「ライス、準備はいいか?」
「うん。ばっちりだよ、お兄さま」
フジテレビ賞スプリングステークスを前に、俺たちは控え室で最後の確認を行っていた。
レース前の控え室はウマ娘とトレーナーだけの空間。今ここにいるのは俺とライスシャワーだけ。それ故、選手の調子が雰囲気へと如実に現れる。
今のところ雰囲気は悪くない。久々のレースにもかかわらず、ライスシャワーは好調な素振りを見せている。俺は復帰戦ということもあり緊張しているが。
「マークするのは誰だ?」
「ブルボンさん」
「脚質は?」
「先行」
「気をつけることは?」
「前と差が開いても焦らないこと」
「よし」
作戦はしっかり頭に入っているようだ。俺は大きく頷いた。
「今日は初めての1800m。しかもGⅠバまでいる。今までとは距離も相手も一味違う。スタミナに関しては心配してないけど、仕掛けるタイミングはよく考えろ」
「はいっ」
いつもはこんなにガヤガヤ言わないのだが、初めてのGⅡということで俺も少しかかっているみたいだ。いつになく饒舌な俺を見て、ライスはいささか不安そうだ。
「お兄さま、ちょっと緊張してる?」
あまりにも様子がおかしく見えたのか、ライスは心配そうに問いかけてきた。不甲斐ない。トレーナーがレース前のウマ娘に気をつかわれるなんて。
「ちょっとだけね。俺も久しぶりのレースだから」
取り繕おうかとも思ったが、下手に隠して余計な心配をかけたくなかったので正直に話す。口に出すとほんとに情けない。
「……大丈夫だよ、お兄さま」
覚悟と自信の籠った声だった。その力強さは目の前の華奢な少女から発せられたとは思えないほどで、俺は不覚にもたじろいしまった。
「全力で走ってくるから」
衒いなく言い放つライスシャワーを見て、俺は安心した。心配せずとも今日の彼女は絶好調だ。俺の不調など取るに足らない。
「行ってくるね」
ライスは扉を開けて、確かな足取りとともにレース場へ向かって行った。俺の視線は彼女の後ろ姿を追い、彼女が出て行って扉が閉まったあとも同じ方向を眺め続けた。
少しの間だけ時計の針が立てる音に耳を澄ませた。静けさに充分満足すると、立ち上がって伸びをした。
俺も移動しよう。人混みが嫌いだろうと
★
「おう、御園!」
「せんぱ〜い。お疲れ様です」
いつものようにトレセンの廊下を練り歩いていると、先輩に絡まれた。さっきから俺に話しかける機会を窺っていたのはわかっていたので、早めに話しかけてくれて助かった。
「この前のスプリングステークス、惜しかったな。あと少しで入着だったのに」
「ええ。3着とはクビ差でした。ミホノブルボンには7バ身以上離されましたけどね」
「ははっ。あの子は別だろ」
先輩は軽快に笑った。仕方がないとでも言いたげに。
「別って?」
「言葉通りの意味だよ。お前んとこのライスシャワーも才能ある方だが……あの子はモノが違う。何度か練習風景を見たが、ありゃサイボーグだな。モンスターサイボーグ。全身鉄でできてんじゃねえか?」
あっけらかんと話す先輩は、どこか遠い目をしていた。トレセンではこの目をよく見かける。中央のトレーナー特有の、才能を達観した目だ。
「ライスはまだまだ伸びますよ」
ライスシャワーを低く見積られた気がして、柄にもなく言い返してしまった。直後、先輩に失礼な口を利いてしまったかなと後悔した。
俺が反発したことに先輩は大層驚いたようで、信じられないほど口が開いていた。かと思いきや、突然俺の肩に腕を回してきた。いちいちリアクションの大きい人だ。
「何だよ、珍しいなぁ! お前が言い返してくるなんて! やっと真面目にトレーナーやる気になったか!?」
「やめてくださーい」
俺が腕から抜け出そうとして暴れると、先輩はすんなり離してくれた。意外だ。先輩はしつこくて暑苦しい性格だから、なかなか離してくれないと思ったのに。
「おぉ……力強いな」
「あざす」
何だ。俺の力が強すぎただけか。俺は自身の有り余るパワーに恐怖を感じた。
「まだトレーニング続けてんのか?」
「はい。一応」
俺は陸上を引退してからもトレーニングを続けていた。深い理由はない。強いて言えば健康維持のため。トレーナーは事務作業も多いから、適度に運動しないと体が鈍る。
「忙しいのに偉いな」
「忙しくないですよ。俺は」
「お前らしい。……でも、お前はずっとお前らしくいてくれ。じゃあな」
先輩は呆れながらも、心底おかしいといった風に微笑み、去っていった。その背中にはどこか哀愁が漂っていた。
彼は俺の何倍もウマ娘に尽くしてきた人だ。故に、担当バの夢が潰える瞬間も幾度となく間近で見てきたはずだ。手塩にかけて育てた大切な選手が、現実に揉まれてすり潰されていくのを見続ける心境は、俺のような若輩者にはわからない。わかりたくもない。
腕時計を見ると、長針が30°ほど進んでいた。お喋りが長くなりすぎたかもしれない。ライスシャワーとの練習が控えていることを思い出した俺は、足早にトラックへ向かった。
★
「お兄さま、ちょっといい?」
「ん? どうした?」
練習後、ライスシャワーが話しかけてきた。今日のメニューは終わったというのに、どうしたというのだ。もうちょい練習でもしたいか?
