誰ソ彼怪異譚 作:躁鬱
008
社の中は一つの大部屋になっていて、二十畳くらいの板張りの間ががらんとあるだけだった。ただ一つ普通の部屋と違うのは、部屋の真ん中に砂が敷かれた正方形の浅い窪みがあり、そこに蘭たちが準備していたのか小さな薪が用意されていて、さながらいつかのお正月にテレビで見た護摩業のようだった(あれは確かお寺の行事だった気がするけど)。
巴がポケットからマッチを取り出して一本火をつけると、薪の中に投げ入れた。薪と一緒に着火剤が入れてあったのか、すぐに火は薪全体に行き渡り、焚き火ほどの大きさになった。
「紗夜さん。今部屋の真ん中に炉を置いて火をつけました。誘導しますので、近くで目を開けて火をじっと見ていてください。……日菜先輩、紗夜さんを火の近くまでお願いします」
「……わかったよつぐちゃん。おねーちゃん、足元気をつけてね」
「ええ、火の熱の方向に行けばいいのよね」
「はい。手前にクッションを用意してますので、そこに座ってください」
ヒナに手を引かれた紗夜が一歩一歩と火に近づく。家から持ってきたものなのか、つぐみがクッションを取り出すと火から1メートルほど離れたところに置いて、紗夜をそこに座らせた。アタシたちは、紗夜から離れた部屋の壁沿いで様子を見ることとなった。
つぐみは紗夜が指定の位置についたのを確認すると、北側の小さな窓を残して全ての戸と窓を閉め切った。途端に部屋の中は薄暗くなり、部屋の中央で焚かれている炎と夏の暑さがこもって、途端にサウナを思わせるような熱気が部屋を埋め尽くした。
「え、これで終わり?他は何もしないの?」
「はい。あとは紗夜さんが火を見続けていれば大丈夫なはずです」
「……それも宇津宮って人から言われたの?」
「そうです。本当は部屋の戸も窓も全部閉め切って、外から光が入ってこないようにしてやるのがベストみたいなんですけど……怪異を何とかする前に私たちが一酸化炭素中毒で倒れてしまうので、なるべく日が入らない北側だけ開けとけと……」
「その前にあこ達が熱中症で倒れちゃいそう……」
「日が入ってはいけないなら、夜じゃダメだったの?」
「夜雀は夜に動き出す怪異だから正午までにやれと言ってました」
「よりにもよって一番暑くなる時間に……」
「こればかりは季節が悪かったですね……」
紗夜はこっちの会話を聞いているのかいないのか、アタシたちの方には反応せず、じっと炎を見つめていた。紗夜の明るい虹彩の色に炎の暖色が反射してゆらめいているが、紗夜からはあの炎の色は見えていないんだろうなとぼんやり考えていた。
一分、五分、十分。暑さと汗で体感時間がぐちゃぐちゃになる中で、確実に時間は過ぎていった。蒸し風呂のような暑さの中でアタシたちは紗夜を見守るしかないのだが、あこが言う通りこの感じだとアタシたちの誰かが先に倒れかねないなと思った。
その間、紗夜はひたすらにじっと炎を見続けていた。炎に近い分アタシたちよりも暑いだろうに、クッションの上に正座してピンと背筋を伸ばして姿勢を崩さないのはさすが弓道部だが、その顔からは珠のような汗が滴り落ちていた。
だがここまでで、紗夜の様子に変わったところはない。
見守っているアタシたちも、流石に焦りと苛立ちともどかしさがこの部屋の暑さでぐらぐらと湧いてくるような感覚がした。
「──つぐちゃん、本当に大丈夫なんだよね。さっき言ってた怪異とか、やっぱりでたらめなんじゃないの?」
「怪異が本当にあるかどうかはともかくとしても、一旦やめたほうがいいんじゃないかしら……。この暑さだと紗夜が倒れるのが先──」
ヒナと友希那が変化のない状況に痺れを切らしたのか、つぐみに中断を持ちかけた時、唐突に
──
まるで大粒の涙でも流れ落ちるように、紗夜の両目から黒い汚泥のような何かが流れ落ちた。
「──────っ!?」
