翌朝未明。
フェイリアは、教会から姿を消していた。
餞別とばかりに、彼女が携帯していたわずかな食料のみを残して。
「……いない」
「本当に行きよったか」
ラティが呆然と呟く。
ドワーフが気配を探るも、あの禍々しい空気は影も形もなくなっていた。
「もっといい人だと思ってました」
「まあ、仕方あるまい。 キュクロープスなんぞ、ワシだって出来ることなら関わりたくない」
「……なにか、案はありますか?」
いないならば、仕方ない。 二人だけで出来ることを考えるしかなかった。
「ここから辺境領まではほど近い。 なら定期巡回があるはず。 それまで持ち堪えれば、なんとかなる」
辺境領とは、名の通り領土の辺境にある、端的に言えば田舎である。 しかしそれは、国土防衛の最前線であることと同義である。 その役割には周辺集落の維持管理も含まれる。
既に集落が襲撃されてからひと月経っている。 五週に一度の定期巡回であれば、いつ来てもおかしくないはずであった。
ラティが辺境領まで救援を求め走る案も上がったが、伝手などない彼女が信じてもらえるかは半々である。
よしんば信じてもらえたとしても、情報を知った辺境伯は却って半端な部隊を派遣するわけにはいかない。 準備を整えてとなると10日は先となる。 賭けとしては、いささか分が悪かった。
「二人で手分けして一気に逃げるのが最も速いが、失敗の可能性も最も高い。 いかんな、歳を食うと危険性ばかりに目がいく」
二人が、子供を二人ずつ連れて、辺境領まで三日の行程を逃げ抜く。 成功するとは、とても思えなかった。
「でも、私でもそうしたと思います。 ええと、名前は……」
「おおう失念しとった。 ヴィドルック・ヘルネンバル。 ヴィドルと呼べばいい」
「わかりました! 私ははラティーリ・エル・フルガリス! 仲間からはラティって呼ばれてます!」
「名前あったのかお主」
「どういう意味なのそれ」
途端に敬語が外れるラティ。
ヴィドルからすればフェイリアと呼ばれた女性の口からは一度も名前を聞かなかったため、もしや名無しかと思ったのだがちゃんとしたものがあったらしい。
じゃあなんで名前を呼ばないのか、という別の疑問も浮かぶが。
「ぅうんむ。 さて、今後だが」
わざとらしく咳払いしたヴィドルが床に胡座をかいて座り、話を変える。
それを半睨みで見ながらも、ラティも同じく床に腰を下ろして向き合う。 冗談を言い合うのは当面の窮地を脱してからだ、と。
「まずは……」
当面の食料の分配をどうするか。 ラティが持ち込んだもの、フェイリアが残したもの。 合わせても量はたかが知れている。 消費人数が一人増えた分、収支は横ばいか、ややもすれば悪化という状況である。
それについて打ち合わせようとした時、唐突にズズン、という地響きが教会を襲った。
「!?」
「なんじゃあ!?」
慌てて飛び出した二人の視線の先。 森より現れた巨人が、教会の擁壁を破壊していた。 頑丈な焼きレンガで作られたそれが、積み木玩具のように破壊されていく。
「キュクロープス……! どうして!?」
──彼等は、今この時まで勘違いしていた。 そもそも只単に教会だから襲われないという都合の良いことがあるなら、民家も納屋も全て教会にしてしまえばいい。 あるいは強烈な加護でもあれば魔除けにもなるかもしれないが、こんな山間部の小さな集落にそんな加護が施されているわけがない
魔物に襲われてひと月。 教会が無事だったのは、聖なる神の家だからでもなんでもなく、単なる食糧庫としか思われていなかったからだ。
腹が減ったから、溜めていた食糧を、子供というとっておきのデザートを平らげる。 そんな、実に身勝手な理由で残されていたに過ぎない。
