東方聖酒杯 〜The Lost Dreams of Her Ideals. 作:ハシブトガラス
遠い空に私は、鮮やかな紅の光を見た。
それは、闇夜の中から突如湧き上がって、雲を抜け、空の彼方へと消えて行った。
ほんの一瞬の眩さ。
夢とも紛う程の、刹那の光。
けれどもあの光を目にしたのなら、夢であるなどと、迷う事は出来ないのだろう。
私はなんの裏づけも無く、あの光こそは真実であると、心から信じていた。
「アーチャー。あれは、誰?」
「………………」
風を切ってカーチェイスのように飛んでいた箒が、今は暗闇をゆったりと、ドライブを楽しむように漂っている。
アーチャーはもう、急いでいなかった。
その目は――捉えているのだろう。
数キロ向こうの空に在って、領土を睥睨する王の姿を。
眩き虹の翼と、禍々しき黒剣を携えて浮かぶ、紅い支配者の姿を。
「――綺麗」
そんな言葉が、私の唇から転げ落ちていた。
あの眩き姿を、心の底から美しいと思って――けれど私は、近づいて、彼女に触れようなどとは思わない。
触れず、何をも加えず、眺めていたい。そんな思いが、悲しみのように、胸に湧きおこるのだ。
誰、と聞いた。
けれど私は、あの光を知っている。
数多の伝承の中でも異彩を放つ〝七色の吸血鬼〟――〝
「彼女が――〝悪魔の妹〟なのね」
この時に、私が抱いた想いを、どう表現したら良いのだろう。
驚愕というのは平凡に過ぎる。
喜びというのも安っぽい。
畏れと記せば、その質を誤る。
私は兎角、遠くに立って、君臨する彼女の姿を、じっと眺めつづけていたいと思ったのだ。
あの存在を取り巻く環境に、己を投入し、崩してしまいたくない。
決して見る筈も無かった『幻想の幻想』が、現代に在るというだけの事を、見ているのが幸福だったのだ。
「素敵だわ」
――全く、どうして気付かなかったのか。
私は嘆息と共に、期待が胸の中で、無限に広がっていくのを感じていた。
私は、何だ?
己の道に沿い、己の基準にのみ従う魔術師だ。
神秘の潰えた世界の中で、残された神秘を掬い取りながら、過去の幻想(ユメ)に思いを馳せる人種だ。
その、焦がれる程に想ったものが、今はこの世界にある。
「アーチャー、貴女って素敵よ。セイバーも、ライダーも、アサシンも、ウォーリアーも、あの黒い鎧の英霊だって、とても素敵……!
皆、どんな文献を漁るよりもずっと恐ろしくて強く、あんなにも美しくて、不思議に満ちてるんだもの!」
聖杯戦争――なんと素晴らしい奇跡なのだろう。
そう気付いた瞬間、私の目に映る世界は、七色に輝き始めたようだった。
丁度、セイバーの――フランドールの翼に輝く、宝石達のように。
「知らなかった事ばかりだわ! きっとまだまだ、新しい事が待ってる! それが聖杯戦争の間は、多分、ずうっと続くのよ!」
望みは無いと、私は言った。生きて聖杯戦争を終えられるなら良い、と。
けれどその望みは、今にして思えば、勿体無い事この上無い。
誰よりも近くで、神秘がぶつかり合うのを見られる。
このままに生きていれば、決して叶わなかった望みが叶う――違う、既に叶っているのだから!
