倫理的な問題もあるが、もっと根本的に、平和な日常とは殺人に向いてないのである。
ただでさえ、人間である本能が殺人を忌避しているのだ。加えて、平和な道徳によって育まれた人間が、殺人に耐えられるわけがない。異常者と呼ばれる数少ない人種を除いて。
そして、例に漏れず、藍も大多数の凡庸で平和な感性を持っている人間だったのである。
「…………あぁ、さざ波が…………海、綺麗だなぁ」
押しては引く波の連鎖が、薄れていく藍の精神を僅かながらに癒していく。
劣悪な生活と、殺人への罪悪感から削れた精神が、死に際に祝福でも与えられるかのように、回復した。藍という人間が、最後に安らかに逝けるように。
「はっ、くだらねぇ」
一瞬でも心中に浮かんだ馬鹿げた考えを、藍は一笑に伏す。
藍は己が望むままに殺人者になった。そのことに後悔はない。それだけは、どれだけ世界が藍を攻めようとも断言できる。
だが、それでも自分が逝くのなら地獄が相応しいと思っていた。
好きな女を守れなかった……否、己自身の手で殺した人間の行き着く先など、地獄以外のどこが相応しいのだろうか?
「あぁ、でも餓死は辛いから、もっと違う死に方でもすればよかった……」
元々、藍は別に自殺をするつもりではなかった。だが、夏も終わり、寒くなり始めた秋の初めの早朝に、海を見たいからといって浜辺で力いっぱい叫んだのがまずかった。限界近くだった空腹と、久しぶりに大声を出した所為で、貧血でその場に倒れてしまったのである。
俗に言う、お腹が空いて動けないよぅ、の状態だ。まさか、そんな事態に藍自身が陥るとは、幼い頃、孤独のマーチを聞いていた頃の藍は思いもしなかっただろう。
「あ、あの……大丈夫?」
「おおう?」
同時に、こんなタイミングで美少女に助けられるというイベントを体験するとも、思いもしていなかった。
●●●
藍を助けてくれた少女の名前は小日向光という。
この近くで海の家や、ダイビングのインストラクターをやっている家の娘である。太陽を連想させる溌剌とした元気な笑みが眩しい光は、空腹で倒れていた藍を見るなり、その場で抱えて「うぴょぴょー」と救助したのである。
元々、小柄であり体重も軽い方だったが、こうもあっさりと同年代の女子に背負われるのは情けないやら恥ずかしいやらの藍だったが、拒否できるだけの体力は残っていない。
「ふぅ、よかったぁ。昨日のトン汁が残っていて……はい、ゆっくりと食べてね」
「…………ありがとう」
海の家件ダイビング等の準備施設である建物に入れてもらい、そこで藍は熱々に温め直されたトン汁をご馳走になった。
「うわ、おいしい、なにこれ」
一啜り汁を啜った瞬間、芳醇なニンニクと味噌の香りが藍の空腹感を刺激した。先ほどまで軽く死のうとすら思っていた藍の精神が、完全に『食べる』ことにシフトされる。
「えへへへー、ばあちゃんの特製トン汁だからね! 私も大好物なんだっ!」
「いや、ほんとにこれは凄い。マジで神だ。うん、僕、今日からトン汁を崇めるわ」
はふはふと、熱々のトン汁を食欲に従って貪る藍。
とても、ネガティブ思考全開で死のうとしていた人間とは思えない行動である。だが、逆に言えば、温かく美味しい食べ物とは、それだけで人に生きる力を与える物なのだ。現に、藍はこのトン汁のおかげで命を救われている。
「うっまいわー、いや、マジでうまいわ…………ん?」
都合、遠慮なくおかわり三杯目までいったところで、藍はふと己の頬を伝う温かい感触に気付く。トン汁の汁でも跳ねたのか、と思いそれを拭うが、見るとそれは透明な液体だった。
「……汗?」
「うぴょ!? ど、どうしたの!? 七味がからかったの!?」
「…………いや、涙だ、これ」
あわあわと光が戸惑うが、当の本人である藍はけらけらと笑うだけ。
心では無く、体が安堵して勝手に涙が流れることもあるらしい。心は死にたがっていたとしても、体はまだ生きろと告げているのかもしれない。
「いや、あまりにもうますぎて涙がね……ご馳走様。これ、少ないけど代金」
「ええっ! そんな、受け取れないよ!」
「や、多分、元々は商品みたいなもんだろ、それ。なら、僕だけタダで飲むわけにはいかないね。だけど、君が僕を助けてくれてとてもうれしかった。その気持ちを忘れたくないから、だから、ちゃんと代金を払うんだ」
かっこいいことを言っているが、女装中に加えて、これが藍の残りの全財産である。
「でも…………」
戸惑う光の前で、藍は微笑んで立ち上がり、ガッツポーズをとって見せた。
「トン汁パワーで元気充電! それに大丈夫。君が思っているより、僕がここに居る理由はあほらしいよ。そうだな、海が見たくなってちょっと早起きしたら、持病の貧血でね。さすがに徹夜明けに浜辺で叫ぶのはまずかった……」
