「場所を変えるか」
王の一言で、ネテロは意を決した。
異論はない。
ここに、人間がいたのは誤算で、更にそれが妊婦というのは、予想だにしないことだった。
蟻の殲滅の為にここまで来たネテロであったが、人間…しかも命を宿したものに深手を与えてしまったことは、あきらかな失態で、己の思慮と力量不足を痛感していた。
何の罪もなき、人間を傷つけてしまったことは、言い逃れできぬ大罪だ。
例え、彼女の身に宿る命が…人間とはえぬ、半獣のようなものであれ…
こんなことを考えるのは、蟻の討伐隊の責任者としては、失格かもしれない。
しかし、どうか、母も子も1命をとりとめてほしいというのが、誰にもあかせぬ、ネテロの想いだ。
ふと、ゼノを見遣るとゼノもうかぬ顔で、押し黙っている。
おそらくは、自分と同じ胸中であろう。
だが、今は女人や、ゼノのことよりも優先すべきことがある。
ネテロは、心の中でゼノに最期の別れを告げ、王と共に宮殿から離れた。
2人はやがて荒野に辿り着いた。
かつて、核兵器の実験場として使用されていたというその場所には、剥き出しの岩しかなく、生物の気配は一切なかった。
無機質で、冷たいこの場所で己は最期の戦いに挑む。
ネテロにはその覚悟が十分にできていた。
「心おきなく暴れていいぜ」
老いた男の言葉に、王は微かな違和感を覚えた。
様々な人間や、キメラアントを見てきた。
この目の前の老人は、いわゆる「レアモノ」の属性だ。
そして、自分が今まで見てきた、食したことのある、どんな者より強い生命力を持っていた。
ぶくぶく肥えた我欲を満たすだけしか脳がない、形だけの権力者たちとも、まるで違う。あのピトーの護りを欺くだけのことはある。
おそらく、生半な蟻では彼に傷一つつけることすら、敵わぬだろう。
一般の蟻なら秒殺。
師団長クラスでも、おそらく。
護衛軍、そして自分なら勝てるというところだ。
戦力も高いが、精神性が優れている。そういう点が王の興味をひいた。
コムギの肉体を傷つけたことは赦し難い。
しかし、王が赦せぬのは、コムギを護りきれなかった己自身だった。
あの程度の攻撃、自分にあたったところで、石ころ以下でしかない。
だが、コムギはどうだ?
脆い人間の身体でありながら、蟻の子をその身に宿し、命を賭して守り、育てている。
それを護りきることすら、敵わぬとは…王としてあるまじき、恥。
だが、どんな恥であれ、護るべき譲れぬ者の為、その恥すらのみこみ、生きる覚悟はある。
−共に在り続ける−
という、単純でありながら、難解なこの願いこそが、王を動かす、最大のトリガーとなっていた。
喪わぬ為に、すべきことは見えている。
目の前の老人の命を奪っても、目的の本質は果たせぬだろう。
だからこそ、王はゆるりと言葉を紡ぐ。
「なぜ戦う?」
厄介だとネテロは感じた。
「何故戦う?」
目の前の蟻の言葉には、邪気も殺意もなかった。
だから、ネテロはギリギリと歯をくいしめた。
いっそ、敵意を剥き出しにして、殴りかかってきてくれた方が闘りやすかったかもしれない。
自分も相手も馬鹿ではない。
力量の差はあきらかで、目の前の蟻にとって自分など、塵芥にも等しいのだろう。
鉾をおさめるよう、王に諭されたネテロだが、大人しく退くわけにはいかなかった。
ハンターとして、人間の社会と命を護る責務がある。
自分は「人間」の社会に属している。そして、人間の社会に害を及ぼしてきた「蟻」を討伐せよ。と命が下されたら、
自分はそれを遂行するしかない。
己が属する社会を守る為に。
この蟻は、精神が高尚だ。
葬るには惜しい命ではある。
しかし、ネテロはその感情に、蓋をし、静かに臨戦態勢に入った。