もう一度、私は、深く息を吐いた。
そして、寒気がする程の幸福に、そっと自分の体を抱いた。
「……お楽しみの所、済まないが、アリス」
そんな私を、夢から引きずり出すように、アーチャーは醒めた声で私を呼んだ。
「気が変わったんなら、あれをどうする。助けるか、放っておくか?」
「あれ?」
遥か高みではなく、地上にほど近い場所――具体的に言えば、ビルの屋上付近。
見なれた影が、二つ。
どういう訳かその二人は、屋上から転落しかけていた。
「……勿論、助けるわ! アーチャー、飛んで!」
「あいよ」
この数日で、私がこれほどに能動的だった事が有っただろうか。
けれども私は、答えを見つけたのだ。
死なせてはならない。
博麗霊夢を、死なせてはならない。
場所を同じくして、今にも死んでしまいそうな、犬走椛。
死なせてしまえば――あの奇跡が消えてしまうのだから。
空間が〝破壊〟され、突如出現した完全な虚空。
其処へ周囲の大気が流れ込んだ時、ビル街の上空には、暴風が吹き荒れた。
屋内に居れば、ガラスを失った窓から吹き込む風によろめく程の――そして屋外に居たならば、低く伏せていても、体が転がりかねない程の。
「くうっ……!」
霊夢は暴風の中、手足を水黽のように広げてつっぱり、転がらぬように屋上で耐えていた。
これは、余波でしかない。
セイバーが振るった力の奔流、その数百分の一か、数千分の一か、その程度の余波が引き起こした現象だと、他ならぬ霊夢自信が理解していた。
――こんなものを、呼んだのか。
他ならぬ自分が。
賭ける望みに平穏を選んだ筈の自分が、呼び寄せた代物が、これか。
――甘かった。
参加者は七人、その枠は変わらない。ならば自分が一つ、埋めてしまえば良いという思いも有った。
超常の力を得た者に対し、同等の力で抗し、闇に葬る。そうして、日常に起こった変異そのものを、無かった事にしてしまえば良いのだ、と。
その考えは、甘かった。
抗うなど片腹痛い。自分が得た力こそが、平穏の敵だった。
〝悪魔の妹〟フランドール・スカーレット――幻想の歴史を紐解いて、〝狂った〟と絞れば一番か二番目に名前が上がる。
その力は、万物に等しく〝破壊〟を齎すもの。
〝ありとあらゆるものを破壊する能力〟と、それを制御する事の出来ぬ狂気、更には吸血鬼の身体能力、種族由来の特性――全てが揃って出来上がった、完璧な化け物が、彼女であった。
――今回の戦闘で、どれだけの被害が出た?
数えて見なければ分からない。
数えるのは、霊夢の仕事では無い。警察やらマスコミやら、そういう所がやる。
明日の朝か、遅くとも昼頃には、ガラスの雨に刺殺された人間や、風に巻き込まれて数十mを転落した人間の数が分かるだろう。
霊夢は、己に問う。
その数は果たして――自分が参戦する事で、救えた人間より少ないか?
アサシンを追い、校舎へ向かった。其処から連れ去られて、ビル街の上空での戦いとなったが――本来の目的であった、学校生徒の救助はなったか?
