瞳に宿った炎は消えない   作:Tyler Durden

10 / 10
第10話 老人と少年

 

 

 

 たづなさんとの飲み会から一夜明けて、今日は土曜日だ。世間では土曜は休日とされているが、トレセン学園ではその理屈は通用しない。ここでは月曜日と火曜日が休日だ。土日はレースがあるから。だから、俺が朝の6時からトレーナー室で仕事をするのは当然のことだ。

 

 青葉が繁る新緑の季節。皐月も中旬に差し掛かる今日この頃。俺は相も変わらずトレーナー室にいた。

 

 俺にはやるべき仕事があった。ライスシャワーの次走である東京優駿に向けて、競争相手のデータを解析する必要があった。

 

 複雑なことをするわけじゃない。全員のレース映像やらタイムやらをできる限り多く集めて、観察して、一人ひとりの癖や戦略を把握する。それらのデータを数字で管理する。

 それだけ。それだけなのに重要なのは、情報量が勝敗に直結するから。現代のレースは情報戦でもある。そして答えは数字の中にある。

 

 ――これは重要な仕事だ。

 

 自分に言い聞かせる。

 

 ――完璧に遂行する必要がある。

 

 言い聞かせる。

 

 ――何の意味もない。やるだけ無駄だ。

 

 しかし、心の奥底ではくだらない仕事だと思っている。

 

 もう何度目だろう。否定的な考えが浮かんできて、その考えにひれ伏す。思考は負の連鎖を辿る。思考の文脈は仕事についてなぞっていたはずなのに、いつしか厭世と諦観をなぞっている。

 

 俺の努力に意味はない。どれだけ俺が努力しようと、最終的には勝てるかどうかはウマ娘次第。俺は選手ではない。勝敗は俺の与り知らないところで決して、俺という存在に意味はない。

 

 目が覚めると俺はトレーナーです。

 

 意味のない、好きでもない仕事は、苦痛だ。俺は思考で苦痛を打ち消そうとするが、うまくいった試しはない。苦痛と思考の海に沈んでいると、段々と胸が苦しくなって、全てから逃げ出してしまいたくなる。そういうときは目的を思い出す。

 

 苦痛に耐えるのは、彼女のため。

 ライスシャワーのため。

 

 俺は彼女のために頑張っている。たとえこの仕事が何の意味もないものだとしても。彼女が勝てるように。彼女が泣かなくて済むように。

 

 ――下らない。彼女の枷は俺自身なのに。

 

 悲観的なときに限って俺の頭はよく回る。見たくもない現実を直視させて、否が応でも客観的な事実を認識させる。

 

 皐月賞の少し前から、ライスシャワーは誰が見てもわかるくらいの絶不調。原因は間違いなく俺との不和。ウマ娘(ライスシャワー)をサポートするはずのトレーナー(おれ)が、今は彼女の足を引っ張っている。

 

 俺の存在意義は揺らいでいる。元々小さなものだったが、今では風前の灯だ。

 

 だから証明する必要がある。俺は有意義な存在だと。そのための早出残業だ。他のトレーナーよりも時間をかけて、他のトレーナーよりも優れた成果を創出する。

 

 もう敗北は許されない。東京優駿では完璧で非の打ち所のない戦略を立案して、ライスを勝たせる。そうすれば……

 

 そうすれば、俺はまだこの世界で生きていられるはずだ。

 

 目の前の映像を穴が開くほど見つめる。どんな些細なことも見逃さないように。

 集中力が外界を遮断する。膨張する速度は静止に近い。全力で観察している。極限まで集中している。なのに、隔絶された思考の片隅で俺は全く無意味なことを考えている。

 

 ――こんなことをして何の役に立つ。俺はいつか死ぬのに。みないつか死ぬのに。

 

 雑念を必死で振り払いながら、俺は映像の観察を続けた。

 

 

 

 

 

 集中力の限界に達して顔を上げると、時計の針は13時を指していた。あっという間に7時間が過ぎていた。俺は背もたれに体を預けて、小さく息を吐いた。

 

 年を重ねたからだろうか。近頃は時間の進みが歪んでいるように感じる。一週間前のことが遥か昔に起こったように感じる。

 

 生命に不可逆的な変化を齎す老いの力は、まさに超越的だ。そのことに気がついたのは、ふと鏡を見たときだ。鏡の中の人物は俺の知っている俺じゃない。俺の自己像は17歳のまま止まっている。

 

 お前は誰だ? 俺はどこにいるんだ?

