瞳に宿った炎は消えない   作:Tyler Durden

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第9話 秘書とトレーナー

 

 

 

 曇天の下、NHK杯は終盤に差し掛かり、熱狂は最高潮に達していた。

 

 割れんばかりの歓声が大気を震わせる。無数の視線が16頭のウマ娘に注がれている。今日もトゥウィンクルシリーズは大人気だ。

 

『ナリタタイセイだ、ナリタタイセイだ! 2番手争いはどうか!』

 

 1番人気のナリタタイセイが抜け出した。1着は彼女で確定だろう。実況はいち早く誰が2番手になるか気にしている。

 

『勝ったのはナリタタイセイだ!』

 

 勝敗が決した。ライスシャワーは今日も勝てなかった。歓喜の声を上げる観客たちを尻目に、俺は腕を組んで天を仰いでいた。

 

 ライスシャワーと気まずい雰囲気になってから、今日で1ヶ月と9日が経った。あの日以来、彼女はレースで好成績を出せていない。間違いなく成長はしているのに。なぜだ?

 

 答えは、俺が足を引っ張っているから。

 ピンポン。正解です。

 

 ふざけている場合ではない。ライスシャワーの不振は確実に俺のせいだ。トレーナーとの信頼関係の崩壊がこの事態を招いているのだ。

 

 トレーナーとの信頼関係の構築は、ウマ娘が強くなる過程で避けては通れない道だ。信頼できないトレーナーの提示する練習メニューなど、こなす気も起きず、こなしてもその精度は低い。毎日嫌な相手と顔を合わせるというのも単純にストレスだ。トレーナーが信頼の置ける人物であるからこそ、ウマ娘は練習に専念できるのだ。

 

 残念ながら今の俺たちは以心伝心には程遠い。そして仲直りのためのきっかけがあるわけでもない。

 

 第一に、彼女にとって特別な存在となるのを拒否したのは俺だ。今さらどの面下げて謝ればいいんだ。「気まずくなったからやっぱり仲良くしよう」ってか? どれだけ自分勝手な行動を押し付ければ気が済むんだ。

 

 考えれば考えるほど自己嫌悪に嵌っていく。自殺願望めいた思考が顔をのぞかせる。いつもは気にならないはずの歓声が妙に煩わしかった。

 

 ――久しぶりに、酒に頼りたい気分だ。

 

 

 

 

 

 

 というわけで、俺はたづなさんと居酒屋に来ていた。

 

 たづなさんには聞き役、介抱役として来てもらった。申し訳ないが迷惑かけるつもりしかない。せっかく飲むなら誰かに愚痴を聞いてほしいし、今日はとことん酔っ払いたい。

 

 多くの客で賑わう店内では、雑多な音が混じり合って存在している。互いの声を聞くのもやっとだというのに、全員が各々の世界に浸りきっている。これこれ。今日はこういう店がいい。

 

「急なお誘いだったのに来ていただいてありがとうございます」

「いえいえ。佐藤さんから誘っていただけるなんて、滅多にないですから」

 

 たづなさんは俺の労いの言葉に対して恭しい態度で応えた。何杯目までこの態度を保っていられるか楽しみだ。

 

 最初は二人ともビールを頼んだ。ビールは注文から1分も経たないうちに届いた。熟練の店員の手腕に戦慄した。

 

「それじゃあ、乾杯」

「乾杯」

 

 飲み会は恙なく始まった。俺はカチンという乾杯の音と同時にジョッキを空にした。

 

「えっ!?」

 

 案の定たづなさんは慄いた。読み通りだ。

 

「どうしました?」

「の、飲みますね」

「飲みますよ。そのために来たんですから」

 

 この程度でビビってるようじゃあ、この先地獄を見るぞ。ついて来られるか? このスピードに。

 

「ストレス溜まってるんですね」

 

 2杯目のビールを頼んでいると、たづなさんが真顔でぽつりと呟いた。神妙な顔つきの駿川たづなはレアだ。

 

「そうなんですよ〜。だから今日は愚痴を聞いてもらおうと思って〜」

「あら、意外です。てっきりストレスフリーな生活を送ってらっしゃるとばかり思っていました」

「失礼すぎる〜」

「佐藤さんにだけですよ」

 

 たづなさんはナチュラルに失礼だった。ただ、俺が相手だから無礼な面も出しているのかと思うと悪い気分ではなかった。甘えてくれている証拠だ。たぶん。

 

「実は最近いろいろあって、メンタルが弱ってて」

「ええ。存じております」

 

 心臓が大きく脈打つ。まさか、ライスやルドルフとのあれこれを知っているのか?

