瞳に宿った炎は消えない   作:Tyler Durden

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第8話 皐月の涙

 

 

 

 人生の持ち時間はいずれゼロになる。夜中の2時になっても眠れないまま時計の秒針を眺めていると、その事実を嫌でも実感することになる。

 

 舞台を見に行ってから15時間が経ち、明日は今日になった。俺は一睡もできずに夜を明かした。

 

 眠らなきゃ。

 どうにかして眠らなきゃ。

 少しでも眠らなきゃ。

 

 自分を追い込めば追い込むほど目が冴えてしまった。どれだけ眠ろうとしても眠れないので、俺はヤケクソになっていつもより2時間も早く出勤した。

 

 早朝のトレセン学園は日中と打って変わって静寂で満たされていた。見渡す限り誰もいない廊下を歩いてトレーナー室に向かった。

 ドアノブを回して部屋に入る。ドアを開けながら時計を仰ぎ見ると、きっかり6時を指していた。俺史上最速の出勤時間。特にやることはないのが残念だ。

 

 全身を預ける形で椅子に深く座る。昨日と同じように。一昨日と同じように。これから先も同じことを繰り返す。そんな確信めいた予感がした。

 Eclipse first, the rest nowhere. 唯一抜きん出て並ぶ者なし。これからもトレセン学園の校訓は変わらず、俺の業務も変わらないだろう。ライスシャワーを鍛える。それだけが俺の存在意義。

 

 俺が今生きてここにいるのは単なる偶然だ。誰かの役に立たないと生きている意味がない。意味がないんだよ。

 

 つらつらと考え事をしながらトレーナー業に打ち込もうと意気込んではいたものの、椅子に座ってぼんやりしていると急に眠気が襲ってきた。どうしてだ。眠りたいときには眠れず、眠りたくないときには眠くなる。好きな時間に眠ることもできないのか。

 

 仕方ないので少しだけ仮眠を取ることにする。重力に逆らう瞼を自由にしてやると、心地よい暗闇が俺を包み込んだ。脳の中心に落ちてゆく感覚がする。どこかで歌った讃美歌が聞こえる。

 

 眠れ、眠れ、父と子と聖霊の御名において。

 眠れ、眠れ、思い出と共に眠れ。

 

 俺は目が覚めませんようにと願った。もしくは、目が覚めたら違う人間になっていますようにと。

 

 

 

 

 

 目が覚めると俺はトレーナーです。

 

 残念ながら別の人間にはなれなかった。俺は業務を遂行するため、重い足取りを引き摺って練習場に向かった。

 

 

 

 

 

 

 ライスシャワーはいつも通り練習に来た。昨日と変わらず。俺もいつも通り指導して、いつも通りに喋った。全てはいつも通りだった。それなのに、何かが決定的に違っていた。

 

 ガハハ! 気まずいナリ! 助けてキテレツ!

 

 なんだこれは。なんだこの空気は。なめとんのか。なめとんのかライス。

 

 全然集中できない。針の筵って感じだ。気まずいよ。時折向けられる目が怖くてしょうがないよ。一緒にいると気が休まらないよ。

 ライスシャワー、何に怒っているというのだ。この前の件というのはわかるが、話を途中で止めただけだろ? 何が問題なんだ? 頼むから俺を見ないでくれ。君にそんな目で見つめられると気分が悪くなる。

 

 もちろんこんなこと口に出せるわけがない。言っても何も解決しないし、ライスを怒らせるだけだ。

 

 知ってるさ。君が俺と仲良くなりたいことくらい。日頃の態度からわかる。

 わかってはいるが、嫌だね。絶対嫌だ。俺はライスと仲良しこよしするために担当契約を結んだんじゃない。君を一流のアスリートとするために、どんな強敵にも勝たせるために契約を結んだんだ。個人として君と仲良くする気はない。

 

 それが普通だろ? 指導者は選手に教える。選手は指導者から教わる。それだけの関係性でいい。そこに友情やら愛情やらが生まれるのは単なるボーナスで、絶対に必要というわけではないだろう。

 