 

 鏡に向かって問いかけても応えは返ってこない。俺がまばたきをすると、鏡の中の人物もまばたきをする。口を開けると、口を開ける。見つめると、見つめ返してくる。

 

 どれだけ覗き込んでも鏡に変化はない。俺はさらに顔を近づける。もっと近くで見れば何かが変わるはずと信じて。鏡に変化がないのでさらに近づけるが、やはり変化はない。同じことを繰り返し、吐いた息で鏡が曇って、俺はようやく目の前の現実を受け入れる。俺は老いた。

 

 それだけじゃない。最近は昔のレースの夢を見るようになった。今までは思い出すこともなかったのに。

 

 ああ、これは考えちゃだめだ。他のことをしよう。

 

 凝り固まった身体をほぐすため、大きく背伸びをして上半身を左右に捻る。背骨がパキパキと鳴る。心臓がバクバクと音を立てる。生きている証拠だ。頭では生きているか死んでいるのか分からなくても、俺の体は今ここにある生を証明する。

 

 だが、永久に生き続けることはできない。長いはずだった人生の持ち時間もいつかはゼロになる。

 

 俺は少しづつ死んでいく。死んでいく。死んでいく。

 

 不変のものはない。万物が崩壊に向かっている。

 

 ――死ぬってのはどんな感じだ。無か? それとも暗闇か?

 

 死について考える。答えのない問いを立てて。

 

 ――死んだらどうなる? 死後の世界はあるのか?

 

 死後の世界など無い。救済は永遠に訪れない。

 

 ――死ぬときは苦しいのかな。それとも、何も感じない?

 

 何度も何度も同じことを考える。死。死。死。そのうち言葉は本質との境界を失い、死の実存は薄れて、俺は死と一体化する。

 

 ――どうすれば死を回避できる? 水銀でも飲めばいいのか?

 

 あれ。おかしいな、様子が変わってきた。

 

 ――天国に行きたい。神様、俺を御国にお招きください。

 

 そんなこと考える必要ないだろ。どうせそんなものはないんだから。

 

 ――俺はこのまま死んでいくのか? 夢も目的もなく、死んだように日々を過ごし、いつしか本当に死ぬのか?

 

 やばい、どうしよう。死を受け入れられない。全然受け入れられない。まずいパターンだ。

 

 パニックで発作を起こしそうになる。呼吸が速くなって、酸素を取り込めず二酸化炭素を排出できなくなる。

 落ち着け。深く息を吸え。考えるのをやめろ。

 

 そうだ、動画の続きを見よう。作業に集中すれば何も考えずにすむ。少しの間だけれど、俺はいつか死ぬということを忘れられる。

 

 パソコンの電源ボタンを強く長く押す。起動までの時間が永遠に感じる。息をする時間すらもどかしい。はやく、はやく、はやく。

 

 コンコンと音が鳴った。突然のノックに顔を上げてドアを見やる。理由はわからないが、心の中がざわめき立つ。不吉な予感がする。

 

 ――なぜ俺に来客が? それも土曜日の真昼に。

 

 何か妙だ。何かがおかしい。脳味噌が混乱する。

 

 ドアの前に立つ人物を想像するが、一向に思いつかない。同期や先輩、後輩ではないだろう。たづなさんでもないはずだ。トレセン関係者なら土日はレースで忙殺されているはず。

 

 ドアノブが回転して、扉がゆっくりと開く。妙にスピードが遅い。コマ撮りの映画を見ているみたいだ。脳味噌がオーバークロックしている。

 

 ――やめろ。俺を一人にしてくれ。ここにいれば安全で安心で、俺は何も考えずに済むんだ。

 

 俺の心の声はいつも通りどこにも届かない。扉は開く。開く。開いていく。願えども安寧は叶わず、扉は開き切って、俺は外の世界からきた人物と邂逅を果たす。

 

 

 

「よお」

「……コーチ」

 

 扉を開けて入ってきたのは、俺が陸上の現役時代に師事した人物だった。あまりにも突然の出来事に、一瞬だけ他人の空似かと疑ったが、すぐにそんなはずはないと思い直した。

 俺がコーチを見間違えるわけがない。短くない時間を共に歩んだ恩師の顔は、忘れたくても忘れられない。

 

