東方聖酒杯 〜The Lost Dreams of Her Ideals.   作:ハシブトガラス

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二日目、妖怪の山

 霊夢は、妖怪の山の坂道を下っていた。

 時刻は既に8時を回り、街灯に頼っても足元は暗く、雪が轍となって足を掬う。遠くに見る家屋の窓から零れる光には、住人の姿が幾つか、影となって混ざっていた。

 

「霊夢、助かると思う?」

 

「助かるわよ、生きてるなら」

 

 不可視の霊体が、霊夢の脳裏に直接問いかける。そうあって欲しいと祈る様に、また、そうなると固く信じて霊夢は答えた。

 彼女を、アリス・マーガトロイドを運びこんだのは、この聖杯戦争では唯一絶対の安全地帯だ。

 あの場所は、争いの火を不必要に広げ、衆目を集めない為に定められた中立地帯。それと同時に、この戦争の脱落者や、無関係にして巻き込まれた者を保護する場所でもあるという。誰かに伝え聞いた訳ではなく、博麗神社で見つけた書物に記されていた事だ。

 奇遇にもその場所は、霊夢自身が昔から、個人的に知っていた場所でもある。

 成程、あの場所にすむ彼女なら、或いはあの状態のアリスさえ救えるかも知れない。

 彼女の力を、霊夢は幼い頃に幾度か見せられた。個人の人格を抜きにするなら、彼女の力は信用に足るものである。

 

「運びこんだ時点で、まだ息は有ったけど……結構、神頼みよ?」

 

「神頼み上等よ、こちとら八百万の神様を扱う巫女さんなんだから。あれだけ苦労して運んだのに、助からなきゃ嘘よ」

 

 妖怪の山の道中、霊夢は、アリスを自ら背負って歩いた。

 セイバーを実体化させて背負わせた方が楽ではあっただろう。だがその場合、先程の黒い影の気が変わり、戻ってきた時の対処手段が無い。

 セイバーの感知範囲はおそらく霊夢より広いだろうが、あの影の移動速度は未だに上限が見えない。アリスを降ろして戦闘態勢を取る前に、霊夢かセイバーかアリスか、誰かに一撃を加える事は十分に可能だろう。

 その一撃が、先の校庭で未遂に終わったものだとしたら、セイバーすら耐えられない恐れがある。

 霊夢が担いでいけば、セイバーは武器を構えたままで霊夢に同行出来る。万が一、敵サーヴァントの接近を感知した場合、奇襲の一撃を防ぐ事は可能だろう。それが宝具による高速攻撃だったとしても、同様に宝具を展開すれば良い。

 更に言えば、霊夢の意向はどうあれ、セイバーはアリスの生き死にに絶対の執着が有る訳でもない。奇襲を察知したら、最悪でも霊夢だけを抱えて逃げるという手が有るのだ。セイバーが護衛、霊夢が背負って歩くという手段は、両者共に達した結論であった。

 

「それにしても、ねぇ……霊夢、貴女、あの女とそんなに仲が良かったのかしら?」

 

「まさか。人生において接点すら数回しか無いわよ」

 

「じゃあ、どうしてこんなものを貰ったのよ。丁度良いから私が使うけど」

 

 霊体化した状態では見えないが、セイバーは現在、二振りの刀を所有していた。

 一つは、博麗神社から持ちだした御神刀。飾りとしか思っていなかったこの一振りは、セイバーが手にするや、戦闘に用いるに十分な性能を発揮する様になった。

 これはセイバーの持つ保有スキル『魔術:C』の為だろうか。通常兵器が効力を発揮しないサーヴァントに対しても、魔術的効果を纏わせる事で、斬撃が通る様にしているのだろう。刃が届かない範囲への斬撃も、おそらくはそれの副次的作用と思える。

 そして、もう一振り。博麗神社から持ちだしたそれと違い、神代を思わせる壮麗ながらも重厚な装飾の鞘に収まった長刀。僅かに鞘をずらして眺めた刃は、底冷えする様な霊力を放ち、それ自体が既に人界の宝具といえる代物であった。

 これがナイフや短刀なら、霊夢自身が護身用に持ちたい程だ。何せこの長刀は、魔術的干渉を一切行わずして、サーヴァントにすら傷を与えられるものだったのだから。

 何故このような物がセイバーの手に有るかと言えば、アリスを預けた先で霊夢が与えられたからである。去り際に呼び止められ、押しつけられ、そのまま送りだされた。

 霊夢としても、渡された理由が理解出来ないし、容易く渡して良い代物にも思えない。かと言って、貰ってしまったなら返したくならない程、それは魅力的な武器だったのである。