――使い方を誤った。
博麗霊夢は、漸く、本質に気付き始めた。
自分が与えられた力は、汎用性に乏しい。
無論〝戦闘行為〟に限定するなら、高速近接戦闘、或いは遠距離より宝具での狙撃と、多様な戦術を選べよう。
だが『サーヴァント:フランドール・スカーレット』は、攻撃以外の運用は叶わぬのだ。
守る事は出来ない。
害する者を、先んじて破壊する事しか出来ない。
刃物や銃器と同じ――〝これ〟は狂気にして、凶器なのだ。
ようやっと風は止んだ。
ビルの屋上に立ち、霊夢は夜の地上を見下ろした。
遠く豆粒のように小さな人間が右往左往し、救急車とパトカーのサイレンがひっきりなしに鳴り響く惨事。
ああいうものには見覚えが有った。小規模の地獄が出来ているのだと知っていた。
そして――見下ろす霊夢の視界の端。ビルの縁に片手でぶら下がる、犬走椛の姿があった。
「……! 椛、あんた!」
霊夢は、同世代の学生と比して、敏い少女である。
にもかかわらずこの時は、凡百の少女と同じように――彼女の名を呼び、駆け寄り、両手で椛の腕を掴んでいた。
彼女が先程まで、霊夢に刃を向けていたのを忘れたかのように。
彼女の右腕を奪ったのが自分だと、忘れたかのように。
「動け、この馬鹿っ!」
人間一人の重量は、長く支えられるものではない。早々に引き揚げねばならないが、然し椛は、霊夢に腕を掴まれても、自分から這い上がろうとはしていなかった。
幾度も霊夢は、椛の名を呼んだ。
出血で顔を青ざめさせた椛は、気怠そうに目を閉じたまま、耳をほんの少しだけ動かした。
「……腹が減ったな」
授業の合間の、他愛ない会話のような口ぶりで、椛は言った。
「何でも食わせてやるわよ、だから!」
「あの菓子パン、本当はそんな好きじゃなくてな……やっぱり米と肉だ」
腕一本の重さが減ったとしても、椛と霊夢の体重差は僅か。汗ばむ霊夢の手の中で、椛の腕が下がって行く。
「椀にたっぷり、炊き立ての飯を盛って……肉は安いのでいい、フライパンにたっぷりと、タレの味しかしないくらいに炒めて……。丁度、ほら、お前の所で御馳走になったあれみたいにな……」
痛みに夢を見ているのか、そうでないのか。紅葉の目は開かれぬまま、何時かを懐かしむような口ぶりをしていた。
霊夢も覚えている――ほんの数か月前の事。
時間に余裕が有ったから、気紛れに招いて、二人で食材を買って、料理をして、食べた。
それだけの記憶。
だが、一つの思い出。
霊夢は、その過去を守りたかった。
「また死ぬ程作ってあげるから! だから、まず登って来なさい!」
自分が直接見ていない所で、きっと、何人も死んだのだろう――自分の失策で。
そしてまた、目の前で死なせるのか。
よりにもよって、友人を。
自分の〝平穏な日常〟を象徴する者を、死なせて良いのか。
「……あの時に言ったよなぁ、いつか礼をするって……今日がきっと、その時なんだろう」
「そうよ、とっとと上がって来なさい。私だってお腹が空いてるの!」
霊夢は、引き上げる腕に重さを感じた――椛が左腕を曲げて、体を持ち上げたのだ。
そうしなければ、ビル風に紛れてしまいそうな程、椛の声は小さく掠れて行くが――
「贈り物だ、博麗の」
――それでも最後に、犬走椛は、はっきりと言ったのだ。
腹が減ったと、戯れのように言った口をそのままに開き――霊夢の左手、令呪が浮かんだ手に、椛は鋭い牙を突き立てた。
「――っ!?」
皮膚を貫き、薄い肉も通り過ぎて、骨にまで届く、白狼天狗の牙。それは、針の鋭さと鈍器の衝撃とを併せ持つ、火の如く激しい痛みを呼び起こした。
霊夢は、反射的に手を引こうとして――だが、手を離しはしなかった。
手の肉を、ともすれば骨を貫いて砕きかねない椛の牙も、意を固めた霊夢を曲げられはしない。
だが椛は、霊夢の手にがっちりとかみついたまま――ビルの壁面を足で押し、落下していこうとする。