 

「理事長に言われたんですよね? もっと真面目に働かないとクビだって」

 

 うん、全然違う。たづなさんの予想が掠りもしていないことに俺は胸を撫で下ろした。

 

 それはそれとして、俺は未だ危険な状況に置かれているようだ。俺は3杯目のビールをあおって新たな爆弾から目を逸らした。

 

「全く違います」

「え……違うんですか?」

「ほんとに違います」

「そ、そうですか。申し訳ありません、私の早とちりだったみたいですね」

 

 自信満々の予想を外したたづなさんはたちまち赤面し、贖うみたいにお酒を飲み干した。いい飲みっぷりだ。アルコールには殺菌作用もあるから、いい感じに罪を洗い流してくれるだろう。

 

「その、理事長のことではないのなら愚痴とは一体……」

「ん……なんか自意識過剰な感じかもしれないんですが」

 

 杯に残っていた酒を飲み切り、意を決して訊いてみる。

 

「俺って、仲良い人少なく見えます?」

「見えます」

 

 たづなさんは間髪入れずに返してきた。早いって。結構勇気出して質問したのに。

 

「いるんですか、逆に。仲の良い人」

 

 あまつさえ追い打ちを入れてきた。おそらく本音から出たその問いかけに、かえって多大な精神的ダメージを受ける。

 

「多分ですけど、ライスさんに何か言われて気になったんですよね」

「まあ……」

 

 鋭いな。なぜ俺の周りにはこうも勘のいい人たちが集まるのだろう。それとも、女性はみんなこうなのだろうか。

 

「残念ながら私は、佐藤さんが仕事以外で誰かと親しくしている場面を見たことがありません。ですから、佐藤さんは仲の良い人物が少ないという評価に異論はありません」

 

 理由まできっちり説明し終えると、たづなさんは満足げに次のお酒を頼んだ。クソ。なんでストレス発散の場でこんなこと言われなきゃいけないんだ。俺は悔し紛れにフライドポテトを注文した。

 

「そうだとしても、なんでライスに訊かれて正直に応えちゃうんですか。もっと……こう……濁しても」

「嘘はよくないですよ。たとえトレーナーへの不信感が高まる情報でも、ウマ娘には知る権利があります」

 

 正論だった。返す言葉もないので押し黙った。変なところでウマ娘ファーストの思想を出すのやめてほしい。

 

 このままではダメだ。まともな理論や思考では勝ち目がない。反撃の狼煙を上げるため、俺はとにかく飲みまくった。

 

 

 

 

 

「トレセン学園はやり方が悪どい! ユメヲカケルとか言ってるけど、成功するかどうかは前もって才能で決まってる! 大体のウマ娘は原石のための研磨剤! お前らの夢、研磨剤!」

「そんなのわかってて皆来てるんですよ! それでも諦め切れない夢があるんです! 私たちにできるのはそんな彼女たちを手助けすることだけでしょう!」

「はい、それ言っていいのは才能ない奴だけで〜す。あとそんなこと言うならトレセンはもっとネガキャンに力入れてくださ〜い」

 

 俺はベロベロに酔っ払っている。とにかく酔っ払っている。そんな自分を自覚している。

 

 しかし、それに気付いたところで何が変わる訳でもない。しかし、俺は酔っ払っている。それだけはわかる。

 

「そもそもウマ娘は別世界の名前と魂をもって産まれてくるわけでしょ!? それって運命の奴隷ですよね!? 何も変えられない悲しきモンスターですよね!?」

「それは別世界の話です! この世界に生きる彼女たちの運命は誰にもわかりません!」

 

 不毛な口論は延々と続く。たづなさんも酔っているからだ。俺にはわかる。彼女の頬は赤く染まっている。俺にはわかる。

 