 これはトレセンが、いやスポーツ業界全体が仕組んだプロパガンダによって引き起こされた悲劇だ。人間とウマ娘の絆が〜とか、父と子の信頼関係が〜とか、そんなの全てまやかしだ。反吐が出る。そんな下らないもので強くなるわけないだろ。苦痛と犠牲が人を強くするんだ。

 

 大体、最近のウマ娘はトレセン学園を婚活会場か何かと勘違いしている奴が多すぎるよ。ここは聖なる学舎兼修練場だぞ。色恋のための場所じゃない。淡い初恋はここに来る前に済ませておけ! 俺だって我慢してるのに! ずるいぞお前たちだけ!

 

 そもそも……いや、現実逃避はこのくらいでいい。目の前のことに集中しよう。確か俺は……

 

 ……何を考えていたんだっけ。考えを巡らせすぎて忘れてしまった。思い出そうとすればするほど無関係な思考ばかりが顔を出し、本命に到達できない。

 

 くそっ、頭がこんがらがってきた。無駄な思考が行き場を見失い、脳味噌の中で積み上がっていく。頭がフットーしそうだよおっっ。

 

 どうして俺がこんな目に。俺は指導者としての本分を恙なく遂行していたはずだ。納税も勤労も果たしている。社会的に責められるような行為は一切していないのに。教え子に手を出すような奴らとは違う、隙のない人生を送っているはずなのに。

 

 ライス。どうして君は、俺をそんな目で見るんだ。

 

 

 

 

 

 

 練習が終わり、集合の時間になった。今日に限ってはなってほしくなかったが、時間は止まらない。俺は役目を果たさなくてはならない。ライスに、皐月賞の準備を勧告しなければならない。

 

「知っての通り、今月の19日に皐月賞がある」

「……」

「苦しい戦いになる。クラシック級としての初戦ってだけじゃなく、初のGⅠだ。何より、()()ミホノブルボンが出る」

「……」

「もう2週間もない。今日からより一層気を引き締めていこう」

「……」

 

 ライスは黙って頷くだけだった。反応が薄すぎる。いつになく無口なライスに俺は戸惑いを隠せなかった。

 

「お、オッケー?」

「……はい」

 

 声ちっちゃ! 蚊の鳴くような声で返事されてもやりづらいわ。もっとデカい声出してくれ。

 って言えたらな〜。俺も楽なんだけどな〜。

 

 言えるわけがない。今の俺にそんな胆力はなかった。憂いを含んだ瞳で見続けられた俺にできることは、乾いた愛想笑いを浮かべることだけだった。

 

 

 

 

 

 

 ライスとまともにコミュニケーションが取れないまま、ずるずると時間だけが過ぎた。気付けば今日は皐月賞当日だ。

 

 一体いつの間に。13日間ほとんど欠かさずにトレーニングをしたはずなのに、やけに現実感がない。

 視点が定まらない。思考にキレがない。まるで夢を見ているようだ。

 

 夢。そうだ……ここはGⅠレース。全てのウマ娘が夢見る舞台。ウマ娘の聖地だ。半端な気持ちで来る場所じゃない。しっかりしろ。

 

 傘を握る手に力を込める。しっかりと感覚がある。夢じゃない。

 息を大きく吸う。雨で湿った空気が肺に絡みつく。夢じゃない。

 中山の電光掲示板を見上げる。タイミングよく勝負服を着たライスシャワーが映る。どこか上の空な姿は間違いなくここ最近の彼女だ。あの勝負服も、俺と彼女がふたりで作ったものだ。皐月賞への出走が決まったときに、彼女の大好きな絵本を参考にして。夢じゃない。

 

 全ての情報がこれは夢ではないと語りかけてくる。なのに、どうしてだ。世界が色褪せて見える。考えるのが億劫になる。何もかもがコピーのコピーのコピーに感じる。

 

 あの世に飛んでいきそうなほどぼやけた頭を必死で現世に留めながら、栓なきことを考える。

 

