東方聖酒杯 〜The Lost Dreams of Her Ideals. 作:ハシブトガラス
博麗霊夢は簡素な朝食を摂りながら、理由が何とも分からぬ不穏な予感を抱えていた。
その予感は、急遽対応せねばならぬ類のものではない。
だが――言い知れぬ心地悪さであった。
衣服の襟に草の棘が刺さっているようなものだ。皮膚にちくちくと刺さるが、出血もしないし毒も無い。だが一度気にすれば不快でならず、取り除くまでは気持ちが落ち着かない――そういう類の予感であった。
食事の後に、着替えを始めた。
学生服ではなく――元より休日ではあるが、仮に平日だとて、先の騒動の後で授業も出来ぬだろう。さりとて平時の服でもない、〝博麗の巫女〟の正装たる巫女服である。
着替えを済ませた後、霊夢は畳の上に座して目を閉じ、呼吸を整えながら境内の結界に意識を巡らせる。
〝外〟と〝内〟を断絶させる結界は、跨ぎ越える何者かの存在を鋭敏に感知する。長き年月に渡って練り上げられ、代々引き継がれた博麗神社の結界は、敷設の更新者たる霊夢にとって、目や耳、指先と同様であった。
「……あら、まぁ」
そこへ訪れた〝侵入者〟が誰であるかも、今の霊夢には手に取るように理解できた。その上で漏れ出た言葉が、これだ。
驚きは多分に滲ませながら、嘆きや苦しみ、悲しみの色はそこに無い。博麗霊夢の感情は波一つ立たぬままであった。
その内、〝侵入者〟は全く手馴れた様子で玄関口を開け、靴を丁寧に揃えてから廊下を渡り、霊夢が座す居間の戸を開けた。
「おはよう」
先に霊夢が声を掛けると、〝侵入者〟は嬉しそうに、然し気恥ずかしそうにも微笑んで、そっと霊夢の隣に正座する。
「おはようございます、先輩」
霊夢が薄目を開けて左手を見れば、リグル・ナイトバグは普段より、ほんの少し女性的な服を選んで纏っていた。
当人の容姿は寧ろ少年的な趣が有るのだが、衣服に借り物の如き風情は見えず、中々に似合いの姿であった。
然し、色合いは暗い。
上下共に黒染めの、袖丈も長いゆったりした衣服には、申し訳程度の飾り紐が色を添えているばかり。重ねたコートまでが、雪を濁らせたような灰色――沈鬱たる着飾りであった。
だが当人の面持ちは、陰りの端さえ帯びぬものであり――それが霊夢の〝勘〟に奇妙を訴えかける。
無論、奇妙はそればかりでない。
彼女が結界の中へ足を踏み入れた時点で、霊夢は既に〝その異常〟に気付いていたが、
「……なんか、安心するわ」
「えっ?」
「朝っぱらからあんたの顔を見てる事が、よ」
膝を崩して姿勢を変え、畳にだらしなく寝そべりながら、霊夢は長く息を吐き出した。
「昨日がアレだったじゃない、幾ら私だって疲れるってものよ……ワンパターンって良いわよね……落ち着く……」
「ワンパターン……それ、褒められてるんでしょうか?」
「すっごく褒めてるわよ、私にしては」
あまりに〝霊夢らしい〟物言いに、リグルは口を押さえる間も無く噴き出した。冗談、軽口の類としては、いかにも普段の霊夢が言いそうな台詞であったからなのだが――
然し霊夢は、全く真面目そのものの顔をして、天井を見上げていた。
幾度か霊夢は、金魚が水槽の中でやるように、ぱくぱくと唇だけを動かした。音を作ろうとして侭ならず、咳払いをしてからようやく発した言葉は、
「……悪かったわね、昨日は」
聞いたリグルの身を強張らせ、輝かしい笑みに僅かの翳りを差させるに十分であった。
「なんのことです?」
「当事者がとぼけるんじゃないの。老人ボケする歳じゃないでしょう……昨日の蜘蛛女とさとりの事よ」
長い夜の後だが、振り返ってみれば、たったの十数時間前。
古明地さとりとアサシンを追って学校に辿り着いた霊夢の前で、さとりは、霊夢に親しい二人――犬走椛とリグル・ナイトバグの両名を人質に取った。