「たづなさん、つまり……」

「つまり?」

「……」

 

 何を言おうとしていたか忘れた。虚空を一心に見つめた状態でフリーズした俺を見て、たづなさんは二人分の水を頼んだ。

 

 あっという間に水が届いた。ガラスのコップに水が並々と注がれていた。たづなさんが飲むように勧めて来たので、一息に飲み干し、飲み干すと同時に大きく息を吐いた。

 

「つまりですね」

「まだ続けるんですか?」

 

 荒い息を吐きながら管を巻く俺を、たづなさんは憐れみのこもった目で見る。はっ。好きにすればいいさ。

 

「俺は天才の略奪行為を止めようとしているんです」

 

 いつになく真剣な俺の雰囲気を感じ取ったのか、たづなさんは何の茶々も入れずに黙って話を聞いてくれた。

 

「プロスポーツは肉体・技術・精神の三要素から構成される、健康維持や精神的な充足を目的とする一般的なスポーツとは一線を画す、恐ろしいほど純粋な暴力的競争です」

「……否定はしません」

「それ自体はいいんです。競争は生物に組み込まれた本能だ。俺も()()は非難しない」

 

 生命は遺伝子の乗り物。遺伝子は継承と淘汰を繰り返す。俺たちは遺伝子に操られ、淘汰を逃れるため互いに蹴落とし合う。それが生きるということ。

 

「問題は、トレセンがトゥウィンクルシリーズをエンターテイメントにしてしまったことです。本来原始的で暴力的だったはずの競走を、社会的で大衆的なものに作り変えてしまった」

 

 語りに熱が入る。真剣な態度の俺はレアだ。

 

「だけど、いくら表面を飾ろうとも本質は変わらない。競い合うということの本質は殺し合いだ。死と向き合う覚悟をしないままでは入り口にすら立てない……はずだった」

 

 内に秘めた悔恨を何ら隠さず、俺はたづなさんを睨めつけた。自分も同罪であることは棚に上げて。

 

「ウマ娘の走りとエンターテイメントが結びついた時、そこにあったはずの死は栄光と喝采で覆い隠された。結果、多くのウマ娘が死の覚悟を持たずに戦いへと繰り出した。あとに残ったのは幾多のウマ娘の屍と、屍でつくった玉座だけだ」

 

 たづなさんは黙っていた。反論するでもなく、同調するでもなく、ただひたすらに俺を見つめていた。

 

「あなたたちはわかっていたはずだ。特別な者は、選ばれた者は限られていると。多くの者はその研磨剤にしかなれないと」

 

 俺たちは平等じゃない。俺たちは特別でもない。

 そりゃあ大人たちは言うさ。君は素晴らしいって。生きているだけで価値があるって。誰も君の代わりにはなれないって。

 

 そんなこと、言われなくても皆わかってるよ。そして、そんな下らない言葉が何の気休めにもならないってことも。

 

 人生は平等じゃないよ。ごく僅かな人が食事の内容で悩んでいるとき、多くの人は飢えに苦しんでいるよ。職業選択の自由を保障された学生たちが将来の生き方に悩めても、古代ローマの剣闘士たちに戦う以外の生き方はなかったよ。才能あるウマ娘が連戦連勝を重ねて好敵手の不在を嘆くころ、未勝利ウマ娘たちはたった一度の勝利のために死に物狂いで努力をしていたよ。

 

 もう終わりにしよう。いい加減疲れた。

 

 虚飾をやめなかったあなたたちに、知らないままを選び続ける自分に、反吐が出るんだよ。

 

「トゥウィンクルシリーズはウマ娘にありとあらゆる名声を齎すが、敗者の魂だけは救わない」

 

 思っていたことを思うがままにぶつけると、訳もわからず涙が零れ落ちた。人前で泣いてしまったのが悔しくて恥ずかしくて、おしぼりで乱暴に顔を拭った。周りの誰も俺たちを気にかけていないのが救いだった。

 

「私の分もどうぞ」

 

 たづなさんは俺に、水の入ったグラスをそっと差し出した。同情されるのが嫌で断ろうとしたが、目つきや仕草がやけに優しくて受け取ってしまった。

 