 ライスは勝てるのだろうか。毎日練習はしてきたが、そんなのはアスリートにとって最低限の嗜み。アドバンテージと呼ぶには矮小だ。

 俺の見立てでは、今の彼女のメンタルと実力は共にGⅠの平均以下。幸いなことに才能()()はある。だけどGⅠともなれば才能は付いてて当然の標準装備。もっているだけでは不十分。使いこなせて初めてスタートラインに立たせてもらえる。

 

 16頭の才あるウマ娘たちが闘志を燃やす中、俺の担当バは心ここにあらず。16頭が信頼するトレーナーとともに血を流して修練に励んでいた頃、俺は担当バとギスギスした雰囲気でまともに目も合わせられなかった。

 

 つまり、これまでの状況からいって万に一つもライスに勝てる見込みはない。

 

 ――当然の帰結か。

 

 絶望的な結論に到達するも極めて冷静に受け入れる。俺は楽観主義者ではない。この程度の努力でGⅠに勝とうなどというおこがましい考えはもっていない。

 

 頭の中はクリーンだったが、気分は最悪だった。まだゲートインもしていないのに。教え子が負ける想像なんて、少しするだけで気分が悪くなってくる。

 

 敗北は重要な経験だが、無いに越したことはない。少なくともプロにとっては。特に、負けることを前提とした挑戦は何の意味もない。ああ、しまった、嫌な思い出が蘇る。

 

 ネガティブな思考に支配されぬよう何とかライスシャワーの勝つ未来を想像しようとしたが、浮かんでくるのは彼女が惨敗する光景ばかり。俺は自分の想像力の脆弱さを呪った。

 

 どうしようもなく無力に感じる。何一つ手が届かず、何一つこちらに手が届かない。陸上をやっていた頃と同じ気分だ。

 

『ゲートイン完了。出走の準備が整いました』

 

 実況がゲートインの完了を知らせる。待ってくれ、まだ覚悟が――

 

『ゲートが開いてスタートが切られました!』

 

 懇願も虚しく、出走が宣告された。ゲートが一斉に開き、全てのウマ娘は走り始めた。俺は急いでライスシャワーを探した。

 

『4番ミホノブルボン、早くも先頭に立ちます』

 

 ミホノブルボンは当然の如く先頭だ。さすが超特急。瞬発力は卓越している。

 

『続いて3番リワードガルソン、外から14番クリトライ』

 

 その娘たちはいい。ライスシャワーはどこだ。懸命に探すも姿が見えない。バ群の内側にいるようだ。

 

 ヤキモキしながら見守っていると、400mほど進んだ辺りでライスの姿が確認できた。よかった。4番手につけているようだ。俺は胸を撫で下ろした。

 

 ミホノブルボンがバ群を引きつれる形でレースが進んでいく。ミホノブルボンが先頭で、それ以外はほとんど固まっている。前を塞がれないためにも、終盤はいち早く抜け出す必要がある。

 

 レースはどんどんと進んでゆく。第4コーナーが迫る。全てのウマ娘がスパートをかけ始めた。しかし、ライスシャワーは伸びてくる気配がない。むしろ失速している。

 

 スタミナが足りないんだ。それを補う武器もない。

 

 ミホノブルボンがゴールインした。2着との差は2バ身以上。ライスシャワーの姿はまだ見えない。2着、3着と他のウマ娘も続々とゴールラインを通過する。

 

 結局、ライスシャワーは8着でゴールインした。

 

 

 

 

 

 

 時計の針が規則正しく音を立てる。俺はライスシャワーがウイニングライブを終えて帰ってくるのを待っている。

 

 雨天にもかかわらず控え室は適度な湿度を保っている。空調で除湿をしておいたからだ。

 

 机の上にはペットボトルの水やスポーツドリンクが置かれており、彼女が帰ってきたらすぐ水分補給ができるようになっている。

 

 俺は物思いに耽っている。帰ってきた彼女にどんな言葉をかけるかは構想済みで、今はどんな表情で接するべきかを考えている。おそらくだが沈痛な面持ちがよいだろう。俺と彼女の微妙な関係を踏まえればそれが最適解だ。

 

 よし。おさらいをしよう。

 