二人のいずれかを選べ、選んだ方を助ける――それが、さとりの要求であった。
今にして思えばそれは、実利よりも、霊夢の心を苦しめる為の二択。狂った心が生んだ残虐であったのだろうが、霊夢の決断は速かった。
霊夢は『より戦いの妨げにならない方』として犬走椛を選び解放させ、その上でセイバーに、アサシンを攻撃させ――つまりは一度、リグル・ナイトバグの命を見捨てたのだ。
結果的に、リグルは生き残った。刃を向けられたアサシン――黒谷ヤマメが、人質である筈のリグルを逆に庇い、セイバーの斬撃を受けた為だ。
サーヴァントは機械ではなく、自らの意思を持った一個の人格である。古明地さとりは他者の心を読み、努めて惨酷な手段を選んだが、然し己のサーヴァントの善性にまでは考えが及ばなかったのであろうか。
結果がどうであれ、霊夢は確かに、理詰めでリグル・ナイトバグの――数年来親しく交友する後輩の命を、あっさりと投げ捨てたのである。
リグルもまた、あの選択の意味を理解している。
だからこそ――〝堕ちた〟のだ。
もしかすれば古明地さとりは、あの時既に、こうなる未来を予測していたのかも知れない。血を流し弱った体で、消えかけのサーヴァントを従えての深夜の来訪が、今、リグルをして、再び霊夢の元へ足を運ばせた。
リグルは強張った笑みのまま、仰向けの霊夢へ覆い被さるように体を傾けた。
両手を霊夢の頭の両脇、畳に着いて体を支え、見下ろす目に滲むのは涙か或いは狂気か――
「あんたが生きてて良かったわ、ほんと……」
――寸拍、狂気が和らいだ。
「本当に霊夢先輩は、そう思ってるんですか?」
リグルの声は震えていた。
どのような答えであれ、答えが返ればそれを信じざるを得ないジレンマの為であった。
そうだと言われれば良い。
否と言われた時、自分はどうすれば良いのか、どう耐えれば良いのか――
「当たり前よ」
然し霊夢の即答は、リグルの思考を一言に断つ。
「じゃなきゃ積極的に殺しに掛かるわよ……あんた、
「……っ!」
リグルは左膝で霊夢を跨ぎ、腹の上に馬乗りになるや、左手を霊夢の首へ添えた。
その手の甲には三画の令呪が、赤々と己を示すように刻まれている。
令呪を持つマスター同士は、いずれかが意図してそれを隠そうとしない限り、近づけば互いの令呪の存在を感知し得る。
リグルは、手袋などで令呪を隠す事も無ければ、魔術的な遮蔽策も用いていなかった――自分が聖杯戦争の参加者である事を、秘匿するつもりなどさらさら無かったのだ。
その行為は、或る種の都合良い妄想に支えられていた。
他の誰が同じ事をしても危機を招くばかりだが、自分だけはそうならないという夢想の元、彼女はあからさまな敵意をさえ霊夢に見せつける。
「昨日、一人殺してんのよ、私」
だのに霊夢は、首元の手を押しのけるでもなく、リグルの顔を見上げるばかりだった。
言葉の重さと裏腹、心が抜け落ちたように軽い声。喉から伝う音の振動にさえ怯えて、リグルは両手を胸まで引いた。
「……言うのも恥ずかしいけど、友達って奴だと思ってたのよ、椛は。その片腕を落として、首を斬らせて……我ながらなんとまぁ、友達甲斐の無い奴だと思うわ」
自嘲交じりの言葉に、憐憫の微笑。
何を哀れむか――この時は、己であった。
「これ見なさい、あいつの最期のプレゼント」
「プレゼント……っ、先輩、手」
顔二つの間に、霊夢が左手を割り込ませる。
骨まで届いた丸い傷が、周辺の肉を膿ませている――咬傷であった。
リグルの顔が面白いように青ざめるのを、霊夢はぼんやりとした目で見ていた。
「しょ、消毒っ! 包帯もっ!」
「いいわよ、出かける前で」
狼狽え、救急箱を取りに行こうとするリグルの袖を掴み、引き留める。
手の甲に丸く穿たれた傷は、丁度、令呪の消滅した一画の上に有った。
痛々しく変色した肉からは、腐った魚の発するような臭いが漂っている。
