黒い液体がカップを満たしている。
白い湯気が立つ水面には細かい気泡ができている。カップの縁に沿ってできた小さな泡だ。機械を使って豆を抽出するエスプレッソ方式も悪くはないが、その場合は表面に泡の層ができてしまう。
わたしはそれが嫌いだ。
この店は一杯ずつ豆を挽き、ドリップする。お気に入りの理由だ。
黒く澄んだ水。
砂糖やミルクは入れない。
苦いままの液体を口に含む。流し込むと濃厚な香りが鼻を抜ける。
胃に届いた熱が臓腑に行き渡るのを感じる。
余分な熱を吐き出すように息をする。
嫌なこと、耐え難いことがあった時、わたしはこの店に来てコーヒーを飲む。
儲かっているとは思えないほど閑散とした店で、店主は無愛想だし、店員は可愛くない。禁煙席と喫煙席の区別もなく、なんだったら店主が自ら紫煙を燻らせている。
誰もわたしに関心を抱いていない空間。
癒されに来ているんだね。
と、対面に座っていた女は言った。
違う。君は何もわかってない。
この世の中に癒しなんてものはない。どこまで行っても苦痛と苦悩しかない。
原因が自分であれば改善の余地はあろう。だが、他人が理由であるならばその苦痛は耐えるか忘れるかの二択しかない。
だから、わたしはこの苦い液体と共に飲み下すのだ。
吐き出してしまいそうになる呪詛のアレコレを。
怒り狂ったところで君たちは変わらないだろう。
恨み言を永遠と垂れ流したところで聞く耳を持たないだろう。
忘れる他ないのだ。
そんなわたしを君は好きだと言った。
厭悪の数々を飲み込むやさしい人なのだと言った。
だというのに、なぜ、つまらない映画を見るような目をわたしに向けるのか。
本音を出さない。
本心を見せない。
何を考えているのかわからない。
あなたはいつも同じを顔をしている退屈な人。
そう言って彼女は席を立った。
そんなにも本心が大事か。本音が聞きたいか。
だったら聞かせてやろう。
その粗末な脳みそを何度叩き割ってやりたいと思ったことか。同じことを何度間違えれば気が済むのかと悪態を吐きたいと思ったことか。約束を守らない君を許す代わりに指を端から順に折ることを何度想像したか。泣いて叫んで赦しを乞うまで責め苦の限りを尽くしたい何度願ったことか。
語ったところで、何になる。
足りないんだ。
いくら君たちを苦しめてもわたしの怒りは、憎しみは治まらない。
何度も、何度も、何度も、与えられる限りの苦痛を与えて殺すところを考えても、たとえ実行したとしても足りないと感じてしまう。
どうしようもなく、わたしは人が嫌いなようだ。
一度や二度の殺意では足りないほどに嫌いなんだ。
だから、飲み下し、忘れる。
より深く、重い殺意として、姿なき憎悪を腹の奥に仕舞いこむ。
空になったカップが二つ。
よくもまぁ飲み干していけるものだと感心すらする。
おかわりのコーヒーを無愛想で可愛げのない店員が注ぐ。
使いもしないミルクを毎度置いていくが、いい加減覚えてほしい。
黒く澄んだ液体から立ち昇る白い湯気。
苦いままに飲もうとするよりも先にミルクが注がれた。
ツギハギだらけの腕だった。
死人のように青く濁った肌の男が対面に座っている。
今までの人生でそのような存在に出くわしたことはないが、きっと彼がそうなのだろうと直感した。
幽霊、妖怪、怪異。あるいは呪い。
白く濁ったコーヒーを口にすると、奇妙なほどに心地がよかった。舌にまとわりつくような苦みと鼻から抜けるくさいミルクのにおい。濁った分ぬるくなった液体が胃に流れ、鈍い熱が臓腑を焼く。
彼の手が触れる。
瞬間、わたしは思った。
よかった。人を呪うわたしの心は姿を持って歩いている。
「無為転変」