 

「良いわね、この刀。適度に重くて、すっぽ抜けが無さそう。反りの浅さも気に入ったわ」

 

「反りが深い方が抜きやすい、って聞いた事が有る気がするけど……実際どうなの?」

 

「この長さじゃ居合いはどっちみち出来ないから同じよ。それと、反り過ぎててもそれはそれで抜きにくいわ」

 

 長刀を背に括りつけて、セイバーは甚く上機嫌であった。新しい玩具を得た子供の様でもある。このサーヴァントは、緊迫した場面でなければ、外見に釣り合わない幼さを見せるらしい。刀に対する寸評を聴きながら、霊夢は、客観的に見た自分の姿を想像していた。

 学校の制服、ただし全身が鮮やかな動脈血と暗い静脈血の混合物に塗れ、それが乾いている。事情を知らぬ者が見れば、死人が歩いているとでも思うか、或いは殺人者が獲物を探しているとでも思いかねない。

 アリスを背負って歩いていた時は、セイバーに周囲を警戒させ、姿を隠しながら歩いていた。あれから何時間か経過したからと言って、こうも不用心に歩いていて良いものか。

 そういえば、不用心と言うなら――

 

「ねえ、セイバー。近くに他のサーヴァントの気配は?」

 

「無いわね。少しだけ、感知範囲を広げてみるけど……」

 

 歩いている訳でもないからこの表現はおかしいが、セイバーが脚を止めた。霊体化したままで、彼女は目を閉じ、精神を静めて集中を開始する。

 セイバーの感知範囲は、通常時で半径200mに及ぶ。だが、彼女の場合は、他の事に意識を裂くと、その範囲が極めて狭くなる。

 例えば、校舎の屋上で術式の検証をしていた時、セイバーはせいぜい数十m程度しか周囲の気配を察知出来ていなかった。一度探知を始めればコンスタントに一定距離を把握する霊夢とは、感知の手段が異なるのだ。

 そして、逆も然り。気を抜けば感知範囲が狭まるなら、集中すれば範囲は広げる事も出来る。現在のセイバーは半径400m、通常時の倍の範囲で、サーヴァントの気配だけを探っていた。

 

「……見つからないわ、この距離に居ないなら大丈夫。何か有っても、私が反応出来る距離よ」

 

「なら安心したわ、早く帰りましょ。警察にでも見つかったら厄介だし、早く制服を洗わないと明日が大変よ」

 

 聖杯戦争、先は長い。そして、明日も学校には普段同様に通わなければならない。敵サーヴァントの襲撃で実行できなかった、校舎に仕掛けられた術式の無効化を行う必要がある。

 更には、その術者の特定、撃破。自分自身の情報を隠蔽しつつ、他のマスターの探索。為すべき事は山と重なっていて、1日は24時間と定まったまま融通を利かせる様子も無い。

 

「………………」

 

「ん、どうしたの、セイバー?」

 

「ちょっとね、うん……あ、気にしないで。気のせいだった」

 

「……なら、良いけど」

 

 帰路、セイバーの気配が立ち止まり、霊夢達が降りてきた山の方に意識を向けていた。霊夢達の感知範囲に敵サーヴァントの反応は無く、その日、これ以降の戦闘は、この2人の身には降り掛からなかった。

 

 

 

 

 

―――Start.

 

 白い、白い世界に打ち捨てられていた。

 立ち上がろうとしても床が無いので、手を付けないし足も踏ん張れない。けれど、落下する様子もなかったから、ふわふわと漂う侭に任せた。

 どうして、私はこんな所にいるのだろう?

 首を傾げようとするが、動かない。

 顎の下に手を添えようとするが、腕も動かない。

 自分の体に何一つ、自分が動かせる部分が無かった。

 動かなくても良いかな、とさえ思える。白い世界は少し寒いけれど、こうして横たわっているには楽でいい。

 でも、直ぐに退屈になってしまった。

 動けないから、思考を巡らす。どうして、私はこんな所にいるのだろう?

 こんな空間が本当に有る筈無いから、これは夢か何かに違いない。でも夢と思うには、何か決定的な欠落が有って、目を背けたくなる。

 良く考えれば、どうしても目覚めなければならない理由なんて無いかも知れない。

 目が覚めるから、人は生きようとする。二度と覚めない眠りなら、目覚めようと足掻く意味は無いのだ。そうと決まれば、見たくない物は見ないで、自分の思考の中を泳ごうか――

 

「……懐かしいですね、こういう光景」

 

――……誰の声だろう?