蒼白になった瞼が開いた。
その下の目は、霊夢に、こう言っているようだった。
――甘いんだよ、私達は。
そして二人の体は、地上へと向けて転落し――
ざんっ。
空中で、犬走椛の首は、胴体と別れを告げた。
そして霊夢は、アーチャーの箒に拾い上げられてビルの屋上へ舞い戻る。
セイバーは、刀身に残る椛の血を指で拭い――舐めて、啜った。
夜中に目を覚まして、自分が孤独だと感じる事が、子供にとってどれ程恐ろしいかを知っているだろうか。
ベッドの暖かさから抜け出して、誰か頼れる者を探し求める時間の、心細さを知っているだろうか。
暗い部屋の中――灯りのスイッチが何処にあるかも分からない。
仕方がないから、窓から差し込む薄明りを頼りに、冷え切った廊下を裸足で歩くのだ。
ぺたん。
ぺたん。
足音がする。
すうぅ。
はぁ。
呼吸音がする。
どちらも自分のものだと知っている。だが、そうでないかも知れないとも思ってしまう。
違うんだよと言って、抱き締めてくれる人がいない。
――寒い。
ベッドに戻って、温もりの中で、また朝が来るのを待っていたい。
けれどもそれ以上に――
――さびしい。
一人は、こわかった。
誰か、抱き締めてくれる人がいないなら、朝が来るまで眠りたくはなかった。
でも結局、眠さに耐えられなくて、孤独に震えながら、意識を手放す。
眠りに落ちる瞬間まで、心の中で、誰かを呼びながら。
「――――――、っ」
自分がほんの小さな頃の、悪夢。その中から抜け出すように、リグル・ナイトバグは目を覚ました。
時刻は、二十三時。日によっては目を覚ましている時間帯だが、今日ばかりは、帰宅して直ぐにベッドへ潜り込んだ。
夕食は摂っていない。使用人にも、部屋へは近寄らせなかった。
彼女が暮らす館は、かなりの広さがあり、また古い館であった。幽霊話の一つや二つが眠っていてもおかしくないような洋館――玄関ホールには大きな柱時計が有るが、それも使用人が毎日時間を調節する類のアンティーク。
夏は暑く、冬は寒い。私室にはクーラーがあるが、朝方や深夜の冷たさはどうにもならない――そういう館が、リグルの住居であった。
目覚めるなり、リグルは、廊下を走ってトイレに駆け込み――吐いた。
腹には殆ど食物が入っていなかったが、胃液を吐いて喉を傷めた。
「っは、ぁぅ、……うぇっ」
吐くものが無くなっても、吐き気は収まらない。
それどころか、苦しさで意識が鮮明になるにつれ、余計に胸を焼く痛みは増す。
――見捨てられた。
その事実が、眠る前も、目覚めた今も、リグルの中で反響を続けているのだ。
何が起こったのかも分からぬまま、あの場に連れて行かれた。
認識が間に合ったのは、急に倒れ始めた同級生やら、上級生やら、教員やら――兎角、学校に居た者の大半が倒れる姿。そして、その中を歩く――
――あれは、確か。
知っている。同級生の、古明地さとり。
上級生の河城にとりと親しいという事も、それ以外の生徒と会話する機会が少ない事も、知っている。
何処に住んでいるかも、家族構成――天涯孤独である事も、知っている。
その彼女の元に、何処から現れたか、〝妹〟が住み付いた事も、知っている。
妹の名前は、古明地こいし。
夜の校舎で、博麗霊夢とアリス・マーガトロイドが遭遇し、〝なにか良く分からぬ存在〟同士で交戦した事も知っている。
そう。全て、リグル・ナイトバグは知っていた。
烏天狗の俊足より、更に効率的に情報を知るものは何か。
それは何処にでも居て、何処にでも入り込み、そして誰よりも数が多い――蟲である。
昆虫と言わず、節足動物と言わず、有象無象、雑多の蟲。
それらの声を、ナイトバグの一族は、聞く事が出来た。
だから知っている。
博麗霊夢が呼び出した存在が、セイバーと呼ばれている事。人知を超えた力を持ち、今は四六時中、霊夢の近くに居る事。