大人たちが必死に匿った子供達は、巨人からすればいつでも壊せる貯金箱でしかなかったのだ。
そのことに漸く気付いたヴィドルは、奥歯を噛み砕かんばかりに歯軋りする。 完全に自己の判断ミスである。 これならば一か八かでも担いで逃げるべきだった、と。
その瞬間にも、巨人は擁壁を破壊していく。 そしてとうとう象のような巨大な脚が、壁の残骸を蹴散らしながら敷地内に踏み込んだ。
「……!! こりゃまずい!! 急いで……」
子を抱えて逃げねば──
そう続けることはできなかった。
雷光。
瞬間的な超高電圧に晒された空気が、破裂する。
頭目と思しき、一際大きなキュクロープスの単眼から放たれた一筋の稲光が、教会の鉄製の門扉を溶断したのだ。 一瞬で溶解した門扉はぐずぐずと溶け崩れ、その原型を失う。
鉄を瞬時に溶解せしめる、出鱈目な魔力出力。
雷を操るとも言われるキュクロープスの、本領であった。
「そんな……!」
ヴィドルとラティ、二人には子供を抱えて擁壁を飛び越える脚力も、よじ登る時間もない。
何より、子供達はまだ礼拝堂の中である。
絶体絶命。
安息の地であったはずの教会は、即座に牢獄と化してしまっていた。
「……まだ!!!!」
それでも、無理やりに叫んで己を鼓舞したラティが短弓を構える。 矢玉の数は心許なく、魔狼を更に上回る巨体に刺さるとも思えない。 だが、あの剥き出しの巨眼ならば。
「ってぇ!!」
放たれた短弓の矢は、寸分違わず突き進む。 巨体ゆえに反応は鈍いのか、躱す素振りもない。 突き進んだ矢が巨眼の瞳孔の側。 結膜に直撃し、貫入した。
『Grrrrroooooo!!!!』
響き渡る絶叫。 脳髄には届かずに致死とはならなかったが、残り四体。
これならば戦える! そう希望を抱いた少女の見つめる先、生意気にも餌から反撃されたことに憤った別の個体が、手にした杭──樹木の幹から乱雑に枝を折っただけの丸太である──を振り回す。 魔狼よりは遅い! と見切り、躱していく。
「なんと! 嬢ちゃんやるの! こりゃあワシも踏ん張るか!」
少女の勇姿に奮い立たされたヴィドルが、闇雲に振り回されている杭を、両手で受け止める。
「どっせい!!!」
どごん、という重苦しい音が響く。 勢いに負けて後退する脚で、地面をごりごりと削りながらも耐えたヴィドルは、その胸の内に杭を抱え込んでいた。
「すっご!! やるぅおじさん!」
「今じゃあ!!」
「はい!!」
巨人が動きを止めた隙に再び、眼球に突き刺さる矢。 これで、二体。
(やれる!)
交戦を開始してから短時間で二体の巨人を行動不能にした。 まだこちらにはダメージらしきものはない。 武器にも体力にも余裕がある。
雷光を放つ個体は恐ろしいが、数は既に三対二である。
このままなら、上手くいくかもしれない。
そう希望を見出し、巨人の動きを警戒するラティ。 ヴィドルも戦棍を担ぎ、臨戦態勢である。
次にどうくるか、そう思い、短弓に矢を番えようとした瞬間。
ラティの脚から、鮮血が吹き出した。
「えっ?」
「ラティの嬢ちゃん!」
なんで? と認識が追い付かないラティが自らの脚に目をやれば、その表皮を突き破って黒い、一本角がその先端を覗かせていた。
角兎。 その黒角が、深々と貫通していた。
刺された。 そう理解が及んだ瞬間、襲いくる激痛。
「あ、うあ、あああああああああああ!!!!」
(痛い! 痛い! 痛い痛い痛い!!)
「こンのぉ!!」
短刀で、角兎の首を切り裂く。
絶命する角兎。 だが、その黒角が残した傷痕は致命傷ではないが、少女から機動力という武器を完全に奪い去っていた。
(い、われていたのに! 勝てると思って、油断した!!)
