サイレンススズカが忽然と姿を消すのは、トレセン学園では半ば風物詩と化した出来事であった。彼女のトレーナーからするとたまったものではないのだが、必ず満足そうな表情で帰ってきて、やれこんなところを走ってきたんですよ、と耳を揺らしながら自慢げに話すのが愛らしいため、口頭で諭すに終わるのが常であった。
そして、夏も深まって、腹立たしいほどの晴天の蒸し暑いある日の朝のことである。スズカは例に漏れず、大きな水筒を肩に下げ、いってきますも言わず、ふらりと走りに外へ出たのだった。
____入道雲が幅を利かす濃い青空の下、一体どこまで走ってきたのか、木漏れ日が斑模様のように続く、薄暗い山道で、緑色のメンコをつけたウマ娘――サイレンススズカは立ち止まるのだった。
「ふぅ……」
頬を真っ赤に染めて、暑く湿った息を吐き出しながら、肩に下げた水筒の口を開け、水を飲もうとしたスズカは、汗に濡れた顔を困らせ、首を傾げた。いくら水筒の尻を上げようとも、一滴も水が出てこないのである。
彼女の耳は、残念そうに前に倒れた。
「むぅ」
雑多に入り乱れる木々が生える切り立った壁の下、急流の川のせせらぎが柔らかく鳴り響くのが耳を撫で、そして、天井を覆う木々のさざめきと、蝉たちの必死な合唱は、乾いたスズカを前へ進ませようと煽り立てた。
「のど、かわいた……」
乾いた口の中を舌で舐め、あてもないスズカは前に進むことにした。
____しかし、歩けど歩けど、錆びた白いガードレールと苔むしたモルタルの壁に挟まれた山の風景に変化は見られない。
木の葉に遮られて陽は薄く、谷底から吹き上げるそよ風があるものの、動けば暑いものである。
「はぁっ……はぁっ……」
辛抱たまらず、明るい栗毛の長い髪を後ろでひとまとめにして、白いうなじをあらわにして歩くスズカは、鳴り止む暇のない蝉の鳴き声に苛立ちを募らせるのだった。
とめどなく流れる汗が、体操着を重く染め上げていた。
「……!」
すると、ようやく変わらずの風景に変化が現れた。モルタルの壁沿いに、蔦の絡まったバスの時刻表が顔を出したのである。
しかし、小走りで駆け寄ったスズカは、ふと、思い出したように立ち止まり、ジャージのポケットに両手を突っ込んだ。
そして、さっと顔を青くするのだった。
「スマホ……」
バス停で時刻表がわかったとして、水筒と汗を吸った体操着、財布しか持ち合わせていないスズカに、現在時刻を知るすべはなかったのである。
一人の愚か者の頭の上に、ひらりひらりと木の葉が舞って、乗った。
「はう」
じーじーと蝉の鳴き声が、耳と一緒に項垂れたスズカに寄り添うが、落ち込んだ彼女にはうるさいだけであった。
顎の先からポタポタと、アスファルトの上に汗が滴って、シミを作った。
……茹で上がったように赤くなったスズカには、目の前に何かがあることを信じて、ただ足を前に運ぶことしか見えていなかった。
「ぅう〜……」
口元を手の甲で拭ったスズカは、かつてないほど重たい脚を、引きずって前へ出した。
____それからというもの、彼女は10分間ほど歩き続けることになるのだった。
そして、彼女はようやく、路肩の少し広くなったところにぽつんと建てられた、古びた木造の建屋が暖簾を出しているのを見つけたのである。
その周囲では、蝉の鳴き声の中に、僅かに風鈴の音色が混じっていた。
「水……!!!」
考える前に、乾き切ったスズカは駆け出していた。
暖簾を押して開けっ放しになっていた引き戸をくぐると、人気のない涼しい店内が彼女を迎えた。正面のカウンター席の上に、メニューが書かれた木の板が打ちつけられていた。