「久しぶり」

「お久しぶりです」

 

 予想だにしない再会でテンションが上がる。陸上の師ともなれば尚更だ。

 

「どうしたんですか急に」

「ちょうど近くに来たから寄ったんだよ。久々にお前さんの顔でも見てこうと思ってな」

 

 俺が嬉しそうに話しかけると、コーチは照れ隠しに大きく笑った。コーチが高らかに笑うと、葉脈みたいな顔の皺が一層深くなった。

 

「今お茶をお出しします」

「紅茶だろ? 要らねえよ。自分の飲み物ぐらい買ってきてある」

 

 今世紀で一番気合を入れて紅茶を淹れようとしたが、きっぱり断られた。にべもない。

 

「座らせてもらうぜ」

 

 コーチはパイプ椅子に腰掛けた。そんな粗末な椅子では腰に悪いだろう。老体を労わらなければ。

 

「俺の椅子を使ってください」

 

 俺は自分の椅子を持ってきてコーチに差し出した。コーチは怪訝な顔をした。

 

「いいよ。これで十分だ」

「そういうわけには……」

「いいって。気ぃ遣わなくても」

 

 コーチはパイプ椅子の使用を固辞した。こうなったコーチはテコでも動かないと知っているので、何も言わず椅子を戻した。

 

「最近どうだ」

「……まあまあってとこです」

 

 全くもってまあまあではない。しかし、本当のことを言って気を遣わせるのも憚られるので、嘘で穏便に収めた。

 

「何だよ、随分他人行儀じゃねえか。いい加減、肩の力抜けよ」

「滅相もない」

「もう監督と選手じゃねえんだ。無礼講で話そうぜ」

「俺の中では、コーチはまだコーチです」

 

 そうさ。俺の中では、まだ終わっていない。

 

「あそう。まあ……無理にとは言わねえよ」

 

 コーチは渋々といった様子で追随をやめた。なぜ不服そうな顔をするのか俺にはわからなかった。

 

「最後に会ったのは、たしかお前さんが成人したときだったか」

「そうですね。2年くらい前です」

「随分と髪が伸びたな。モテたいのか?」

「こう見えて忙しいんですよ」

 

 髪を伸ばし始めたのは走るのをやめてからだ。現役の頃はスポーツ刈りだったので、俺をあの頃の姿で記憶しているコーチには見慣れないのだろう。

 

「似合ってませんか?」

「似合っとるよ。前より男前になった。男振りはどうだか知らんがね」

 

 女々しくなったと言いたいのだろうか。コーチにしては珍しく歯切れの悪い言い方に、小さな疑問を抱く。

 

 気になる点は他にも多数ある。突然の訪問に始まり、やけに積極的なコミュニケーション、そのくせ拒否されたら素直に引き下がるところ。しかし、一番気に掛かるのは妙に物腰が柔らかいところだ。コーチはもっと我が儘で、頑固で、キツイ性格だった。2年でこうも人は変わるものだろうか。

 

 俺が瑣末な疑問に翻弄されていると、コーチはおもむろに立ち上がり、椅子を片付け始めた。

 

「もうお帰りになられるんですか?」

 

 俺が純粋な疑問をぶつけると、コーチはなぜか小さく笑った。これもおかしい。コーチは顰め面を標準搭載していたはずなのに。

 

「ちげえよ。外行くぞ」

「外に?」

「こんなに天気のいい日に室内で喋る気か? ターフに出るぞ」

 

 これは憶えのある奇行だ。コーチは室内でじっとしているのが苦手なので、折を見ては外に出る癖があった。昔を思い出して、懐かしいような切ないような感覚になる。

 

 断る理由もないので快諾した。俺も外に出て気分転換したいと思っていたところだ。俺たちは閉め切った部屋を出て、ターフへと向かった。

 

 

 

 

 

 

「いい風だ」

 

 ターフには春風が吹いていた。コーチはそれをお気に召したようだ。

 

 俺も風は好きだが、生温かいのは好きではなかった。柔らかで、生き物を優しく包み込むような春風は性に合わない。むずがゆいような、物足りないような気持ちになる。

 

「あれからいろいろあっただろ」

 

 コーチは朴訥とした口調で話し出した。なるべく感情を込めず、事実だけを話すような口調だった。

 

「あれって?」

 

 何について話しているのかわからないフリをして聞き返した。暗にその話はしたくないと伝えようとして。

 

