東方聖酒杯 〜The Lost Dreams of Her Ideals. 作:ハシブトガラス
欠席者は減っていなかったが、増えてもいなかった。体調不良者は、見る限り明らかに減っている。魔法陣への対策は間違っていなかったと胸を撫でおろしつつ、私は自販機で購入したペットボトルの紅茶を飲んでいた。
「……割と美味しいのが困りものよね」
「だなー、安物なのに。昔はパン食なんて贅沢だったんだぜ?」
隣に座るアーチャーは、小さな手と見合わぬ巨大なクリームパンに、目を輝かせながら被りついている。
今日の授業は、自習が多い以外には特に変化も無かった。ここは屋上、時間帯は昼休み。雪は適度に凍りついて、天然の椅子になっている。その上にダンボール――2Aの河城にとりが大量に持ちこんでいた――を敷いて、私達は優雅なランチタイムを過ごしていた。
とは言っても、この場で本当に食事が必要な存在は一人だけ。
「そんな時代も有ったのねー……今じゃ食パンの耳は倹約食よ。油で揚げると美味しいの」
「ご相伴にあずかりたいわ、私もこれで和食派でしたの……いやまあ、魔理沙程じゃないけどさ」
たった一人、真っ当な人間である霊夢は、コッペパンにジャムとマーガリンを付けて、もそもそと頬張っていた。あの組み合わせだと、確か73円という所だっただろうか。意外に中身が詰まっているパンなので、満腹とまではいかずとも、日中の行動力を賄うだけの栄養は有るだろう。
こうして屋上で、冬の弱い日差しを楽しみながら集まっているのは、一応真剣な話題の為だ。負傷したアーチャーが回復するまでの間、どう行動するかの方針は、昨夜定めてある。今日は、その具体的な行動の打ち合わせだ。
「ねえ、アリスとアーチャー。あんた達がどこかに陣取るとしたらさ、どの辺りを考える?」
「魔術師視点で、って事? なら……あそこかしら、命蓮寺」
「やっぱりそこ?」
霊夢の問いの趣旨は、『魔術師が迎撃の為の工房を作るなら、何処を拠点とするか』なんだろう。私ならばと考えて、数秒も思案せず出した答えは、彼女にも予想がついたものだった筈だ。
要は、魔力を効率的に回復でき、迎撃の為の術を仕掛けやすい土地が良いのだ。大量の墓が霊魂を集め、地下には巨大な霊脈も走る命蓮寺は、最高の拠点となるに違いない。
「じゃあ、命蓮寺は無視して良いわね」
「同感だぜ。あそこは無いな。少なくとも今は有り得ない……有り得るかも知れんが、その場合は気にしないで良い」
けれど、私達の総意としては、命蓮寺を本拠とする陣営は、存在していないだろうという確信が有った。
命蓮寺は、この学校に近すぎる。少々道に高低差など有るから遠く感じるが、実際は直線距離で200mも無いだろう。これはつまり、セイバー、アーチャー両名の感知範囲の内にあるという事だ。
彼女達の感知を擦りぬけられるのはアサシンだけ。アサシンのマスターは、どう見ても理知的な存在ではない。魔術師の心得も無いだろうし、サーヴァントも――不確定要素は多いが――霊脈を利用して、何か出来る類の英霊ではないだろう。
あの8つの魔法陣に対する所感を、後からアーチャーに聞いた。アーチャーが言うには、あれは土地の魔力より、生物の魔力を吸うのに適した術らしい。こう考えれば、命蓮寺を本拠とする理由は、アサシン陣営には無い筈だ。
それじゃあ、命蓮寺を陣地と〝したくない〟理由は? こちらは割とたくさん出てくる。
参拝者が多く、人の出入りが激しい。人の中に紛れて、招かざる客がやってくる可能性が高い。