 私の漂う世界の天蓋を、ゆったりと揺す振る音がする。初めて聞いた筈の声が、その発した言葉同様、懐かしく耳を擽った。

 

「眠っていられるならば、それが良いのかも知れません。何も得られない代わりに何も失わない、そこは完全な世界です。完全を外に求めるなんて、自分を知らない人のする事なのに……ええ、自分が完全だと知らない人のね」

 

 夢を見ているのだとしたら、外から聞こえるこの音も、また私の心が生んだ声なのだろうか。なら私は、この退屈な世界を、完全だと思っているのだろうか。

 いや、確かにこの世界は完全だ。新しく付け足すものがないから、何も知る余地がないだけだ。

 ああ、知的好奇心が帰ってきてしまった。欲が出てきてしまった。何も知る事が出来ない世界にいては、私は退屈で身が腐ってしまうだろう。

 閉じた瞼の下では、周囲の景色がひたすらに上昇を続ける。私が沈み続ける。浮かびあがろうとして、右手を高く掲げて、水を掻こうとして、

 

「……、あぅ、く、あ゛ぁっ……!?」

 

 世界の白が、コールタールで塗りつぶされた。穢れ穢れて光を失い、粘度を増し、絡みつく世界。眠りを呼ぶ冷たさは、意識を呼び起こす灼熱となり、身の内に灯る。熱さから逃れようと口を開いても、タールが流れ込むばかりで息が出来ない。

 苦しい。

 苦しい、痛い、苦しい。

 救いは、周囲の黒が重すぎるせいで、私自身の体が浮かび始めた事だった。遥か高みに、明かりが見える。不自然に優しい白ではない、冷徹な蛍光灯の蒼白でもない。火の赤から逃れる為に、そこにある安らぎの緑に手を伸ばし――

 

「おはようございます、今は午後10時29分。良い目覚めでしょう?」

 

私の手は、誰かの手を強く握りしめていた。

私とそう変わらない年齢にも見える、ずっと年上の様にも見える。年下でない事だけは確かだろう。

長い緑髪が私の顔の数センチ上で揺れている。顔を覗きこまれているのだ。

視界を遮る頭部の向こうには、文明の利器の電気の光。やや煤けた、茶褐色混じりの白。

 

 重ねた手は冷たかった。人の体温は有るのに、それを私に分け与えてくれない。小さな傷痕の幾つかを、薄くなった皮膚の感触で知る。その部位だけ、脈が強く伝わる。誰かの心臓の鼓動、生きている。そして、私も生きている。

 

「生き返った様な心地の筈です。普通ならば死んでいる様な重傷でしたから」

 

「……あな、た、は?」

 

 その女性は、首の位置を変えようともせず、口角も最低限の変化に留め、だが良く通る声を発する。覚醒したばかりの私には、その声が少々騒がしく、逃れられるならば逃れたいとすら感じた。

 

「治療のし甲斐がない患者でした。私が手を付ける前に、もう4割程は回復していましたから。貴女はキョンシーの親戚ですか? 神霊を喰らって身を繕う、道士の忠実な部下の。

 ……ああ、2度の催促は必要有りません。ですが、まずは私に思う侭に語らせてください。過ぎ去った過去に想いを馳せるのは未来に絶望する事と同義にはならないのですから」

 

 私の問いに、答えを返さない。返すつもりは有るのかも知れないが、雑多な言葉がその意思を埋める。

 彼女の目と私の目は、未だに距離の変化を生まない。彼女が離れていこうとしないのだ。

 

「ですが、未来の形は既に1つ定まった。それはどう足掻いても変えられない事です。喜びなさい、望んでも与えられないものを、貴女は望まずに手にする事が出来た。或いは望みすら、貴女には与えられるかも知れないのです」

 

「……? ちょっと、待った……」

 

 話が通じていないのだろうか。言語は理解出来ていても、意思疎通が出来ている気がしない。横から水を流し込んでも大河の流れが変わらない様に、彼女の言葉もまた、淀みを見せない。私が何か言葉を差し挟もうと、飲み込んで無に帰してしまいそうな程だ。

 

「貴女は、生きていていい。生きる事を選んでもいい。その為に答えられる事は答えましょう、貸せる力なら貸しましょう。求めたまえさらば与えよう。私も万能ではありませんし、立場という枷は存外に重いのですがね」

 

