東方聖酒杯 〜The Lost Dreams of Her Ideals. 作:ハシブトガラス
私の住居に一人分しかない寝台を、来訪者が占有している。
色白の、手足の細い、小柄な少女だ。
不健康な痩躯ではなく、例えるなら深窓の令嬢というところか――スプーンより重い物を持つには似合わない、長く繊細な指が印象的だった。
リリカ・プリズムリバーというらしい。白玉楼を拠点としていたウォーリア陣営のマスターだ。
浅い呼吸を繰り返し、苦しげに眉根を寄せている。頬と額が不自然な程に赤く、汗の量も尋常じゃない。
「こいつは厄介だな……」
アーチャーは、その胸に手を当て、目を閉じ、魔術回路に意識を巡らせていた。
魔術回路に流した魔力を、擬似的な神経へと変化させ、呼吸音や体温や、その他心身に起こっている異常を探る――と同時、身体を蝕む毒の種別をも、探ろうとしている。
「蟲にでもやられたか?」
「……恐らくは。治せますか」
「私は医者じゃない、永遠亭に行け――無いのか、もう」
私は、その光景を観察していた。
作業の邪魔をしたくはないから、口を閉ざしては居たが、聞きたい事が山ほども有った。
アーチャーは今、記憶の中の膨大な情報から、専門外の医療知識を引き出しているのだろう。そして今、確かに〝蟲〟と言った筈だ。
単純な〝虫〟の毒ならば、魔術を用いての対応手段は幾つも見つかる。
単純に自然治癒力を増すものもあれば、患者の神経系のみに魔力を通して、毒性の伝達情報を阻害するという高度な手段もあり、荒っぽいものでは単純に毒性物質を破壊するというやり方も有る。あくまで、文献で見ただけだけれども。
だからアーチャーは、普通の虫の毒ならば、こうも固い表情を作らない筈だ。
然し――〝蟲〟だ。
音は同じだが、その実態には天と地程の差がある。
昆虫に留まらず、多脚の節足動物や、小型の偉業、人工的に産み出された使い魔の類に至るまで、多くを内包する、禍々しい言葉。
特に難しいのは、人の手が介在した場合。
悪意を以て作り出された、自然に存在しない毒性に対し、生来の耐性を持つ生物は極めて少ない。
そういう類の毒ならば、どうやって治す?
そもそも、治せるのか?
私はアーチャーの口元に目を留めて、その唇が動くのをじっと待ち続けた。
やがてアーチャーは、強張った表情を少し和らげて、リリカの胸元から手を離した。
「……どうにかしてやらん事も無い」
「やったっ!」
この声は、私のもの。
これ以上マスターに、引いてはサーヴァントに脱落者が増えてしまっては困るのだ。
既に、確実に一体、恐らくは二体のサーヴァントが消えた。それだけ聖杯戦争の終わりが近づいてしまったのだ。
リリカ・プリズムリバーを救う事で、その終わりが引き延ばせるならば、私は迷わず彼女を救う。
けれども、アーチャーとウォーリア、二騎のサーヴァントは、いずれもが怪訝そうな目で私を見ている。
「複雑な毒と、複雑な呪いの混合物だ。解呪は数時間、解毒は暫く掛かるだろうが……こいつなら、死んだりしないだろうさ」
「知人みたいな言い方をするのね、アーチャー」
「知人だからな」
「……もしかして、貴女の時代の生き残り!?」
興奮の熱冷めやらぬ私の声が、更なる昂揚に上ずる。
「リリカは
「……面目無いです」
ウォーリア――魂魄妖夢は、叱られた子供のような顔でしょげ返っている。
英霊のこんな顔を見られるのも、貴重な機会かも知れないなんて思ったけれど、これは観察に値するものでは無い。
これから、アーチャーの、戦闘ではなく治癒の術が見られるのだ。
強者絶対の殺し合いを、スペルカードルールという様式の美へ発展させた時代――必然、アーチャーが持つ魔術も、本来は闘争の為のものより、その他の目的に用いられるものが多い筈。
彼女の真価の一端を、私が覗き見る事が許される。小躍りしたくもなる幸福だった。
――あれ、でも。
それは唐突に、私の脳内に飛び込み、忽ちに六月の雨のように、長く続いて他の思考を掻き消した。
私は、聖杯戦争を続けたい。
私が満ち足りるまで、飽きるまで、何処までも。
満足が行かなければ、五十年でも、百年でも。
その為に、私は今、何をすれば良いのだろうか?