塀も低く、壁も決して頑丈でなく、よほどの結界術者でなければ無防備も良い所だ。低地に有り、周囲の遮蔽物はせいぜいが民家程度。
何より、霊夢と私と二つの陣営が、200mの距離にある学校を拠点としている。それこそが最大の忌避すべき理由だろう。こちらの存在を知っているアサシン陣営、あの狂霊の陣営は、可能な限りこの学校に近付くまい。
「……とすると、やっぱり霊地よね。うちの神社に守矢神社、ここは当たり前だけど除外して……怪しいのは、冥界町?」
冥界町は、幻想郷の中でも、特に歴史の長い街並みだ。けれど、古き良き時代の建物は残っていない。数十階建ての高層ビルが立ち並ぶ、夜を知らず眠らぬ街、それが冥界町だ。
私も良く買い物の為に足を運ぶのだが、あの土地は魔力が濃い。怨念染みた暗さは無いのだが、かと言って手放しに明るいとも言えない、人の感情がこびりついた様な濃さが有る。
が――その中でも、霊夢が特に取り上げて言おうとしたのは、
「――白玉楼ね?」
片道三車線の舗装道路が生む騒音と、ビル風から離れる事、せいぜいが数百m。街並みの中心をくりぬいた様に、小さな山が有る。長い長い階段を上って行った先には、美しく水の澄んだ池と――主の居ない、広大な屋敷が有る。
それが、白玉楼。地元の名家、魂魄家が、週に二度の通いで管理する無人の建物。小学校の社会見学で、一度ばかり足を運んだ記憶が有るが――寒気がする程に空気が澄んでいて、そして震える程、美しい屋敷だった事を覚えている。
あの時は確か、春風の強い薄曇りの日だった。長い長い階段を、脚の痛みを覚えつつも上り切ったそこには、数え切れぬほどの桜の木が有った。今が盛りと己を誇る花弁が、風に巻き上げられ、散っていく最中だった。
「あれ、白玉楼が顕界にあるのか? どういう事だ?」
きょとん、という擬音がしっくり来る顔で、アーチャーが首を90度傾げる。
「え? いいえ、冥界町よ」
「ん? ここは顕界で――いや待て待てなんか分かったぞ、分かってる気がする、うん。いやぁ、時間の流れは怖いな」
両手をぶんぶんと振り、霊夢が訂正する声を遮って、アーチャーは自分一人で合点顔を作る。私には、彼女の言う事がまるで理解出来ていない。顕界なんて古臭い言葉を、なぜ町の名称と並べて用いるのか――いや、言葉の法則性は分かるのだが。
確かに冥界町という名称は、死後の世界を意味する『冥界』から来ているのだろう。だが、所詮は街の名前だ。生き物が現実に生きる、顕界の存在でしかない。それをアーチャーの言い草では――まるで白玉楼が、本当に死後の世界の建物だった様に聞こえるじゃないか。
「……まさか、ね」
不思議な事は幾らでも有る幻想郷だが、然し今は科学全盛の時代。魔術師である私としても、死後の世界と現実世界が繋がっていて、簡単に行き来できるなどという無茶は――信じられない事も無いが、頭に思い描けなかった。それだけだ。
「続けるわよ、良いわね? ……そうよ、白玉楼。あそこの霊気の濃さはハンッパ無いわ、こいつら魂喰いを飼うなら最高の餌場ね」
「あれ、そういうのは嫌いではなかったのかしらん?」
「もう死んでるなら変わらないわ、再利用よ再利用」
セイバーの指摘に眉一つ動かさない霊夢だが、その合理精神には賛同できる。生きている人間を殺して喰わせるなら抵抗は有るが、もう死んだ魂をどう使おうが、生者には関係の無い事だ。
……が、不安の残る事を言う。魂喰いに向いていると言うなら、つまり白玉楼とは、魔力の枯渇を回復する為の食事場だと思って良いのだろう。では、そこにあの黒の狂霊が陣取って居たら――?
