東京災禍~哲学的雪女と死にたがりJKの怪異譚~ 作:三文小説家
10年前。
東京、
その空間は外の状況とは明らかに違っている。まず、それまで多少なりとも聞こえていた雑踏や車の走行音が聞こえない。代わりに聞こえるのはベートーヴェンのピアノソナタ第14番嬰ハ短調・作品27-2。通称〝月光〟だった。
(おかしいね……今までにこんなことは無かったはずだけれど。会ったことの無い稀人かな)
時雨は念の為刀を取り出して先に進むことにした。別にこの道が使えなくなった所でそれほど困らないのだが、一応調べておこうと思ったのである。生活圏に未知の空間があるとあっては放置しておく気にもなれない。
と、時雨は嫌な予感がして後ろを振り返る。
「ええ……」
入ってきた道が塞がっていた。一応刀で殴ってみるが、弾かれてしまった。空間を切断できる時雨の力もこの空間には効かないらしい。まず間違いなくこの空間の能力は時雨のそれよりも強度が強い。
「現象系? それとも操ってる奴がいる?」
これは困った。この空間が現象系の怪異である場合、詰む可能性がある。力づくで開けない以上、出口が無いと干からびるまでこのままである。いざとなったら全ての力を解放してでも脱出するしかないのだが……
「まあ、色々歩き回ってみるか……どっちにしろ、此処にいても何も解決しないしね……」
こんな状況だし、独り言が多くなるのは勘弁してほしいと思う時雨。このモノトーンの空間において、時雨は異物である。何故と聞かれても困るが、直感的にそう感じるのだ。閉塞感というか、抜け道や隙間らしい隙間が無いせいか、或いはピアノの音以外が何もしないという静けさのせいか、謎の圧迫感がここにはある。ここらで愉快な妖鬼達が欲しい。奴らが出てきてくれた方が幾分か気分は軽くなる。
本来の路地裏よりも明らかに広いと思われる迷路を歩き回る。気分的にはラビリンスをうろつくテセウスのようである。尤も、目的地がハッキリしているぶん、テセウスの方が気が楽かもしれない。アリアドネの糸が欲しいところだ。
道中は進むにつれて音楽ホールのような内装に変わっていった。ただ、相変わらず全てがモノクロームであり、まるで異世界である。20世紀以前の写真などとは違い、意図的に白と黒に統一されているようにも思え、自然発生した怪異ではなく人工的な印象を与える。
その異質な迷路を進んでいくと、
「お待ちしておりました、時雨様。いいえ、多くの命を奪った夜刀神様、と言った方が正確でしょうか」
それは四本の腕を持ち、黒い礼服を纏ってピアノを弾く女性の形と声をしていた。この空間に入った時からずっと聞こえているピアノの演奏は彼女によるものだろう。一方、時雨は鈴を転がしたような声に不愉快そうな返事をする。
「そういう言い方をするって事は、あまり穏便な用事ではなさそうだね」
「ええ。単刀直入に言えば、あなたを救済するためにお呼びしました」
その言葉の直後、時雨に三本ずつ白と黒の剣が飛んでくる。刀でその剣を叩き落し、ピアニストの方を見ると、四本の腕のうち二本が物を投げたように前に出されていた。
「救済とは大きく出たね。僕の口座に幾らか振り込んでくれるのか、それともしつこい女をどうにかしてくれるのかな?」
「いいえ、もっと直接的で効果的な方法があります」
時雨がお返しとばかりに軽口を叩くが、ピアニストは無感情に応酬する。
「あなたの命の鼓動を止めてしまえば、それで演奏終了です」
「やっぱりそういう事か……じゃあ、これから救済されるらしい憐れな僕に、幾つか質問をさせておくれよ」
「まあ、構いません」
時雨はほぼ予想通りの彼女の言葉に、「面倒な事になった」と内心で舌打ちした。この空間の主は間違いなく彼女だ。つまり、彼女を倒さない限り脱出は叶わない。おまけに相手はかなり強いことは結界の強度からよく分かる。
「まず、誰かに雇われたの? それともアンタ自身が恨んでるパターン? 正直、恨みを買う覚えがありすぎて特定ができない」
「どちらも不正解です。私には怨みの感情も、それを理解できるだけの精神性もありません。私が貴方を殺すのは、ただ世界の旋律に従っているだけ」
時雨はその言葉に溜息を吐いた。この手の思考回路は雑談するには良いが、敵に回すと相当以上に面倒である。いわば経典を片手にマシンガンをぶっ放してくるイカレた宗教家と変わらない。
「じゃあ次。人間じゃないのは見れば分かるけど、アンタの正体は何?」
時雨は突如現れ、振り回される大鎌を回避する。ついでに氷の蝶を数発飛ばしておいた。だが、それらは音波とも衝撃波ともつかない攻撃で砕かれてしまう。
「……分かりません。私が生まれた時に感じたのは、人々の救済を願う感情、生きる事を放棄してでも救われたいと願う声と旋律だけ」
「それはまた随分と……じゃあ名前も無いんだ」
「はい」
本来、稀人の類は誕生と共に名を自覚する。だが、目の前の存在は名を自覚していないと言った。
(名を知られてはマズいと? いや、嘘をついている様子は無さそうだ。方向性は違えど、僕と同じイレギュラーか……?)