「――待って、アーチャー」
これが正答かは分からないけれど、
「……どうした、アリス」
「治療の前に、患者の同意を貰わないと。三十分、待って頂戴」
正しいか、誤っているか、では無い。
私は私の欲求を満たす為の、最善の策を求め、意識から外部全ての音を遮断した。
思考する。
私の望みを叶える形とは、何処にあるのか。
聖杯戦争を飽きるまで――その望みを叶える道は、何処から何処へ伸びているのか。
聖杯戦争の継続条件:サーヴァントとマスターが、最低二組以上、存在している事――(?)
単純明快にして、達成の難しい条件だ。
サーヴァントにも、各マスターにもそれぞれの思惑があり、自らの願望を達成する為に戦うというなら――私以外のマスターは、必ずや他の陣営の撃滅を求める。現在の同盟者、博麗霊夢でさえがそうだろう。
対して、私の望みは――
アリス・マーガトロイドの願望:聖杯戦争に携わるありとあらゆる事象の観察
サーヴァントが一騎、減るだけでも惜しい。
マスターさえも、本心を言うならば残っていて欲しい。
理想は七騎のサーヴァントが、七人のマスターの元にあり、それぞれが三画の令呪を備えた――つまり、戦争開始直後の状況だ。
私の心の良心的な部分が、日常生活の友人の無事であったり、無関係な一般市民の巻き添えを防ぐと言った、常識的な事を望みもしているが――どうしようも無く飢えた心は、良心を簡単に食い潰す。
――つまり私は、この戦争に勝ち抜かなければならない。
この答えは、必然だった。
私が理想とする形を作る最善手は、〝聖杯によって望みを叶える〟事だ。
心行くまで聖杯戦争を堪能する為、敢えて一度、私が勝利する形で、聖杯戦争を終結させる。
勝つ為には、〝負けてはならない〟。
今の私に与えられている駒は、攻撃に於いては、かなりの力を発揮するだろう。
アーチャー――長射程と高い機動力を持ち、遠距離狙撃や一撃離脱のような、負けない戦い方に適している。身に着けた数多の魔術も、敵の接近を知る術となり、極めて有用。
魔術主体の戦闘方法は、『対魔力』スキルと相性が悪いが、私達には同盟者が居る。
セイバー。
近接の戦闘に於いて、単純な火力ならば無類の強さを誇り――そして、あの宝具。遠目にも、魔力の余波を感じられる程の、気高く紅く、昏い光。
あれがどういうものであるかは、まだ分からない。けれど直感的に、あれは、受けてしまえばどうしようもないものだと感じた。
だから、仮に高い『対魔力』スキルを持つサーヴァントが居たのなら、セイバーと戦うように仕向ければいい。
セイバーと博麗霊夢のタッグは、きっと破竹の勢いで、立ち塞がる敵を打ち倒すだろう。
――それを、霊夢も考えている筈。
霊夢は霊夢で、セイバーと相性の悪い敵を、私とアーチャーに任せたいと思っている筈だ。
例えば近接戦闘の技量でセイバーを上回る敵や、宝具に対する防御手段を持つ敵など。
何より霊夢の、私に対する認識は――戦いに巻き込まれてなんとなく戦っている同級生と、それくらいのものではないだろうか。
ならば霊夢は、積極的に私達を倒しに来ない。
寧ろ、最後に戦う二騎のサーヴァントが、セイバーとアーチャーになるとさえ、予想している筈だ。
――その時と、その時までと。
霊夢とセイバーのタッグに勝算が立てば、聖杯戦争の制覇は、十分に狙い得る。
必要なのは、そこまで自分が脱落せずに耐え抜く手段と、セイバーを仕留め得る手段。
出来る。
私の脳髄が今、我欲を中心とした答えを導き出した。
