アスカの献身的な看病と付き添いが功を奏して、シンジは順調に回復を遂げていた。第三村に来たときはあれだけ酷かった精神状態も、今になってはアスカ無し一人で動き回れるだけになっている。また、居候をさせてもらっている相田ケンスケの仕事を手伝っていて、時たま鈴原トウジと一緒に語らう光景が見られる。ここまで来たら十分であり、アスカは彼の回復を受けて、自分が過剰に干渉し過ぎないように最大限配慮することにした。結果的にシンジは一人だけで動くことが増えた、その一つに今日のシンジは温泉ペンギンたちが暮らしている、あの湖にふらりと寄って食料となる魚を釣りに来ていた。
「こらこら、危ないからね」
来たのはいいものの、シンジに心を許している温泉ペンギンがワラワラ出て来て、あっという間に囲まれてしまった。当たり前だが彼らに敵意や害意は一切なく、それはシンジも分かっている。だからペンギンがする多少の行動は許容していた。彼らはシンジが魚釣りをしていることを把握したのか、一部はシンジを突っついたり、頭を擦り付けて甘える動作をする。どうやらおこぼれを期待しているらしい。湖に落とされないよう細心の注意を払って、程々に両足を踏ん張って耐える。その状態で魚が釣れるまで、ジッと我慢して待つのみ。魚が釣れるまでは我慢勝負であるから、ペンギンと触れ合いながら時をひたすらに待つ。待って待って待つ。
(クエッ!)
「ん?どうしたんだい?」
身体をさすってあげていると、急に一体のペンギンが大きな声を上げた。撫でたり、さすってあげたりした時に発する喜びの声ではないので、どうかしたのかと見る。そのペンギンは人が踏みしめて作った草が生えていない道をジッと見ていて、シンジもその方を見つめる。すると、数秒後によく見て知った少女が現れた。
「アヤナミ…どうしたの?こんな遠い所まで来て」
「碇君にお願いしたいことがある」
来たのはアヤナミ・レイだった。彼女はシンジが14年前に心を通わせていた綾波レイと同一の身体を持つが、心が違う少女である。彼とは極僅かな時間しか過ごしておらず、プログラムされたコンピューターのようにしか動かないクローンの一人だ。よって、彼が良く知る綾波レイとは違う。それ故に彼女の対応は冷たかった。シンジは彼女の対応と真実を知って強くショックを受けたが、今は彼女を全面的に受け入れるように努めることで解決を図っている。第三村に来て彼女はシンジ達と離れて鈴原トウジ・ヒカリ夫妻の家で暮らしている。日中は第三村の奥様方と一緒に農作業の労働に従事し、稲作から畑作と多種多様な作物を育てている。彼女の見た目は美麗に尽きて且つ変に抜けたところがあるので、奥様方からは微笑ましく思われている。
ただし、致命的な問題が一つだけ存在する。
「よいしょと。お願いって、何かあったの?」
シンジは釣りを中断して、釣竿を置いた。そして、彼女にちゃんと向き合ってあげる。温泉ペンギン達はとっても賢く、アヤナミとシンジが大事な話をすることを読んで空間を開けてあげた。本当に賢いこと極まりだ。ただ、同時に強かさも持ち合わせている。ひっそりと、こそこそと移動して両名が逃げられないように取り囲んだ。
「碇君に、私の名前を決めて欲しい」
「え…君の名前を?」
「そう」
致命的な問題はこれであった。これまで彼女はアヤナミ・レイとされていたが、実はそれは正式な名前ではなかったのだ。単にあの綾波と似ているからアヤナミ・レイとしていただけ。つまり、アヤナミ・レイは便宜上の名前であって、本当の名前と言うのが無い。じゃあどう呼ばれているのか。第三村において彼女と交流する鈴原ヒカリや奥様方からは『そっくりさん』と何とも言えない名前で呼ばれてしまっていた。これはいただけないし、奥様方から名前を考えてもらいと言われたりしたことで、自分で自分の名前を考える変な事態が生じてしまう。自分で考え付けばよかったが、彼女は複雑な事情があって、考えることが到底不可能。
「君の名前を…えっと、僕が決めちゃっていいのかな。なんか、ダメな気がするんだけど」
「いい。私は碇君に決めて欲しいから」
いくらシンジでも、流石に人の名前を勝手に決めてしまうことは至難で、それ以前として、自分が勝手に決めてしまってよいのかと常識的な懸念があった。自分が彼女の家族なら余地があるだろうが、赤の他人だから決めることは避けるべきこと。そんな彼の懸念は尤もなことであるから、第三者の誰もが疑念を挟むことはできない。ただし、頼んだ本人のアヤナミがシンジが勝手に己の名を決めてしまうことを承諾する意思を明らかに表示している。本人が良いと言っている以上、シンジの抵抗は意味を為さなくなる。
「う~ん、どうしようかなぁ。すぐには思いつかないから、ちょっと時間を貰うよ」
「わかった。あと、私も一緒にいていい?」
「あ、うん。それはもちろん」
とりあえず頼みたいことは頼んだ。この後は、今日一日を彼と一緒に過ごすことを選んだ。彼女は消極的な性格で自分一人で過ごすことが多かったのだが、今日ばかりはシンジと一緒にいることを望んだ。彼女のなんとなくの気まぐれなのかと思われたが、彼女には彼女なりの差し迫った事情があった。
残り少ない時間を彼と過ごしたかった。
命続く限りを。
彼と一緒に。