「佐藤さんの言う通りですね」

 

 たづなさんは俺の主張を淡々と首肯した。場を納めるためではなく、自分も同意見だから肯定したように聞こえた。

 

「私たちはレースの本質を隠している。その通りだと思います」

 

 彼女の言葉には説得力があった。俺も彼女も、自分が凶行の当事者であることを認識していた。

 

「それでも」

 

 たづなさんは大きく息を吸って、

 

「それでも私は、彼女たちの可能性を信じていたいんです」

 

 決意と共に言葉を吐き出した。

 

「家族が、友人が、世界中の人々が彼女たちを否定したとしても、私だけは彼女たちを信じていたいんです。彼女たちの味方でありたいんです」

 

 たづなさんの言葉には強い意思が込められていた。他者に認められずとも自分の道を歩むという決意が表れていた。

 

「そんなの……俺だってそうですよ……」

 

 大切な存在が幸せになってほしい。俺とたづなさんの目的は同じだった。同じだというのに、それに対する結論が、手段が大きく異なっていた。

 

「でも、現実はいつだって厳しい。大半の人は特別じゃない。夢は大抵叶わない」

 

 それならば、夢を諦めて平凡な道を歩むのも一つの手だと思うのだ。何も夢に殺される必要はない。人生は長いのだ。他の道を選んで幸せになることも十分可能なはずだ。

 

 俯いて床をぼんやり眺めていると、段々と目の焦点が合ってきた。酔いが醒めてきた証拠だ。もっと酔っていたかったのに。自分のアルコール分解能力の高さを呪った。

 

「……そろそろ出ましょうか」

「ええ」

 

 

 

 

 

 

 気まずい。たづなさんとの帰り道は気まずかった。他人に自分の内面を曝け出す経験を短期間で二度も経て、俺はなんとも言えない気恥ずかしさを覚えていた。

 

 たづなさんは何とも思っていないようだった。それが一層俺の気恥ずかしさをかき立てた。他人に本心を打ち明けるのは普通のことなのだろうか。俺が自意識過剰なだけなのだろうか。もはや何でもいい。早く帰らせてくれ。

 

 ――行きは15分掛かった。帰りはたづなさんに歩調を合わせるとして20分くらいか。

 

 いつも通り思考が宙に浮き始めた俺は20分あれば何ができるか思案し始めたが、突如横から投げかけられたたづなさんの声で現実に引き戻された。

 

「今日はありがとうございました」

 

 たづなさんの言動は予想から大きく外れた内容だったので、俺は懐疑の眼差しと共に横を向いた。

 

 たづなさんは嬉しそうに微笑んでいた。その笑みがさらに俺を困惑させた。

 

「……お世辞?」

「本心です」

「なんでですか。いいところなかったでしょ、今日の飲み会」

 

 俺が真面目な顔でそう言うと、たづなさんは一段と嬉しそうな顔をする。わけがわからない。

 

「それはですね〜」

 

 たづなさんはもったいぶった言い方で間をつくる。だるい。まだ酔っているのだろうか。気になるからさっさと教えてくれ。

 

「佐藤さんが私を頼ってくれたからです」

 

 彼女は満足げに応えた。エメラルドグリーンの瞳がこちらを覗いていた。

 

「困ってるときに頼ってくれるのって、先輩としては嬉しいものですよ」

「そうですか」

「そうなんです。特に佐藤さんは人に頼らないじゃないですか。全部一人で抱え込んで」

 

 図星を突かれてひるむ。本当によく人のことを見ている方だ。

 

「頼りすぎも頼らなすぎもダメですよ〜。私たちはひとりじゃないんですから。人という字は人と人が支え合ってですね……」

 

 謎のお説教が始まってしまった。しかも例えが古い。生真面目というか、天然というか。たづなさんのお茶目な部分を見て、俺は堪え切れずに笑ってしまった。

 

「ふふっ」

 

 小さく吹き出すと、たづなさんは余計に顔を明るくして、

 

「あっ、今笑いました?」

「ふっ……いえ、すみません」

「普段なら許しませんけど、今日は特別に許してあげます」

 