北白河ちゆりとなのる少女が、その実は〝霧雨魔理沙〟なる過去の人物である事。
それらを含む、合計七組の存在が、最後の一組になるまで争おうとしている事。
所詮は蟲の盗み聞きだが、リグルは知っていたのだ。
つまりは、自分を襲った蜘蛛の如き怪物が――博麗霊夢の敵であり、古明地こいし、いや古明地さとりの従者である事も、今になって考えれば理解出来る。
然しそれは、頭が冷えてからの事。
捕まり、盾として晒された時は――恐怖に勝る感情は無かった。
それでも〝知っていた〟から、安堵はしていたのだ。
古明地こいしの従者は、霊夢の従者に、戦力では劣る、と。
だから目の前に博麗霊夢の姿が有った時、怯えながらもリグルは、自分が助け出される事を信じていた。
――見捨てられた。
幾度目か、えずいて、もう唾液さえ零れない。
喉が乾き切って、やっと吐き気が収まり、喉の渇きを覚えた。
ふらふらと廊下に出て、厨房へと歩く。
日中ならば、擦れ違う使用人の誰かに、水を持って来いと命じれば良かった。この時間であれば、起きているのは一人か、二人か――それも一階に居るだろう。
こうしてみると全く、自分は一人だった。
平時は鬱陶しい程に世話を焼こうとする使用人が、必要な時には、姿さえ見えない。
噂話を聞きたいと集まってくる者は多いが、この時間に電話やメールをして、嫌な顔をしない友人など居はしない。
血を分けた親族など、とうにこの世に居ない。
冷たく長い廊下を、裸足で歩く。寒さが背を遡ってきて――身震いしながら、やっと厨房に辿り着き、戸棚を開けてコップを手にした。
その時、だった。
「――お一つ、いかが?」
背後から、声。
ぞっとする程に冷たい、心の無い声。
「――――っ!?」
違う。心はある。それが酷く捻じ曲がってしまっているだけだ。
厨房にテーブルと椅子を持ちこみ、皿をグラスをふんだんに並べて、古明地さとりは夕飯を楽しんでいた。
殆どの皿は、ただ置かれているだけ。
だが、二つばかり、何の肉とも分からぬステーキが、何とも分からぬ赤いソースを注がれておかれている。さとりはそれを、ナイフとフォークで小さく切り分けながら、口へ運んでいるのだ。
グラスを満たすのは、ワイン。古風な館に相応しいビンテージ物を、惜しみなく注いでいる。
酒の味は――分かるのやも知れない。さとりの挙動は一つ一つが、いやに様になっていた。
音も無くナイフが滑り、分厚い肉の塊を切る。すると、程良く赤身の残った断面から、肉汁が溢れ出して皿に広がる。だが、そういう味のある部分に拘泥するでも無く、さとりは静かに、肉をフォークに突き刺す。
そして時々、ワインに口付ける。館に置いてあったのは白ワイン。赤と白に拘りは無いのだろうが、さとりはそれを、水でも飲むように、苦も無い顔で飲んでいた。
それはまるで、威厳をさえ通り越し一種の荘厳ささえ醸し出していた――
古明地さとりの左右の眼窩から、眼球が全く抜け落ちている事をさえ除けば、であるが。
「ひっ……!?」
「上等の鳥のステーキよ。私の最後の晩餐だもの、一緒に味わって頂戴……ねぇ、リグルちゃん」
リグルはたじろぎ、手の中のコップを落とした。水を酌む前のコップは、こつんと軽い音を立てて床にぶつかる。
その時、厨房に灯りが灯る。
テーブルの上に燭台が置かれていて、その蝋燭に火がつけられたのである。
火をともしたのは、背中から蜘蛛の如き足を生やした、腕の無い女――〝アサシン〟のサーヴァント、黒谷ヤマメであった。
「あ、あなた、なんで――」
「……そう驚かないでおくれ、取って食いはしないさぁ。あっちの連中も見ての通り、ちゃあんと生きてるしね」
無い手の代わりに、蜘蛛脚で示す先には、館の使用人が寝かされていた。
白い糸で四肢を縛り上げられ、口には布を噛まされ――だが、傷はつけられていないように見える。
人数は――六人。夜番二人だけでなく、止まり込みの四人まで、此処へ運ばれていた。
