東方聖酒杯 〜The Lost Dreams of Her Ideals. 作:ハシブトガラス
風圧に体が軋む――霊的手段を伴わぬ接触ならば、傷も負わぬ筈の身体が軋む、異常をセイバーは味わっていた。
側面から抱きつかれたと思った次の瞬間には、窓枠を肩で破り、景色は瞬間的に流れて――今は、地上を遥かに見下ろす高空。
移動によって生じる負荷さえ、軽微ながら攻撃と成り得る程の速度は、セイバーの動体視力を以てしても、満足に現状を把握する事を許さない。
「ぐっ……ぅ、う……このっ、離れなさいっ!」
魔力構築された白銀の鎧が守る胴――それに回された腕を掴み、引き剥がす。力ではセイバーが圧倒的に優位と知って、黒い影は――ライダーは、素直に自ら拘束を解いた。
空中で支えも無く向かい合う二者は、過去に一度、矛を交えている。その時の結果を鑑みれば、セイバーならば十分に勝ちを得られる組み合わせであった。
「お久しぶりですねぇ、顔色がすぐれませんが。真っ白ですよ」
「深窓のご令嬢なのよ、優しくエスコートしてくださらなくて?」
「生憎と、姫は攫うのが流儀でございまして」
無論、それは〝平常時〟ならばの事。
魂魄妖夢の一閃で手酷く傷を負ったセイバーは、まだ万全とは言い難い。その上で襲い来るのは、恐らくは速度という一点に於いて、己を数段も上回る敵。
そんな相手と戦うならば――空中という戦場は、極めて不利だ。自分が守るべき個所も、敵が逃げられる箇所も大幅に増えるとなれば、体感速度の差はより大きくなる。地上へ降りる事こそ、勝利への最善手と見えた。
然し――聖杯戦争は、叶うならば秘匿すべし。これは、霊夢が見つけた書にも記してあった事項である。
これを破る事によるペナルティは無いが、霊夢が望むのは幻想郷の平穏。異常が有ると殊更に、示して回る道は望まない。
ならばセイバーも、真っ直ぐに地上へ向かって路上に降り立ち、ライダーと戦う訳にはいかない。そしてまた、人目に付かぬ所があればと、探る猶予も無いのだ。
「……やっ!」
小手調べとばかり、真っ直ぐに飛び出し、刀二つで斬り付ける。腕の下を容易く掻い潜って、ライダーはセイバーの背後を取ろうとする。
急上昇、旋回を駆使し、セイバーは敵を振り切ろうとするが、やはり速度も小回りも負けている。容易くは振り払えず、背中にピタリと張り付かれ――
「ま、ま、直ぐに終わらせようとは申しませんので。一先ずはお時間を――おおっと、口が滑った」
セイバーの背を蹴り付け――いや、蹴り上げる両足。地上からより遠ざける方向に、鎧を纏った体が打ち上げられる。
すぐさま姿勢を建て直したセイバーは、振り向き様、背後から迫る筈の敵を狙って刀を薙ぎ――当たり前の様に空を切る。
空中戦となれば、熟練度は天と地程の差があると、僅かな攻防でセイバーは悟った。だが、地上へ戻ろうにも、ライダーがそれを容易く許しはせず、寧ろ更なる高空へと運ばれていく。
然し、ただ嬲られているばかりのセイバーでは無い。確かに空中戦ならば不利だろうが、〝戦い〟全てで考えれば、セイバーより長けた者などそうはいないのだ。
どうせ追い付けない相手ならば、せめて向き直るだけでも。全ての機動力を、一点に留まったままの方向転換に費やす。
迫る蹴りを、刀の峰で受け止める。僅かにでも止まった足を掴もうとする。
一度や二度では成功しない。だが、一度や二度の失敗では沈まない。執拗に幾度も、セイバーは繰り返す。
「ああ、鬱陶しいわねちょろちょろと……落ち着きの無い!」
「だから前にも言ったでしょう、30分動かないと私は死んじゃうと――っととと、危ないっ!」
ライダーもまだ速度は上がるだろうが、速度の上昇より先に、セイバーが慣れ始めた。