「こんな痛みで『嫌いになれ』って言いたいつもりなのかしらね、あいつ」
寂しげに、ぽつり。
それを聞いた後輩は、先までの己の態度を忘れて激昂した。
「……嫌えばいいんです、こんなことする人! なんて酷い……!」
その時、霊夢は、そこに何の妨げも無いように体を起こし、腹の上に乗っていたリグルを膝に降ろすと、両腕でがっしりと、小柄な後輩を胸の中に抱きしめて、彼女の左肩に顎を預けた。
「あ――っ、え?」
「私の性格は分かってんでしょ、あんた」
予想だにしない――だが夢想ならば幾度も繰り返した――行為が、不意をついて胸に刺さる。
耳の近くに置かれた唇は、力無く、掠れた息を交えて言葉を紡ぐ。
「……簡単に切り捨てられるんだったら苦労は無いの。あいつに刃物を向けられても、咬まれても――あいつを私が殺しても、私はあいつを嫌いになんかなれない。自分の周りのどんなものだって、本当は失くしたくないんだから……あんたなら分かってくれてると思ってた」
囁くように吹き込まれる言葉が、耳から背へと這い下りて行く度、リグルは小刻みに身震いをしていた。
それは嫌悪でなく、一種の恍惚、ぞくぞくと背を抜けて体の芯へ向かう質の震えだ。
望外の言葉が降りて来る。
唇が歪な弧を描いたが、それは泣いているのか、笑っているのか――
「……もう嫌、これ以上失くすの」
背に回された腕に、力がこもる。
より近づいた心臓二つの拍動は対照的だったが、それを感じ取れるのは博麗霊夢だけであった。
翻弄される少女は、腕の中で涙と共に破顔し、
「先輩……寂しかったんですか……?」
答えとして霊夢が頷いた時、リグル・ナイトバグは幸福の絶頂を見た。
霊夢の答えは、リグルの妄想を肯定する、完璧なものであったのだ。
「もう嫌! 裏切られるのも、先に死なれるのも嫌なの! 母さんもいない、友達も死なせた、これであんたまで死んでたら……どうすりゃいいのよぉ……っ」
「先輩……大丈夫、大丈夫ですっ! 私は此処に居ます、裏切ったりしません、死んだりしません……絶対、霊夢先輩の傍に居ますから……!」
自分を胸の中に閉じ込め、泣きじゃくる霊夢を抱き締め返し、リグル・ナイトバグは眩いばかりの笑顔でそう答え――博麗霊夢の脈拍は、平時より僅かにも乱れぬままであった。
それから暫しの後の事。
霊夢はちゃぶ台に左腕を乗せ、それをリグルに治療させながら、テレビのチャンネルをあれこれと切り替えていた。
治療しろと命じたのではない。リグルが自ら申し出て、霊夢が承諾をしただけだ。
治療とは言うが、消毒をし、ガーゼを当てて包帯を巻くだけの簡易的なものだ。
傷を膿ませ腐らせる『
傷は見えなくなった。霊夢はテレビ画面から目を離さず、だが何を見るとも無しに、目の焦点をぼんやりとさせていた。
「あんたさぁ……」
「はい?」
まるで日々の会話の一環であるかのように、霊夢は直ぐ傍の後輩に呼び掛ける。
「最初からマスターだった訳じゃないわよね」
「……はい」
恥じ入るように、リグルが肩をすくめる。
その反応の意図は霊夢には分からなかったが、リグル・ナイトバグが、聖杯戦争の開戦当初から参戦していたのでない事は理解していた。
令呪の反応を、リグルは隠そうとしない――というより、隠せていない。
そもリグル・ナイトバグへ〝半ば強制的に〟植え付けられた『魔術回路』は、幻想郷のシステムに存在しない物である。
古明地さとりの『想起』により発現したこの機能は、リグルの左手に宿った令呪と密接に結びついているが――それをリグルは、まだ完全には操る事が出来ていない。
技術だとか慣れだとかではなく、単純に〝不整合〟なのだ――人間の体に翼を繋いでも、人は空を飛べないのと同じように、外部から付け足した器官が正常に動作する筈が無い。
だのにリグルの魔術回路は、息吹いたその時から駆動を止めていない。