「死ぬとしたら私達よ、だから最後に呪いに来たの。きっと貴女に相応しい贈り物よ」
さとりは、椅子の音を鳴らさずに立ち上がった。
口を拭ったナプキンは、皮肉たっぷりに畳んで椅子に置き、リグルへと近づいて来る。
テーブルを回り込んで歩くさとり――足音の硬質さは、靴を履いていると見える。歩みは極めて遅かったが、リグルは逃れられず――アサシンに肩を押され、椅子に座らされた。
「呪い、って――なんなの、それ」
「貴女の絶望を、撒き散らしたいの」
動けない。
蜘蛛脚で背後から抑え込まれ、リグルは椅子から腰を浮かせる事も、腕を動かす事も出来ない。
額を突き合わされても。
空洞の眼窩で覗きこまれても。
そして、〝誰かの〟血に濡れた唇が、唇に重ねられても――
『――〝terrible souvenir〟』
古明地さとりの精神が、記憶の中に踏み込んでも。
さあ、始めましょう。
狭くて暗い館を離れて、もっと広く、もっと暗い、貴女の心の中へ。
人は誰しも、自分をさえ理解できないもの。妖怪だって精神の在り方が、遠くある訳じゃないでしょう?
呼び起こしてあげる。
貴女の心の闇。
眠らせて、見ないふりをしていた、どす黒い貴女の色。
――私には。
そんなものは無い、って?
違うでしょう、リグルちゃん。此処に立つとなんでも見えるわ。
貴女は本当に虫なのね。自分の意識が生まれた時、親の姿はもう無いの。
そして家来に傅かれて、当たり前のように女王として育っていく。
巣も、生業も、自分で作ったものじゃないけれど、自分のもののように扱える。それだけの力も引き継いでるのだから。
それも、女王だから当然と、思っているでしょう?
はっきりと言葉にしなくても、それが貴女。
――私は、そんな事。
貴女はとても恵まれている――皆が、そう思ってる。
大きな家、お金、無条件に頭を垂れる従者。何処から仕入れるのかは知らないけど、無限に集まる情報。きっと一生、喰うに困らないんだろう生活。沢山の友達。
それに比べたら、身内が無いなんて些細な事――
――違う!
ええ、そうよね……違うわ。
失うのは辛い事。持っていないのも、きっと辛い事。
だけど殆どの人は気付いてくれないの――自分の方が恵まれないと思い込んでるから。
だからでしょう、貴女に友達が少ないのは。
表面的な交友は有っても、向こうが貴女を友達と思っても、貴女が周囲を友人だとは認めなかった。
――……でも、だって。
思い出しているのね? あっちにも、むこうにも、見えるわ。
人の輪の真ん中で、貴女は楽しそうに話している。
なのに、ほうら! 放課後、その輪の中に、貴女だけがいないの!
彼女達は遊びに行った……けれどその前に、貴女を誘ったのよ。貴女は自分から、彼女達との交わりを断った。
孤独だ、孤独だと悲しむくせに、貴女はそうしてきたの!
――……だって! あの子達は……!
分かってくれないから!
そうよね、よーく分かるわ! だって私も同じだったもの!
あの子達がどんな優しい言葉を掛けてきたって、私には何も響かなかった。貴女もそうなんでしょう?
〝可哀想な子〟として接してくるのが疎ましい。
〝同情する私〟に酔っていて、肝心の私〝達〟が大事な訳じゃない!
……そうやって拗ねながら、でも表は綺麗に整えるのが貴女。取り繕わなかったのが私。
――あなたと一緒にしないで……私は、
『同じ人を見つけたから』。
その思い上がりは、貴女をどれ程の幸福に導いてくれたかしら。
きっと貴女の中で彼女は、最初の予定よりも大きくなっていった――大きくなり過ぎた。
……ほうら、見えてきたわ。
最初の出会いは、四年前。本当に偶然の、どうでもいいような出会いね。
けれど貴女は、近隣に、博麗の巫女が住んでいる事を、その時に知った。
それから――彼女がつい最近、天涯孤独の身の上に〝堕ちた〟事も!