私は、右手の小指の、第一関節を犬歯で挟み、
「『Assemble.』」
単言詠唱キーワードと共に、自分の指先を噛み千切った。
「なっ……!?」
痛みが意識を、雑多な音の世界へ引き戻す。
声を詰まらせ目を見開いていたのは、ウォーリア――魂魄妖夢だった。
成程、彼女に魔術の素養は無いらしい。
ならば、目を閉じて思案に耽っていた誰かが、いきなり自分の指を噛み切ったら、さぞや驚いた事だろう。
「アーチャー、貴女の名前を借りるわ」
「……アリス、本当に〝それ〟をやる気か?」
流石に大魔法使い、霧雨魔理沙。私の思惑を早くも見抜いて――それを、止めようともしていない。
なにせ、これから私が行使しようとする魔術は、飽く迄私から発し、私に効果を及ぼすものだ。
私の身体、精神を、これから永久に縛る一つの盟約――
死後の魂をさえ縛る、破壊不可の約定――
部屋の片隅に置かれた羊皮紙に、私は自分の血で書いた。
――――――――――――――――――――――――――――――
束縛術式:対象――アリス・マーガトロイド
魔術体系の祖の目と、子の術義の一切が命ず:下記条件の成就を前提とし、誓約は戒律となりて例外なく対象を縛るもの也
――――――――――――――――――――――――――――――
「これは……?」
ウォーリアは困惑と共に、文面を覗き込む。
赤く綴られて行く文字の羅列は、魔術の徒の他には、重要性を理解出来ないものだろう。
その当惑を察したアーチャーが、ウォーリアの隣に立ち、
「
私の意図を、魔術を知らぬ者にも分かるように伝える。
横目で見ていると、ウォーリアの表情の困惑の度合いは、寧ろ増したようにも見えたが。
「決して――」
「魔術師がな、自分の血で、自分の名を使って、自分に呪いを掛けるんだ。これが成立しちまったら、私だろうがパチュリーだろうが、もうこの証文を無効にする事は出来ない。そうするくらいなら、世界まるごと滅ぼしちまう方が簡単だって話になるな」
「ええ、そうよ」
私は、アーチャーの言葉を引き継ぐ形で、ウォーリアに告げる。
「私は貴女達と友好関係を築きたいの。それが本気だっていう事を知って欲しくって……だから!」
書き続ける。
赤文字が連なっていき、文章を為すにつれ、ウォーリアの当惑が怒りに変わって行くのは分かるが――それでも、止められなかった。
英霊の怒りを非力な身に浴びるのも、それはそれで、心地良いものだったのだから。
――――――――――――――――――――――――――――――
【誓約】
記述者アリス・マーガトロイドに対し、
リリカ・プリズムリバーを対象とした殺害・傷害の意図および行為を永久に禁ずる。
リリカ・プリズムリバーへの治療行為に際して、可能であるあらゆる手段を講じる事を命ずる。
サーヴァント、同盟者を通じ、間接的にリリカ・プリズムリバーへの殺害・傷害を意図および実行する事を永久に禁ずる。
【条件】
使役契約にあたり、リリカ・プリズムリバーがアリス・マーガトロイドを対象として、自己強制証文を記す事。
以下:条件となる文面。
『誓約:記述者リリカ・プリズムリバーに対し、
聖杯戦争終結までの間、アリス・マーガトロイドを主とした使い魔契約を締結し、その意に従う事を命ずる。
同期間内に於いて、アリス・マーガトロイドを対象とした殺害・傷害の意図および行為を禁ずる。
同期間内に於いて、アリス・マーガトロイドが死亡した際、リリカ・プリズムリバーもまた自死を行う事を命ずる。