「怖いわね、そこ。今夜にでも見てきてくれない?」
「自分で行きなさいって言いたい所だけど、あんたのアーチャーがあれだもんね……しゃあないわ」
まだ短い付き合いだが、霊夢と私には、似通った部分と対照的な部分とが有る。例えば合理性と道理を好み、大きな変革を望まない性質などは似通っているだろう。が、例えば何か問題が起こった時――まず考えてから立ち上がるのが私で、蹴っ飛ばしてから考えるのが霊夢な気がする。
基本的に彼女は悩まない。即断即決、分からなければ直ぐに他人の意見を聞き、そして採用するかどうかも即決。
「……改めて貴女とは、いいタッグになれそうね」
「な、何よいきなり、気味悪いわね……」
少し親しげに話してみたら、座ったまま、霊夢は後ずさりを始めた。何故だろうか、何故だろう。
あまり気にしない事にして、私は屋上を後にする。蓋を閉めれば持ち歩きも簡単、ペットボトルの利便性に改めて敬意を表しよう。
昼休みは割と長いので、打ち合わせに全ての時間を使う事もないだろう。
そう考えた私は、生徒会室付近の廊下へと向かっていた。少々、探し人も居たからだ。
だが然し、あそこは人がごっちゃりと集まる場所である上に、目的の人物は背が低く、恐らく直ぐには見つからないだろうという予測もある。
だから飽く迄、見つけて話せれば儲けものという程度の気構えだ。
「……で、誰を探すんだよアリス」
「後輩の子か、同級生の河童よ。ええと……ちゆりさん」
後ろをひな鳥の様について来るアーチャー――偽名、北白河ちゆり。まだ偶に、人前でアーチャーと呼び掛けそうになる。
背の低い彼女は、学生の群れに埋もれてしまいそうなものだが、無意味なバイタリティで動き回り、一人悪目立ちしていた。
「河童? 河童と言えば私にも知り合いが――って、……そう言えば隣のクラスに」
「そう、あれ。ねえちょっとにとりさん、良いかしら?」
「ひゅい? あれ、アリス――と、転校生! おー、何か用かな盟友?」
授業授業の合間に意気投合したのか、屋内でもリュックサックを背負って歩く奇妙な同級生は、アーチャーとハイタッチを交わした。
が、私に向いている視線は、どうにもよそよそしさが拭えていない。それもそうだ、殆ど会話した記憶の無い相手だった。
それ以外にも、私がどうにも人間でなさそうな気配が有る、それも理由となるのだろう。河童は人間と親しいが、それ以外の種族にはやや臆病だ――但し、数の優位が有れば話は別。
河城にとり、2Aの名物発明家、但し自称。おかしなものを作っては他人に披露し、そして発明品の無価値さを突きつけられるのが日課な奴だ。
「用ならあるぜ、ちょっとドライバー貸してくれ」
「良いとも良いともどれを使う? プラスマイナスポジドライブ、なんならトルクスドライバーも――」
リュックサックに手を伸ばし、両手に併せて15本――直径も様々なのだ――のドライバーを構えたにとり。
あまりに淀みない動きだったから、私も思わず拍手してしまったが――それを嗜める、静かな声が通り抜けた。
「解錠用具の持ち歩きは、褒められた事ではないわ。没収――はやりすぎかしらね、隠しておきなさい」
「ぶー、お固い事言うなよ盟友ー、いや会長ー!」
いつの間にか――本当に、いつの間にか、近くに居たらしい。私の視界の隙間から、彼女はにとりの手を抑え込んだ。
廊下のざわめきが収まったのは、きっと彼女の声を聞く為だ。何人かが床に座ったのは、後ろの連中に頭を押さえつけられたからだ。
銀色の髪はドライバーの金属部分よりも美しく、ハンカチの素材にしたくなる様なきめ細かさで、編んで痛むのが惜しい程。
何事も無く、ただ立つだけで絵になる、洗練された立ち居振る舞い――生まれついてのそれでは無く、厳しい自己鍛練を経た成果。
彼女こそは学園の華、支持率99%の生徒会長。
「こんにちは、咲夜。別に取り上げてもいいんじゃないのかしら」
「こんにちは、アリス。貴女は思ったより辛辣でいらっしゃるのね」
つんと澄まして礼儀正しく、十六夜咲夜は挨拶を返してくれた。
制服を優雅に着崩して、然し見苦しさは無い。埃さえ怯えて逃げ惑う程、彼女は清潔感に満ちている。
彼女に群がる生徒がいないのは、きっとその清潔さを汚したくない為なのだろうが――まあ、私には割とどうでも良い事だ。
中学の頃からの腐れ縁、今更距離も何も知った事じゃない。