 緑髪の女は、そこまで語り終えると、私から離れて壁の方へと寄った。首が動かせる、彼女を追って首を傾けると、そこには椅子が一つと机が一つ。彼女は椅子に腰かけ、机に両肘を付いて、

 

「私は東風谷早苗。此度の第五次聖杯戦争に於いて、監督役を務めます」

 

 初めて、私に表情を見せた。邪気の無い笑み、純粋な喜びに満ちた笑顔だった。

 

 

 

 

 

 何から聞けば良いのか分からなかったから、疑問を抱いた順に、追って訊ねていった。

 最初に確認した事は、私はほぼ確実に死んだのでは無かったか、という事だ。自分の身に何が起こったかは分からない。が、あの瞬間を今振り返れば、私の胴体は潰れていた。常識的に考えて、生物があの様な状態になったら、生命活動を維持できる筈がないのだが。

 

「運よく死ななかったのでしょう。だから、こうして生きている」

 

 こんな答えを返されてしまっては、それ以上喰いつく事も出来はしない。実際問題、自分がこうして生きているのだから、あの時に死ななかったというのは確かだ。意識が無くなっただけで死にはしなかった、そう納得する他は無い。

 

「……じゃあ、何で、私が?」

 

 では次は、私が殺された――殺されかけた理由だ。確か、私が最後に見たものは、黒と白で構成された殺意の塊。

 

「私はその場にいた訳ではない、本当の所は分かりません。ただ、貴女を運んできたご友人の言葉に従えば、貴女はサーヴァントの攻撃を受けたらしいですね。

 聖杯戦争は可能な限り秘匿すべし、これは聖杯とサーヴァントの間の契約……いやさ口約束程度のものですが、律儀にそれを守るとは、中々見どころの有る英霊ではありませんか」

 

「友人……」

 

「命の恩人の名前を知らないなどとは、薄情と言われても仕方がないでしょう。博麗霊夢、現在の博麗の巫女、彼女です。制服を見ると、貴女と同じ学び舎に通っている様ですが?」

 

 霊夢、彼女が? 彼女と私に、特別な交友関係は無かった筈だが。

 幾らかでも接点を見つけるとすれば、私の数少ない友人の犬走椛が、確か彼女とも親しいという程度。

 それでも、彼女に助けられたと聞くと、なんとなしに頷けた。彼女は、私だったから助けたというのではなく、誰かが死にかけていたから助けたのだろう。そういう人間に、彼女は見える。平等で、誰にでも同じ態度で接する。

 誰にでも冷徹なのかも知れないとさえ思っていたが、そうでは無かった様だ。ともあれ、命を救われたからには、明日にでも礼を……

 ……待て、彼女という人物を突き詰めて考えている場合ではない。

 

「ええと、早苗さん? 私にはまだ、良く分からないって言うか……その、聖杯戦争とか、サーヴァントとか、何なの?」

 

 私には、早苗の言葉を理解する為の、前提となる知識が著しく欠けている。彼女が何を語ろうと、それが何処か遠くに存在する、実感無きものに感じるのは、それが理由だろう。

 

「聖杯、というものが有ります。それは万能の願望機、あらゆる願いを実現する奇跡の具現。ただし、その奇跡を手にする事が出来るのは一人だけ。故に、聖杯を奪い合う戦いが起きる。

 聖杯自身に選ばれた7人のマスターは、サーヴァントを呼びだして戦わせ、競争相手を排除する。そうして最後の1人を選ぶ、それが聖杯戦争。分かりやすいでしょう? 得る為に殺す、原型を保った闘争です」

 

 私の疑問は半分ほど解決されたが、代わりに幾つか疑問は増えてしまう。この女性の言葉はそうだ、親切丁寧に答えてくれている癖に、分からない事ばかり増えていく。彼女に好きに喋らせていれば、その内、分かる事すら分からない様になってしまいそうで、

 

「聖杯は、自らが選んだマスターに、闘争の為の武器を与えます。この幻想郷に於いてすら幻想となり、語り継がれる英雄―――いや、英霊。彼女達をこの世界に顕現させ、令呪による拘束を承諾させ、サーヴァント……従者とするのです。

 数多の人妖が如何に足掻こうと為せない、過去の幻想の使役。これこそ、聖杯が万能たる証拠と言えましょう。現に貴女は、自らの知と理解の及ばぬ存在を、既に目にしている筈では?」

 