アタシは思わず悲鳴が出そうなところを寸でのところで飲み込んだ。紗夜の様子を見守っていたアタシたちはみんな同じような反応をしていた。
「な、何……あれ……!?」
「さ、紗夜さん、大丈夫ですか……!?」
「おねーちゃん!!」
我慢できないとばかりに、ヒナは紗夜に駆け寄った。アタシも紗夜のそばに行きたい気持ちがあったが、目の前の現象への恐怖が勝ってしまい足を動かすことができなかった。
「うぅ……あ…………」
紗夜はその『黒い涙』が流れるのにどうやら痛みを伴っているのか、苦しそうにうめき声を漏らしていた。その間にも、紗夜の目からはボタリボタリとその何かは流れ落ちている。涙よりも粘性を含んだそれは、紗夜の頬を伝って床に落ちても床板に染み入ることなく形を保っていた。
「おねーちゃん大丈夫!?痛いの!?」
「日菜先輩なるべくそれに触らないで……!紗夜さん、苦しいと思いますが、目を閉じないでください。それを出し切らないと、紗夜さんの目が戻りません……!」
「えぇ、大丈夫……。まだできます……」
紗夜は苦い顔のまま、睨みつけるようにしてまた炎を見続けた。暑さからくるものなのか、あの黒い涙のようなものを流す苦痛からかは分からないが、脂汗を流しながら無理やりに目を開け続けているようにも見えた。
そこからアタシの体感でおよそ五分くらい経ったころ、大きな一粒が流れきったのを最後に、あの黒い何かは紗夜の目から出なくなった。
ぐらりと紗夜の体が傾いたのをヒナが慌てて支える。暑さも相まって紗夜は相当に体力を消耗しているようだった。巴たちが慌てて戸と窓を開けて部屋に籠った熱を逃していた。
「おねーちゃん!?」
「氷川さん大丈夫ですか!?」
「紗夜、すごい汗だよ……これ飲める?」
アタシたちは慌てて紗夜に駆け寄った。額に汗を浮かべて息が上がってはいるが、意識ははっきりしているようだった。アタシはカバンに入れていた水を紗夜に差し出した。
「えぇ、何とか……ありがとうございます、今井さん。お水、いただきます」
紗夜は、アタシが差し出したペットボトルを何の気なしに受け取った。それこそ、
はっとして、アタシたちは紗夜の顔を見た。紗夜はまだ整わない息のまま、
「五日間顔を見てないだけで、随分久しぶりな感じがしますね」
ヒナが紗夜の胸に飛び込むのを、アタシたちはあえて止めなかった。
009
先ほどまで燃えていた炎は薪を燃やし尽くして、今ではすっかり灰の中で燻る小さな火種に成り果てていた。
紗夜の目はすっかり見えるようになったようで、今はヒナの膝枕で横になりながら暑さで消耗した体を休めていた(紗夜は「さっき使ってたクッションがあるじゃない」と膝枕を拒否していたが、暑さでダウンした状態でヒナに勝てる訳はなかった)。
アタシたちは事の詳細をつぐみたちから聞くことにした。
「昨日紗夜さんに会った時、私には紗夜さんの目が真っ黒になっているように見えたんです」
それこそひどく充血した時みたいに、とつぐみは話した。
「だからつぐちゃん、すぐおねーちゃんの目が見えないのが分かったんだね」
「私達の目にはなんにも異常がないように見えましたが……」
「私も、過去に紗夜さんみたいに怪異の影響を受けたことがあるんです。その後遺症というか、副作用って言い方は変ですけど……そういう、怪異やその痕跡が見えるようになったんです」
「すごい!つぐちん魔眼持ってるんだ!」
「あこちゃん、そんなゲームみたいな……」
「ははは、まあ簡単に言うとあこの説明がわかりやすいけどな」
あこの身も蓋もない言葉に巴はさわやかに笑った。
「さっき紗夜の目から出ていた黒いのが怪異……ってやつなの?」
「確か夜雀って言ってたわね」
「いや、あれは夜雀そのものじゃないんじゃなかったっけ?ね、巴」
「巴、その辺宇津宮から聞いてないの?」
「ええっと……ちょっと待ってくれ」
巴はスマホを取り出すとカンペでも確認するようにしてそれを読み上げた。