条件:霧雨魔理沙によって、リリカ・プリズムリバーに対し、解呪の魔術が発動される事。』
――――――――――――――――――――――――――――――
「ふざけるなっ!!」
「私は酷く真面目よ、ウォーリア」
「これがっ、これではっ……これでは、我がマスターの身売りではありませんかっ!」
ウォーリアは、自らの刀を抜かんばかりに激していた。
当然の事だ。そして、予測の範疇に有る。
私が綴った文面は――好意的に解釈するなら、相当の譲歩である、とも言えよう。
自分自身の手による殺傷ばかりか、他者へ命じる・依頼するという形での殺傷の意図さえを、永久に――聖杯戦争の後までも禁ずる。加えて、治療行為に際してはあらゆる手段を――つまりは、アーチャーに対し令呪を用い、当人の意思に関わらず治療させる事さえが可能となる。
勿論、その為にリリカが差しだすものの大きさも、私は良く分かっている。
聖杯戦争の期間内に限るという前提ではあるが、端的に言えば――
自由意思を奪い、敵対の自由を奪い、私の死をトリガーにしてリリカも――果てはウォーリアまでも消滅するという、雁字搦めの不平等な契約。
この条件を呑んだ瞬間、リリカ・プリズムリバーとウォーリアは、私が飽きるまでの間、聖杯戦争に勝利する可能性が潰える。
平時ならば、この条件を呑む陣営は無い筈だ。
けれども、今の、この二人ならば。
「私も、条件は色々と考えたの。けれど……治療が終わった後、私が貴女達に倒されるのでは割に合わないし、私はリリカがどんな子かを知らないわ。ウォーリア、貴女がどれだけ義理堅くても、彼女が令呪で私を殺せと命じたら――」
「リリカはそんな事はしないっ!」
「――かも知れないけど、確証は無いわ。それに私だって、聖杯に託す望みがあるの――出来たのよ! 万が一にだって、失敗したくない、どうしても叶えたい望みなの!」
我ながら、悪辣だとは思う。
自分にこの条件が提示されれば、怒りに震えるだろう。自分の知人が、この契約で心身を売り渡すと聞けば、不快には思うだろう。
けれども私は、躊躇いを感じない。
寧ろ、この交渉が自分の望む形で纏まる事を、心から望んでいる。
「これはね、ウォーリア――妖夢と呼んだ方が良い? これはリリカも貴女も、どちらも命を失う事なく、聖杯戦争を勝ち抜けるかも知れない手段なのよ」
「戯言を言うな――」
「黙って聞きなさい」
自分の喉から出た声の筈が、聞き慣れない声音だった。
魂魄妖夢が、口を開いたままで押し黙る。
その目は、奇異なものを見る目と言うより――見知った敵対者へ向ける、困惑の抜けた、警戒の目だった。
「私は、聖杯戦争を続けたい。もし私が聖杯戦争に勝ち抜いたら、その時は、この戦争をまた繰り返したいと願うわ。けれど、何十回か、何百回か、もしかしたら何千回目かも知れないけど――何時か必ず、聖杯戦争の全てを知り尽くして、飽きる時が来る。そうしたらリリカは自由で――その後、私を殺そうとしたって良いのよ。その時、私は、リリカから身を守る事は出来ても、反撃して傷つけたり、まして殺したりする事なんて出来ない――そういう誓約だから」
噛み千切った小指の先を、また羊皮紙に触れさせる――血が滲まない。
ふと目を向けると、私の右手小指は、しっかり第一関節から先が再生していた。
その指を口に咥え、軽く歯を喰い込ませて、
「それとも、文面を書き換えようかしら。マスターの権限と令呪全てを私に譲渡した上で、リリカの魔力を私に供給するように」
「――!?」
この脅迫は、予想以上に響いたようだった。