貴女にとってそれは、酷く都合の良いものだった。
――私じゃない……私は、何もしてない!
知っているわ、事故だった。
……ふふ、私は貴女の心を見ているの。そんな勘違いはしないわよ。
あの頃の彼女は幼い子供で、それが、目の前で母親を失った――交通事故で。
ただの子供なら、泣き喚いたでしょう。なのに彼女は冷静に、事故現場で、無関係の子供が道路に出ないように抱き寄せてた。
そんな話を聞いた貴女が、博麗霊夢に興味を持って近づいて――惑わされるまで、そう時間は掛からなかった。
――あなたは、間違ってる。一方的に言うだけで……間違ってる!
――確かに、出会いは偶然だった。霊夢先輩がお母さんを亡くしたのを後で知ったし、それから親しくなった。
――けど、それは! それは霊夢先輩が、他の誰でもない、私を近くに置いてくれたからで……
いいえ、博麗霊夢は完全な平等主義者よ。
……違うわね、平等ではあるけれど、特殊な平等。彼女は与えられた好意に、適切な好意を返すだけ。
超然とした彼女を畏れるなら、彼女から害を為す事は無い。
踏み込んで触れようとするなら、歳相応に毒も見せるし、軽口だって叩く。
そして貴女みたいに、過剰に好意を見せる相手を――無碍に扱う理由が無いって、それだけなの。
そう、貴女はたんに、〝周りよりマシだっただけ〟の一人に過ぎない!
博麗霊夢は、貴女だけじゃない、誰にだって偏見を持たずに接する。貴女だけが特権を与えられていた訳じゃあない!
けれど、他に踏み込んでくる誰もいないから、四年間をだらだらと、隣に立っているつもりで居ただけなのよ。
所詮は、ただの交友関係。
命に係わる利害関係とは比べ物にならない。
……だから、アリス・マーガトロイドと、あのセイバーって子に負けるのよ。
――……っ!!!
自分の領域が侵された。それが貴女には耐えられない。
自分のモノが奪われた。それが貴女には許せない。
貴女は虫の女王だものね、与えられるのが当然の。
その傲慢が孤独を産んだ。
傲慢を苦に思わない博麗霊夢に惹かれて、でも、平等に扱われ――優先順位をつけられて、捨てられた。
貴女は優先されなかった!
――……ぅ、あ。
勿論気付いていたのよね!? 誰が悪いと言ったら、自分が悪いんだって!
同じ境遇の仲間だと勝手に決めつけて、それに依存しきって、他の関係は杜撰に扱った自分だって!
でも今更、途中でやめられない!
何年も掛けて作った自分の一切合財、間違いでしたって曲げられるんだったら苦労は無いわよねぇ!
どうするの?
もう博麗霊夢が、貴女を一番にする事は無いわ。
あの時、彼女の中で、貴女は終わったの。貴女は不要物として切り捨てられた。玉座を追われた哀れな虫の王様!
二度と手に入らない願いを、涎を垂らして見つめるだけ!
ところで、ねえ、気付いてる?
私の声の色、私の姿。それは本当に、貴女が思う私?