防御から攻撃へ転ずるまでの時間が削られる。より早く、より速く、より迅く――。
「狂気の沙汰ですねぇ、ったく……!」
まだライダーには余裕が有る筈。だのに冷や汗を流すのは――セイバーの適応力故に他ならない。
全くこうも戦いの中で、広く物を見られる者が居るのかと、ライダーは感嘆さえ覚えていた。
視界の外へ外へ逃げようとしても、適宜セイバーは向きを変え、その動きに追い付いてくる。これは動体視力もそうだが――やはり、戦いに関する〝勘〟と呼べるものだろうか――それが、馬鹿げて強いのだ。
だが。老長けた技ならば、寧ろライダーはセイバーの上を行く。
防がれ、避けられながらも――その実、ライダーはまだ、速度を増す事は十分に出来た。だのにそうしないのは――そうしてしまえば〝追い付けない者〟が出ると知っていたからだ。
着実にライダーは、セイバーを目的の戦場へと引き込んでいく。何故に其処へ引き込めと〝命じられた〟のかは知らないが、蹴る理由は無い〝美味い話〟だ。
「ほらほら、お姉さんが遊んであげますとも、しっかりついておいでなさい……!」
離れぬ様に、だが己が沈まぬ様に。英霊と化しても胆は冷えると、自嘲気味にライダーは飛び続けた。
「はっ、はっ……くそっ、陸練混ざっておけば良かった……っ!」
霊夢は只管に、街を走っていた。
令呪の繋がりで、セイバーのおおよその位置は分かる。移動し続けているそれを追って、校舎を飛び出し、走り始めた。
夜に近い時間と成ったからか――やはり、人の出は減り始めている。
音は、良く聞こえた。
救急車のサイレンの音が、いやに煩いのは、誰かが学校の異変を通報でもしたのだろうか。
変死体と、原因不明の重症者が多数――全く好ましくない、最悪の状況だ。
叶うものならば、秘匿したい。〝自分の力であれば〟叶わぬ事であると分かっている。既に監督役を名乗る、東風谷 早苗が動いている筈だ。
それでも、赦し難かった。
世界は何も変わらず、平穏を保たねばならない。
人は人の侭、人の如く有るべし。日常は日常の侭、常の如く有るべし。物事にはそう有るべき形が存在し、それから外れない事が最善なのだ。
人の命が軽々と吹き飛んで、人外が街の上空で戦う様を、良しと出来る理由は無い。
霊夢は息切れをし始めている――体力は有るが、ここ数日の精神的な疲労は、霊夢の想像以上に身に蓄積している。冬の底冷えする夜気にも関わらず、拭く事もしない汗が、顎から服の裾へと滴り落ちる。
すると、後方からクラクションの音が聞こえた。
軽二輪が霊夢を追い越し、数m前方で歩道に寄せ、止まる。運転手はヘルメットをしておらず、そして夜でも街灯に良く映える白髪と、顔の横でなく上に飛び出す、特徴的な耳を持っていた。
「博麗の、乗れ!」
「椛、あんた!?」
言葉を長く交わらせる事は無い。霊夢は跳ぶようにして荷台に乗り、犬走椛の胴体に腕を回す。すると椛は、アクセルを思い切りふかし、車道を殆ど暴走と呼んで良いような勢いで走り始めた。
「あんた、何して――」
「なんだあれは!? なんで命を狙われた!? お前は何処へ走ってる!? 全く、何も、私には分からない!」
殆ど混乱状態にあるような椛は、暫く一人で、何だ、何だと問い続けた。
霊夢は答えを返せない――何処から何を言えば良いのかが分からないからだ。
だからだろうか、最初に言ったのが、
「あんた、これ、どうしたのよ」
「倒れてた奴のポケットから鍵を頂いた」
「ヘルメットは?」
「……耳が折れて痛い」
「運転は何処で?」
「昔からちょくちょく弄ってた。公道に出なければいいんだ――どっちだ!?」
「そこを右!」