妖夢の、刀の柄に置かれたままの手が、力を失ってだらりと垂れ下がる。
「この形にしたのは、リリカにマスターとしての権限を残したかったからよ。そうしなければ、『治療の後で改めてリリカを殺害する』なんて事も出来ると疑えるし、譲り受けた貴女が素直に従うとも思えないもの。でも、令呪までを譲り受けて縛るなら、その気になれば貴女の手で、リリカを殺させる事だって出来るわ」
「貴様っ……!」
「――いいえ、実際には殺さないでしょうね。私一人で、サーヴァント二人分の魔力を捻出するのは難しいもの。マスター権を移動するなら、リリカを何処かへ監禁して、魔力だけ私に供給してもらう。妖夢が私に逆らう事があれば、令呪で貴女を自害させた上で、監禁しているリリカも……殺しはしたくないけど、可哀想な目には遭ってもらうわ」
私は意図して、嗜虐的な笑みを作る。
自分の顔を操作するのは、案外に簡単な事だと、今日試みて、初めて分かった。
鏡を見ればきっと、自分が思い描いたのと全く同じ、凶悪な表情の私が居る事だろう。
その顔のまま、寝台の縁に腰掛け、眠るリリカの頬に触れた。
熱い。
騒霊も人のように発熱するのか――この緊迫した場の中で、一瞬、横に逸れた考えが駆け抜けた。
「魔力供給のパスの構築、色々な手段があるけれど、簡単なのは性交による同調だって知ってる? 私は女だけど、別に相手が男でも女でも、見た目が美しければどっちだっていいと思ってる。経験は無くても、一通りの知識は揃ってるわ。……それにこの子も結構可愛いとは思うし、楽しいのかって聞かれたら知らないけれど……いえ、案外に興味深いかも知れないわね、騒霊との性行為」
言葉一つ一つを吐く度に、冷静な敵意が体を突き刺す。
きっと魂魄妖夢は、私の口を如何に閉ざすか、そればかりを考えているんだろう。
けれども私は、自分の優位性を知っている。
彼女には、私達以外に、リリカの治療を依頼出来る相手など、恐らくは無い。
「熱で弱ってる自分の主人に無理をさせて、自分の主人を犯した女を主に仰ぐよりは、最初に出した条件を呑む方が賢いと思うんだけど、どうかしら?」
道は二つ。その内の一つには、外道が舌なめずりして待っていると思わせて、もう一つの道を選ばせる。その為に私は、彼女を殊更に煽り、嘲笑うような笑みを顔に貼り付けた。
「ぐ……ぐうっ……!」
怒りか、屈辱感か――目に見える程、ウォーリアは体を震わせる。
彼女が感情のままに動けば、私は死ぬだろう。
アーチャーの守りは、この狭い小屋の中では無意味だ――間に合わない。私の生殺与奪は、間違いなく、彼女に握られている。
けれども彼女は、どうやっても私を殺せないのだ。
そうすれば、自分の主を守る術を、投げ捨てる事になるから。
見て、少し話をすれば分かるような、忠義が服を着て歩いているようなサーヴァントが、そんな事、出来る筈が無い。
「よ、む……」
「リリカ……!?」
彼女の迷う背を押すのは、やっぱり、主人マスターの言葉だった。
体を起こそうとする彼女の肩に妖夢が触れ、その動きを押し留める。
「まだ寝ていてください、治療は始まっていない……少しの体力も、今は惜しい」
「妖夢、その紙、見せて……」
「――!? ですが、これは……!」
「話、聞いてたから……お願い……」
間髪入れず私は、机からリリカの手の中へと、羊皮紙を渡した。
条件さえ整えば、その瞬間から私を拘束する自己強制証文の文面に、リリカはさっと目を通し――
「……受けよう、これ」
決断は、早かった。