「『夜雀に遭うと視力を奪われるのは、夜雀の羽根が目に入ると鳥目になるという伝承からきてる。それを取り除けば視力は戻る』……だってさ」
「羽根!?」
「あれ羽根だったの!?」
巴以外の全員がギョッとして先ほどまで紗夜が座っていた場所を見た。紗夜の目から出たあの黒い何かは、流れ落ちた後気がついたら消えて無くなっていた。
「まぁ、羽根っぽい何かだったってことで……怪異に物理法則とか無いんでその辺考えるだけ無駄ですよ」
「そう言うものなんだ……」
巴はいつものカラッとした表情で笑った。ホラー系統が苦手なアタシとしては、まだそう言う割り切り方できないんだけどな……。
「その宇津宮って人、よくそんなことまで知ってるね……?」
「紗夜さんの目を治したやり方も、あいつから教わったんですよ。あいつ、怪異関係詳しいんで」
「蘭たちが専門家っていうくらいだしね」
「その分、いろんな面で苦労するんだけど……」
「まぁ、あればっかりはな……」
「Afterglowの皆さんには、随分手間をかけさせたみたいで……申し訳ないです」
紗夜はヒナの膝枕から体を起こすと、まるで土下座でもするように蘭たちに頭を下げた。
「ちょっ……紗夜さん頭あげてくださいよ!」
「そうですよ!そんな、大したことしてないんで!」
「まぁ、困った時はお互いさまということで〜」
蘭たちは恐縮しきったように慌てて紗夜に頭をあげさせる。本人たちの表情を見ると、本当に気にしていなさそうでこちらとしても安心した。
「それで、紗夜」
友希那は悪戯でも思いついた顔で紗夜に訊ねた。
「Roselia脱退の件、まだ保留だけど。どうするのかしら?」
紗夜はハッとした表情の後、顔を耳まで赤くして、気まずそうに頬を掻いた。
「……昨日の私は見なかったことにしてください」
それは無理そうだ、とアタシたちは笑った。
010
「いやー助かったよ宇津宮。紗夜さん、無事に目戻ったよ。ありがとうな」
〈俺はその氷川何某のことを知らん。視力が戻ったかどうかなどどうでもいい〉
「素直じゃねーなぁ……。感謝の言葉くらい受けとっとけよ」
〈……そもそも、こっちは顔も知らない人間の被害に巻き込まれただけだ〉
「だったら尚更素直に受けとっとけよ。……あ、紗夜さんも今度お前に会ってお礼したいって言ってたぞ」
〈要らん。益々どうでもいい。宇田川、お前の方で適当に断っとけ〉
「えー!そこはちょっとでいいから来てくれよ!アタシの顔を立ててさぁー」
〈知るか。……その氷川何某が夜雀に遭ったのは、西にある運動公園って言ってたか〉
「ん?あぁ、確かそう言ってたな……それがどうかしたか?」
〈しばらくそこには近づくな。昼も夜もな〉
「え、何でだよ……まだ夜雀がいるからか?」
〈夜雀は『先触れ』だからだ〉
「……先触れ?」
〈夜雀が視力を奪う理由には、複数の伝承があるが、有力な伝承の一つに野犬や狼の先触れとしての説がある〉
「……その公園に狼でも出るっていうのか?」
〈令和の日本で狼や野犬が出るわけないだろう〉
「お前の語り口だとそう言う意味じゃねーか!」
〈野犬だの狼だのというのは一例だ。
〈夜雀は、人間の視力を奪って動けなくしたところを野犬だのに襲わせるのだ。
〈そうして出来上がった死体の食べ残しを啄むんだよ。
〈夜雀が人から光を奪う以外に特に何もしないのは、夜雀がそういう狩りの仕方をするというだけの話だ〉
「お、おい……急に怖いこと言うなよ……」
〈だが、現代日本において狼は既に絶滅しているし、野良犬などすっかり見なくなって久しい。〉
〈なら、この令和で人を襲って死体を増やすものと言ったら、一体なんだと思う?〉
「…………」
〈お前の周りにも言い含めておけ。知り合いが死体になりたくなければな。……あぁ、あとそうだな〉
〈朝夕のニュースと、近所の不審者目撃情報も、よくチェックしておくといい〉
遠くどこかで、スズメが鳴いた声がした。
さよスパロウ
了