芙蓉ステークスから3ヶ月が経とうとしていた。師走にもなると木々の葉はすっかりと抜け落ちて、幹と枝だけの寂し気な樹木が屹立するばかりだった。
俺はシンボリ家の主催するパーティーに来ていた。絢爛豪華な飾り付けや食事がそこかしこに配置されていた。トレセン関係者に限らず、さまざまな業界の著名人らしき人々が犇き合っていた。一目で高級とわかるスーツを着た紳士や、見目麗しいドレスから惜しげもなく肌を露出させている淑女に囲まれていると、自分が場違いであることを痛感してしまって辛かった。
普段ならこんな騒がしい場には来ない。なら、どうして今日はパーティーに来たのか。理由は簡単――チーフに騙されたから。あの人の誠実な態度に騙された。正確には俺が話を最後まで聞かずに返事をしたのが原因だが。
『そういえば、今度シンボリ家で会食があるんだ。よければ君も――』
『行きます』
完全に選択を誤った。ちゃんと内容まで聞いておけばよかった。もっと内々だけでの食事会かなにかだと思っていた。
うまい飯に釣られてチーフからの誘いを快諾してしまったことを、俺は今頃後悔していた。疎外感に苛まれながらではせっかくのご馳走も楽しめなかった。来たばかりだがもう帰ろう。人の多いところは好きじゃないのだ。
チーフを探して辺りを見回す。彼のお誘いを受けて来たのだから、先に帰るときは一言伝えておかねば失礼だ。
血眼になってチーフを捜索するも、人が多すぎるせいで簡単にはいかない。右を向いても左を向いても他人ばかりで、全く見通しが効かなかった。
この中から特定の一人を見つけるのか。あまりにも無理ゲーすぎてイライラしてきたが、そうこうしているうちに運良く見知った顔を見つけることができた。
俺のいる場所から少し遠くにある人集り、その中心にシンボリルドルフがいた。相変わらずの人気っぷりだ。
彼女は四方八方から話しかけられながらも、澱みなく絶え間なくすべての会話に受け答えしている。こわい。聖徳太子か?
だがいいところに。ルドルフならチーフの居場所を知っているだろう。これで行先が決まった。
出発進行。行き交う人々を避けながら少しずつ人集りに歩み寄る。途中で何人か知り合いとすれ違ったが、話しかける余裕がなかったので無視して進んだ。
不退転の意思で進み続けた結果、何とか無事に人集りの外殻まで到着する。よし。あとはルドルフに気付いてもらうだけ。
しかし、いざ彼女に話しかけようとすると思ったより人が多く、俺のいる位置からではとても声が届かない。
前に出て直接話すしかないようだ。強引なやり方は好きではないが他に方法はなかった。背に腹はかえられない。目前に聳え立つ人の壁を前に、俺は深呼吸をすると、覚悟を決めて人混みを掻き分け始めた。
「すいません、失礼します、すいません」
謝罪を繰り返しながら前に進む。掻き分けられた人たちからの視線が痛い。幸いにも人間的にできている人ばかりだったので、怒られたり注意されることなく最前列まで来ることができた。
「ルドルフ!」
場の喧騒に負けないよう大きな声で呼び掛けると、彼女はすぐさまこちらに振り返って俺を捕捉した。
「御園君!」
ルドルフは俺と同じくらい大きな声で応えると、コツコツと靴を鳴らしながら近寄ってきた。彼女と群衆との間には適度な距離が常に保たれており、ルドルフがこちらに近付くと周りの人々は畏れ多いといった様子で彼女から離れた。モーセか? おかげで一歩も動いていないのに、ルドルフに巻き込まれる形で俺も囲まれてしまった。
「それ、ニュースターズ・ロゼか」
「ああ。なかなか似合っているだろう?」
「まあまあ」
「ふふっ。つれないな」
ルドルフとフランクに話したら周囲がざわついた。「誰だあの男?」という声が聞こえてきて結構嫌だった。
ルドルフと話すのは芙蓉ステークス前の特訓以来だ。久々の再会、他愛ない歓談も悪くはない。が、今は速攻帰りたいという思いが勝ったので手早く本題を切り出す。
「チーフがどこにいるか知らない? 帰る前に一言だけでも声かけとこうと思って」
「トレーナー君なら先程帰ったよ」
「えっ!?」
目的の人物は俺より先に帰っていた。つまり、俺のこれまでの行動は何の意味もなかったってこと?