「お前さんのご両親が死んだことだよ」

 

 返答はこれ以上ないくらい簡潔だった。言葉からは有無を言わさず事実を断定する意思を感じた。反論は許さないとでも言いたげだった。

 

「ありましたよ。葬式やら保険金やら。それから車の免許取ったり、トレセンに就職することになったから大学の推薦辞退したり。あの頃は忙しかったな」

 

 本当に忙しかった。だが、何より俺を責め立てたのは忙しさではなく、意味の不在だった。目的の不在と言い換えてもいい。とにかく、あの頃の俺の人生には方向性が欠落していた。

 

「お前さんあの後、宗教にハマってたそうじゃねえか」

「ハマってはないですね。今も無神教だし」

 

 これは本当だ。いろいろ体験はしたが入信にまでは至らなかった。だから俺はあの日から神を失ったままだ。

 

 宗教は悩める者にとって最高の道標だ。自分の頭を使う必要がないから。ただ信じること。疑わないこと。それだけで天国が約束される。俺もそう信じていたかった。

 

「あんまりとやかく言うつもりはねえが、宗教はやめとけよ」

「信教の自由を取り上げるつもりですか?」

「そうじゃねえよ。そうじゃねえが……」

 

 権利を主張するとコーチは口ごもった。陽に照らされて目を細めるコーチは、記憶の中よりも少しだけ老けて見えた。

 

「俺にはお前さんが、あの日からずっと、救いを求めているように見えてな」

「勘違いですよ。そもそも、人間なんてみんな救いを求めてるもんでしょ」

 

 くさいセリフはやめろ。昔はあなたのロマンチストなところが好きだったが、今はもう違う。俺は大人になったんだ。ならざるを得なかったんだ。

 

 会話はすっかり鳴りを潜めて、風の音だけが聞こえて。ぬるい風に包まれるだけの時間が過ぎていく。芝と土の匂いがする。

 

「ライスシャワーのことだが」

 

 沈黙に耐えかねてかコーチが口火を切った。俺は鼻腔をくすぐる芝の匂いを気にしていたが、意識を会話に向けるしかなくなった。ライスシャワーのことをなぜコーチが知っている?

 

「もっと大切に扱え。才ある者は繊細だ。トレーナーと喧嘩なんてすりゃあ、勝てる勝負も勝てなくなる」

 

 コーチは少しだけ怒っているようだった。俺は居た堪れなくなって、怯えるように目を伏せて尋ねた。

 

「どうしてライスシャワーのことを知っているんですか?」

「人脈があるんでな。お前さんの情報は筒抜けだ」

 

 直感的に、コーチの指す『人脈』とはルドルフやチーフのことだと思った。俺がチーフの下で学ぶと決まったとき、コーチはわざわざ菓子折りを持ってきた。そのときにチーフやルドルフと連絡先を交換していてもおかしくはない。

 

「真面目にトレーナーやれよ」

「すみません。もう二度と彼女に敗北は味わわせません」

「そうじゃねえよ。俺の言いたいことは」

 

 言いたいことがうまく伝わらないもどかしさからか、コーチはボリボリと頭を掻いた。

 

「いいか? トレーナーの仕事ってのは指導するウマ娘がいて初めて成り立つもんだ。お前さん、トレーナーとしての自覚あるか?」

 

 そんなものはない。俺は成り行きで彼女のトレーナーをしているだけだ。そのような厚顔無恥な告白ができるはずもなく、俺は沈黙を貫いた。コーチはただ俺の言葉を待った。風の唸り声だけが聞こえた。

 

「俺は彼女のトレーナーに相応しくない」

 

 永遠にこうしているわけにもいかないので、俺は言葉を捻り出した。口から出てきたのは怒られないための、自分を守るための言い訳だった。俺という人間はとことん腐っていた。

 

「それはお前さんが決めることじゃねえ」

 

 春風はお構いなしに吹き荒んでいた。そんな轟音の中でもコーチの声ははっきり聞こえた。

 

「ライスシャワーが決めることだ。お前さんのことが気に食わねえなら向こうからそう言うさ」

 

 コーチはきっぱりと言い切った。口調は厳かでいて、駄々をこねる子供をあやすようでもあった。

 

「それに、あの子は失敗を誰かのせいにするような子じゃねえよ。お前さんを憎んだりもしない」

 

 ――本当にそうだろうか。

 

