東方聖酒杯 〜The Lost Dreams of Her Ideals. 作:ハシブトガラス
夜の冥界町を、霊夢とセイバーは歩いていた。
日中、買い物に訪れた時であれば、活気のある近代ビル群だ。だがこの時間は、おそらく周辺都市の何処より人口密度の低い過疎の街となる。
まずこの街は、アパートだとかマンションだとか社宅だとか、集合住宅の類が一切存在しない。辛うじて有るのはビジネスホテルか、或いは街の発展より前から住んでいた住民の、如何にも古そうな瓦屋根の家ばかりだ。
終電の時間を過ぎてしまえば、この街に残る人間は本当に少なくなる。だから、近代的な街でありながら、24時間営業の店なんてコンビニ程度しか存在しない。ファーストフード店でさえ、23時にゲートを閉ざすビル地下にしか無いのだ。
「様変わりしたわねー。昔の冥界はもう少し――いや、陰気さは変わらないのかしら。静かですし」
「冥界町って、そんな昔っからあったの? ……ま、良いわ。それよりセイバー、敵は?」
「半径300mまで気配無し。相手がアサシンならどうにかなるわ」
セイバーは常の様に冷静で、そして周囲への警戒を怠っていない。あまりに事務的に答えを返して、時折は目を閉じて耳を澄ます。
無駄口一つ叩かずに仕事を続ける様子は、合理的な霊夢からすれば好感の持てるものである筈だった。
「セイバー、考え事?」
「――? いいえ、何も」
「そう……やけに無口だったから、なんとなくね」
今になって考えてみれば、霊夢は、セイバーと雑談を楽しんだ事など無かった筈だ。せいぜいが召喚したその日、自己紹介程度に言葉を交わした程度。
後は――敵は居るか、戦闘は継続できるか、結界の性質はどうか。聖杯戦争に直接関わる内容以外で、霊夢はセイバーと言葉を交わしただろうか?
何故、この様な事が気に掛かったか。霊夢は、自分自身の事を良く弁えていた。
「あんたさあ、死んだのよね?」
「……変な言い方するわね。その認識で間違いないですけれど」
朝方に見ていた、おかしな夢が原因だ。
誰かが死んでいく瞬間を、その誰かの目で見ていた不思議な夢。夢でしかないのに、それは真実であると断言出来る奇妙な感覚。
死の現場は――二つばかり見た事がある。その何れより、今朝の夢の死は悲しかった。だから霊夢は、
「今さ、こうして自分の足で歩いて、見た事もない街を見て。良かったなーとか、思う?」
何か、何でもいいから、彼女と話してみたかったのだろう。
死んだ経験があり、そして今の生を謳歌しようともしない、セイバーは戦う為此処にいる存在。そんな彼女と言葉を交わしてみたかったのだろう。
「……いいえ、特には。物珍しさはあるけれど」
セイバーは、ウィッグだという長い髪を指に巻き付けながら答えた。
霊夢は小さく溜息をつく。冬の夜だ、息は白い。強いビル風が、粉の様な雪を噴き散らす。
「でも、夜の散歩は好きよ。夜気に戯れて人の街を歩く、こんな贅沢が出来るんだもの。
行きましょう、霊夢。この辺りに敵の気配はない、もっと向こうを探さないと」
颯爽と、セイバーは歩いていく。僅かな身長と多大な体力の差で、霊夢は少しばかり、追い付くのに足の疲れを感じた。
中央の通りから一本だけ横に外れた白玉楼通りを、二人は西へ進んでいた。
寒々とした空気が更に凍て付いたのは、決して気候の変化だけが原因ではない。冥界町の中でも特にこの古い通りは、巫女である霊夢には寒気のする土地であった。
この通りには、民家が一件も無い。そして、22時以降に開いている店も無い。東西に1km以上も有る三車線の通りは、夜間には街灯の他に全ての光を失うのだ。
誰も、この通りの夜を歩こうとしない。あまりに人がいない為、むしろ治安が良い土地でさえある。然し、この通りに住もうと考える者はいないのだ。
「……何か聞こえたりする?」
「足音が一つ、二つ……たくさん居るわね、ふらふらと」
だのにこの夜は、やたら多くの人間が出歩いているらしかった。
まだ霊夢は、その様を見た訳ではない。人を遥かに超えるサーヴァントの五感が、遠くに居る人間を捕えていただけだ。
然しそれでも、この通りを誰かが歩いていると聞いて、霊夢は強く訝り、警戒する。
本来居る筈の無い者が居る――その非日常性は、霊夢が嫌悪する対象であるからだ。
