ピトーは、わたしを見ずに、まっすぐにアカズの人間の雌だけを見つめていた。
独り言だろうか。
アカズ…コムギは座った姿勢のまま、灰色の壁に向かって小さく何かを呟きながら、指をせわしなく、動かしていた。
ああ、そうだ。
コムギはああやっていつも、空に儀譜を描いて、いつもそこから現実離れした戦法を生み出して、破竹の勢いで、瞬く間に頂点にのぼりつめていった。
周囲の大人たちは、誰も想像しなかっただろう。
身分は國で一番、低く、容姿にもめぐまれない。おまけにアカズで盲目だ。
そんな、何もかもの底辺にいるような、存在が軍儀においては、絶対的な才能を持ち、その世界の頂きに在り続けることなど。
それがコムギ。
わたしの…親愛なる友人で、最大の好敵手であった存在。
「来るニャ」
いつの間にかコムギの部屋に入っていっていたピトーは、強めの語気でコムギにそ声をかけた。
同時に腕を掴み、立たせようとする。
「へばっ!?」
おそらく、声がかかるまで
ピトーの侵入に気がつかなかったのだろう。
コムギは、鼻がつまった滑舌の悪い声でピトーの行動に心底、驚愕していた。
まあ、無理もない話だよね。
心の準備とか全く整ってないと思うし。
「ねぇ、ピトー、あんまりびっくりさせちゃかわいそーだよ」
わたしも、コムギの部屋に入り、ピトーを諭した。
ピトーは珍しく、不機嫌な表情でこちらを一瞥してきた。
わたしは、ピトーを無視してコムギを見つめた。
勝負の時にしか開かない瞳。
まとまりのない髪を無造作に、無理やりにまとめている。
いつも、つまり気味の鼻。
ああ、本当にあの頃と全く変わらないね。
「…あんの…」
戸惑いと不安が隠せない、その表情と声。
懐かしさに胸がつまる。
貧しい貧しい、東ゴルトーという国が、国の代表として、税金を投じて育てると決めたのは、わたしではなく、このアカズだった。
同時にわたしは、隣国に引き抜かれ、翌月からは東ゴルトーの国籍は棄て、隣国の軍儀の打ち手として生きることになった。
貧しくて暗いあの故郷の国に、未練などないはずなのに…
唯一、国に選ばれたコムギがとても眩しくて…
羨ましかった。
国はわたしを選らばなかった。
それは、ひどくわたしを惨めな気持ちにさせた。
選ばれたコムギ。
棄てられたわたし。
けれども、わたしを必要としてくれる場所がある。
そして、それは、祖国よりはるかに裕福で、恵まれた国なのだ。
万全の環境で、わたしは軍儀に向き合える。
もしかしたら…
わたしは、祖国を出て、国籍を棄てることで初めて勝てるかもしれない。
最大の好敵手であるコムギに。
希望と不安が胸を支配していた。
わたしが、国を発つという、その前日だった。
東ゴルトーに異変が起き、全てが変わってしまったのは。
ああ、でも不思議だな。
こうして、鮮明に記憶が蘇っても、人間に戻りたいとは思わない。
だって、蟻だから…
蟻であることがゆるされるからこそ…
わたしは、こうして王のお側に在ることがゆるされるのだもの。
ただ、ちょっと不安がある。
「ねぇ、ピトー。王の與儀のお相手には、ちょっとコレは役不足でない?」
わたしは、ピトーの耳に囁いた。
「…いや。最適」
ピトーは、わたしを見て小さく笑みをこぼした。
選択に間違いはなく、この選択こそが正しいと。
確信と自信に満ちた笑み。
それでも、わたしは不安が拭えず、言葉を続ける。
「だって、この者は…身分もあの方に釣り合わず、容貌もこのように、みすぼらしいでしょう?あの方の興味をひくことは難しいんじゃ…」
「それは、全ては王のご意志次第でしょ。ボクらが決めることじゃないニャ」
ピトーは珍しく、強く言い切った。
そして、立たせたコムギに、言ったのだった。
「これから、この世で最も尊い身分の方の元へ君を連れていく。
粗相のないように気をつけて」
口調は、穏やかだった。
でも、その瞳に宿る光はかつてない程、剣呑だった。
「ワダすが…どうして?」
戸惑うコムギの腕をひき、ピトーはそのまま、部屋を出た。
「王は、退屈をもて余していらっしゃるんだ。君は與戯の相手をしてくれたらいいニャ」
「…ワダす…軍儀しかできませんし、それしか知らない…す」
コムギは不安気に俯いた。
「それしか知らないなら、それでいい。粗相だけはないように、
王のお相手を。本来、君の身分ならあの方のお姿をお目にすることすら、かなわないんだ。でも、今回は特別に機会を設けてあげるんだ。こんな好機は二度と訪れないかもしれない。だから、精一杯、君はこの機会に訪れた幸運を享受すればいいニャ」
そうやって話しているうちに、わたしたちは、最も尊い方がいる
部屋の扉の前に着いてしまった。
自分が王のお相手を務めさせて頂くわけでもないのに、ひどく緊張する。
ピトーが重厚なつくりの扉をノックして開ける。
開いた扉から視界に入ったのは、まずはプフ。
秀麗な美しさは、まさに王の側近、護衛軍にふさわしく、存在感が圧倒的だ。
そして…王。
退屈と虚無感にうんざりされているような、冷たい眼差し。
だが、それすらも至高の輝きのごとく美しく、わたしはただ、息をのみ、立ち尽くすばかりなのであった。