自動車を追い抜き、交差点は殆ど直角に曲がり、時折は信号の変わり目に車体を割り込ませ、或いは歩道にさえタイヤを乗せ。二人乗りのオートバイは、霊夢の指示の通りに走る。
霊夢が目的地としていたのは、自分のサーヴァント――セイバーの気配の真下だ。
その気配は遥か上空、彼女達からすれば然程でも無いのだろうが、それでも人の尺度からは十分すぎる速度で移動を続けている。
それを霊夢は、運転する椛に、左右の曲がる道を伝えて走らせた。
「教えろ、博麗の!」
「言う事が多すぎてどうしたらいいか分かんないの!」
「二つでいい! まず一つだ、お前は何をしてたんだ!?」
運転手にされながら、椛は霊夢に問う。
何を問われたか――答えて良いものか、霊夢は戸惑う。答えて知らせたのならば、この同級生がどうするかとシミュレートをしたのだ。
十中八九首を突っ込んでくるだろう。腕は立つし、荒事は好まずとも嫌わないし――義を見てせざるは、という性質である。
聖杯戦争などという争いが有り、その為に学び舎を同じくした者が、幾人かは死んだのだ。
犬走椛は、そういった戦いに巻き込まれるべきでは無い。
それは平穏の姿では無く、この堅物の剣道部員は、戦わずに生きるべきなのだと霊夢は思う。
だが、それ以上に――彼女は、霊夢の友人であった。
知人は多いし、そこそこに親しくしている者もいる。寧ろ椛との会話の冷淡ぶりを聞かれれば、友人と呼んで良いものか、首を傾げる者も多かろう。
然し、彼女と居て、霊夢は不快になる事が無い。彼女は良く距離を保ち、それでいて、必要な時に詰めてくるのも、躊躇いが無いのだ。
彼女は友人だ――この日、無免許運転をしてまで駆けつけた犬走椛の背を見て、霊夢は、初めてかも知れないが、強く認識した。
「……詳しくは言わない。けど、私が勝たなきゃいけない戦いが起こってるの。夢物語みたいな戦いよ」
「悪夢にしか思えないけどな! あの化け物は、それに――横に居たのは古明地の家のだろう、どうしたんだ!?」
「聞かないで! 私は、古明地さとりと、あの蜘蛛の化け物を、殺さなきゃならないの!」
だから、大きく嘘を吐きたくは無かった。けれど、真実を知らせる事も出来なかった。
然し伝えた事実は端的に、殺害の意図を示すもので――
「……そうか。やっぱり、博麗の巫女なんだな」
「え?」
「お前がだ、霊夢。お前は模範的な、秩序の側の生き物らしい……私も敵わないよ」
エンジンが更に喧しく吠え、合わせて椛までが、夜に遠吠えをしていた。
鼓膜を叩く振動は、何故か霊夢の胸に痛かった。
霊夢を乗せたオートバイは、立体駐車場の最上階まで駆け上がった。
月も見えぬ曇天が、頭上の全てに広がっている。この街で空を見るならば、これより他に適した場所もあるまい。
風が有るのか、雲の流れは速い。然し雲が動いて垣間見た空は、もう一層、雲がかかっているのだ。星も月の無い、だが地上は街の灯りが埋める――比較すれば尚も、暗い空である。
役目を果たした自動二輪を乗り捨て、霊夢と椛の二人は、その曇り空を見上げていた。
「……何を見てるんだ、博麗の」
「あんたこそ、何か見えないの?」
「星も出てないのに、何かちかちかとしてる……あれは」
くぅと目を細めて、椛は空の中に瞬く、点を二つ、追いかけていた。
霊夢には、少なくとも肉眼では見えない。上空で戦う二騎のうち片方が自分の
「あそこで、戦ってる奴がいんのよ」
「誰だ?」
「………………」
答えぬまま、霊夢は目を閉じ、空の気配を探った。
追うべきものは分かっている――魔力のパスを辿れば、おおよその位置も当たりは付くし、魔力の乱れ方から、苦戦の程も窺える。
ダメージは少ないだろうが、蓄積した負傷が癒えていないのもまた事実。加えて霊夢は、セイバーが戦っている相手が誰なのか、まだ正確には認識していない。