気遣い、覚悟、苦労、何もかもが無為に帰してガン萎えするが、表情には出さないよう努める。いくら身内でのことと言えど、この場で不快感を露わにするのはさすがに失礼。失意と無気力に包まれながらも、それらをおくびにも出さず訳を問う。
「な、なんで?」
「どうやら体調が優れないようでね。油断大敵、私のほうから帰って休むように勧めたんだ」
いや体調不良。しょうもない理由だったらキレてたが、体調不良ならしょうがない。というか、体調が悪いなら最初から来ないほうがいいと思うのだが……それでも無理して来てしまうところが、あの人の魅力でもある。
そうか。もう帰ってるのか。俺の行いは徒労に終わったのか……
まあいいや! 切り替えていくぜ!!
俺はすぐに気持ちを切り替えた。いつまでも落ち込んでいる暇はない。チーフへの挨拶をしなくて良いのなら、今俺がすべきことは帰宅だけ! ルドルフに別れの挨拶だけして俺は帰るぜ!
「それと、トレーナー君から君に伝言がある」
「え? なに?」
慮外の言伝。もうチーフの話は終わりだと思っていただけに面食らう。
「『俺の分まで楽しんでくれ』だそうだ」
帰りにく〜い!
無駄な気遣いに憤怒を抑えられなかった。逆にプレッシャーになるんだよ、そういうの。
つーかそれよりも!
なんかもう反抗心が止まらなかった。優しさ故の腹立たしさが一層俺を怒らせた。俺は絶対にこの場を後にしようと決意を固くした。
「悪いけど、俺ももう帰るよ」
「君もか? まだ来たばかりだろう」
「人の多い空間は好きじゃない」
ルドルフは小さくため息をつくと、何かを思案するように目を閉じた。なぜか周囲の人々も示し合わせたかのように口を噤む。にぎやかなパーティーに一瞬で真空地帯が生まれた。
無言の、空白の時間が続く。数瞬の後、ルドルフはおもむろに目を開いて俺を見据えた。
「わかった。散歩に行こう」
ルドルフは狂ってしまったようだ。突然意味不明な提案をしてきた彼女に、俺は動揺を隠せなかった。
「急すぎる。なんで?」
「少し外の空気を吸いたい」
「俺いる?」
マジで。俺いる?
「何の持て成しもしないまま帰すのは申し訳ない」
「別にいいって。ていうか、一緒に散歩するのはもてなしとは……」
「いいから、ほら」
有耶無耶な答えしか与えぬままルドルフは俺の手首を掴み、そのままの勢いで俺を引っ張り囲いの外に連れ出す。引っ張る力は強いが掴む力は優しいので、無理矢理引き剥がすこともできたが、彼女の善意を反故にするようで憚られた。不思議なことに彼女が進む方向は自然と人が捌け、誰かに呼び止められるたりすることもなく俺たちはどんどんと進んで行った。
★
あれよあれよという間に闇夜の下へと連れ出された。骨の底から冷える夜だ。空気が冷たく澄んでいた。三日月が輝いているのがよく見えた。
「敷地の外の公園まで行こう」
ルドルフの意思は固いようだ。俺はとにかく早くこの凶行を終わらせようと思い、つべこべ言わず素直に従った。
「どのくらい掛かるの」
「10分ほどかな」
二本の白い息をたなびかせながら、俺たちは公園とやらに向かって歩き出した。外気が凍てつくほど冷たかった。
折角の機会なので歩きながら周囲を散見する。シンボリ家の敷居を跨ぐ機会などそうそうない。俺は首と目玉をぐるぐる回した。
あちこち観察して気付いたのは、シンボリ家はどこもかしこも荘厳な雰囲気が漂っているということだ。花々の咲き乱れる庭園や身の丈を超える噴水は格式の高さを窺せた。
後ろを振り向くと、あれだけの大きさを誇る洋館が小さく見えた。シンボリ家の敷地面積は相当なもので、先程までいた洋館も広大な敷地の一部に過ぎないのだと気が付いた。改めてシンボリ家という存在の大きさを感じた。
「無理に連れ出してすまなかった」
ルドルフが唐突に謝罪をしてきた。このタイミングで? いつもの彼女らしくない行動だ。
「気にしてないよ。チーフになんか言われたんでしょ。話聞いてやれとかさ」
「そう思うかい?」