風鈴の音色と、お湯が沸き立つ音、遠くに蝉の鳴き声が聞こえるだけの、静かな雰囲気が醸されていた。
「……いらっしゃい」
店員は一人、厳かで物静かな雰囲気の爺であった。 が、顔を真っ赤にしたスズカの出立ちを見た瞬間、少しだけ目を見開いて、背を向けるのだった。
ずかずかと入り込んで軋んだ席についたスズカは、こぼこぼと音の聞こえる厨房の方を、首を長くして見つめた。重だるく気怠い手足が、なんでも良いから早く水をよこせと言い出す寸前の口を、かろうじて塞いでいた。
しばらくして、グラスいっぱいに汲まれたお冷、大雑把にきられた氷が浮かぶピッチャーを乗せたお盆を持って、やせぎすな老人が厨房の奥から現れ、スズカの目の前にぶっきらぼうに置いたあと、再び厨房へ姿を消すのだった。
その姿を目で追っていたスズカは、目の前の冷気を放つ存在に視線を向けた。
「……!! ちべたっ」
結露が滴るグラスに触れた瞬間、キンキンに冷えたそれで指が痛くなることが、今のスズカには嬉しく感じた。
溢さないようにそっと持ち上げ、グラスを唇につけ、傾ける。
すると、求めていた冷たい感覚が、止まることなく口の中に入り込んでいく。
「んくっ、んくっ……」
それは、トレセン学園の水道の蛇口を捻って飲む水とは違い、引っかかる感触のないすっきりとした飲み口で、鉄っぽい苦さはなく、ほんのり甘かった。
すっと目が細められ、灼熱の外に晒されていた身体が、腹の底から冷やされていった。
「はあっ」
グラスの水を一息に飲み切ってしまい、唇を離した頃には、スズカの頭はすっかり冷え、疲労のため息が口からまろびでるのだった。
「……」
すっかり落ち着いたところで、ふと、スズカは厨房の方へ目を向けた。少し古さを感じるものの、清潔にされた厨房からは、相変わらず水の湧き立つ音が空気に漣を立てていた。
「……」
今度は閑古鳥の鳴く店内へ視線をやって、壁にかけられたレトロチックな時計に目をやった。時刻は午前11時35分である。
____ぐぅぅ。
すると、彼女のお腹は、小さくくぐもった鳴き声を上げる。朝から走りっぱなしの彼女の身体は、ここにきて栄養補給を切に願っていたのだった。
財布の入ったポケットに手を添えた彼女は、まだじんわりと重たい脚に鞭を打って立ち上がり、再びメニューを見上げた。
「……ざるそば、かけそば、……」
力強く踊っている文字を目で追っていると、ますます彼女の細いお腹はきゅるきゅる鳴き声を立てる。今度は風鈴の涼しげな音色にも負けない音である。
口を半開きにして文字を追っていたスズカは、ハッと体をびくつかせ、正面を見据えた。
「……」
「……」
そこには、いつから立っていたのか、あの老人が腕を組んでいたのである。
蝉の鳴き声と風鈴の音が、静寂を埋める。
「……」
「……」
「……、……ざるそば、お願いします……」
「あいよ」
肩を回しながら再び厨房へ消える老人の背中を見ていたスズカの頬は、暑さからくるものではない赤みに染まっていた。
「はい、ざるそば」
「えっ……」
5分もしないうちに、スズカの座るカウンター席の上に、やけに大きいざるの上にこんもりと盛られたそば、薬味は白ネギとミョウガ、わさびがそれぞれ乗った二つの小鉢、そして、黒々として煌めくつゆの入った器が置かれるのだった。
もう一度メニューを覗きみて、価格が税込400円であることを再確認したスズカは、困惑したように老人の後ろ姿へ視線を落とすのだった。何せ、トレセン学園の周辺でこの量を食べようとするなら、少なくとも倍額は取られそうな勢いなのである。
「ウマ娘に出すのは久しぶりでな、足りるか」
「は、はい…… でも、おかね____」