あまりの速度から、推測だけは出来る。だが確信は持てず――仮に確信したとて、それが何になるか。
この戦いに、霊夢が割り込む事は出来ない。
人知を超越した、二つの力の衝突だ。手を伸ばせば巻き込まれ、渦の中で引き裂かれる。
いや、そも渦に手も届かない。遥か高みで二騎の英霊は、白く光る程、文字通り火花を散らした。
風が一つ、立体駐車場の屋上へと吹き込む。高空から垂直に吹き下ろされる風。それは、白と黒の異なる光を――セイバーと、黒影の英霊、もつれ合う二人を、尾を引いて伴わせた。
「あっ……! セイバー、あんた!」
ほんの一瞬だけ、二騎は屋上すれすれまで降りてきた。
常人たる霊夢の目で、その姿を見て取れたのは奇跡に近い。低空に留まったのは、きっと2秒にも満たない時間だった。霊夢が名を呼んだ時には、再び舞い上がって、視界から姿を消している。
「くっ……! ちょっとあんた! 勝てんの!? 勝てないの!?」
いずれが有利で、いずれが不利かも、まるで霊夢には分からない。声の届かない高空へ、叫ぶ他に出来る事は――。
一つだけなら、有る。左手に巻いた包帯を、右手で掴んで、強く握り――引き裂いた。
――令呪。聖杯戦争に於いてマスターに与えられた、三度限りの〝絶対命令権〟にして〝無色の魔力〟。
身体に刻まれた三画の文様は、英雄の似姿にさえ、服従を強制する支配力を齎す。
その命令が、サーヴァントの行動を支援するものであれば、本来の力量を遥かに上回る力を以て、目的を果たす事も可能である。
つまりはコントローラであり、ブースター。マスターがサーヴァント同士の戦いに介入する、ほぼ唯一の手段である。
但し、一度の命令で一画が消える。加えて、最終局面まで一画は、必ず残しておくのが、聖杯戦争の定石である。
サーヴァントには人格が有り、意思が有る。
理想が有り、誇りが有り、戦う理由が有る。
それらは必ずしも、マスターの目的に沿うとは限らない。
だから保険が必要なのだ――逆らえば何時でも自害を命じられるという、優位性を保つ為の保険が。
霊夢の知る限り、まだ一陣営たりと、脱落した者達は居ない。再序盤から、自分が持つ唯一の武器を捨てては――
――だが、止むを得ない。
〝傷を癒せ〟と命じて、万全の状態で戦わせる。それ以外に、出来る事は何も無い。
己が無力であると強く知らされるのは、霊夢には初めての経験で、悔しさに内頬を噛みながら、左手を高く掲げる。
今は、個人の矜持など不要。何よりも勝たねばならない。
「令呪に寄りて、我が眷属に命ず――」
――その手を、掴まれた。
骨まで潰されるのではないかと思う程、強く、強く、掴まれた。
痛みに、思わず腕を振り払って、跳ねるように立っていた場所から逃れて――
「……やっぱりか。もしかしたらって、此処まで待ったんだが」
霊夢の手首を掴んだ〝そいつ〟は、泣きそうな顔で、懐から短刀を引き出した。
鞘を投げ捨てて、逆手に握って、
「止めてくれ。それを使われたら、お前を殺さなきゃなくなる。お前は何もしないで、負傷したサーヴァントが死ぬのを待っててもらわなきゃならない。……頼むよ、お前は嫌いじゃないんだ――」
牙を剥く。
戦う事を厭うかのように嘆きながら、その敵意には、欠片程の妥協も躊躇も無かった。
右腕の袖を捲り上げ、上腕に刻まれた赤い三画の文様を晒しながら、
「――サーヴァントを自害させろ、博麗の」
「椛、あんた……!」
犬走 椛はまだ、警告で留める事を、諦めきれていない様子であった。
黒影の英霊――ライダーは、遥か眼下に、二人の人間を見ていた。