「だって話が進まないんだもの、あの二人。私を置いて工具談義に熱中しそうな気配が有るし」
「工具ならば貸出手続きさえ踏んでくれれば、幾らでも技術室から貸し出すのですけれど。……いいわ。それよりも貴女、珍しいですわね」
両腕を組み、片脚に体重を掛けて壁に寄りかかる。たったそれだけの動作で、観衆から溜息が零れた。
劇の登場人物にされてしまった様な居心地の悪さを感じつつも、私はその横で、同じように壁に寄りかかる。
「珍しいって、何が?」
「誰かと一緒に居る事、人を探している事。かれこれ五年近く、貴女が誰かと連れ立っていた記憶は有りませんでしたのに……しかも転校生なんて。ちゆりさん、でしたかしら?」
「おう、昨日からここの生徒だぜ、よろしく!」
何やらにとりと白熱した議論――聞こえた中にはピンパイスなんて言葉が有った――を繰り広げていたアーチャーが、電気スイッチの様な切り替えの速さで答える。
咲夜は厳めしい表情を作り、きっかり両目を同じだけ細めてアーチャーを見た。
「ちゆりさん、前の学校はどんな所でした? ここより施設は充実していたのかしら」
「んん? 岡崎工業大学付属高校普通科、小さな教室一つだけだったぜ――何せ生徒が私だけだ。工学科の連中がいる校舎から1ブロック離れた所にあってさー」
アーチャーは、息をする様に嘘を付く。そういう名前の高校は確かにあるが、普通科は存在しない。
……が、きっと今からネットで調べようとしたら、なぜか情報が出てくるのだろう。恐らく早苗は、こういう細かい所に無意味に拘る、そういう性格に違いないと思った。
「……変わった所にいたんですのね。だから転入手続きも、あれだけ変わったやり方だったのかしら。少なくとも過去の前例とは随分と――」
「ありゃ。この学校じゃあ、生徒会長は学生の転入にまで関わって来るのか?」
「事務手続きは手慣れた一人が行うも良いですけれど、分業すれば尚更効率は上がるのですわ。……それは冗談にしても、当日早朝の書類持ち込みなんて前例は、当然だけど有りませんもの」
冗談には聞こえず、かつ笑えない冗談だ。昔から彼女は、良く知らない相手にはこうやって、ナイフを突き付ける様な態度で接する癖がある。
別に、彼女は意地の悪い人間ではない。少々警戒心と縄張り意識が強すぎるだけだ。アーチャーへ対するこの口振りも、きっと一日二日で丸くなる事だろう。
「こうなったら貴女でもいいかな……ねえ咲夜、古明地さとりって子、分かる?」
このまま牽制を続ける咲夜を見ていても仕方が無いので、早めに本題に入る事にした。
そう。私が探していたのは他の誰でもない、古明地の名を持つ彼女である。
昨日の夜に遭遇したアサシンのマスターは、確かに古明地こいしと名乗った。決して多くは無い名字で、年の頃も体格も近い筈だ。関連性は有ると考えても、そうおかしくは無いだろう。
「でも、っていうのが気になるけど……1Bの古明地さとりさんね? にとりさんと良く連れだって、その辺りの壁際で話しこんでいる? 確か今日はあの辺りで……ごめんあそばせ、道を開けてくださいな」
どこかの預言者の奇跡の様に、人の群れが二つに割れた。その向こうには確かに、アーチャーよりもさらに小柄な古明地さとりが、じっとりと湿った目付きで立っていた。
「先輩方、何か用なんですか? 私、にとり先輩の発明品を根幹から否定するので忙しいんですけど」
「お前本当に酷いな!? 今回の発明こそはツールボックスの常識を覆す――」
「はいはい、それは私が聞いてやる。だからちょっと離れてようぜ、な?」
拳をぐっと突き上げて演説を始め掛けたにとり。直ぐにアーチャーが引きずっていき事無きを得た――昼休みも、あと5分ほどしかないのだ。
「ちょっと聞きたい事が有るだけよ。さとりって、お姉さんとか妹さんとかはいらっしゃるの? もしくは従姉妹とか」
単刀直入に本題へ。あまり家の事に突っ込むのも何だが、場合が場合だから仕方が無い。
とは言え、なんとなく個人名を出すのは躊躇われたので、こういう言い方になる。
「姉か、妹……? いいえ、居ませんけど。従姉妹も……って言うより、そういう親戚自体が」
「あー、そいつはさ、ほら、な?うん、アリスが誰の事を言ってるのか知らないけど、さとりに姉妹はいないよ」