「思うよ。さっきのルドルフ、明らかに普段とはやり口が違った。絶対もっとスマートにできるのに、わざとらしい強引なやり方。チーフに頼まれてるからでしょ」
普段のルドルフなら俺が困るようなことはしないし、するとしても細心の注意を払ってくれる。特別な事情があるということは明瞭だった。
「フッ……」
図星を突かれたルドルフは微笑した。だが追及の手を緩めるつもりはない。寒空の下に連れ出されてこっちは気が立っているのだ。
「それで終わりじゃない。俺にわかりやすいようアピールして、暗に知らせてきたでしょ、チーフの差し金だって。自分の口から言うの禁止されてるからって、俺が勝手に悟るように」
「ン……ッハハハハ」
ルドルフは声を上げて失笑した。こんなに大笑いするルドルフを見るのは二年前にダジャレ大会で傑作ができたとき以来だったので、怒りよりも驚きが勝った。
「笑いすぎ。こわい」
「はっはは……ふ、いや……すまない……」
「何がそんなに面白いの?」
「君があまりにも必死なもので、つい……」
俺は大きくため息をついた。いかんせんルドルフのツボはズレている。天才は常人には理解できない感性を持ちがちだ。
「どうやら、トレーナー君に関しては君のほうが一枚上手なようだ」
「どうも」
「……彼は君を気にかけていたよ。ああいった場には不慣れなのに、大した説明もなく連れてきてしまって申し訳ないと」
「チーフらしい気遣いだね」
「君の推測通り、君を連れ出したのはトレーナー君からの頼みだ。だが全てがそうという訳でもない。私も、君と話がしたくてね」
「それは生徒会長として? それとも『皇帝』として?」
「君をよく知る友人としてさ」
駄弁っている内に公園へ着いた。広い公園だが、ベンチと鉄棒だけの簡素な作りだ。夜中ということもあって俺たちの他には誰もいなかった。
「貸切りだな」
「だね」
ルドルフが公園の中に入って行くので俺も後ろに続く。彼女は公園の端まで歩くと、ふたり座るのが精一杯であろうベンチに腰掛けた。
次に彼女は木製のベンチの上で大きな伸びをして、それから席の右側に寄った。どうやら俺のために左側を開けてくれたらしい。
俺は用意された席には座らずルドルフの前で立っていることにした。厚意は嬉しいが、なにぶん気恥ずかしかったからだ。それが気に食わなかったのか、ルドルフは少しムッとした表情になって、いじけるみたいに俺を呼んだ。
「ほら、こっち」
「俺は立ったままでいいよ。動いてないと寒いし」
「なら私が温めてあげよう。ウマ娘の体温は人間より高い」
「……二人で座ったらせまいよ」
「構わない」
構えよ。器のデカさが見えちゃってるんだよ、いつものことだけど。
こうなったルドルフはもう止められない。俺は観念して彼女の隣に座った。予想通りベンチは二人もギリギリといった大きさで、俺とルドルフの距離は非常に近かった。
「もっと近くに。熱が伝わらない」
「いや、俺はここで……」
「震えているじゃないか。私とくっつけば温まるし、座りやすくなる。一石二鳥だ」
断ろうとするも、声を出す前にルドルフは左腕だけで俺を引き寄せた。腕ごと体を引き寄せられたので俺は全く抵抗できなかった。言うだけあって確かに彼女は温かい。背中に回された左腕からも密着している左半身からも、心地よいぬくもりが伝わってくる。
「温かくなったかい?」
「うん。だいぶあったかい」
「良かった。君に凍えられては忍びないからな」
ルドルフはさりげない一言も魅力的だった。俺は彼女の、こういう人の心にずかずかと入ってくるところが好きではなかった。
「ライスシャワーのことだが」
ルドルフが話題を切り出した。本命の話題を切り出すときはいつでも単刀直入。わかりやすい奴だ。
「怪我の調子はどうだ?」
「全治三ヶ月って言われてたけど、もう治ってる。最近本格的にトレーニングを再開したって感じ」
「そうか。大事に至らなくて良かった。あのときの特訓で負荷をかけたのは私だから、気になっていたんだ」
「右脚の骨折だしね」