 懐疑心を隠せなかった。俺は彼女に失望されるのを心の底から恐れていた。

 

 ――どうしてそう言い切れる? 彼女の心がわかるわけでもないのに。

 

 俺の目に映った疑念をコーチは見逃さず、窘めるように言葉を付け加える。

 

「そうだな。ひとつ仮定の話をしよう」

 

 コーチは顎に手を当てて考え込むと、そのまま目を瞑った。短い逡巡の後、彼は目を見開き、鋭い眼差しで俺を射抜いた。

 

「もしライスシャワーが血ヘド吐くまで走り込み、水たまりができるくらい汗を流して、それでもレースで勝てなかったとしたら。お前さんは彼女を見限るか? 彼女のトレーナーであることを恥じるか?」

 

 そんなわけがない。コーチも意地悪な質問をする。

 

「いいえ。俺は胸を張って彼女のトレーナーであり続けると思います」

 

 正直な気持ちを伝えた。太陽が照りつけていた。陽光は芝生を照らし、世界は輝きで満ちていた。

 

「同じだよ。お前さんはよくやってる。ライスシャワーもそれをわかってる。どんな結末になろうと、彼女はお前さんを責めねえよ」

「……そう、ですかね」

 

 なぜ急に褒めるんだ。突然そんなことを言われたら、驚いてしまうだろう。全く予期せぬ励ましに、俺は柄にもなく涙ぐんでしまった。

 

「あとは覚悟を決めるだけだな」

 

 コーチは空を見上げながら、ぶっきらぼうな口調で語った。他に道はないとでも言いたげに。

 

「彼女の覚悟はとっくのとうに決まってる。あとはお前さんが覚悟を決めろ」

「……何の覚悟ですか」

「彼女の走りに全てを賭ける覚悟だ」

 

 低く冷たい声音に肌が粟立つ。コーチは常軌を逸した狂人の目をしていた。冷たい汗が背筋をつたうのを感じた。

 

「レースに出たら勝ち負け以外の物差しは存在しねえ。勝者が全てを手にする。敗者には何も残らねえ。そうなったときに助けてくれるのは自分だけだ。普通はな」

 

 俺は小さく頷いた。その通りだ。誰も助けてはくれない。すべては自己責任だ。

 それに、誰も助けてはいけない。哀れみを含んだ慰めは、敗者に残されたなけなしの自尊心をズタズタに引き裂く。全力を尽くして得たものが憐憫だと知ったとき、心は砂になって彼方へ飛んでいく。

 

「だが、唯一トレーナーだけは例外だ。ウマ娘と辛苦を共にしたトレーナーには、ウマ娘の責任を半分背負う()()がある。トレーナーだけに許された特権さ」

 

 コーチは何かを隠すかのように笑った。特権などという聞こえのいい言葉を使っても、その内実はただの心中であることに気が付いているのだろう。

 

「他人の人生背負い込むなんて、やろうと思ってもできねえ。大半の奴には資格も能力もねえからな。でも、お前さんにはあるんだよ。お前さんならライスシャワーを助けられるんだよ」

「俺に、彼女の人生の責任を取れと?」

「そうだ。どれだけ覚悟を決めようと最初の一歩は怖えもんさ。お前が彼女の背中を押してやれ」

 

 無茶なことを言う。レースにすべてを賭ける手助けをするなんて、崖から我が子を突き落とすようなものだ。這い上がってくるとは限らない。

 

「無理ですよ。一度も頂きに立ったことのない奴には」

 

 俺は当たり障りのないことを言って話を流そうとした。これ以上この話はしたくない。

 

「無理じゃねえ。彼女の肩に載っかってる責任をお前も持ってやれ。一人では重てえ荷物も二人なら少しはマシになる」

 

 コーチは話をやめなかった。随分と熱の籠った反駁だ。内に迸る情熱は老いてなお健在のようだ。しかし昂るコーチとは裏腹に、俺の心は芯まで冷え切っていた。

 

 無理だよ、コーチ。臆病者には荷が重すぎる。どうして他人の人生まで背負えるんだ? 俺は自分の人生を生きるので精一杯だ。彼女の人生を背負いながらゴルゴダの丘には辿り着けない。

 

「責任を取る……どうやって?」

 

 話を誤魔化そうとしてわざと難しい質問をした。この質問に明確な答えなどないことを俺は知っている。他人の人生を左右する権利なんて、誰にもない。時間稼ぎにはもってこいの問いだ。