 含みのある言い方だった。どこか安心したかのような笑みに疑問が芽生えた。

 

「どうして嬉しそうなんですか?」

「佐藤さんの笑顔、久しぶりに見ましたから。最近はトレセンに入りたての頃みたいに険しい顔ばっかりして。ライスシャワーさんと契約してからはよく笑ってたのに」

「……そうですか?」

 

 自分では表情など意識していないので、極めて意外だった。俺はそんなにわかりやすい奴だったのか。

 

「威圧しちゃってましたかね。もっと柔らかい表情を浮かべるよう以後気をつけます」

「そういうことじゃなくて。周りの人がどう思うかも大事ですけど、佐藤さん自身がどう思えているかが大事なんですよ。佐藤さんの気持ちが大事ってことです」

「そうかな。俺の気持ちは関係ないと思いますよ」

 

 話の流れを断ち切ると、たづなさんは不服そうな目で俺を見上げた。

 

「佐藤さんって、意外と軸が他人なんですね」

 

 拗ねたたづなさんは独り言のように呟いた。しっかりと俺に聞こえる声量で。

 

「すみません。たづなさんの意見を否定するとかそういうんじゃなくて……」

「いいですいいです。私の意見じゃ響かないですもんね」

「いや、ほんとそういうことじゃなくて……」

 

 酒で酔っているとはいえ、こんな駿川たづなを見るのは初めてだ。スーパーレア相当の珍しさだろう。

 

「形だけの謝罪なんていりません」

「形だけじゃないですよ。本当に思ってますよ」

「じゃあ、どうして最近ライスシャワーさんと仲が悪いのか教えてください」

「え?」

 

 予想だにしない返す刀を首元に突きつけられた。冷たい汗が流れ落ちた。

 

「ライスシャワーさんと仲違いしてますよね? なんでですか?」

「なんでって……何を根拠に――」

「これでも理事長秘書ですから、そういった情報は自然と耳に入るんです」

「……」

 

 誤魔化そうとすればするほど形勢が悪くなるので、俺は口を噤むしかなかった。しかし何も問題はない。このまま沈黙を貫き、流れで解散しよう。

 

「ほら、もうすぐ寮に着いちゃいますよ」

 

 容赦なく追撃が来た。たづなさんはダル絡みモードに入っていた。

 

「はや〜く〜してくださ〜い〜」

 

 俺が応えない限りこの口撃は続くだろう。仕方がないので曖昧な応えで話題を濁す。

 

「俺がトレーナーとは呼べないような未熟者で、ライスに愛想尽かされただけです」

 

 たづなさんはポカンとした顔で何度か瞬き、その場で立ち止まった。トレセンはもうすぐ目の前にあると言うのに。

 

「それ、本当ですか?」

 

 彼女は肩透かしを食らったような表情のまま首を傾げて尋ねた。

 

「本当ですよ」

 

 俺が端的に応えると、たづなさんはもっと大きく首を傾げた。

 

「そんなはずないですよ」

「そんなはずないって……それこそ何を根拠にそんなことを」

「だって佐藤さん、トレーナーとしては文句なしですもの」

 

 目の前の先輩から発せられた言葉が信じられず、俺は目を眇めた。俺を元気づけるためにおだてているのだろうか。だとしたらいい迷惑だ。

 

「冗談でもやめてください」

「冗談じゃないです。私の知る限りですけど、佐藤さんは十分すぎるくらい結果を出してますよ」

「結果って、どんな」

「ライスシャワーさんを2回勝たせたこと」

 

 たづなさんは曇りのない瞳をしていた。確信を含んだ言動は凛としていて、否が応でも空気が引き締まった。

 

「トレーナーがウマ娘を勝たせるのは当然のことなんじゃないですか」

 

 淀みない口調で告げられた根拠は、俺にとってはひどく当たり前のことに聞こえた。ウマ娘を鍛え、ウマ娘を勝たせる。それがトレーナーの、俺の存在意義。

 

「うーん……佐藤さんが本当にそう思っているかどうかは別として、それを実行できる人は少ないですよ」

 

 褒めるような貶すような言い振りだった。いまいち彼女の言いたいことが掴めなかった。

 