その内の片方は、実は名前だけを知らされている――博麗 霊夢というらしい。自分が戦っている相手、セイバーのマスターとして参加している少女で、加えて自分のマスターの同級生だとか。
戦う術は持っているが、サーヴァントに対抗できる程では無いと聞いている。
知恵の程は――無いとは言わないが、まだ思考に隙が有る。
警戒の糸を張り詰めさせていながら、肝心な所で緩めてしまったから、ああして〝敵〟と二人で、人目の無い所に取り残された。
加えていうに、壁も屋根も無い場所とは、これまた狙ってくださいと言わんばかりである。
「平和なんですねぇ、今」
息も切らさず――呼吸などは不要な存在だが――ライダーは上空に留まっていた。
然し、目は
いや、離せないというのが正しいだろうか。
速度ならば自分が、セイバーに明らかに勝っている。飛び、敵方のマスターである博麗 霊夢を叩き潰す事も、出来ないとは言わない。
だが、それを為した時、自分が無事である保障もまた、無い。
敵に背を向け、一つの的を狙う――その時、背後への警戒は、確実に薄れる。意識を割く割かないでは無く、視界から敵を外してしまう行為こそが失態であるのだ。
敵の手の内は、まだ読み切れては居ない。マスターを潰した次の瞬間、背後から刺されないとも限らない――飛び道具の有無が、まだ分からないのだから。
敵を仕留めたとして、自分も消えるのでは、これはまるで意味が無い。
肝心なのは、勝ち残る事だ。
「まま、おかげでお互い、目の前に集中できる訳ではありますが。でしょう?」
「……どこが!」
対してセイバーもまた、
飛翔の最大速度は間違いなく、ライダーがセイバーを上回る。初動で出遅れたものならば、ライダーが霊夢を狙うのを、止める手立ては――無いとは言わないが、少ない。
自分が打たれるならば、どれ程に打たれようとも構わない。一撃の重さで、十分に取り返せる。
だが、自分のマスターである霊夢が、ライダーに一撃でも受けた場合――まず間違い無く、挽肉が一つ出来上がる。
心理的な優位は向こうにあると、セイバーは感じていた。
ライダーは、霊夢を狙っても良いし、狙わなくても良い。狙えば隙が大きくなるが、それでもセイバーの剣から逃れ、そのまま戦場を離脱出来る可能性も十分に有る。
一方でセイバーは、ライダーがおかしな動きを取ったなら、僅かの猶予も許さずに止めねば、即座に敗北に繋がる。自分の武器は強大だと知っているが、それは〝酷く取り回しの利かない〟ものでもあるのだ。
此処までの均衡は、自分をこの場所へ引きずり込む為だ――ようやっと、セイバーは悟った。
然し、それを知った時には、既にライダーは、自分への制限を一つ緩めていた。
ぐおう、と風が固まりになって弾かれ、それを追いぬいて、黒影が砲弾となって飛ぶ。先程までより数段も速度を上げて、ライダーはセイバー目掛け、正面から突っ込んで行く。
攻撃はやはり単調に、蹴りを繰り返すばかりであるのだが――その速度が、異常なのだ。
腹へ届きそうな蹴りをセイバーが受け止めると、その次の瞬間には、背後から頭を狙われている。
振り向きながらそれを防ぎ、逃げる脚を掴もうとすると、数mも間合いが離れている。
――化け物ならば、幾らでも知っているつもりでいた。自分以上の化け物となれば然程も知らないが、それも居た。然し――これ程の相手が、さて、どれだけ居ただろうか。
いいや――怪物としての〝格〟であれば、セイバーの方が余程上であろう。
だがこの敵は、速度というたった一つの武器を縦横に振るい、そして老獪とも言うべき戦運びで、セイバーと互角に渡り合っている。
「……あんまり調子に乗るな……っ!」
それが、セイバーの苛立ちを加速させた。
勝てぬ相手では無い筈だという思いが、己への怒りを増幅させる。
