さて、以前に行った投票の結果、設定集は作ることに致しました。次話以降の執筆と並行して行っていくので、少々お待ちいただけると幸いです。
なお、現時点での物語の進行度では明かせない部分もありますので、設定集は進行度に合わせて随時更新という方式でやっていこうと思います。ご了承ください。
今日も俺はかったるい仕事を終え、家路を急ぐ。毎日が辛くないと言えば嘘になる。それでも、愛する妻と子を思えば、何のその!平凡だと言われようとも、人生の墓場が何だと嘲笑されようとも、俺はこの生活に満足している。平凡上等だ。
「おかえりなさい、あなた。」
ドアを開けると、妻の優しい声音が脳内に響き渡る。それに続いて俺は「ただいま」と応える。毎日の極ありふれたやり取りだが、それでもこの瞬間は何物にも代え難いほどに大切な宝物だ。働いていて良かった、生きていて良かったと心の底から感じられる。そんな何気無い日常の一幕に感謝しつつ、俺は玄関框を上がろうとする。しかしその折、この平穏を切り裂くかの様にして現れた、臓髄を突き刺された様な激しい頭痛が襲い掛かって来た。俺は駆り出した足を踏み外しその場に倒れる。三十も半ばを超え、俺もとうとう若くないという事か。そんな事を考えながら、俺は介抱してくれている妻の方を見上げた。
その瞬間、俺はある違和感に気付いた。見慣れたはずの妻の顔が見えないのだ。いや、正確には、認識できない、もしくは思い出せないとでも言うべきなのだろうか。妻の顔に靄がかかって見える。聞きなれた彼女の声も今は、ノイズが走った電子音の様に不鮮明でどこか不気味な音声にしか聴こえない。それからというもの、俺の頭の中は、つい数瞬前であれば到底考えもしなかったであろう疑問で溢れ返っていた。「俺はどうしてここにいる?」、「そもそも俺は結婚なんてしているのか?」、「いつの記憶なんだろうか?」、分からない。一体、どうしてこんな馬鹿げた事を考えているのだろうか。仕事の疲れは思ったよりも深刻な物なのだろうか。ん、仕事?そういえば俺は何の仕事をしているんだっけ?思い出せない。最近の記憶だけがごっそりと抜け落ちたように朧気で、何か出来事があった事だけは分かるのに、まるで霞が掛ったかの様に具体的な事項が何一つ認識できない。妻子の顔や職場の名前でさえもだ。でも、何故だか大学生までの記憶は全てはっきりとしている。友達の名前、行った場所、全部淀みなく反芻する事が出来る。それがいっとう気味悪い。
それらを知覚した途端、俺の目の前の景色は、歪みを帯びていった。自宅だと思っていた場所は、あらゆる要素が波打つサイケデリックな空間へと様変わりした。だが、それも束の間。感情がその変化に追い付く間も無く、俺の視界はテレビの砂嵐と同じ、雑音に覆い尽くされていった。
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夢、なのだろうか?だが、夢にしてはあまりにも鮮明すぎる。まるで、誰かの、自分じゃない自分の記憶を直接見ていたかのようだった。そういえば、ここは何処なんだろう?目に映るのは凡そ現代の住宅には相応しくない茅葺の天井、そしてこれまた藁製の床がチクチクと身体の裏側を突き刺している。お世辞にも良いとは言えない寝心地なので、俺はなんとか鉛の様に重たい身体を持ち上げ、起床した。頭がクラクラとして視界が覚束ない。この気怠さは貧血から来る物に似ている。今に至るまでに何が起こったのか、思案し記憶を辿るが、整理がつかない。すると、室内に聞き覚えのある声が響き渡った。
「良かった。裕君、目が覚めたんだね!」
そう言って秀夫は病み上がり間もない俺の胸に飛び込んで来た。幸い秀夫は小柄なため、身体へのダメージは無い。だが、俺を抱き締める秀夫の力はいつもより心なしか強く感じた。
「ごめんなさい。僕、力になれなくて。あんな大怪我までさせちゃって。」
そう告げる秀夫の目には涙が浮かんでいた。それを見て、俺は事のあらましを思い出していった。オベリスクを観察した帰りにリオレイアに襲撃されたんだった。そして、そこで俺は奴からの手痛い一撃を貰って。俺は死んだのか?だが、それにしては貧血の様な症状や未だに僅かながら残る痛みの残滓がそれを否定する。あんな状況から息を吹き返させる奇跡でも起こったのだろうか。ともあれ、今は。俺はすすり泣く秀夫の頭にそっと手を載せた。