 彼女は言葉を緩めてはくれない。私の混乱を余所に、問いの答えを提示しつづける。確かに私は、魔術などといった言葉だけで説明しきれない何かを2体、この目で見た。

 学校の校庭で、砂塵を夜気に巻き上げ疾走する黒衣の死神。

 命を穿つ死神の突撃を、赤々と火花を散らして打ち返していた女性。

 あの時は驚愕が先に立ち、状況を把握出来ずに居たが、時間を経た今は違う。目に僅かにでも留まった光景を再構成し、分析する程度の事は出来た。

 過去の文献には、簡単な命令を実行させる使い魔の記述がある。使役する側がされる側より圧倒的に力量が上でなくては、まともに従わせる事は難しいのだとか。私自身も挑戦してみた事は有るのだが、そもそも使い魔を呼びだす事すら失敗した。

 あの怪物2体は、何れも、現代の人妖とは次元を異にする力を秘めている。あれを使役するなど、人妖いずれの力を以てしても不可能だ。魔術を扱う者としての知識は、万能の願望機などという荒唐無稽な話をすら、理論的に納得のいく物と見なしていた。

 

「……じゃあ、霊夢は」

 

「聖杯が、己を得るに相応しいと判断した、7人のマスターの1人です。彼女もまたサーヴァントを従え、他のマスターとの殺し合いに身を投じる――」

 

「こ……殺し合い?」

 

「――私の言葉を遮る程、驚嘆に値する事実とは思えませんけれどね。貴女は自分の身で実感したでしょう。サーヴァントは、貴女を容赦無く殺害しようとした。

 ただの発見者でしかない貴女をすら、そう取り扱うのです。敵対者の殺害を、この戦争に参加した者が、躊躇うと思いますか?」

 

 躊躇わない筈がないだろう、反論をしたかった。

 親しいという訳でもない、ただのクラスメイトの私を、霊夢は助けてくれた。私が彼女に支払える代価などない。そこには好意だけが有った筈なのだ。他者へ無償の好意を差し出せる彼女が、同じ顔で同じ手で、他者の命を奪うなど――

 

「何も不思議に思う事は無いでしょう。聖杯は、全ての願いを叶える。ここ幻想郷においてさえ不可能とされる自体も、聖杯ならば全て叶えてしまう筈だ。全てを支配する力、巨万の富、天地に渡る知識、願えば失われた命さえ。その為ならば、他者の命の6つくらい、消す事に躊躇いなど持たないでしょう?

 奇跡とはそういうものだ。それを得る為に、どれ程の代償でも支払える。何故なら、自らの支払える代償の総和は、未だに得ていない奇跡には常に劣るのですから。」

 

――ありえない、と断言できるのか? 誰かを殺してまで叶えたい願いが、彼女には無いと、言い切れるのか?

 理屈で考えれば無理だ、私は彼女の事をそこまで知ってはいない。だが、もしも彼女にその様な願いが有るのなら、

 

「それとも、アリス・マーガトロイド―――貴女には、望みと呼べる物は何一つ無いと?」

 

 私と彼女は、最終的な所で分かり会えない人種なのかもしれない。

 東風谷早苗は、愈々以て楽しげに、両手の指を絡め合わせて顔を覆う。その唇から音は漏れてこないが、両肩は小刻みに震えていた。

 

「ああ、聖杯の意図は全く読めない。流石に狸だ、いや百鬼に勝る妖魔だ。よもやこの戦争にアリス・マーガトロイドを、望みも持たぬ侭に参陣させるとは!

 仕方がないでしょう、全て吐き出さなければ腹が減る事もない。常に何かを残していては、心からの餓えを覚える事などついぞ無かった筈ですからね」

 

「……どういう意味よ」

 

 早苗の言葉はやはり変わらず、私の分からぬ知らぬ事を、後から後から増やしていく。彼女はこういう人間なのだろう、その言葉一つ一つを捉まえて、問いただしていく事もあるまい。

 が、何故だろう。今の言葉だけは、そのまま聞き流してはいけない気がした。

 

「〝殺された〟と知って、どう思いました?

 自らが営々と積み重ねてきた力が及ばず、悔しかったか。遠く及ばない天上の存在に、恐怖を覚えたか。自分がその様な悲劇に出会った事を、悲しいと嘆いたか?