「金は品書きの通り。ウマ娘が遠慮するもんじゃないよ」
しかし、そうしゃがれた声で言ったのち、老人はさっさと厨房へ入っていってしまった。
その影を見つめていたスズカだが、腹の音が急かしてくるため、ひとまずそういったことは隅に追いやることにしたのだった。
「いただき、ます」
黒塗りの箸を手に取って手を合わせた彼女は、ひとまず、薬味やわさびには手を出さずに、蕎麦とつゆで味わうことにした。
蕎麦の山に箸を突き刺し、すっと引き上げると、予想に反して大量に掬われて、透明な雫が飛沫になって机に滴る。
それを気にせず、無心につゆの中へ沈めてやり、溢れるぎりぎりの器を目前にしたスズカは、顔を前に突き出して、
「あー、……んん」
垂れ下がってきたこめかみの房を片手で掬い上げ、よくつゆが絡んで、少し赤みがかった蕎麦を口元へ持ってきて、
「あむっ……!」
その瞬間、ぼんやりとしていたスズカの眼の色が変わった。
「ずずっ、ずずぞぞっ」
はじめはゆっくりであったが、次第に啜るスピードは上がっていく。その間にも、彼女の舌は甘めの出汁が効いたつゆをうけていた。
口がいっぱいになったところで歯を立てると、蕎麦の一本一本が抵抗することなく切れていく。
「んく、んく……!」
そして咀嚼。食感はもっちりかつ歯切れが良いもので、噛めば噛むほど独特の香りがたち、それが甘じょっぱいつゆと合わさって、噛めば噛むほど旨味を出すようであった。
ふんふん鼻を鳴らしながら、スズカは口惜しそうに、
「ごくんっ……」
飲み込む時の喉越しも抜群。はじめは圧倒された量の蕎麦の山だが、ひとたび口にすれば、それが宝の山に見えて仕方がない。身を震わせ、尻尾を二、三振りしたスズカは、幸せそうに顔を綻ばせるのだった。
「……」
我慢ならずに、スズカは次の手に出る。小さく盛られた新鮮な緑のわさびを箸の先でとって、つゆに沈めて混ぜ合わせたのである。
再び蕎麦の山の一角を引っ張って器に沈めたスズカの耳は、ワクワクしているように動き回っていた。
「はむっ! ずぞっぞぞぞぞ……っちゅるるっ」
そして、今度は躊躇も何もせずに、普段から鍛えられている肺活量を活かして、一気に啜っていく。
あまりの勢いにつゆは跳ね飛ぶし、酸欠で脳がクラクラして視界がちかちかしてくるが、一度啜り出すと止まらないのが麺類の魔力である。
「んふー、んふー、むぐむぐ……」
夢見心地で噛み始めていると、ふわふわしていた脳を叩き起こすが如く、わさびの爽やかな香りと辛味が鼻を突き抜けて、ビリビリ痺れるような刺激が蕎麦の風味とよく馴染む。
「んくっ……はぁっ」
一息ついたらまた啜り、薬味をつゆに混ぜてさらに啜り。冷たい蕎麦を食べているのにも関わらず、スズカは少しだけ汗ばんできて、頬が紅潮してきていた。
酸欠と美味しいが行ったり来たりする危険な快楽は、スズカにうっとりとしたため息を吐かせるのだった。
「400円丁度。……良い食いっぷりじゃないか、ウマ娘の嬢ちゃん」
照れ照れと俯いてもじもじとしたスズカは、レジの椅子に腰掛ける老人に、ぺこりと一礼、
「あの、ありがとうございました……」
老人は、じわじわな顔を、初めて緩めるのだった。
「ここにゃ華がねえ、アンタみたいな別嬪がきて、こっちが若返った気分だったよ」
「はー……」
木の葉の重なり合いで、まるで宇宙のように煌めく天井を拝みながら、ググッと背筋を伸ばしたスズカは、満足げに目を伏せ、耳をすませてみた。
木々がざわめいて、蝉の大合唱が鳴り響く中に、か細く、風鈴の音色が聞こえた気がした。
寂れた建屋に振り返った彼女は、鼻歌混じりに山道を駆け降りて行った。