これは寧ろ、〝動かせない〟というより〝止められない〟のだ。
常に最大回転し続けるエンジンのように、周囲に轟音を撒き散らし我此処に在りと喧伝し続ける、それがリグルの〝出来損ない〟の魔術回路であり令呪であった。
「あんたが居たら、他のマスターを探すの、楽になりそうね」
霊夢の意図は――名言はせずとも明らかに――リグルを囮とし、他のマスターを呼び寄せようというものだ。
聖杯戦争に参加するのは、魔術的な素養を持つ者であるという。ならばリグルの異常を感知し、攻撃を仕掛けてくる者もあるだろうと――
「いっ、いえ――」
然しリグルは、霊夢の言葉の後ろ端を喰うように声を重ねる。
「他のマスターの位置は、殆ど見つけています」
「……!」
瞬間、刹那、寸刻――霊夢は体勢をそのままに、首だけをリグルの方へと回した。
平時と変わらぬ顔の中、両目だけが広く見開かれた凄絶な表情を見せた霊夢は、包帯が巻かれたままの左手で、リグルの腕を掴み、引いた。
「せ、先輩っ!?」
指が皮膚に痕を残す程の、強い力であった。
「聞かせなさい。何処? 何処に誰が居るの?」
修羅の形相、鬼の声音。
否と言わせぬと誰にも告げる、絶対者の覇気を受けて、リグルは腕の痛みに怯えながらも、陶然と、滔々と語り始めたのである。
リグル・ナイトバグは、虫を滑る一族の長子である――と同時に、たった一人の生き残りである。
何故か。一族全て、寿命が短いからだ。
野に這う虫が、春に生まれて冬に死ぬのと同じように、生まれ落ちたナイトバグの一族は、跡継ぎを産み落としたなら、死の他に仕事を残さない。
彼等は神秘の衰えた幻想郷に於いて、酷く〝原始的〟な――人と、雑多な虫とを分かち切らぬ、形を変えぬ種族であった。
虫は覇者である。獣より人より長く、さして姿も変えぬまま、地上に空に繁栄する。〝虫の王〟たるナイトバグの血も、大きく形を変えず受け継がれてきた。
神秘無き幻想郷に於いても、彼等は虫の声を聞き、虫に命じる。
故に、虫の忍び入る隙間があるならば、それ即ちナイトバグの耳が有る。ナイトバグの目が有る。
人の口より風より早く、彼等のみが幻想郷の広きを、居ながらにして知るのである。
その当代の主が、全ての耳目を己の為に意図的に偏らせたのならば――
答えは静かに、上擦った声を以て開示される。
「……サーヴァントは、今、五騎が確認されています」
「そりゃそうよね、二騎が減ったんだから――――ん、いや、違うか」
「はい。私の『アサシン』は――古明地さとりの脱落と同時に召喚されました。先輩のセイバー、アリス先輩のアーチャー、白玉楼のウォーリア――イレギュラークラス、野良道士のバーサーカー、合わせて五騎です」
霊夢が二度、首を傾げた。
聖杯戦争は七騎で行われ、クラスの重複は無い――それが鉄則である筈なのだ。
脱落した二騎のサーヴァントは――
「あの蜘蛛脚は、アサシンだって名乗ったわ。椛の方のは……」
「射命丸 文。伝承からも能力からも、ライダー以外の該当は無いと思います」
単純にこれまで確認されたサーヴァントを足すと、7騎。然し、その内の一つ――リグル・ナイトバグとアサシンの主従――は、恐らくは数に入らないイレギュラーなのだろう。
空白のクラスは二つ、ランサーとキャスター。ならば――霊夢が指折り数える。
「多分、あと一組――あんたの『虫の網』にも掛からない誰かが」
「はい、多分」
ただの推測に過ぎないが、案外にこれは的を外してはいないのだろう――霊夢は直感的にそう思った。
リグルの主従は、脱落した組の代わりに参戦した――と考えると、これはおかしな事になる。脱落者が補填されて行くのなら、何時までも聖杯戦争は終わらない。
だから、霊夢は逆に思考する。
古明地さとりと黒谷ヤマメの主従は、自ら聖杯戦争から降りる代わりに、リグル達を〝参戦させた〟のではないか――?