 控え室に戻ってきたライスシャワーを、俺は沈痛な面持ちを浮かべて迎える。次に、労いの言葉をかけて彼女の頑張りを肯定する。

 

『お疲れ。よく頑張ったよ』

 

 その後、二人でレース内容を反省する。俺は厳しく的確な指摘を連発し、彼女は俺がトレーナーだと再認識する。俺たちの間にあった気まずい雰囲気は消え去り、明日からは再びウマ娘とトレーナーとして練習に励む。

 

 完璧な作戦だ。机上の空論だということを除けば。

 

 あまりにもバカバカしい考えに俺は苦笑した。こんな陳腐な作戦、うまく行くはずがない。そんなことはわかっているのに、それでも考えるのをやめられなかった。俺はつくづく現実逃避の上手い男だった。

 

 自己嫌悪から目線を横へ逸らすと、机の上に置かれたわざとらしいペットボトルが目に入った。恣意にまみれた偽りの厚意。これ見よがしな媚び諂いで彼女の機嫌を取ろうとする自分に吐き気がした。

 

 彼女のために、俺が本当にすべきことは他にいくらでもあるはずだ。なのに俺は、何一つまともにできやしない。

 目の前のことから逃げて、逃げて、逃げ続けて。その先には何が残る?

 

 ――ガチャリ。

 

 ドアノブが鳴った。俺の心臓は跳ね上がった。ライスシャワーが帰ってきた。

 

「お疲れ」

 

 少し上擦ったが、第一声は無事に送り出された。予定通りの佞言。他に作戦はないので、俺はこのまま当初の構想に沿って対応をするしかなかった。

 

 ――よく頑張ったよ。

 

 続けてそう声をかけるつもりが、驚きで言葉に詰まった。振り返った先のライスシャワーは、まるでたった今レースを終えたみたいにずぶ濡れだったからだ。雨で滴る髪は艶やかで、顔には無数の水滴が付いていた。

 

「……どうした?」

 

 おそるおそる尋ねる。人は理解できない状況に恐怖を抱く。

 

「ライブのあと少し走ってきたの」

 

 ライスシャワーは淡々と応える。少しで済む程度ではないだろう。俺はその言葉を飲み込んで、代わりに違う質問をした。

 

「どうして?」

「今日のレース、うまくいかなかったから。覚えているうちに復習しておきたくて」

 

 強烈なショックが脳味噌を劈く。君はレースを終えた直後に、そこまで考えられるのか。それほどに君はタフなのか。彼女の成長と自分の不甲斐なさに眩暈がした。

 

 俺は完全に言葉を失った。用意していた浅ましい労いは全くの無価値だと気付いた。俺はこの子にかけるべき言葉を何一つもっていない。ただただそれが悔しかった。

 

 一人で悔恨の念に沈んでいる俺の横を通って、ライスシャワーは机の上のペットボトルに手をつけた。彼女は中身を数回に分けて口に運んだ。一気飲みは体内の電解質バランスを崩すと俺が教えたからだ。

 

 ライスシャワーは何も話さなかった。嫌いではないはずの沈黙が息苦しかった。

 

 唇を噛みながらライスの横顔を窺う。すると、彼女の目元が潤んでいるのが見えた。濡れた睫毛が力無く伏せっていた。

 

「……泣いてるのか?」

 

 頭の中の疑問が口をついて出た。訊いた直後に聞くべきではなかったと後悔した。ああ、もう、どうして意味のないことばかり。

 

「ううん」

 

 ライスシャワーは首を振った。彼女は不躾な質問を意にも介さず、自嘲するかのように微笑むと、

 

「もう泣かないって決めたから」

 

 優しい声音で何の迷いもなくそう言った。久しぶりに見た彼女の笑顔は誇りたくなるほど美しかった。

 

 ライスの笑顔から目を離せずにいると、一粒の水滴が彼女の頬を伝った。ライスはそれに気づくと、頬を指先で拭った。

 

 滴り落ちた水滴は雨だったのか、それとも涙だったのか。いくら考えても今の俺にはわからなかった。

 

 

 

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