「あんな状況なら誰でもそうなるさ。俺なんて最初に遭遇した時は腰抜かして動けなくなってそのまま焼かれたぐらいだしな。それに、またお前たちの役に立てて嬉しいよ。」
これは紛れもない俺自身の本心だ。秀夫は昔から体が小さくて声変わりもしてなかった。そのうえ、顔付もかなり女性的だったからか、小学生の時なんかはよくいじめっ子たちの標的になっていた。秀夫が絡まれる度に俺が助け舟を出して、返り討ちに遭って、そして力持ちの隆翔に泣きついて何とかしてもらう。これが当時のお決まりのパターンで、よく親や先生に呆れられていた。それでも当時は、秀夫は俺を頼ってくれていたし、俺もそれで気を良くして変な方向に突っ走っていた。でも、いつからかな、そんな頼り頼られの俺たちの関係が逆転していったのは。秀夫は俺よりも手先が器用で何でも作れて、俺が知らない事もたくさん知っていた。そして、気が付けば普段の勉強とか生活とか色々な面でお世話になるようになっていた。だからこそ、俺は昔の頼れる「裕君」を見せたかったのかも知れない。それは、きっと隆翔に対しても同じだと思う。とは言え、無茶し過ぎたことは反省しないといけない。また同じことをしても二人を悲しませるだけだ。そうして、しばらく秀夫の頭を撫でていると、段々と落ち着きを取り戻していった。
「ありがとう、裕君。君はずっと昔から変わらず僕にとってのヒーローだよ!」
そう言って、秀夫が見せた笑顔は、無邪気で人懐っこい昔のままの綺麗な笑顔だった。俺は変わっていったものと変わらないものに思いを馳せ、胸が熱くなった。これからも三人で笑い合って、ぶつかり合って、馬鹿やって、そんな日々を送りたい。。そう思わずにはいられなかった。
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「あの~、そろそろよろしいでしょうかニャ。」
二人だけの世界から呼び戻すようにして、背後からばつの悪そうな声が俺の耳に入ってきた。隆翔の声、ではないな。まさか、俺たち以外にもこの島に流れ着いた人がいたのか。その声質は、ネコが人間の言葉を話しているかの様に思える程、独特で人間離れした物だった。それに、語尾に「ニャ」なんて付ける珍妙な話し方をする奇特な人物と遭遇するのは初めてだ。そんなことを思いながら、俺は背後を振り返った。
「えっ?」
眼前に捉えた声の主の姿に驚愕し、思わず元の方向へ向き直してしまった。そして、もう一度、主の方へと首を捻じる。絵に書いたかのような見事な二度見を決めた。その先にいたのは二足歩行の人語を操る愛くるしいネコだった。
「そっちのお兄さんは、初めましてニャ。体の調子はいかがですかニャ?」
固まる俺を他所にネコの人はこちらへ言葉を紡いだ。この島に来てから様々な超常的な物事に出会ってきたが、まさか本当に言葉を喋れるネコがいるなどとは露ほども思っていなかった。全身を覆う白い毛並みは、俺が良く知る愛玩用のネコと大差はなく、つぶらな青い瞳は只々可愛らしい。だが、そんなよく知るはずの存在が、こうして語り掛けてくるという非現実的な現実に俺は完全に思考を放棄しかけてしまう。
「そう身構えるな。この人が大怪我したお前に治療を施して治してくれたんだぞ。」
いつの間にか現れた隆翔がそう補足する。俄かには信じがたいが、毒に殴打に出血と命への別状のオンパレードだった俺が死なずに、今こうしてここにいる以上、本当に目の前の彼が命の恩人なのだろう。それに、二人が無事だという事は、あの状態から颯爽と現れて救助してくれたという事だろう。その点でも感謝しなけれならない。
「危ない所を助けて下さり、ありがとうございます。お陰様で、三人とも無事に帰ってこられました。見ての通り、何もお返しできる物などありませんが、どうかご容赦ください。」
俺は彼の方を向き、精一杯の感謝の意を示した。対して眼前の彼は、どこか毅然とした態度でこちらに視線を向ける。その一挙手一投足は素人目にも分かる程に無駄な動きが無く、洗練されており、その目線は歴戦の戦士を思わせる程の鋭さを孕んでいた。その様子は彼が俺たちの半分程度の大きさであることを忘れさせるには十分であった。しばしの間、沈黙は続く。その緊張感からか、俺の額や首筋には汗が滲み出している。