それが可能かどうか――分からない。だが、その前提で考えるなら、数の辻褄は合う。
そもそもにして『英霊』なるものを呼び出し使役するシステムは、大量のエネルギーを消費する。ただでさえ横紙破りで一騎を途中参戦させ、この上更にもう一騎が枠より溢れているとは――無いとは言えぬが考え難い。
故に、二陣営ではなく、一陣営。霊夢は以上の思考を、明確な形とはせぬまでも、会話の内に完了していた。
「ならキャスターね、多分。『陣地形成』のクラス特性持ちなら、引き篭もり上等でしょうよ。……さっさと見つけないと」
加えて、自らの存在を秘匿しながら戦況を見定めるやり口は、生存力と燃費効率に長けたランサーを運用するには似合わないとも感じたが故、霊夢はそのように結論づける。
自陣内の防戦に於いて、魔術師キャスターは無類の強さを発揮するという。備えが整うより先に潜伏箇所を特定し、襲撃する――それが勝利の最短手順であろう。
だからこそ、一刻も早く敵の所在を特定したいのだが――
「にしても、あんたの網に引っかからないって……どういう事? コンクリートの核シェルターにでも閉じ籠ってるの?」
「……それだって、排気口がある筈ですし、人の出入りする環境なら虫は忍び込めます。サーヴァントが少しでも動けば、それ自体は感知できなくても、何らかの痕跡の一つや二つ――」
街に生きる虫の数は、人間の比ではない。彼等が見聞きしたものを知り得るリグルなら、如何に巧妙な秘匿だとて、何らかの痕跡は見つけ出す。この世に存在するからには、周囲の環境に一切の影響を及ぼさず行動出来る道理は無いのだ。
ならば――〝最後の一騎〟は何故見つからない?
「――居ない、のかもね」
「いない……?」
「〝この街にいない〟か、或いは〝もういない〟か……〝そもそもいない〟か。あり得ないとは言えないでしょ?」
「……その考え方は危ないと」
敵が少ないかも知れない――と、想定するのは、楽天的な思考であると、リグルが咎める。リグル自身、自分の情報網を信用してはいるが、後ろ向きな思考は拭えない。
拠点が遠いか、脱落してるか、実は存在してさえいないのか、まだ決め付けるのは早計だと注告――いや、〝忠告〟するが、
「あんたが居れば、危ない事も無いでしょ」
「えっ……?」
霊夢は何とも容易げに、ちゃぶ台に片肘を乗せたままで言った。それから、少し眠たげにあくびをした。
その瞬間――少なくともリグルの目には、博麗神社の狭い居間が、平穏な日常に在るように思えた。
これから朝食を済ませ、鞄を手に通学路を歩き、授業が済めば同じ道を、無為の戯れ言ばかり交わして帰る――退屈な、代わり映えの無い日々。
無論、それは幻想に過ぎない。
然しリグルは知っている――退屈な日常を、博麗霊夢が、どれ程に愛しているのか。常日頃変わらぬ大人びた顔が、時折子供じみて緩む時は、いつもそんな、平穏な日常の中に在る時だったと。
他の誰が知らずとも、自分だけは知っていると――信じているからこそ、霊夢の言葉を肯定出来ない。
「……いいえ、そんな事は無いと思います。私の令呪は隠蔽が難しいですし、サーヴァントはアサシン、正面切っての戦闘は――」
戦闘力を言うならば、リグルとアサシンの陣営は、霊夢とセイバーの主従に遠く及ばないと、リグル自身が良く知っている。だからこそ、自分が不当に高く評価されている事、博麗霊夢が自らの評価を誤り、危険に陥る事を、万一にも看過する事は出来なかった。自分は、博麗霊夢の日常を守る盾とは成り得ないのだ、と。
だがそれ以上に、自分もまた、平穏な日々を壊す因子であると、リグル・ナイトバグは自覚していた。
自分が居れば危ない事も無い――否。
既に、戦いに足を踏み入れた自分自身が、平穏とは程遠い――霊夢の愛する日常と、かけ離れた存在なのだから。
自分に頼る事は、良策では無い。リグルが、そう明確に告げようと、口を開こうとした時
「そーいう事じゃないの」
その唇を閉ざす、霊夢の指。リグルの目を覗き込む、黒い瞳。
ちゃぶ台の上に身を乗り出すように、霊夢はリグルと前髪を交わらせた。
言葉を閉ざす指を引き――唇を、その空白に押し当てた。
軽く触れるばかりの口付けは、瞬き二つ程の間に過ぎて、離れてしまえばそれこそ夢であったかのように形を残さない。
ただ、リグル・ナイトバグは、己の唇に残った他者の体温を、無意識に舌先でなぞって、
「……っ、え、ぁ、え……えっ、ええ、えっ?」
酷く狼狽しながら、耳から首まで真っ赤に染めた。