誇りは人一倍のセイバーである。不甲斐無さに、歯噛みするばかりの怒りを抱き――それが、保身を忘れさせた。
「とっ捕まえて握りつぶしてやる……!」
「レディ面は仮面ですか……おー、怖っ!」
勝利は譲れない。その為に、〝賢い〟やりかたを捨てる。
刀を右手に、高く上段へ。左手は徒手にして、やはり高く。羆が獲物を前に、両腕を高く掲げたかの如き構えとなり、セイバーは咆哮する。
もはやそれは、人の形をした生き物が取るべき構えでは無い――二つの足で立つ獣だけが見せる、怪物的ないくさ姿であった。
「しぃ――ぃいいああらあぁっ!」
接近。
まさに熊の爪の如く、開手の左手の、指先がライダーを襲う。
体ごとライダーは、セイバーの背面へ回り込もうとするが、既にセイバーの速度はそれに追い付くばかりとなっている。
これまでも、反応だけは間に合っていたが――更に防御の一挙動を排除し、ほんの一拍だけ速度が上がった為だ。
更に、用いる攻撃も、加速・速度ともに最大の振りおろし。
左手を避ければ、右手に持つ太刀が。立て続けにライダーの頭を狙う豪雨となる。
それに、ライダーも蹴りを返す。
幾つも幾つも、槍の様に突き出す蹴り。
手数は明らかに、ライダーが勝る。
防ごうともしない為、セイバーの体に、ライダーの蹴りが面白いように吸い込まれるが――
「くっ……こいつは、またお転婆なお嬢さんですこと……っ」
セイバーは、止まらない。
耐久力と装甲に任せて、構わず前へ進み、ライダーに一太刀浴びせようとする。
一度轢退かぬと決めたセイバーは、正に字の如く不退転である。
衝撃を受け流そうと後退するのではなく、全く逆に、衝撃を正面から迎えに行く。
あたかもライダーの飛行軌道上に、壁が一つ生まれたようであった。
「よっ、ほ、お……ぅぬ、むぅ……!?」
然もその壁は、己へと向かってくるのだ。ライダーは次第に、飄々とした態度を保てぬようになり始める。
脚に返る衝撃は、自らが放つ蹴りを大きく上回っている。
セイバーはもはや、ただ蹴りを受けているのではなく――伸びて来るライダーの脚に、体当たりを打ち込んでいるようなものだ。
当然、自分も無傷では済まないが――耐久力で競うならば、自分が優位と知っているのだ。
「そろそろ止まりなさいよ、羽虫!」
「ですから私は動かないと――っお!?」
遂にライダーは、自らの蹴りの反動で後退した。
蹴りの速度が生む衝撃と、セイバーの前進する勢いがぶつかり、後者が勝ったのだ。
速度がゼロになり、マイナスに――逆方向への移動に転じるその一瞬、セイバーは手を伸ばした。
指先が、ライダーの足首に引っ掛かった。
「取ったあ!」
万力を込めて、掴む。
引き寄せ、下降へ転ずる。
遥か高空から下へ、下へ――眼下に広がるライトの海へ、セイバーはライダーを引きずり込む。
目標は、霊夢が立つのとは別なビルの屋上。
足を地に付け、刃を振るう腹積もりで、セイバーは飛んだ。
一身を砲弾と化し、ライダーを道連れに地上へ突き刺さらんばかりの勢いで――
「……ああ、くっそ」
その、全力での飛翔が妨げられる。
セイバーは空中で、自分の力とライダーの加速が釣り合ったのを感じた。
均衡さえ、一瞬。
膂力で遥かに劣るライダーが、セイバーの腕を逆に掴み返し――制止し、再び上空へと帰って行くのだ。
圧倒的な腕力の差をも覆す暴風が、垂直に暗天へと昇って行く。
「……!?」
「最初っから本気じゃやりたくないのよ、私は! ああもう、本気を出すとろくな事が無いんだから……!」
周囲の音が歪む。
ライダーは、セイバーを掴み、音を追い越して空へ舞いあがる。
遥か眼下の夜景が、雲の下に消え――月が照らす夜空へ辿り着いた時、セイバーは見た。