「中央に来たウマ娘が1勝できる確率は35%。 3人に2人は未勝利のままトレセンを去ります。オープンまで昇格できる確率は3%と言われています」

 

 彼女は厳しい現実を淡々と語る。まるで自分が経験してきたかのような説得力のある語り口に、俺は固唾を飲んで聞き入った。

 

「ライスシャワーさんはオープン戦を勝利して、GⅠにも出走しました。この時点で非常に優れたウマ娘であると言えます。しかも、彼女にはまだまだ伸び代がある」

 

 そうだ。ライスには未来がある。俺なんかと組んで時間を浪費するよりも、もっと優秀なトレーナーと共に上を目指すべきだ。ライスには才能があるのだから。

 

「そして、ライスシャワーさんをそこまで育て上げたのは間違いなく佐藤さんの功績です。佐藤さんは立派なトレーナーですよ」

 

 たづなさんは微笑と共に俺を肯定した。全身がたまらなくむず痒い。褒められるのはどうも慣れない。

 

「俺、トレーナー向いてないですよ」

「向いてますって」

「人に何か教えられるような人生を送ってきてないです。俺にトレーナーは無理だ」

「……本当にそう思いますか?」

「思いますよ。夢から逃げたやつにトレーナーが務まるわけがない」

 

 自分で自分を否定するたび、胸に閉じ込めた絶望を思い出す。俺は誰かの手本になるような人間じゃない。俺に教えられるのは後悔と失敗だけだ。

 

「それでも」

 

 彼女は俺の頬に手を添えた。手のひらのぬくもりはどうしようもなく俺を安心させて、同時に遠い日の母のことを思い出させた。

 

「あなたのその経験が、誰かの役に立つ時がきっと来ます」

 

 たづなさんは親指で俺の頬を撫ぜた。彼女の相貌には、聖母のように柔らかな笑みが浮かんでいた。

 

 どうしてだ。彼女のあたたかな視線に晒されると、胸の澱みが消えていく。俺はもうこれ以上、何もできないはずなのに、人生に希望をもってしまいたくなる。

 

「それに……」

 

 彼女はどこか遠い場所を見つめ始めた。俺と、俺ではない誰かの姿を重ねるみたいに。

 

「最初からトレーナーだった人なんていませんよ」

 

 たづなさんは慰めるように、励ますように、ずっと昔の記憶を掘り返すように言葉を紡ぐ。

 

「ウマ娘と一緒に歩むことで、あなたはトレーナーになっていくんです」

 

 たづなさんは言葉を切って、じっと俺を見つめた。続きの言葉が彼女の口から語られることはなかったが、たづなさんの視線に愛と期待が込められていることが、他人の感情に疎い俺でもわかった。

 

 俺とたづなさんは黙したまま、視線を見交わした。俺は視線を外そうとしたが、彼女の指が優しく頬をなぞるたび、彼女の方を向いてしまった。胸の内に生まれた甘い安心が、ありありと目に浮かぶのを隠そうとしたが、おそらく彼女にはバレバレだった。

 

 俺は、人生に再び希望を抱いてしまった。

 

「今日はゆっくり休んで、明日から頑張ってください。()()()()()()()

「……はい」

 

 意図せず甘えるような声が出た。俺らしくもない。けれど、たづなさんはそれが嬉しかったようで満足げに頷いた。

 

「お先に失礼します」

 

 たづなさんは頬から手を離して、一足先に寮へと向かって行った。頬に残されたぬくもりが薄れる感覚と、彼女の背中が遠ざかっていく光景が、酷く寂しかった。

 

 ぬくもりがなくなってしまうのが名残り惜しくて、俺はその場で立ち止まっていたが、1分も経てばぬくもりは完全に消えた。俺にぬくもりを与えた彼女も去った。しかし、彼女の残した安心が消えることはなかった。

 

 少しの逡巡の後、俺は延命治療を受け入れることにした。こんな瞬間がまだ人生に残っているなら、苦しい思いをしても足掻くだけの価値はあると思ったからだ。

 

 もう少しだけ、生きてみることにする。生きると決めたからには――

 

 

 

 明日からは、もっと頑張らないといけない。彼女の期待に応えるためにも。

 

 

 

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