芙蓉ステークスでの競走後、ライスシャワーは右脚を骨折していた。高強度での練習による疲労とレースでの負担によるものだろう。ウマ娘が脚の骨折をするという一大事に俺は大層動揺しつつも、焦っても仕方ないので年内のレースは回避しリハビリに入らせた。
その件がルドルフにも伝わっていたようだ。負荷をかけてと頼んだのはこちらからだが、律儀な彼女は負い目を感じていたらしい。理不尽な呵責を負わせてしまったことに対して申し訳ない気持ちが去来する。
「そう言えば」
ルドルフの雰囲気が変わったのを声で察する。先程まで真面目な声音で話していたのに、急に鈴を転がすような声。明らかな話題転換の合図だ。しかも悪い予感がする。
「リハビリ期間中、ライスシャワーをあちこち連れ回していたそうじゃないか」
は? なぜバレた。
俺はささやかな秘密が漏れていたことに驚愕した。誰かに見られていたのか。
「誰から聞いたのそれ」
答えをはぐらかしつつ噂の出所を探るも、ルドルフは匿名性に気を遣うタチなので何も応えてはくれなかった。ふん、ルドルフのケチ。
「特定の誰かを気にかけるとはな。他人との関わりを希釈したがる君にしては珍しい」
「そんなことない」
「やはり
「ただの社会勉強だって」
「スイーツを食べに行ったり、絵本を探して本屋巡りをすることが?」
うん、全部バレてる。出掛けたことはおろか場所まで筒抜けだった。
一体全体誰なんだ、情報提供者は。ルドルフが探偵でも雇ったのだろうか。その可能性もありえる気がしてきた。
「スイーツ食べるのも絵本買うのも社会勉強だよ」
「どの辺りが」
「全部だよ」
傍からみれば、俺は担当バとデートしたことを認めず苦しい言い訳を羅列しているように見えたのだろう。ルドルフは終始ニヤニヤしていた。腹立つ。
「本当に違うんだって。ちゃんと目的があったの」
「ほう。その目的とは?」
「ライスに視野を広げてほしかったんだ」
これは嘘偽りない事実。確かに俺は外出を楽しんだが、主目的はライスシャワーにスポーツ以外の経験を積んでもらうことだった。
「スポーツは閉じた世界だ。アスリートは競技以外のことにひどく疎い。だからひとたび競技でうまくいかないと、この世の終わりだと錯覚してしまう。決してそんなことはないのに。才能の限界を気に病んで自殺するやつもいる。
俺はライスにそうなってほしくないんだ」
俺が喋り終えるとルドルフは急に難しい顔をして、口元を真一文字に引き締めた。何か変なことを言っただろうか。
「……それだけ彼女が大切ということだな」
「ライスに限った話じゃないよ。俺たちは世界の広さを知っておくべきだ。そのためにはいろいろ経験しなきゃ。でないと見通しが効かない」
「見通し?」
「競争原理から離れることで見える景色さ。俺も選手辞めてトレーナーになって、ようやく周りが見え始めた」
視点を変えれば見通しが効く。見通しが効けば、自分が群れの中でどこにいるのかわかる。自分の位置がわかれば選択肢が増える。世界の広さを知った日にはそりゃ落ち込んだが、選べる道が増えるのは悪いことじゃないだろう。
普段なら俺が真面目な話をしだしたあたりで話題を変えてくれるのだが、今日の俺たちは何かが違った。ルドルフは躊躇いながらも問いかけてくる。
「君がそう考えるのは……過去の経験からか?」
「別に関係ないよ。何も」
俺が強く拒絶するとルドルフは押し黙った。彼女の体が強張ったのを肌で感じた。艶やかな唇が固く結ばれて、やけに紅く鮮やかだった。
「今の君の顔は、初めて会ったときとそっくりだ」
ルドルフは悲しげな表情を浮かべていた。その表情は『皇帝』らしからぬ憐憫と慈愛を含んだもので、俺を一層不快な気分にさせた。
「絶望とも達観とも取れる、すべてを諦めたかのような表情。蝋人形の如く生気がない。それでいて、どこか目を引くものがある」
「何それ。褒めたいの? 貶したいの?」
「私の思ったことを率直に伝えたまでだ」
俺は前屈みになって膝に肘をつき、項垂れた。いい加減ルドルフが何を考えているのか想像するのに疲れたからだ。これ以上、彼女に気を遣ったり、彼女の心情を推し量ったりするのはやめる。わかり合えるとは思わない。