長らくおつきあい頂きありがとう、リグル。
私の名前は、〝リグル・ナイトバグ〟。
貴女に素晴らしい呪いを持って来たわ――
「――ああああああああああああああああああぁぁぁっっ!!!」
そうして、〝夢〟が醒める。
「――〝告げる〟」
唇を重ねたまま、古明地さとりが発した声――それは、酷く籠って、また弱く掠れていた。
彼女の喉は、切れ味の良いステーキナイフに切り付けられ、空気と血を零していたのだから。
「〝汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。聖杯の寄る辺に従い、この意、この理に従うならば応えよ〟」
詠唱は、さとりの喉から発せられた音であったが――同時に、リグル・ナイトバグの唇が、その形を作っていた。
唇と唇を触れさせ、片方の為す動きを、片一方に強制する、物理的な魔術トレース。
無論、このような手を用いて、魔術の素養の無い者に、術を行使できる筈が無い。
だが――〝今〟のリグル・ナイトバグは、違う。
古明地さとり、〝覚〟の力は、対象の記憶の内にあるものを、限定的にではあるが具現化する。
さとりは、自らの体内にある〝魔術回路〟を、丸ごとリグルの体に〝想起〟していた。
本来、幻想郷には存在しない筈の〝魔術回路〟が、妖怪の異形の神経系と癒合し――動作を始める。
「〝誓いを此処に。我は常世総ての善と成る者、我は常世総ての悪を敷く者――〟」
リグルが咄嗟に手にしたステーキナイフ――曇り一つ無く磨かれた柄を伝って、血が、床に滴り落ちていく。
その血は、アサシンが床に張り巡らした糸を伝い、何時の間にか魔法陣を描いていた。
そして、その陣の中央に、アサシンは居た。
まるで自らが、術式の供物であるかのように。
「〝――汝三大の言霊を纏う七天、抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ〟!!!」
血の橋を引いて、唇は離れた。
最後の一節は紛れも無く、リグル・ナイトバグ自身が、自らの意思で告げたもの。
陣を通じ、そして聖杯を通じ、流れ出す光の中で――
ず、るぅっ。
「――がはぁっ……!」
アサシンの腹から、腕が突き出ていた。
それは、小さな、赤子のような腕だった。
丸く柔らかい手の甲、薄い爪の、幼い手であった。
それが――みるみるうちに、育つ。
赤ん坊の手から、幼児の手に。
幼児の手から、少女の手に。
そして、アサシンの体を――内側から、引き裂き始めた。
ざぐっ。
ぶつっ。
引き千切られ――崩れゆく、体。
その肉は、アサシンの腹に開いた空洞の内へと引き込まれて行く。
喰われている。
アサシンは内側から、少女の手に、食われているのだ。
「おお……っ、は、ぁ、っははは、は――」
腹を開かれ、足も食われ、胸と頭と、それから蜘蛛脚が一対だけ残って。
その形を保てぬようになったアサシンは、粒子となって消滅を始める。
「――たぁんとお食べ、いい子だ」
最後の瞬間、アサシンは――己を喰らい生まれた忌み子を、蜘蛛脚で優しく撫ぜ、そして消えた。
慈母の如き笑みを浮かべ、安らぎに包まれて、暗殺者は逝ったのだ。
「問おう」
そして、忌み子は立った。
リグルと同じ程の背丈の、そしてアサシンよりは少し血の通った肌の色の。
少女は、古明地さとりの亡骸を抱いて座るリグルの前で、恭しく頭を垂れた。
「――君が、私のマスターか」
【ステータス情報が更新されました】
【クラス】真・アサシン
【真名】???
【マスター】リグル・ナイトバグ
【属性】中立・悪
【身長】148cm
【体重】43kg
【パラメータ】
筋力C 耐久D 敏捷A
魔力D 幸運E 宝具B
【クラス別能力】
気配遮断:A+
サーヴァントとしての気配を遮断する。完全に気配を絶てば発見することは不可能になる。
ただし、自ら攻撃を仕掛けると気配遮断のランクが低下する。
【保有スキル】
単独行動:A
マスターからの魔力供給を断ってもしばらくは自立できる能力。
宝具の使用にはバックアップが必要だが、マスター不在でも活動可能。
怪力:B
一時的に筋力を増幅させる、魔物・魔獣が保有する能力。使用中は筋力をワンランク上昇させる。