刺史の代理として政をこなしつつ洛陽から、刺史への就任とそれに併せて冀州へ兵を出すよう命令が来るのを待つこと約一か月。
向こうとしては半分以上嫌がらせだろうが、こちらとしては待ち望んでいた使者が訪れた。
「曹孟徳を兗州牧へ就任させるのです。同時に、冀州への出兵をするよう命じるのです!」
「勅、謹んで拝命致します」
「ならば後は任せるのです! 恋殿、さっさと洛陽へ戻りましょう!」
「……わかった」
「……」
歓待を受けることなく洛陽へと帰還していく二人を見て、どこか唖然とする表情を見せる曹操がいたとかいなかったとか。
勅使を名乗った呂布とやらではなくその横にいた陳宮とやらが全部話を進めていたような気がしないでもないが、細かいことは気にしないことにする。
曹操としても、陳宮がこちらに喧嘩を売っているように見えたとか、歓待の準備が無駄になったとか、色々と言いたいことはあるだろうが……今はそれよりももっと大事なことがある。
「冀州云々はともかくとして、その前。私の耳がおかしくなっていなければ、アレは私を州牧に就任させる。そう言ったわよね?」
ここで「残念だったな。それは嘘だ」と返せれば良かったのだろうが、現実は非情である。
「間違いなく。洛陽ではこちらが予想している以上に人材が不足しているらしい」
「……そのようね」
元々州刺史になるはずだったのが、まさかの州牧への就任である。
それも司隷の隣に位置する兗州の、だ。如何に今が非常事態とはいえ、常識では考えられない扱いと言ってもいいだろう。
ちなみに州刺史と州牧の一番大きな違いは、軍権を持っているか否かにある。
州刺史とは日本で言う都道府県の知事である。
政治を司る最高責任者であるものの、官軍(正規軍)とは別系統とされているので、彼らに対する命令権は持っていない。
軍の指揮権は中央から任命された司馬(ウチのことではない)や都尉と呼ばれる高級士官が持っている状態である。
なので、いくら州刺史が命令しても、司馬や都尉が頷かなければ軍は動かない。
この辺は日本における知事と駐屯地司令官の関係に近い。
しかし州牧は違う。
州牧は司馬や都尉の上に立つ存在であり、本来中央に任命権があるはずの司馬や都尉の任命権も移譲されているほか、兵を率いる権利も持っている。
例えるならアメリカの州知事と州軍の関係に近いだろうか。
軍事力を持たない州刺史であれば、中央に反逆の意思を見せた時点で即座に左遷させたり司馬などに討伐させることができるが、自前の軍事力を有する州牧は簡単に排除することができないので、中央集権を是とする漢帝国にとってはあまりよろしくない存在である。
もちろん曹操は刺史に任命される前から夏侯惇らを始めとした自前の部隊を抱えているため軍権云々が有名無実化していると言えばその通りなのだが、そもそも刺史として個人が持つ兵を扱うことと、州牧として州が持つ軍事力を万全に利用できることは決してイコールではない。
また州牧は、その軍事力を背景にして州内に存在する各郡の太守や県令に対しても強い影響力を発揮することができる。
その権力は、県令や郡の太守を自分で任命できるまである。
これにより曹操は今まで自分が治めていた陳留はもとより、それ以外の郡を治めていた太守らに対しても強制力を持つ命令を発令することができるようになったというわけだ。
これらのことを鑑みれば、通常中央の権力者である何進にも十常侍にも名家にも靡いていない曹操のような存在に対して独自の軍権を与えるかのような官職を与えることはない。
通常ではありえないことが成された理由はただ一つ。
『洛陽には兗州で司馬や都尉になりたがった人間が居なかった』ということだ。
まぁ気持ちはわからんでもない。
なにせ向こうからすれば、ここは賊によって前任の刺史や司馬などの武官が全滅させられた危険地域である。
甘い汁を吸いたいだけの人間にとって、ここは死地以外のなにものでもないのだろう。
そんなところの司令官になりたい人間などいるはずがない。
故に彼らは貧乏くじを押し付けあい、結果として曹操を州牧とすることにしたのだろう。
向こうからすれば『軍権をくれてやるから俺らに関係ないところで賊と戦え』と言ったところだろうか。
「……向こうの思惑はさておくとして、こちらからすればありがたい話、よね?」
「まぁ、そうだな」
元々陳留で用意した兵と物資でやりくりする予定だったのが、州全体の予算を使えるようになったのだ。
しかも冀州への出兵は勅令である。つまりどれだけ使っても反対意見が出ることはない。
いや、さすがに限度はあるだろうが、相当やらかさない限りは大丈夫だろう。
これによってどれだけ財政的に助かるかは言うまでもない。
金庫番をしている曹洪などにとってはいい意味での青天の霹靂と言える人事である。
当然曹操としても悪いことではない。
権力が増えた分苦労も増すが、そんなことは刺史になると決めた時点で覚悟をしていたはずだ。