一方で博麗霊夢は、畳の上にごろりと転がり、自分の行為を忘れたかのように、
「ねぇ、お腹空いた。ごはん作ってよ、この手じゃレンジでチンしか出来ないんだもん」
世話焼きの後輩に、朝食の用意をねだった。
その日、博麗神社の食卓には、余り物の野菜や惣菜を用いたとは思えない程、栄養バランスと味の双方に配慮した、豪勢な朝食が用意された。
白米の湯気が漂う居間と、壁を隔てて隣室。
少女二人が座し、向かい合っている。
友好的であるか――全く、否。片や既に抜き身の刃を手にし、もう一方も隣室の声に意識を置きながら、壁にぴたりと背を当てている。
セイバーとアサシン、二騎のサーヴァントであった。
セイバー、フランドール・スカーレットは、眼前の相手に対し、自らの真名を隠蔽する意図を持たぬのか、衣服も生前の物に近い赤、束ねた髪も本来の金を、余さず表に示している。
対峙するアサシン――彼女もまた、その姿は、自らの名を告げるように生前そのまま。襟付きの白いシャツに黒いベストを重ね、黒いスカート。淑やかな趣があった。
だが、少女的な服装の裏に秘められた本性は、凶暴な〝魔〟である。その事を示すように、アサシンが笑うと、並ぶ歯列は鋭い牙となっていた。
「残酷ね、貴女の主人は」
アサシンの口調は、自らのマスターに向けるものより、寧ろ柔らかいが、非難の色がありありと浮かぶ。
セイバーは、苦々しくその言葉を聞いた。
「……霊夢は、覚悟を決めたの。他人の何もかもを踏みにじる覚悟を」
「それが当代の〝博麗の巫女〟の在り方? ふぅん、私の生きてた頃と随分変わったわね――少なくとも本質は。顔とやってる事だけは、あんなにそっくりなのに」
「大して知りもしないで、勝手な事を言わないで」
「あら、貴女だって別に、博麗霊夢を良く知っていた訳じゃあないでしょう、閉じ込められたお姫様」
二騎のサーヴァントは、隣室の音と声のみを聞いて、その様子を把握していた。そして二者ともが、心の底では、同じ思いを抱いていた。
――むごい事をする。
恋人にするような行為を、思慕の情を抱いたような言葉を、贈り物ではなく武器とするのは、極めて残酷な事だ。
「貴女の主人のやってる事は、呪いとおんなじよ。これで私のマスターは、貴女の主人の為にどんな事だってするでしょう」
「戦いなのよ、仕方がないわ」
「へぇ。ならば私のマスターが、私にどんな事をさせても〝仕方がない〟と言い切れるのかしら?」
私は怪物よ、とアサシンは言った。アサシンの目は、それ自体が光源であるかのように、らんと金色に光っている。
「夜は貴女達だけのものではないわ。有象無象、魑魅魍魎が何千、何万、這いずり回って蠢いて。その中で私の名が、今も残っている理由が分かる?」
「闇を侮るつもりは無いわ。けれど、貴女と私を比べて、私が劣っているものはない」
「その傲慢、その矜持、流石に紅の吸血鬼ね。生まれつきの強者だから、弱者の振る舞いを分かっていない。警告しておくわ――貴女の主人は、あの行為の報いを受けるでしょう。報いは毒となって、やがては彼女を殺すかも知れないよ」
平静の言葉に、ぞっとする程の怒りと憎悪が有った。セイバーは無意識に、間合いを一歩、歩いて詰めていた。
元よりセイバーの間合いは、剣の常識を逸脱した遠距離。強化魔術により延長した刃と、対城宝具『
そういう理性の駆け引きを超えた、予感が有った。
この敵を、自分の手の届く範囲に置かねばならない。さもなければ、大きな災いがある。
夜の王たる吸血鬼の本能が、たった一匹の、種族さえ定かでない妖怪に、最大限の警告を叫んだのである。
然し、均衡は破られなかった。
二騎のサーヴァントは、隣室から此方へ向かう足音を聞いたのである。
「アサシン、夜に動きます。〝例の場所〟に私を運びなさい」
リグル・ナイトバグは、この数十分で顔を変えていた。
青白かった頬に赤みがさし、強張っていた目が僅かに緩み、せわしなく揺れていた眼球も、余裕を覚えてか真っ直ぐに前を見据えていた。
自分は、価値があるのだ――そう信じる少女の、強くも愚かしい、愚かだが強い目になっていた。
「心得た、マスター。君の言に従おう……但し、忠告はさせてもらう」
「どうぞ」
「君の恋路は釣られた揺籃の中に在る。揺れる度に君の肌は破れ、滴る血が女を潤す」
アサシンの忠言も、リグルの表情を変えさせる事は無い。
幸福の絶頂の中、少女は自らの従者を傍に、博麗神社を後にする。
二つの、同じくらいの大きさの背を、見送る者は居なかった。