「殺される前に名を付けてくれるというのであれば大歓迎ですよ」
「じゃあ〝死神〟とか?」
「そんな直接的な名前は嫌です」
大鎌を振り下ろし、縦方向に無数の斬撃を飛ばす。とりあえず時雨はそれを〝閃影〟でかき消してから刺突攻撃を加えようとするが、今度は剣を投げられる。咄嗟に刀と蝶で防ぐが、相手の眉間に皺が寄っているのを見て時雨は怪訝な顔をした。
「いいじゃん。〝死神〟。格好良くて」
「そんな中学生みたいな感性はしてないです」
「とはいえ、アンタがやってることって死神そのものだけどね。『死は救済』とか言って暴れ散らかすつもりなんだろ?」
「流石に救済対象は選びますよ。誰彼構わず殺すわけではありません。そんな事をしたら旋律は乱れるばかりです。当たり前でしょう」
そんな常識であるように言われても同意する事はできない。と、時雨は攻撃を捌きながら思った。しかし、そうなると別の疑問が生まれてくる。
「それなら何で僕を標的にしたのかな。死にたいと願った記憶は無いのだけど」
「確かに、あなたは死を願ったわけではありません。しかし、その手で多くの流血を引き起こした。そうでしょう?」
「いつの時代も殺しの需要は尽きないからね」
「あなたは雑音です。音楽になることの出来ない憐れな音。音楽の崩壊を引き起こす危険な音。この街に真の
時雨はその言葉を鼻で嗤って、こう返した。
「世界に何が必要で何が不要かってアンタが決めるの? 怖」
大鎌を鞘で受け止め、そこから刀を引き抜いて斬撃を飛ばす。彼女は剣を飛ばしてくるものの、刀を振らずに離れた空間を切る技〝叢雲〟によって防ぐ。更に刺突攻撃で彼女を刺し貫こうとするが、剣で防がれる。
「アンタは真の意味で死神だよ。多分、アンタの意志とは関係なくね……おそらくそういう感情か思想から生まれたんだろうさ。別に良いと思うよ。否定はしない。何が善で悪かなんて結局主観だからね」
「…………」
「だから、アンタの主観で殺す相手を決めれば良いさ。〝死神〟になるつもりならね。尤も、ただで死んでやるつもりなんて毛頭ないけれど」
時雨がそう言うと、彼女は大鎌を振りかぶって音速で斬りかかってきた。
「私が死神ならば、あなたは祟り神ですね。いいでしょう。死神らしく、あなたという雑音を排除します。リタルダンドでもアッチェレランドでもない、ただ旋律を壊すだけの存在。あなたはこの世界にいてはならないのだから」
「奇遇だね。僕も常々世界を壊したいって思ってたよ。僕達が
「安心しました。後悔せずに済みそうです」
「やってみろよ。
彼女が大鎌を構えると、虚空から四本の腕が現れる。その四本の腕は空中に現れたピアノの鍵盤に手を置いた。
「
時雨が蝶や斬撃を飛ばすが、彼女に辿り着く前に砕け散ってしまう。そして、気付けば耳から血が出ていた。更に、身体の骨が軋み、遂には吐血する。
「最期にせめて、この世界に溢れる音を聞かせて差し上げましょう」
「はは……勘弁してよ」
時雨は自分の戦術的敗北を悟って渇いた笑いを上げた。攻撃の前段階で既にダメージが入り、更に推測通りであればこの技は時雨の天敵だった。氷の防壁を作ったとしても容易く壊され、相手の攻撃を許してしまう。
「〝4分33秒〟」
彼女が呟いた刹那、時雨はあらゆる音に包まれて自分が砕け散る感覚を覚えた。骨が軋む音も、肉体が潰される音も全てが相手の攻撃に転用される。完全な詰み。斬撃も氷撃も無意味。
「やっぱり……自分が死ぬ瞬間は予測できなかったな……」
一拍後、彼女は自分の攻撃が全てを破壊しつくしたことを知った。目の前には瓦礫と、殺害対象の死体が転がっている。既に呪いの文字片と化して霧散しようとしていた。彼女はその遺体の前に膝をつく。せめて、死の先に更生と安らぎのあらんことを。たとえ雑音であろうとも、自分は命を奪ったのだから。