問題があるとすれば、洛陽の連中の劣化が予想以上に激しいことだろうか。
別に、今更連中に改心して欲しいわけでもなければ、覚醒して欲しいわけでもない。
ただ、中央の劣化が進めば進むほど地方の軍閥化が進むという事実が問題なのだ。
これにより、我々が出世するのはいい。
だがそれは、他の面々も同時に出世するということでもある。
今後、曹操が敵視している袁紹はもとより、豫州の袁術、涼州の馬騰、幽州の公孫賛、益州の劉焉、荊州の劉表、揚州の劉繇、徐州の陶謙などの地方軍閥が乱立する乱世となるだろう。
当然、それぞれが出世すれば、それぞれが人材を求めることになる。
それはつまり曹操が得ることのできる人材が減るということだ。
もちろん司馬家ゆかりの人物や、荀家ゆかりの人物は優先して紹介できるだろうが、この圧倒的な売り市場の中、選ぶのはこちらではなく向こうである。
そんな状況で、大宦官の孫である曹操の下に来てくれる人間がどれだけいることか。
「せめてもの救いは、この乱が終わってから州牧に任じられるであろう麗羽たちと違って、私は現時点で州牧に任じられているってことかしら?」
「だな。今のうちに曹操殿が正式に州牧となったことを広く伝え、人材が外に行く前に囲い込むべきだ」
「無理やりは好きじゃないのだけれど、そんなことも言っていられないものね」
「あぁ」
優秀な人材をむざむざと敵に仕官させるのもおかしな話だし、なにより読み書き算術ができる役人の確保は絶対に必要となる。
故に争奪戦が始まる前に動き、囲い込むことこそが肝要となるだろう。
差し当たっては潁川の陳羣と戯志才。山陽郡の
「潁川に関しては桂花に任せるとして、郗慮と程立は早めに招聘したほうが良さそうね」
「そうだな。向こうも名の知れた名士だし、なにより早急に曹孟徳が兗州の人間を軽んじているわけでないということを示す必要があるだろう?」
「あぁ。そうね。これからはそんなことも気にしないといけないのね」
「州牧だからな」
現在曹操の部下として働いている者のうち幹部とされているのは、一門衆の他は夏侯姉妹と荀彧、それから俺だ。
曹操や夏侯姉妹は豫州沛国の生まれだし、荀彧も豫州潁川郡の生まれ。俺にいたっては司隷の河内生まれときている。
……おわかりいただけるだろうか。
これから兗州の州牧になるという陣営の幕僚の中に兗州出身者がいないことを。
ちなみに新たに配下になった陳珪母娘は徐州出身にして豫州沛国の相なので、これまた兗州とは無関係だったりする。
一応将軍クラスである李典・楽進・于禁・許緒・典韋は全員兗州出身ではあるものの、全員が全員名家の生まれではないし、なにより本人たちが文官向けではないということもあり、発言力という点では数段劣る立場にあるのが現状である。
地元の出身者が少なくても別に問題がないように見えるがさにあらず。
このままでは『曹操が兗州の出身者を軽んじている』という風評が立ってしまう可能性がある。
これの何が問題かと言えば、この噂を耳にした兗州の豪族たちが曹操に反発してしまうのである。
それも理屈ではなく、感情的な意味で。
この時代、地方の豪族を無視して政を執り行うことは不可能に近い。
いや、やろうと思えばできなくはないが、かなりの労力と時間が必要となる。
具体的には、命令に従わない豪族を片っ端から粛清する労力と、その後釜を用意するだけの時間が必要となる。
故にこれまで曹操は陳留郡の太守でありながら、郡内にある各県の県令や邑の豪族には一定以上の配慮をすることを余儀なくされていたのだ。
そういった事情から、我々は早いうちに兗州出身の名士を招聘することで、自分が兗州の人間に隔意を持っていないということを示さなければならないのである。
もちろんいくら地元に配慮すると言っても無能な人間を取り立てる必要はない。個人的にもできるだけ優秀な人材を確保したいというのはある。
その優秀な人物というのが、先に挙げた郗慮と程立だ。この二人を得ることができたなら、あとは二人が推挙した人間を取り込めば下ごしらえとしては十分だろう。
向こうとて自分たちが兗州の政に関わる機会を棒に振るような阿呆ではないはずだ。もしもこの招聘の意味さえ理解できない阿呆であったならば、そんな人物はこちらから願い下げである。
こちらは最悪『曹操から招聘した』という事実があればそれでいいのだから。
付け加えるならば、あまりにも地元を軽視し過ぎていると判断されたら、張邈や鮑信のような兗州出身の太守が人員を推挙してくるだろうから、それを待つという手もある。
どちらにせよ曹操から手を差し伸べるのは一度だけ。
その一度を掴むことができるかどうかは向こうの器量次第。そういうことだ。
「願わくば優秀な文官に来て欲しいところだな」
「えぇ。そうね。心からそう願うわ」
どんな人材が集まることやら。
無能な働き者がこないことを切に願うところである。
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