「あの、ライスね、チケットが買えたの。『しあわせの青いバラ』の舞台の」
「おお。おめでとう」
「それでね、お兄さまさえ嫌じゃなければ……」
待てよ、これは――
「今度の休日、一緒に見に行かない……?」
ぐああああ! こ、これはッ! 担当ウマ娘から休日のお出かけに誘われるやつッ!
どれだけ予定が埋まっていてもいたいけな教え子の頼みだから断れず休日を消費してしまうやつッ! ぐあああああああ!
「怪我が治ってからは、一緒にお出かけしてないから、どうかなって」
ライスシャワーは賛同を期待する面持ちで返答を待っている。彼女の小動物のように潤んだ瞳で見つめられると、嫌でも「いいよ」と言ってしまいそうになる。
どうしよう。ぶっちゃけ特に予定はないので行ってもいいのだが……本当に行っていいのか? こんなのに行ったら、また仲良くなってしまう。
何か理由をつけて断ろうと思ったのだが、チラリとライスを窺うと、合格発表を待つ受験生のような顔をしていた。
クソッ! 断りづれえな!
迷いに迷ったが、観念して舞台を見に行くことにした。これが正しい選択かはわからないが……ライスシャワーの喜んだ顔は見られた。ひとまずはそれでヨシとしよう。
★
――おじさんが54人。おじさんが56人。
劇場の入り口でライスシャワーを待っていたが、暇すぎて道往くおじさんを数えていた。約束の時間を過ぎても彼女は来ない。もうそろそろ開始時間なのだが。また何か不幸に見舞われているのではと不安になってきたとき、ちょうどライスが到着した。
「お、遅れてごめんなさい」
「いいよいいよ。そろそろ始まるから、入場しよ」
チケットを係員に渡して劇場に向かう。ライスシャワーは少しだけ化粧をしていた。いつもより動きが固い。緊張しているようだった。
彼女を連れて隣合った指定の席に座る。かなり見やすい位置だった。これ高かったんじゃないか?
いいクッションしてるな〜、なんて考えていたら劇が開幕した。以前ライスから聞いた通りの内容だったが、とても新鮮に感じた。
演技が上手い。劇場で見る。特別な環境では印象がかなり変わった。特に主役の『青いバラ』と『お兄さま』は凄い。プロやな──
羨ましい。俺はプロにはなれなかった。誰かに拾ってもらえることも。
★
「いやー、良かった」
「うんっ! 役者さんの演技、すごかったね。小道具も絵本から飛び出してきたみたいだったし、それに……」
舞台を見終わり、現在は手頃なカフェでライスシャワーと感想会を開いていた。ライスシャワーは饒舌だった。こんなにはしゃいでいる彼女を見るのは初めてだ。
「……? お兄さま、どうかした?」
「ん? どうして?」
「なんだか、元気がないように見えたから」
するどーい。ライスは変なところで勘がいいな。そんなときだけ勘のいいガキは嫌いだよ。
「いやあ、劇がほんとに良くてさ、浸っちゃった」
「……」
適当な理由を言って誤魔化す。ライスシャワーは納得していないようだ。じっとこちらを見つめてくる。だが追って質問したりはしない。いい子だな。
「ライスはどうだった? お兄さまがバラを持ち帰るシーンとか、マジで良かったと思ったんだけど」
「……あ。う、うんっ。すごく良かったよね」
お茶を濁すために質問し返すと、歯切れの悪い回答が返ってきた。見てなかったのかな、好きなシーンだって言ってたのに。
「え〜。なにそのカンソ〜。ちゃんと見てた〜?」
「ん、ちょっとだけ、ぼんやりしてて。ごめんなさい……」
「謝らないでよ。別に怒ってないんだから」
嘘。目線をこっちに向けてたからでしょ。言わないけど。
「まあそういうときもあるよ。それより……」
うまく話題が逸れた。そのまま違う方向の話題を展開する。これでヨシ。