「まあ、そんなに堅くならないでくださいニャ。ボクにとってはそんなに大したことじゃないから、そんなに畏まられるとかえって困りますニャ。それに、お返しならそちらにお二人に美味しい魚を恵んでもらったのでもう大丈夫ですニャ。あ、紹介が遅れましたニャ、ボクはアイルーのオリバーですニャ。」
「俺は裕太、桃園裕太です。最近この島に流れ着いた日本人です。」
俺たちは挨拶を交わし、互いに握手をした。その時、俺は気付いてしまった。オリバーの左腕にも俺たちと同じインプラントが埋め込まれている事に。
それから、俺たち三人とオリバーは行動を共にすることになった。どうやら、オリバーは一人で活動しており、決まった拠点を持たずに生活しているらしい。「アイルー」と呼ばれる種族には地面の中に潜る能力があるそうで、それを活用して夜間などはやり過ごしているとのことだ。秀夫たちの話によるとオリバーは戦闘能力が高く、なんとあのリオレイアを単独で撃退したそうだ。正直なところ、恩人に対して打算ありきの提案をするのは三人とも気が引けていたが、現実問題としてそうは言っていられない部分もある。彼は俺たちに足りない物を多く持っている。だからこそ、俺たちは失礼を承知で打診した。だが、返答はあっさりとした物で、二つ返事で了承を貰えた。オリバー曰く、「人数が増えれば今より快適になるから大歓迎だニャ」とのことだ。こうして、俺たちに新たな仲間が加わったのだった。
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「そういえば、皆さんはどうしてデッカイ塔の近くにいたのニャ?」
四人で夕食を囲んでいると、オリバーが俺たちに尋ねた。
「ああー、話せば長くなるんだけど。」
そう前置きをして俺たちがこの島に流れ着いてからの事を話した。気が付いたらこの島にいたこと、この島の外洋を覆う光の壁の事、「待つ者」の事、彼女に島を探索し秘密を知るよう言われたこと、そのための一環としてオベリスクを調べようとしたこと、そして帰りにクルペッコやリオレイアと遭遇したこと、全て包み隠さず話した。聞き終えたオリバーはしばし眉をひそめた後、言った。
「本気で島の奥地を目指すつもりニャ?」
オリバーは神妙な面持ちでこちらを見つめ、問いかけてくる。俺たちはただ静かに頷いた。
「正直、オススメはしないニャ。この島は奥に行けば行くほど、危険なモンスターが増えるニャ。中にはリオレイアはおろかジンオウガですら手も足も出せずに圧倒されるヤバイのだっているニャ。この海岸はそんな島の中でもかなり安全な部類に入るニャ。それを分かった上でも同じことを言えるニャ?」
今のオリバーの眼は今日見た中でもっと鋭く、頭の中に突き刺さってくる。それは覚悟を問う者の真剣な瞳だった。だからこそ、俺は答えなければならない。
「それでも、俺は、俺たちは故郷を諦められないんだ!日本には俺たちの家族がいて、平穏な生活があって、皆それぞれ夢があるんだ。だから、少しでもここを出られる可能性があるのなら、それがどんなに危険な道のりであろうとも、何度命が尽きようとも絶対に取り戻す。いや、取り戻さないといけないんだ!」
これは俺の意思表示であると同時に、自らへの薫陶でもあった。「待つ者」は帰れないと言っていたが、俺はそうとは信じない。無論、彼女の誠実さを疑っている訳ではない。俺はまだ全てをこの目で見てなどいない。だからこそ、多くを知る彼女ですら認識していない方法がまだ存在している可能性だって少しはある。俺はまだ故郷の土を踏むことを諦めていない、否諦められないんだ。家族と再会してまた夢を追い掛けたい。それが出来るならそんな俺の言葉を聞いたオリバーは、「ハァッ」と呆れた様な息を吐きつつ再び口を開いた。
「言っても引き下がる気はないんだニャ。分かったニャ、ボクも出来る限り協力するニャ。ただし、無茶だけは勘弁ニャ!」
「故郷か、ちょっとだけ羨ましいニャ」
最後に何かをボソりと呟いたオリバーの目はどこか寂し気で儚い物だった。