月光を受けてさえ輝かぬ、一対二枚の黒翼。
夜天の光全てを呑み込んで、その翼は黒く、ただ黒く、在る。
奇しくもそれは、地上に立つ〝主〟の白銀と対を為すようで――
枷は、取り払われた。
『――〝
幾十万の夜を経て、幻想の空に風が返り咲いた。
【ステータス情報が更新されました】
【クラス】ライダー
【真名】射命丸文
【マスター】犬走椛
【属性】秩序・中庸
【身長】165cm
【体重】43kg(+両翼約10kg)
【パラメータ】
筋力D 耐久C 敏捷EX
魔力C 幸運B 宝具A+
【クラス別能力】
対魔力:B
発動における詠唱が三節以下の魔術を無効化する。大魔術・儀礼呪法を用いても傷つけることは難しい。
騎乗:A+
騎乗の才能。獣であれば幻想種(聖獣・神獣)すら乗りこなせる。ただし、竜種は該当しない。
自分自身が最速の存在であるライダーには、不要のスキルと言ってしまっても良い。
【保有スキル】
風除けの加護:A+
自らの能力に端を発する、暴風への絶対防御。
彼女ならば敵対者の発する風に乗り、加速する事すら可能。
千里眼:C
純粋な視力の高さ。高速戦闘を主とする彼女には必須の能力。
亜音速飛行中、上空から地上の人間の顔を判別できる程、彼女の目は優れている。
【所有アイテム】
天狗の高下駄:特殊な能力は無いが、兎角頑丈に出来ている。
セイバーの斬撃でも斬れないが、然し衝撃はライダーの足にそのまま伝えてしまう。
【宝具】
『遠矢射る光明の徒(ナイト・オブ・アポローン)』:ランクC 対軍宝具
射命丸文の〝風を操る程度の能力〟に端を為す宝具。
極めて僅かな風から、大岩を削りつくす台風まで、ありとあらゆる風を操る。
飽く迄、大気を動かす能力であり、サーヴァントに対する直接的な攻撃力は無いに等しい。
寧ろこの宝具の真価は、大気を壁をして扱う事による縦横無尽の加減速と、風から情報を得る探知(サーチ)にある。
速度が大きければ大きい程、物体は静止までの時間も掛かるのが当然の物理法則だが、射命丸文はそれに従う必要が薄い。
自分自身の認識・反応・思考さえ間に合うのならば、ほぼ瞬間的に、飛行速度をマックスからゼロへ持ちこめる。
また、風の流れや大気の状況の変化を鋭敏に察知する事で、本来なら決して目の届かない死角さえ、手に取る様に監視する事が出来る。
これは、奇襲戦法に長けた射命丸が、自分自身はほぼ奇襲を受けないという特権も併せ持つ事となるのだ。
『風神少女(ラスト・ストーム)』:ランクA+ 対人法具
射命丸文という英霊の体、そのものである宝具。
巨大な一対二枚の黒翼が文の背に出現し、その姿は正しく、伝承に残る鴉天狗の過去の姿そのもの。
幻想郷という世界において最速であるとされた彼女の伝説が、その身に還って作られた、ある種の信仰にも近い概念武装。
自らに〝最速である〟という概念を押しつけ、〝射命丸文の敏捷ステータスを変動させる〟のが、この宝具の能力である。
最大値は魔力に応じてほぼ無限大。一般的な魔術師であるなら、超音速に達する事も可能だが、最高値はそこまで重要でも無い。
寧ろ重要なのは最低値の決定方法であり、〝現世に存在するサーヴァントの内、射命丸文を除く最速の存在より1ランク以上高い〟数値となる。
仮に『敏捷:A+』のサーヴァントが召喚されていたならば、射命丸文は『敏捷:A+~EX』となり、
例え他サーヴァントの最速存在が『敏捷:C』だったとしてもマスター次第で『敏捷:A~EX』程度は確保出来る。
故に、如何なる英霊が召喚されようと、〝聖杯戦争〟という枠の中であるならば、射命丸文より速いサーヴァントの存在は決して有り得ない。