大体理由はあっているが、肝心部分が違っていた。
なぜなら、藍は光が思っている通り、尋常じゃない理由を抱えて生きているのだから。しかし、だからこそ、藍は光の己に関わらせてはならないと思った。
きっとそれは誰しもそう思うだろう。
この小日向光の笑顔を見れば、誰しも、彼女の笑顔を曇らせたくないと願ってしまう、そんな少女だったのだから。
「また会おうぜ、光ちゃん。今度は、僕から何かご馳走するよ……あぁ、そういえば、自己紹介を忘れていたな」
颯爽とスカートを翻し、藍は満面の微笑みを持って自己紹介とする。
「僕の名前は水魚 遊(みずうお ゆう)。どこにでもいる、きゃわいい女子高生さ」
本物の笑みを持って、偽りの自己紹介とした。
自分が殺した名前の少女を騙って。
己の性別さえも語って。
藍は笑顔のまま立ち去った。
●●●
「ええ、はい……ありがとうございます。では、こちらも気を付けますので。ええ、見つけましたら連絡はもちろんさせていただきます……はい、ではまた。今後はこういう物騒な話は抜きで、一緒にゴルフにでも行きましょう。え? 最近、嵌り過ぎて家族からの視線が冷たい? 生憎、僕は未婚の男子でして、そのそういったアドバイスは……とりあえず、奥方へのプレゼントでもメイドに用意させましょう、ええ……」
かちん、と森近は受話器を置いた。水守邸で使用されているのは、古めかしいアンティーク調の固定電話だが、魔術的な意味でも、機械的な意味でもこれが一番防犯に適した仕様になっている。
「ふぅ…………厄介なことになったなぁ」
電話を終えた森近は、ため息交じりに一人、呟く。
そして、ついいつもの癖で眼帯を撫でようと右目に手を伸ばすが……途中でやめた。なぜなら、そこにはもう黒皮の眼帯は無く、黒曜石の如き輝きを秘めた義眼が埋め込まれているのだから。
「こいつの出番が来なければいいんだけどな」
電話がかかってきたのは、森近と交流のある、とある土地のセカンドオーナーだった。
彼は森近よりは年上だが、比較的若く、二十代後半である。魔術師としては幼い頃からの英才教育を受けているので、あちらの方が大先輩なのだが、同世代としても、魔術師としても親しみやすい人柄の人物だった。特に、魔術師でありながら土地の住民を自身の財産と考え、住みよい街づくりを目指しているところなどは、大変森近は共感できた。
そんな彼から、森近は先ほど、とある警告を受けたのである。
曰く、強力な異能者が彼の街から殺人を犯して逃げ出し、水守の街に入った可能性があるのだと。
「世界一周していた頃より厄ネタに欠かさないとはさすが魔術の世界」
渇いた苦笑を、誰に見せるまでも無く強がって作った。
魔術の世界は狂気と妄執と血と汚泥に塗れている。例え、どれだけ平穏を保とうと、隠者のように暮らそうと、魔術師であるのなら、それは逃げられない宿命だ。
「森近さーん! ご飯ですよー! 今日は私の作った肉じゃがですよー! 今回はとても自信作なんですよ!」
そんな風に森近が思考に耽っていると、メイド姿の鈴音がパタパタと夕飯の知らせと共にやってきた。その髪はベリーショートからショートヘア程度にまで、具体的は肩にかかるほどまで伸びており、目元には赤い縁の眼鏡が。
「お、肉じゃがかぁ。いいねぇ、楽しみだ」
「えへへー、伊達に梅子さんから筋が良いとは言われてませよぅ!」
にこにこと笑みを浮かべながら照れる鈴音。
眼鏡をかけている所為か、普段の目つきの悪さは改善されていて、加えて、尻尾でもあればぶんぶんに振り回している状態なので、普通に可愛らしい女の子になっている。
「ちなみに戦闘技術関連については、もっと筋が良いって褒められてます」
「うん、ぶっちゃけ俺と戦ったら、俺が確実に負けるほど強くなったもんな、君」
「梅子さん曰く、森近さんの戦闘関連の才能がゴミクズなだけらしいですよ」
「…………純粋な目で言われると、心に来るなぁ」
もっとも、想い人であろうがずばずば物を言う根本的な性格は変わらないのだが。
だがしかし、そういう部分も愛嬌だと雇い主である森近が考えているので、基本的に問題は無い。
「むふふ! 森近さんは私が守ってあげますよ!」
「いやいや、さすがに年下の女の子に守られっぱなしだとね? こう、なけなしのプライドが」
鈴音と言葉を交わしながら、森近は誓いを確認する。
自分が助けたこの少女のためにも、何より、街に住まう者の笑顔のためにも、くたびれている暇など無いのだと。
せめて、この死と隣り合わせの日常を楽しんで見せようと、強がりでなく、笑った。