 

「簡単だよ」

 

 予想とは裏腹にコーチは即答した。俺は驚きで目を見開いた。老人の瞳は少年の無垢を湛えていた。

 

「もともとトレーナーにできることなんて限られてる。ましてやお前さんは新米。なら、方法は一つしかねえだろ」

 

 わからない。俺にできることなどあるのだろうか。担当バを満足に勝たせることもできない俺に。

 

「何ですか」

 

 震える声で尋ねた。答えを知ることを恐れながら、答えを知ることを希望だと信じて。

 

 コーチは芝生を踏み締めながら歩み寄り、俺と真正面から向き合った。正面からまじまじと見たコーチは、小さく細身なただの老人で、俺の憧れたオリンピアンの面影はどこにもなかった。それでも俺は彼のことを心から尊敬していた。

 

「それはな……」

 

 老人の口が開いてゆく。少しづつ、ゆっくりと。まただ。時間の流れが遅くなっている。スピードの向こう側に近づく感覚。可能性は膨張を続ける。しかし、全ての物事には終わりがある。

 

 コーチの喉が空気を震わせる。音の波が俺の耳に届く。シナプスがインパルスを伝達し、ニューロンによって言の葉が敷かれる。スパークの明滅。止まっていた時間が動き出す。そして、俺は彼女と共に歩む唯一の方法を知る。

 

 

 

「ライスシャワーを愛することだ」

 

 

 

 それはあまりにも慮外の提案だったので、一瞬コーチの言っていることの意味がわからず、文章を頭の中で反芻した。

 

 ライスシャワーを愛する……愛する、か。

 

 何度も同じ文章を思い返した。そうやって脳内で音読を繰り返すうちに、俺は妙に納得してしまった。コーチの確信を孕んだ声音のせいだろうか。明確な理由はわからないが、とにかく俺はコーチの提案に得心が行った。

 

「ライスを愛する、ですか」

 

 春風をかき分けるように声を出した。空はどこまでも青く、陽を受けた芝生は若草色に輝いていた。

 

「そうだ。お前さんが半端な態度とってるから向こうも遠慮してんだ。お前さんが本気で向き合えば、傷つくことを恐れなければ、ライスシャワーもそれに応えてくれるさ」

 

 図星を突かれてぎくりとした。俺がライスシャワーと深い関係になるのを避けていることもお見通しらしい。ここまで詳しいと感嘆を通り越して恐怖の域に入るぞ。

 

「お前さん、ライスシャワーを叱ったことはあるか」

 

 全く違う角度の質問が来た。今度は何を試されているのだろうか。先程ライスを大切に扱えと言われたばかりだ。正直に「何度もあります」とは言いにくいが、嘘をついてもしょうがない。

 

「……あります」

 

 おそるおそる応えると、コーチはなぜか破顔した。

 

「そりゃ良かった。少しは自分を曝け出してるんだな」

 

 何だそれは。俺は困惑した。叱咤と自己開示が結びつくとは到底思えなかった。

 

「叱るってのはどんな風にだ?」

「自分の失敗を基にして、ライスが同じ轍を踏まないように指導してます」

「ほお。そりゃあ尚のこといい」

 

 コーチは嬉しそうに頷いたが、俺は本当に訳がわからなかった。混乱は最高潮に達していた。

 

「ライスを叱ることの何がいいんですか?」

 

 考えてもわからなかったので、俺は素直に訊いた。わからないことを考え続けるのに意味はない。死について考え続けても死を免れることができないのと同じように。それに、答えは目の前の老人が持っている。

 

「それはな、ライスシャワーを厳しく叱るのはお前さん自身の苦しみの告白であり、彼女の未来を案じての行動でもあるからだ。つまるところ、お前さんはあの子に幸せになってほしいんだな」

「……」

 

 そう言い切るとコーチは小さく伸びをした。随分と長話をしているので疲れてきたのだろう。俺もそうだが、リラックスなど望むべくもなく、それどころか全身を鎖で縛られたかのように硬直していた。

 

 ――自分でも気づかないうちに、俺は弱みを晒していたのか。

 

 自分では意識したこともなかった。想定外の失態だ。いけない。弱さは命取りになる。虚を突かれた俺の思考はまたもや堂々巡りを始めた。

 

「ライスシャワーに幸せになってほしくねえのか?」

 