キュクロープスの攻めが緩慢だったのも、余裕があったため。 伏兵に気付いていないのは、彼女達だけだった。
ずぬり、と黒角を引き抜く。 止血帯で応急処置を施すが、少なくとも戦闘中は脚は使い物になりそうにはなかった。
「ぐむぅ!!」
「ヴィドルさん!」
少女の叫びに気を取られたヴィドルが、杭で横殴りにされ、吹き飛ぶ。 教会の壁に激突し、レンガが崩れ落ちる中からも尚立ち上がるが、その有様は万全とは言い難かった。
「こりゃ、きついの」
明らかに敵の攻めが変わったのだ。 動ける三体のうち、通常種の二体が代わり代わりに杭を振るう。
単純に二倍の密度。
一撃一撃は見切れる速さといえど、躱し切れるものではない。
そして。 更なる絶望が場に現れる。
最初に仕留めたはずのキュクロープス、それが、瞳からぐずぐずと魔力の光を灯しながら立ち上がっていた。
──再生。 獣と魔物の違い。 魔力を集中させることで、自然治癒を遥かに上回る速度で傷を回復する。 あくまで自然治癒との違いは速度であり、眼球や臓物など高度な器官は完全に癒えることはない。 また致命傷を癒すこともできない。
それでも、今この場においては倒したはずの巨人が復帰するという事実そのものが絶望を齎した。
「そんな……」
痛みに震える脚を押さえながら、ラティは痛感する。 甘かった。 甘すぎた。 キュクロープスを相手にして、どうにかなると思ったことが。
忠告されていたのに、それを見落としていた自分。
有利と思われた戦況は、わずか数十秒で挽回不可能なほどに天秤が傾き切っていた。
もはや二人を障害とみなしていないのだろう。
頭目のキュクロープスが、雷光を放つ。
礼拝堂を隔てるはずの分厚い内扉は閂ごと一撃で破壊され、その役割を失っていた。
「ひっ……!」
その奥に見えるのは、逃げることすら出来ずに身を縮こまらせる子供達。
目敏く見つけた巨人の一体がその内の一人を掴み上げる。
『Grob……』
鳴き声の意図は、わからない。 しかしその顔に浮かべる醜悪な笑みから、次に何をするかは、分かりきっていた。
「やめい!」
「やめて!」
二人が懸命に阻止を図る。
しかしヴィドルの戦棍は他の巨人に阻止され、ラティの放つ矢は、脚の痛みで狙いが定まらぬ故に体表にかすり傷すら、つけることなく弾かれる。
あまりに、無力。
「……、た」
子供の頭部など、容易く一齧りにしてしまいそうな巨大な顎が迫る。
「たす……」
黄色く薄汚れた、不揃いな乱杭歯。 しかし如何にも原始的なその歯列が、逆にどうしようもない暴力を連想させた。
何もかもが間に合わない。
それでも、生存本能に突き動かされた子供が。
「たすけて!!!」
心の底から叫んだ時。
「──揃いも揃ってクソ共が」
彼女が、居た。
◇◆◇◆◇
崩れた天井から光が降り注ぐ礼拝堂に、静寂が満ちる。 戦闘など起きていなかったのでは? と錯覚してしまうほどに。
本来そうあるべき、というような荘厳な空気の中、朝陽が一人の女性を照らす。
光を透き通す紅の髪。 紺のドレス。 黒鉄色の脚。
こがね色の、瞳。
誰も彼もが動きを止めた。
エルフも、ドワーフも、子供も、いましがた腕を斬り飛ばされた、巨人すらも。
「私は、
今、
機嫌が、
悪い」
場を支配するのは、現れたばかりの、彼女。
コツ、コツ、と石畳を踏み鳴らしながら、歩く。 一つずつ、言い聞かせるように言葉を強調しながら。
「人の忠告を忘れ、根拠もなくどうにかなると過信したバカも」
心当たりしかないラティがびくりと身を震わせる。 ──もしかして、全部見られてた? と。
「身の丈に合わぬ荷物を背負い込んで動けないノロマも」
ヴィドルは、顎髭をしごきながら目を逸らす。
「ガキの癖に生意気にも生を諦めたカス共も」
とりあえず怒っていることだけは分かる子供達は、身を寄せ合った。
「揃いも揃って私を苛立たせる」
歩みを止めた彼女は巨人達に向き直る。
五体の巨人は、体格も数も勝る巨人達は、一人の女性に気圧されていた。
「そして何より気に食わないのは、木偶の坊、貴様等だ」
相変わらず、腕を組んだまま。
あまりに、無防備。
しかしその姿を前にして、暴力の具現たる巨人は、指の一本も動かせないでいた。
「そこの雑魚共を虐めてご満悦か? 目玉が一つだと脳味噌も小さいのか?」
睨み付ける目が、一層細められる。
──影騎士も、こいつらも、何も変わらない。 腕を切り飛ばされたというのに、その単眼に浮かぶ色は、恐怖でも、焦りでもない。 食事を邪魔されたことに対する、怒りだけだ。
──虫唾が走る。
「──雑魚は貴様等だ」