「敵だと思う、セイバー?」
「難しいわね、こっちに来てる訳じゃないわ。皆でどこか……どこかへ、向かってるみたいに感じるけど。
向かってるのはもう少し西の方、何か有るのかしら――、っ?」
「どうしたの……!?」
突然セイバーは、背に隠した博麗の御神刀を鞘から抜いた。人がいないとは言え、抜き身の刃物を街中で持ち歩く行為の、異常さを知らぬ訳でもないだろう。
セイバーは、西の方角にある、小さな山を睨みつける。まるでそこに、何か許し難い存在でも潜んでいると言わんばかりに。
「あの山、何が有る? 歩いてる連中も、皆あそこに向かってるみたい。聞こえない?」
「何がよ」
「ピアノの音」
それは、意識していても聞こえない程の、小さな小さな音だった。冬の冷たい空気が、そして西から吹いた風が、人間でしかない霊夢の耳にも音を届けた。
踊り狂う様に高く低く、音の波がうねっている。瞼の裏に蛇を描く様な――奇怪な、音楽と呼んで良いのか迷う代物。だが、不思議と心地好い。
きっとこれを演奏する者は、技量の是非はさておくとして、楽器に長く親しんだものなのだろう。根拠も無く直感的に、霊夢はそう感じていた。
楽器の僅かな癖を知り尽くし、最も美しく歌えるようにしているのだろう。だから音色の一つ一つが、やけに艶やかで鮮やかなのだろう。
奏でられている旋律もまた、短音の連続ながら心躍るもの。好奇心を掻きたてられ、冒険心を煽りたてる。
誰が演奏しているのか、どこで演奏しているのか。それが知りたくて堪らない、もっと近くで聞いていたい。霊夢は何時の間にか速足で歩き始め――
「危ないわ、気を付けて」
――セイバーに肩を掴まれ我に帰った。
「耳に入れるのは良いけど耳を貸しちゃ駄目。あれは音楽じゃなくて言葉よ、真剣に聞けば毒されるわ」
「……今のは?」
「さあね、妖精の歌声かしら。何にしたって有害指定よ」
気を強く持てば――そして、軽い結界さえ身に張ってしまえば、その音はまるで無害であった。聞こえるか聞こえないかの瀬戸際で、ピアノがぽろぽろと泣いているだけなのだから。
然し――あれは、なんだ? 人間一人の意識を瞬間的に奪い取る、あの音は何だ?
「魔術だと思う?」
「もしかしたら。私にはまるで効き目がなくって、霊夢には効いて。だったらそういう事もあるかもね。
けど、良い音だったわ。あんな怪しい所から流れてきてなきゃ、私だって飛んで聴きに行くかも」
セイバーが指差す方向、ピアノの音の出所は、小さい山だった。街の通りから数百m程離れた所にあり――今は桜の木が、枝に雪の花を咲かせている。
「白玉楼……あそこね? 予想は当たってたのかしら」
「ええ霊夢、流石の慧眼よ。乗り込むも良し、退くも良し。全ては御意のままに、
人を招き寄せる音曲の中に――セイバーは、一つの気配を察知していた。
雪よりも冷たく、そして白く澄んだ清浄な気配。あまりに清潔すぎて、近づく事も躊躇われる様な、墨染の色であった。
霊夢は耳の奥を擽る音に耐えながら、今夜もまた雑談は出来なかったと、僅かに惜しみつつ歩く。走らず、かすかな周囲の変化も逃さぬように気を張り――既に、戦場に有るべき姿勢を整えていた。
長い、長い階段を上る。
小さいとはいえ一つの山だ。それを、左右に一度も曲がる事なく上ろうと思えば、どうしても無理のある急な階段が生まれる。
然し霊夢は息を乱さない。元々体力は有り、それに加えて靴裏に結界を張り巡らせ、反発を用いて歩いていたのだ。
だが、やはり長い。道程にすれば精々が200mも無いのだが、然し角度が有る為に、重力が強力な足枷となる。
「……あれ、釣られた人かしら」
「たぶんね、サラリーマンっぽい。こりゃー明日は大変だわ」
会社帰りなのだろうサラリーマンが、覚束ない足取りで階段を上っていく。霊夢は素通りし、セイバーはサラリーマンの背中を軽く叩いた。外からの刺激で我に帰ったらしいサラリーマンは、頓狂な声を上げて周囲を見回していた。
彼を置き去りに、まだまだ階段を上る。改めてこの山は、春に訪れるべき場所だと思えた。
石段は溶けた雪が凍り、ところどころ滑る様になっていて、足元をしかと見ねば転びかねない。が、街灯はここまでは設置されておらず、月と星の灯りが頼りだ。