ライスシャワーは劇に集中できていない時間もあったみたいだが、今日のお出かけ自体は楽しんでくれたようだ。トレーナーとしてはそれが何より。心なしかライスシャワーの調子も良くなった気がした。
★
「遅くなるといけないし、そろそろ帰ろうか」
「うん」
店を出ると、外は夕方だった。沈みゆく太陽が柔らかなオレンジ色で影を作る。穏やかな物音だけがあった。春の匂いがした。
俺とライスシャワーは並んで帰路に着いた。最寄駅までは一緒だ。それからは別々の道を行く。
俺はライスシャワーの歩幅に合わせて歩いた。ライスシャワーも俺の動きに合わせた。少し前にたくさん喋ったからか、帰り道ではお互いに口を開かなかった。沈黙が息苦しくなかった。
駅が見えてきた。なんとなしに、もう少し一緒にいてもいいな、と思う。
直後、自分の中に別れを惜しむ気持ちがあったことに驚く。俺にそんな感情があったとは。読めなかった、このリハクの目をもってしても。
意外な感情に勝手に驚いていると、隣から声が聞こえた。
「お兄さま! あ、あのっ! ちょっといい!?」
声でかっ! ビックリするわ急に!
「な、なにっ?」
「び、ビックリさせちゃってごめんなさい。帰る前に、どうしても聞きたいことがあって」
またしても嫌な予感。近頃は嫌な予感が多すぎる。
正直、聞きたくない。どうせなんか感動的なこと言うんだろ? やめてくれライス。その術はオレに効く。
「ライス、本当に感謝してるの。お兄さまはライスを見つけてくれた。ライスのことを育ててくれて、ライスが変われるって信じてくれた。ずっとずっと、ライスはお兄さまに助けてもらってる」
「なになに。面と向かってそういうこと言われると恥ずかしいな」
なんだ急に。恥ずかしいからやめれ〜。
「だから、ライスもお兄さまの役に立ちたい。お兄さまが泣いてるときに、隣に居たい。立派に咲いて、お兄さまを幸せにしたい」
だからやめろって〜。
「教えて。お兄さまは――」
やめろ。
「どうしていつもひとりでいるの?」
時間が凍った気がした。細く伸びた俺の影が揺らめいていた。
ライスシャワーは泣きそうな顔をしていた。まるで、これで俺との関係は終わりを迎えると言わんばかりに。
一瞬、本当に、極僅かな時間だけど、俺は答えに詰まった。そしていつも通り舌が回り始める。
「いやいや、全然独りじゃないって。よく他のトレーナーと話すし、最近はライスとも一緒にいるじゃん」
「でも、トレセンの外で会うことはほとんどないんでしょ? 今回も、ライスが誘ったから来てくれたんでしょ? 今までのお出かけだって、ライスと仲良くなりたいからじゃなくて、練習できないライスが可哀想だったから連れて行ってくれたんでしょ?」
「違うよ。ていうか、いつも独りでいるなんて誰が言ったの! 失礼な!」
「たづなさんに訊いたの。お兄さまはプライベートでは誰とも全く付き合いがないって」
「社会人はそんなもんだって。大人はみんな面従腹背の獣なんだよ〜」
「お兄さま……」
折れろライス。台風に頭を垂れる稲穂のように。そうして、この会話は無かったことにしよう。
「たまたまだよ。本当に。ひとりの時間が好きなのは認めるけど、なんか深い意味があるわけじゃないって」
ライスシャワーは何も言わなかった。薄く口紅の塗られた唇はきつく結ばれていた。
「ちょっと気まずくなっちゃったじゃん、もう。先帰るから、寄り道せずに真っ直ぐ寮に戻ってね」
返事を待たずに踵を返す。背中にライスシャワーの視線を感じた。足速に駅までの道を急ぐ。あんなに近くに見えていた駅までの距離が永遠に感じた。
改札を通り、電車に乗り込む。休日の電車は人が少なかった。荒い息を整えながら、空いている椅子に座って目を閉じる。
今日見た『しあわせの青いバラ』の舞台が脳裏に浮かんできた。プロの演じる素晴らしい舞台だった。
なのに、目に焼き付いて離れないのはライスシャワーの横顔だった。