「教えてくれ――君は何を憎んでいるんだ?」
やめろ。こんなことをしても意味がないんだよ。
「……ルドルフにはわかんないよ」
俺は明確な答えを言わずはぐらかす。諦めろ。俺たちは交わらない。どれだけ親しくなろうとも、心の底から通じ合うことは決してない。
「言ってくれないとわからないさ」
「最初から特別だったやつにはわからないよ。わかるわけがない」
そうだ、わかるわけがない。望んだものを手に入れてきた奴に、持たざる者の苦悩が。
「それでも私は、君の言葉を聞きたいんだ」
曇りのないまっすぐな瞳に見つめられて、罪悪感から顔を逸らす。なぜ罪悪感なんて感じてしまうんだ。後ろめたいことなんて何一つ無いはずなのに。わかってほしいことなんて塵ほども無いはずなのに。
「俺の力が通じなかったこと。通じないとわかってしまったこと」
それなのに、なぜ俺は彼女の問いに答えてしまうんだ。
「夢が現実に侵されたんだ。必然が偶然に変化して、無限が有限になった。天動説は間違いだとわかってしまった」
「才能の限界を憎んでいるのか」
あまり率直に言うな。クソ。
ああもう、頭が痛い。頭痛なんて久しぶりだ。視界が歪む。細胞が壊れていくのがわかる。インパルスがもたつく。
「だから言っただろ。ルドルフにはわからないって」
「私にも手に入らないものくらいあるさ。君の気持ちは理解できる」
「余裕、その余裕だ。それがわかってないってことだよ」
「いいや、わかる。君も理解しているはずだ。私たちのしていることは結局、ないものねだりなんだ。足るを知らなければいつか身を滅ぼす」
ルドルフは幼子に言い聞かせるような優しい口調で語り掛けてくる。まるで弟子に説法を説く釈迦みたいに。
「私たちは完璧ではないんだ。何もかも思い通りという訳にはいかないさ」
「それは、君が持てる者だから言えることだよ……」
議論は平行線だった。俺もルドルフも異なる考えをもっていて、どちらかが相手を迎合する可能性は限りなく低かった。
あれほど続いていた会話が途切れた。寒空の下は再び静寂で満たされた。
俺は気まずい空気の中でただ黙っていた。何か話し出そうかとも思ったが、とても言い出せるような雰囲気ではなかった。
俺は一体どうすればいい。どうにかしてこの状況を打破しなければと考えていると、微細な揺れを感知した。地震ほど大きくはないが近くで起きている。
もしやと思いルドルフの肩を盗み見ると、絢爛な衣装に包まれた肩は寒さを堪えて震えていた。あれだけ紅く美しかった唇も青紫に変色している。
俺は深く後悔した。下らない口論をした挙句、ルドルフをこんな状態になるまで我慢させてしまった。これでは対話もクソもない。俺が彼女の気配りに気付かず、自分勝手な持論を喚き散らしただけだ。
「ごめんルドルフ。もう帰ろう」
「どうした。私に気を遣うなんて君らしくないぞ」
「でも、震えてる」
「この程度の震えなど構わないさ。君との時間のほうが大事だ」
俺が指摘しても震えは止まらなかった。隠そうともせず虚勢を張るのは、自分では震えを止められないから。痩せ我慢なのは明白だった。
「俺は構うよ。君が震えてたら」
「……」
ただ純粋に、ルドルフの身を案じる。どれだけ喧嘩しても、どれだけわかり合えないことがあっても、彼女は大切な友人だから。
「帰ろう、ルドルフ」
「……ああ」
ルドルフは俺と一緒にゆっくり椅子から立ち上がり、公園の出口に向かった。公園を出る直前で、ルドルフは名残惜しそうに後ろを振り返ったが、すぐに前を向いて歩き出した。
こうしてルドルフを公園から連れ出すことに成功した。あとはシンボリ家へ帰るだけ。
しかし、残すは帰るのみだというのに、彼女は全く急ぐ気配がない。なんでだよ。俺はルドルフの体調を心配してとにかく早く帰還しようと焦っているのに。
急かしたくもないので不本意ながらルドルフに歩調を合わせる。あれだけの口喧嘩をした後にもかかわらず、俺たちは相変わらず肩が触れ合うほどの距離で歩いた。