私もこの早さには意表を突かれて、思わずリリカの顔をまじまじと覗き込んでしまう。
憔悴した病人の顔ながら――聡明な光が、目の奥にある。
「リリカ、どういう事ですか……?」
「だって……これなら妖夢は、縛られないもの」
問い質す従者に対しリリカは、自分が主であるなどと微塵も考えていないような答えを返した。
「私は、聖杯戦争の間はこの人に従う事になるけど……妖夢は、私に従ってるだけだから……。妖夢がそうしたかったら、私から離れて別な人のサーヴァントになればいい、そうすれば妖夢の行動は制限出来ない……そうでしょう?」
「ええ。魂魄妖夢が、私かリリカでないマスターに従うのなら、確かにこの誓約が、妖夢に影響を与える事は無いわ」
私の言葉が真実であると保証するものを、彼女達は何も持たない。だが、真実ではある。
寧ろ、敢えてその選択肢を――魂魄妖夢がリリカ・プリズムリバーを裏切るという選択肢を残すように、文面を作ったのだ。
仮にマスターが死亡したとして、サーヴァントが、その瞬間に消滅する訳ではないと聞く。数時間あれば、或いは次の主に鞍替えし、聖杯戦争に参加し続ける事は可能だろう。
実際に、その道が選ばれないだろうとは思っている。
「受ければ、私は生きられる。受けなかったら私は死ぬ……けど、どっちを選んでも、妖夢……あなたは自由だよ。なら、断る理由なんか無い……」
「リリカ……!」
だが、こういう形で――リリカ・プリズムリバーが自ら進んで選択するという形で、契約が為るというのは、予想の外だった。
少し、この少女に興味が沸く。
思考自体は、さして難しい問題を解いたという訳でも無いが、リリカは思考の瞬発力が際立っているようだ。
あの短時間――文面は、一度か二度、読み通した程度のものだろう。悩む時間も、殆ど無かった筈だ。けれどもリリカは、迷う様子も見せずに決断した。
「率直に言うわ、リリカ。今の私は、少し貴女に好意を抱きかけているかも知れない」
興味を持ったものは、間近に置いて観察したくなる。触れて、様々な角度から眺めてみたくなる。
思うに私のこの感情は、恋愛感情にも近いものであって、その一端が――今、蟲の毒に苦しんでいる少女にも向けられた訳だ。
この思考の経緯を、理解した訳では無いのだろうけれど、リリカが私を見る目に、警戒心のようなものは感じられない。まるで、私が彼女に害意を持たないことを、完全に見通しているような、落ち着き払った目だった。
「……ありがとう……羊皮紙と、ナイフを頂戴」
望まれるままに私は、リリカにそれらを預け。
リリカは指先にナイフで傷をつけると、自らの血で以て、羊皮紙に文章を綴った。
「リリカ……、っ……すみません、すみません……!」
その様を見届けるのは、自らの無力に歯噛みするウォーリア、魂魄妖夢と、
「お前――本当にアリスだよな?」
「……? それ以外の何に見えるのよ」
おかしな物言いをする、私の小さなサーヴァント、アーチャー、霧雨魔理沙。
契約は、成った。
私は――
遥か古から今まで存在する騒霊を使い魔とし、
その従者たるサーヴァント一騎に間接的な命令権を得て、
更には彼女達が本拠地とする白玉楼を、霊体に対する城塞とも呼ぶべき拠点を得た。
「嗚呼、最っ高……!」
欲望を見出し、その求めるままに生きる事の、なんと甘美な事か。
早速私は、手に入れた騒霊の使い魔の、蟲毒の回復に至る過程の観察を始めた。
私の心の奥で、使われていなかった歯車が噛み合い動き出した日の、早朝の事だった。