階段の両脇を埋める木は全て桜。この季節では当然の如く、花も葉も何一つ無い。
「霊気が濃いわー……セイバー、調子はどう?」
「上々。今なら、どんな不意打ちが来ようと怖くは――あ、ごめん、訂正」
幻想郷の中でも歴史の古い土地が、霊夢達の住む地域。その中でも白玉楼は、特に強い霊地である。霊体であるサーヴァントが、最も不自然なく顕現できる場所であり、セイバーの体調は最高に近かった。
だから彼女は、敵の気配に対する察知も、普段以上に鋭敏に行えた。あのピアノの音色が聞こえてきた時点で、セイバーはこの山に、一つの敵の気配を感じ取っていた。
「私より先に上って。下から来るわよ、逃げようとか思わないで」
――その気配とはまるで違う場所から、〝それ〟は接近してきていた。
昨日の今日では忘れられる筈も無い。ただそこに居るだけで弱者を押しつぶす、傲慢な強者の存在感。移動するだけで魔力の圧が、周囲に破壊を齎す悪鬼。
「……ねえセイバー、これってもしかしなくても」
「そう、もしかしなくてもあれ。地の利は有るわ、けど万が一が有れば……令呪をお願い」
「オーケー……大当たりを引いちゃったわね」
桜の枝に積もった雪が、〝それ〟を中心として吹き散らされた。
「■■――、■■■ ■■■■■■アアアアァ――ッ!!」
褪色の鎧が乾いた光を散らす。変わらず、馬鹿げて恐ろしい存在である。
霊脈が撒き散らす魔力の為だろうか。今宵の狂霊は如何ばかりか、人の耳に聞き取りやすい声で吠える。
然して狂気は些かも衰えず、馳せ現れた勢いもそのままに、素手のままセイバーに踊りかかった。
ギィン、と高らかに金属音。セイバーの右手には守矢の霊刀、左手には博麗の御神刀。二振りを交差させ、狂霊の右手を受け止めたのだ。
衝撃で後退したのは、寧ろ先手を取った狂霊の側。セイバーは一歩も引き下がらず、不敵な笑みで応えた。
「ここなら負けないわ。おいでらっしゃいな、黒犬!」
セイバーと狂霊の身体能力を比較すると、この二者に大きな差異は無い。力でセイバー、速度で狂霊が勝り、動体視力などは五分と言う所であろう。然して近接戦闘の場合、二者の間には致命的なまでの隔たりが有る――リーチの差だ。
狂霊の戦闘手段は極めて単調、進んで押して潰すのみ。武器はまるで用いず、両の腕と脚だけが頼りだ。
一方でセイバーは、四肢の長さではほんの僅かに狂霊に劣るが、それを補って余りある刃を二振り備えている。狂霊の間合いより一歩、セイバーの間合いは広いのだ。
そして、その一歩は、階段が生む高低差の前では更に拡大される。
狂霊がセイバーに攻撃を加えようとすれば、必ず斜め上方に打ち上げる様な打撃を放つ事になるのだ。地面と平行に打を放てる場合に比べ、その間合いは数割も減少する。頭など狙おうとするならば、余程接近せねば叶うまい。
「■■■ァ、■■■■■ァアア■■ッ!!」
打ちやすい場所を、見えた箇所を打つ。狂霊の戦法はあまりにも分かりやすく――だからセイバーは、防御に意識を裂かれずに済んでいる。
どうせ脚か、高くても腰までしか狙われないのだ。始めから到達地点が読めているのならば、どれだけ敵が速くとも防御は容易い。
一方でセイバーの反撃は、全てが上段から打ちおろされるものと変わる。
人型の生物であるならば、どうしても左右より上下の視界は狭くなる。狂霊は終始、自分より高い位置を見上げ続けなければならない。その上で、万力込めて打ち込みやすい振り下ろしを、相手に劣るリーチで防がなければならないのだ。
左右、もしくは後方に下がって回避する事は出来るだろう。だが、石段から外れればそこは雪、もしくは土。左右に動けば足場が悪くなり、速度を武器とする狂霊には死地。かと言って後退すれば、また高低差は広がり、セイバーの攻撃は愈々激しさを増すばかりであった。
音曲に引き寄せられ、幾人もの人間が階段を上ってくる。数十mも離れた所で、二つの災禍が争っている事を知り、我に返って馳せ逃げて行く。生物が持つ本能は、この争いに介入する事を許そうとはしないのだ。
「アハハハハッ、これなら――これなら勝てるわ! 勝てるわよ霊夢、これで聖杯は――!」