さとりの声は聞き取りやすいが、声量自体は然程でも無い。急ににとりが大声を上げたから、言葉の後半は完全に書き消えた。
工具談義を中断していきなりの行動に、さしものアーチャーも、少しばかり目を丸くしている。
「それはこの私が保証する! 五年保証に万が一のデータ復旧サービス付きだ!」」
「私はSDカードですか? そういえば万能リーダライタを作ったとか言ってたのはどうなりましたっけ、読み込んだデータが全部破損してたとか聞きましたけど」
「う、うぉおおお!? 思いだしたくない過去の記憶がぁああああ!!」
「……はいはい、廊下でコントを始めるのではありません。貴女達も皆さんも、次の授業が始まりますよ? 教室にお戻りなさい、さあ!」
パン、と手を強く打ち鳴らし、咲夜が観衆を散らしてしまう。ものの数十秒後、廊下には静寂が訪れ、そして巻き上げられた埃が少しばかり、衣服と喉に不親切だった。
にとりは決まり悪そうな顔で鼻の頭を掻き、浅い角度で私の顔を見上げる。
「あー……ええとさ、アリス。こいつは――」
「私、一人暮らしですので。両親祖父母、その他親戚、存命は誰一人居ません。その上で、姉妹や従姉妹はそもそも生まれてません」
さとり自身は、別にそれを何とも思わないという様に、私の問いに答えた。自分の事だと言うのに、やけに無関心な声の響きだった。
何となくだが私には、さとりの心情が分かった気がする。自分自身の境遇は、自分には当たり前の事だ、それだけなのだ。
例えば私も一人暮らしだが、それを殊更嘆いた記憶は無い。昔は料理の際、背の高さが足りずに悩んだが、それも今となっては――
今と、なって、は……?
何か、私は、おかしな事に気付いてしまった様な気がして――数秒の間、瞬きを忘れていた。
「アリス先輩、もういいですか?」
「……ぇ、あ。ええ、聞く事は終わったわ、名字が同じだっただけかしら。この間、古明地っていう子に会ったから気になったの、それだけよ」
「へぇ。私が言うのも変ですけど、珍しいですね」
それだけ言い残して、さとりは自分の教室に戻っていった。最後まで、目を大きく開こうとしない、眠そうな表情のままだった。
けれど私は、もう彼女の事を考える余裕を――いや、余地を失っていた。脳の処理領域を全て、一つの事に費やしていたのだ。
思い返そう、思い返そう。私の生活の中で、私が考えもしなかった事を思い返そう。
そもそも私は何故、〝親と死別もせずに〟〝一人暮らしをしている〟のだったか――?
いいや、もっと前の次元だ。何故私の記憶の中には、〝両親に関するものが無い〟のだ――!?
そんな事は有り得ない、断じて有り得ない。
私の記憶は、断片的な範囲では3歳ごろから。継続した記憶ならば、5歳ごろから存在している。
私は断じて記憶喪失なんかじゃない。それに、そんな小さな子供が一人で暮らしていける筈が……
いいや、出来る。そも私は、食事を取る必要が無く、眠る必要すらない生き物だ――生き物と呼んでいいのか?
親が無く、いきなりこの世界に出現した様な存在を、いや、親がいない筈は無い。失った記憶だってどこにも、然し
「アリス、顔色が悪いぜ。何時も白いくせになんだ、余計白くて蝋人形じゃないか」
アーチャーに肩を掴まれる。その時に始めて、私は、自分が倒れかけていた事に気付く。
体が床に近付くのではなく、床が体に近付いてきたような――私のこれまでの生には、とんと無縁の経験だ。
きっと眠いというのは、こういう状態の事を差すのでは。眠らずとも生きられる私は、なんとなくそう思った。
「……アリス、どうしたの。良ければ保健室まで肩を貸しますわよ?」
「ぁー……大丈夫、ちょっと立ったまま寝てたわ。教室に戻りましょ、次もまた自習だったかしら」
「だな、欠席多いから自習。少し遅れても何も言われないさ、だからのんびり行こうぜ?」
「遅刻は駄目よ、急ぎましょう。競歩は必須技能と心得なさいませ」
右肩を咲夜、左肩をアーチャーに支えられ、左側に大きく傾いたまま歩く。
やけにふわふわした、脚に力の入り切らない感覚。動く事に裂く神経さえ、思考に喰い荒されているかの様で、
「そりゃあ、まだ分からんさ。教えてやるけど今じゃない。もうちょっと待ってくれよ、アリス?」
「……? 全然分からないけど、分かったわ」
耳元で告げられたアーチャーの言葉は、今の私には、全く理解の及ばない内容であった。