 何れの感情も人としては当然。今の3例にその他数百種の色合いを混ぜて描いた絵こそ、正しく人間の感情です。

 只の7色で描けるのは見栄えが良いだけの虹ばかり……アリス・マーガトロイド、左手の包帯を解きなさい」

 

 早苗の言葉に、状態を起こして視線を体に落とす。私は、ベッドの上に、包帯をぐるぐると巻き付けられて横になっていた。特に胸の辺りは、皮膚が見える隙間は1ミリたりと存在していない。

 だが、右腕と両脚は無傷。左手には、手首から先だけ、包帯が巻かれていた。

 左手の甲に、焼ける様な痛みが走る。包帯に手を掛けると、それが少しだけ収まる。早く解放してくれと、皮膚にのさばる何かが喚いている……?

 目を瞑って、包帯をもうひとつ巻きつけて、横になったら誤魔化せないだろうか。そう出来るのなら、私は喜んで、今この場で睡眠を取るのに。

 

「おめでとう、貴女はついに全力で生きる機会を得たのです。7人目のマスター、アリス・マーガトロイド」

 

 包帯を解いたその下には、三本の槍を重ねた様な、赤々とした文様が刻まれていた。

 

「……これは?」

 

「令呪です。サーヴァントへの絶対命令権にして、マスターの証。これが有る限り、貴女がサーヴァントに裏切られる事は無い。

 これを失った時、貴女は絶対の命令者ではなく、一個の人妖となり果てるのです。迂闊に使う事の無い様に。使わずに終わらせられるなら、それでも良い」

 

 マスターの、証? どういうことだ。聖杯戦争などという訳のわからないものにエントリーした記憶は無い。私には、他人の命と引き換えに叶えたい願いなど……

 

「怪訝な顔をしていますね? 言ったでしょう、『聖杯は、自らが選んだマスターに、闘争の為の武器を与えます』と。望みを持つ者全てが、その望みを叶える機会を得られる訳ではない。犬猫に生まれれば獅子を喰らう事は叶わないのです。

 貴女は権利を得たのだ、権利を行使する事に何か問題が?

 ……尤も、この権利すら重荷になるというなら、権利の放棄も出来なくもない。幸いにも、貴女はまだサーヴァントを呼びだしていないのですから」

 

「……その方法は?」

 

「おや、乗り気ですか? 方法と言っても単純です、私にその腕を預ければ、私の術で令呪を回収する。

 令呪を失いサーヴァントも持たないなら、それはもうマスターでは無いのですから。何、痛みは有りませんよ。爪を切るより簡単に終わります。……それを、本当に望むのならば」

 

 他者の命を奪ってまでの、どうしても叶えたい願いなどは無い。そんな事を望むくらいなら、私は非日常からの脱却を望む。

 誰かの命を奪うという事は、自分も命を奪われるという事だ。生きているのなら、死にたくないと願わない道理があろうか?

 

「……それで良いわよ、お願い」

 

「話は最後まで聞くべきですね、アリス・マーガトロイド。マスターでなくなれば、貴女は聖杯戦争から解放されると思っている。

 おかしな事だ。そもそも貴女は、マスターで無かったのに殺されかけ、此処へ来たというのに」

 

「あ……!」

 

「この社は中立地帯、不戦協定を結ばれた場所、目的が円滑に果たされる為の聖地。ですが、この建物を出たどの場所で何があろうと、私はそれに関与しない。隠蔽工作の手伝いくらいならしますがね、サーヴァントの前に立ち塞がるなどと言う愚行は出来ません。

 貴女が此処に立て籠るというなら構いませんが、聖杯戦争の終わりは何時になるやら。数日か、数カ月か、此処へ隠れ潜むというのですか?

 ……そうら、羽音が聞こえてきた。逃がした獲物を取り戻そうと、ハゲタカが空を飛んでいる」

 

 時計の針が、もうじき午後11時を指し示す。聞こえてきたのは、秒針が時を刻む音だけだった。

 羽音なんて聞こえない、どれだけ耳を澄ましても聞こえない。

 

「……最後に決断するのは貴女だ。ですが、最大限の助力はします。黒い影に怯えてこの社に立て籠るか、自らの剣と盾を取り、己が全てを尽くして戦う事を選ぶか。

 或いは武器を持たず、然し社に隠れる事もなく、堂々と外を歩いて殺される道も有りますが……?」

 

 聞こえないのに、聞こえないからこそ、早苗の言葉だけを耳が捕まえ、噛み砕く。

 私は一度殺されかけた、何の手も打たずに外へ出れば、やはり殺されるに違いない。この建物の中は安全だというが、それも早苗がいる時だけかも知れない。

 もしも彼女が外出する事が有れば、本当に此処は安全地帯だと言えるのだろうか。

 私には、身を守る手段が無い。

 

「そんなの……」

 

 一つしか、道はないじゃないか。

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