霊夢達が知るサーヴァントは、現状では五体。セイバー、アーチャーに加え、夜の後者でアリスを襲撃した黒衣のサーヴァントと、アサシンと、そして眼前の狂霊。
セイバーは、狂霊以外の全ての相手に、白兵戦で勝利出来る確信を持っていた。
アサシン以外の奇襲であれば感知できるし、遠距離からの攻撃ならばアーチャーが恐ろしいが、然し彼女の現状は味方の陣営である。
クラスの空きを考えるに、残りは恐らく――白兵戦を得意とするランサー、魔術を用いるキャスター、そして宝具に富むライダーであろう。
まずランサーを相手取ると考える。苦戦はするかも知れないが、だが近接戦闘で自分が負けるなどと、セイバーはまるで考えていない。事実、クラスとしての補正に加え本人の高いステータス、セイバーは紛れも無く最優のサーヴァントなのだ。
キャスター戦を想定すれば――セイバーというクラスは、最高の対魔力スキルを持っている。実は彼女の場合、そのランクが高いとは決して言い難いのだが、然して低いとも言えない。初撃を防いで接近出来れば、近接戦闘の出来ぬ魔術師など、一撃で斬って捨てるだろう。
では、ライダーのクラスと対峙するなら? その時は――自分も同じく、宝具で迎撃すれば良いと、セイバーは考えていた。だから、叶うならばライダーのクラスとは、最後の最後まで当たりたくないとも思っていた。
「■■■■■■ッ、ァアアッ!! ■■■■■■ァアア――ッッ!!」
敵が死なない、それが信じられぬのか、耐えられぬのか、狂霊は闇雲に吠えて両腕を振り回す。然し――その動きには、些かの陰りが見えていた。
無理も無い。狂化の英霊は、マスターの魔力をそれこそ湯水の如く消費する。一度戦闘を行ってしまえば、その回復にはどれだけの期間が掛かるだろう。昨日の今日で戦闘を行える、寧ろその事を驚くべきなのだ。
供給される魔力が不足しているのだろう。凶暴性が変わらぬまま、狂霊の打撃は僅かに軽くなる。それを見逃すセイバーではない。
何時しか戦場は、セイバーが狂霊の初撃を受け止めた場所より、数十段も下に降りていた。霊夢は、敵が理性を持たなかった事に感謝し、そして勝利の予感に安堵していた。
だから、とは言うまい。霊夢もセイバーも、油断などはしていなかったのだ。この二者に、落ち度は何一つなかった。
ただ、敢えて理由を探るならば――無意識化に聞こえていたピアノ曲が、激しい曲調の物に変わっていた事。勝利の確信から来る高揚に、心の半分以上を埋められていた事だろう。
「――招かれざるお客様、ですか」
すす、と進み出た声は、霊夢の耳より低い位置から聞こえた。〝彼女〟は霊夢より一回りばかり小柄だった。
近づかれた――気付いた霊夢は、然し〝彼女〟に攻撃しようという考えも、彼女から離れようという考えも起こらなかった。なぜなら〝彼女〟は、驚く程に敵意が無い温和な表情をしていたのだから。
「良い夜ですね、失礼」
美しい、薄桜の振袖だった。雪の白に、夜闇の黒に、一輪で咲く華だった。小さく霊夢に会釈をして――桜色の〝彼女〟は無造作に、英霊二人の争いに歩み寄る。
「ちょっ、ま――!?」
その行動の無謀を霊夢が咎めるより先――狂霊は高く投げ上げられ、セイバーは二刀を弾かれて石段に膝を付いていた。
霊夢の、人間の目にその攻防は映らなかったが、〝彼女〟は左手で狂霊の拳を掴みつつ、右手に持つ鞘で――そう、鞘で。
鞘でセイバーの二刀を打ち払い、二体の英霊の間に割り込んだ。そして、左足で狂霊の膝を払い、体勢を崩した所を投げ捨てつつ、鞘でセイバーの、やはり膝裏を打って転倒させたのだった。
戦闘の外からの完全な不意打ち。この結果を、彼女達の技量の差の反映と、そのままに受け取る事は出来ぬだろうが――然し霊夢は我が目を疑う。
「何人たりと我が許し無く、この庭を荒らす事はなりませぬ。名乗られませいご客人、ならぬと言いますなら――」
膝を付いたセイバーの横を、咄嗟に身構えた霊夢の横を、〝彼女〟はやはり無造作に歩いて階段を上る。〝彼女〟の言う招かれざる客3名を見下ろし、柔和な笑みはそのままに――6尺6寸6分、化け野太刀を正眼に構えた。
「――西行寺家剣術指南兼当主名代、魂魄妖夢。我が
7つのクラスからなる聖杯戦争に――イレギュラーの存在は、実は珍しくない。
彼女もまた、枠の内に収まらぬサーヴァントであった。