 意表を突かれてわかりやすく押し黙った俺に対して、コーチが誘導するような言い方で質問してきた。こういうところは好きじゃない。

 

 ――なってほしいよ。彼女だけが俺の生きる糧だから。

 

 けれど、決してそのことを口にはしない。俺に彼女を尊ぶ資格などない。

 

「自分にそんな資格はねえ、なんて思ってねえだろうな」

 

 再びコーチは読心術を使った。俺は唇をきつく結んで、あらゆる批判を受け取らないことにした。贈り物は受け取らなければ贈り主の元へ戻る。返答さえしなければコーチの言葉は永遠にその証明を欠く。

 

「言っただろ。トレーナーにはウマ娘の責任を背負う権利がある。ウマ娘とトレーナーは二人でひとつだ。おまえさんはライスシャワーの幸福を願っていいんだよ」

 

 コーチの励ましに絆されて心が揺れる。ライスシャワーを想ってもいいと勘違いしてしまいたくなる。やめてくれ。俺はもう、自分や誰かを尊ぶような生き方は辞めたんだ。

 

「いいか。ひとつだけ。ひとつだけだ。あれもこれもやる必要はねえ。たったひとつのことだけ守れ」

 

 俺の目は無意識のうちにコーチの目を覗き込んでいた。耳は遠くの葉擦れまで拾うほど冴え渡った。口の中で血の味がした。俺の血は鉄の味がした。

 

「ライスシャワーを愛せ。それがすべてだ。それが最優先だ」

 

 先程と全く同じ内容。繰り返し同じことを言うのは、それが本質だから。ライスシャワーを愛することが、俺がトレーナーをすることの核心だから。

 

「返事は?」

 

 黙り込んだ俺に気を遣ってか、コーチは現役時代と変わらぬフレーズと口調で俺に発破を掛けた。あの古き良き日々の続きを再現するみたいに。

 

「……はいっ!!」

 

 腹から全力で声を出した。一日中練習に明け暮れていたあの頃のように。何年経っても変わらない、思い出の中で輝く青春時代を思い返すように。

 

「いい声だ」

 

 コーチは朗らかな笑みを浮かべて、バシバシと俺の背中を叩いた。動作こそ大きいが叩く力は昔よりも弱くなっていた。俺は久々にコーチの前で大声を出したことに対してはにかんだ。

 

 

 

 トレーナー室に戻った後、軽く歓談してコーチは帰っていった。コーチが出て行くと、途端に皐月の静寂が部屋を覆った。後に残された俺は、過ぎ去った日々は二度と戻らないことを理解して、少しだけ泣いた。

 

 

 

 

 

 

 翌日、ターフでトレーニングを始める前に俺の方からライスシャワーに声を掛けた。

 

「前はライスのこと、本気で背負い込みたくないと思ってた」

 

 久しぶりの雑談に彼女は驚いた顔をしていた。数週間ぶりに正面から見据えた彼女は見惚れるほど美しかった。

 

「ごめん」

「うん」

「怒らないの……?」

「なんとなく気付いてたから」

「……そっか」

 

 罪悪感に胸を締め付けられた。かつての浅薄な対応を悔やんだ。

 

「今は?」

「え?」

 

 ライスシャワーは真っ直ぐに俺を見た。その瞳の奥の純真さに目を逸らすことなく、俺は彼女を見つめ返した。

 

「今はライスのこと、どう思ってるの?」

 

 今は……

 

「ライスを勝たせたいよ」

 

 ターフに風が吹いた。柔らかな風が俺たちを包み込んだ。

 

 ライスシャワーは少しの間黙って前を向いていたが、おもむろに抱きついてきた。

 

「どうし……」

 

 言葉を発し切る前に気づいた。彼女の目尻には涙が湛えられていた。俺は口を閉じて、ただただ待つことにした。彼女を泣かせてしまったことへのせめてもの償いとして。

 

「ごめんなさい……」

 

 嗚咽を押し殺しながら彼女は謝った。首元にあたる耳からは震えが伝わってきた。小さな彼女は、乞い願うかのように息を吐いた。

 

「もう少しだけ、このままでいさせて」

 

 泣きじゃくる彼女を抱きしめようかとも思ったが、どうしようもなく偽善的な気がしてやめた。代わりに、ひとつだけ心に誓った。

 

 ――決めた。俺はこの子のために死のう。

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。