そして立ち上がり、引き続きピアノの前に座り直した。
だが、それが間違いだった。
「油断大敵」
「何故!?」
背後から時雨が斬りかかってきた。彼女はすんでの所で回避するが、首に刀が掠り、血が噴き出す。
「あり得ない……貴方は間違いなく死んだはずです!」
「ようやくその無表情が動いたね。僕も他人の事は言えないけれど」
「質問に答えなさい!」
「いや、実際危なかったよ。あのままだったら確実にやられてた」
「それならどうして……」
「これだよ」
時雨は身体の一部を氷の蝶に
「そんな……自分から命を崩壊させるなんて……」
「実際はもう少し細かく、雪の粒のようにしたんだけどね。下手すればそのまま死んでたな」
時雨は既に半壊している。脱出マジックのような離脱をしても無傷とはいかなかったのだ。使えない部分は彼女を騙すための餌としたが、それでも余ったのはギリギリ姿を形成できるだけの雪だった。
「貴方は……一体……」
「何かが狂って生まれた、救いようのない化け物さ」
「…………」
「さっきも言ったけど、アンタの死は救済って思想自体は否定しない。僕だって、全ての存在は雪のように消えてなくなるべきだと思ってる。体温を持って動き回る人間や動物が気持ち悪くて仕方がない。ただ殺すだけの僕に比べたら、アンタの『救おう』って気持ち自体は高尚とすら言える」
「そんな……」
意外にも、彼女は唇を噛んだ。もしかしたら、彼女自身も自分の存在意義や思想には納得いってないのかもしれない。予想外の肯定も素直に受け取れず、思わず否定しようとしてしまった。
「ただ、何の偶然か、僕はとある人を愛してしまったんだ。自分でも
「……殺人鬼が愛を語りますか」
「戯言を、と思った? 実際僕もそう思ってる。本当は愛なんて呼べるほどの物じゃないのかも。アレには支配も、『僕の知る愛』を叩きつける力も無かった。僕の知っている愛とは非なるもの……ただ、心地よかったね。それ以上でも以下でもないけど、彼女が死んだときは本気で泣いたな」
「なるほど」
「嘘だと思う?」
「思いませんよ。それを否定できるほどの根拠は持ち合わせていません。私には『愛』とやらが何かも分かりませんし」
「そうなんだ……じゃあ本当に『死は救済』だけで動いてんだね」
本気で厄介な奴じゃないか……と、時雨は改めて顔を顰める。彼女の情緒、もしくは精神性は極端な話、幼児と大差がない。もしくは単一のプログラムに則って動く人工知能といったところか。それ以外の判断基準が無いが故に、どこまでも愚直に時雨を追ってくるだろう。
薄氷の上で成り立つ表の世界の下で、殺人を含む不道徳と非倫理が横行する裏の世界の中でどのような基準で時雨が選ばれたのかは定かでは無いが、面倒な奴に絡まれたものである。
「っ!」
彼女の大鎌が振り下ろされ、時雨はすんでの所で回避する。
「……貴方にどのような過去があるのか、詳細には存じ上げません。私に分かるのは、貴方が数多の命を奪ってきた雑音であるという事だけ。私の結論は変わりません」
「駄目か……億に一つくらいは人情話に心を打たれてくれるかとも思ったのだけど」
彼女は悲しい顔をした。哀しみの感情はあるのだろうか。いや、そもそもが救いの無い悲しみから生まれた存在なのかもしれない。
「本来なら、同情すべきなのでしょう。しかし、先程も言ったように、私には哀しみと救済以外の感情や思考は存在しないのです」
「そう……まあ、いいよ。或る意味では、その方が美しい」
彼女は哀しみの表情を、時雨は諦めの笑みを浮かべて、それぞれ音波と氷の蝶を撃ち合う。前触れの無い闘いは、死神の天体をモチーフとした月光の響き渡る中で続いていく。
次回、決着。