俺は帰路を急ぐ代わりに、少しでも気休めになればと思いジャケットを脱いでルドルフに羽織らせた。ルドルフは、無用な気遣いだ、と拒否してきたが無理矢理着せた。シャツとインナー、ネクタイだけの上半身は抗議するかのように震え出したが、それでもルドルフが風邪を引くよりはマシだろう。
「君は、私が憎いのだろうな」
無言を破り、ルドルフはまたしても神妙な面持ちで呟いた。白晳の美貌が俯いていた。
「憎いよ」
嘘を吐きたくなかったので正直な気持ちを伝えた。言葉には少しだけ棘が混じった。
「……そうか」
ルドルフはわかりやすく項垂れた。やめてほしい。大人びた君が年相応の反応をすると、ますます罪悪感が湧いてくる。
「憎いけど、尊敬もしてる」
ルドルフはパッと顔を上げてこちらを見た。目が驚きで見開かれていた。俺は少しだけ口角を上げた。
俺としても仲違いしたまま別れるのは気が引ける。それに、ルドルフにはしっかりと伝えておきたい。俺が君に抱いている感情は憎しみだけじゃないと。
「人間もウマ娘も多面的な生き物だ。ひとつの視点しか持ってない奴なんていない。俺だって……ゴホッ」
話している途中で咳が出てしまった。思わず話を中断する。
ルドルフが心配そうに見てくる。随分と体が冷えてしまったようだ。息を整えて、言葉を発するために息を吸う。澄み切った空気が肺に流れ込む。俺は必死に話の続きを吐き出す。
「君は……レースというものをよくわかってる。レースでは義理も人情も意味を為さない。勝つか負けるかしかない。曖昧は存在しない」
ルドルフは無反応だった。俺はその沈黙を肯定と捉えた。
「君はあらゆるウマ娘の頂点に立ち、“皇帝”として皆を導こうとした。その為に敗北は許されなかった。君は多くのレースに勝ち、多くのウマ娘に敗北を与えた」
歯向かう者は皆殺しにして、シンボリルドルフは『皇帝』になった。
「君は一部のウマ娘を不幸にする一方で、全てのウマ娘の幸福を願っている。彼らを蹴落としたのは君だというのに。才能ゆえのその傲慢が、その余裕が、俺は憎い」
ルドルフは反論しなかった。俺は訥々と話を続けた。
「同時に、俺は君を尊敬してる。他人のことを慮ることができても、他人のために行動できる奴は少ない。理想に向かってひたむきに努力できる奴も。何より、君には才能がある」
儘ならないものだ。俺は才能というものをひどく恨みながら、誰よりもその素晴らしさを理解している。
「俺も君も矛盾してる。たぶん俺たちは矛盾した存在なんだ。理性で考えたかと思えば本能で行動する。無宗教なのに祈る。悪人も時々善を為す。存在自体が非合理的。――だからこそ、俺は君と友達になれた」
俺は自分に才能がないことを認められなかった。認めたら何もかもが無意味に思えてしまいそうだったから。生きる意味を失ってしまいそうだったから。
だけど、トレセンで働いていたら否が応でも本物の才能を目の当たりにする。就職から程なくして俺は理解した。やはり俺には才能がないと。幼少期から始まった長い長い逃避を経て、俺はようやくその事実を認めることができた。
認めた上で悔しいと思った。けれど、今の俺の人生はともかく、過去のすべてが無意味だとは思わなかった。それはきっと、必死で積み上げた努力は、これまでの俺の感動は無くならないと信じているから。君と出会えてよかったと心から思っているから。
「……つまり、どういうことだ?」
ルドルフは困惑した様子だった。想いの丈を丸ごとぶつけてしまったせいで、俺の言いたいことがうまく伝わっていないようだった。
「つまり……」
言葉が喉に詰まる。これから伝えることを受け入れてもらえてなかったらどうしようと心配になる。
誤魔化したり有耶無耶にするのは簡単だ。それでも俺は大切な友人である君に誠実でいたい。だから――
「言いすぎちゃってごめんね」
ルドルフの目を正面から見て謝る。目と目が合い、互いに見つめ合う。ただのそれだけだというのに、特別な繋がりを感じる。
やがてルドルフは柔らかに笑い、わざとらしく俺を焦らして――
「気にすることはない。おかげでまた一つ詳しくなった。――“友人”がどう“ゆう人”物かね」
「ルドルフ?」