仮称アヤナミ・レイがシンジに自分に名前を付けて欲しいと頼んでから数日が経過した。第三村では変わりなく、大災厄を生き残った者達が一生懸命に生きている。何てことは無い、普通の平和な日々を送っていた。アヤナミもシンジも2人ともお互いにそれぞれ労働に従事していたが、ついにシンジは決断を下す。人目に触れられないで秘密裏に動くならば、離れた湖がうってつけ以外に言いようがない。両名は打ち合わせなんて一切していなかったが、丁寧に申し合わせたかのように湖に集まった。以心伝心を言い表すならば、これだろう。
普段のこの湖は温泉ペンギン達がワイワイ仲良く暮らしているはずなのだが、今日ばかりは一体も見られないではないか。渡り鳥の類であれば、ここから移動してしまっても変ではない。しかし、温泉ペンギンはペンギンである。渡るどころか飛ぶことが不可能だ。また、第三村より外の地はコア化と異常に強いL結界密度のせいで人間はおろか、全ての生物は生きて行くことが絶対にできない、まさに死の大地。したがって、移動するなんて以ての外。となれば、どこかに隠れているのか。実際に雨の日だと彼らは濡れるのを嫌がって、旧NERV構造物の残骸を雨宿りとしている。
「碇君」
「よっと、ごめんね。わざわざここまで来てもらって」
「ううん。いいの、碇君なら」
シンジは、まず最初として彼女に湖にまで来てくれたことに感謝を述べた。ただでさえ彼女は農作業で忙しくて疲れている。シンジは特殊な事情で比較的にフリーであるからいいだろうが、彼女は忙しい日々を送っている。中心部からやや遠く離れた湖にまで来るのは大変でしかない。だから彼は彼女に申し訳なく思っている。しかし、謝るばかりでは話が進まないので本題に入った。
「それで、名前についてなんだけど。うん、アヤナミはアヤナミだよ。君はアヤナミ・レイだ。誰かが君の事を『そっくりさん』だったり、『アヤナミシリーズ』だったり、『クローンの一体』と呼んだとしても。僕はアヤナミを絶対に『アヤナミ』って呼ぶ。だから、君は『アヤナミ・レイ』なんだ」
「私は…アヤナミ・レイ。碇君がつけてくれた、私の名前」
滅多に表情を崩すことが無いアヤナミは、極めて珍しく、みんなが惚れ惚れとしてしまう笑顔になった。「パァッ」とか「ニンマリ」とか、そんなチープな言葉で彼女の笑顔を表すことは至難に尽きる。文学者や作家を以てしても、その笑顔に適する言葉を充てることはできないだろう。それだけ彼女は素晴らしい笑顔を浮かべたのである。
シンジも釣られて笑う。少年と少女が笑いあっている光景は何よりも良い。ただ、次には彼女は笑顔を変えないままで、悲哀に満ちた気持ちを乗せて語りだした。
「ありがとう、碇君。私はもう生きられない。今まで楽しかった。みんなと畑仕事をしたかった。ツバメをもっと抱っこしたかった。そして、碇君とずっと一緒に生きたかった。でも、もう、叶わない。だから…」
「あ、あ、アヤナミ?どうしたの。様子がおかしいよ?」
「ヒカリに教えてもらった言葉。これで最期だから。それを碇君に伝えたい」
シンジは世界中の陸上選手を上回る怪物じみた瞬発力で駆け出し、一瞬でアヤナミのもとへ寄った。彼女をよく見れば、体のバランスの安定を保てておらずフラフラして危ない。すぐさま抱き留めて倒れないようにした。彼女は抱き留められたことは全く意に介していない。だが、彼の頬につらつら流れる物があった。世界に存在する全ての物の中で最も冷たくて、最も悲しみが込められて、最も彼女の想いが固まっている。
「涙…?アヤナミ、泣いているの?」
彼女は泣いていた。表情を崩すことが皆無と言っていい程無かった彼女が泣くなんて思わない。真実を知っているシンジは、彼女が泣いている事実にひたすら驚くしかなかった。だが、驚いている暇なんてあるだろうか。いいや、無いのだ。抱いているはずのアヤナミは、初めて会った時と同じプラグスーツを着用していた。そんなプラグスーツは、もう見る見るうちに脱色していって、真っ白になる。何かが終わろうとしていることを、嫌程思い知らされる。シンジは受け入れたくないことを、直視して受け入れざるを得ない。
「そんな…アヤナミっ!」
「さようなら。さようならは…また会うためのおまじない」
最期にアヤナミ・レイは過去一番の笑顔を見せて、自身の肉体を維持することができなくなって、オレンジ色の液体となって散った。シンジの体には彼女が来ていたプラグスーツだけが残る。その胸元で小さな光の十字架が立っている。ただそれも、長く続かない。最期の最期の彼女の意思を示すかのように、十字架は四散した光の粒となって彼に吸い込まれた。
「うっ…あぁ…ガハッ。アヤナミぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!!!」
第三村から外れた湖で少年が悲痛な叫びをあげた。愛していた少女の名を呼んだ。紆余曲折があっても、最期の最期まで自分を想ってくれた少女の名を。
叫んだ。
愛を込めて。
彼女はあの綾波じゃない。だから何だよ。アヤナミは僕のことを考えて、想ってくれていた。そんな彼女は自分に別れを告げてから還った。受け入れたくない…愛する人を失ってしまうことを。でも、ここで立ち止まったらいけないんだ。アヤナミが言ったじゃないか。「また会うためのおまじない」だって。また会えるんだ。アヤナミと会えるんだ。そう、会えるんだよ!うじうじするのはもうやめたよ。アヤナミがいなくなっても、僕には彼女がいる。ここに生きている。
(クエ~)
「慰めてくれるのかい…あ、僕もだったか。泣いていたのは」
どこからか姿を現した温泉ペンギン達は、誰もが悲しみを歌った。彼らの声は一様にして、少女を失ったことを悲しんでいる。リーダー格と思われる一体はシンジの頬を優しく撫でたことで、彼は自分が泣いていることを自覚する。そう、彼もまた泣いていたのだ。人間と言うのは不思議な生き物で、特に悲しい時には意識せず泣いていることがある。また、泣いていることを一切把握できない。温泉ペンギンの慰めがあって、やっと涙の存在に気づけた。
「ごめんね。夕方まで、ここにいさせてもらうよ」
(クエッ)
シンジは彼女のプラグスーツを手放そうとしない。抱きしめていた時のままの格好で、夕方までずっとを過ごした。夕方になれば温泉ペンギンも寝る準備に入る為、シンジは家に帰ることを選んだ。家にまで帰る道のりは遠くなるわけがないのに、いつもよりも遥か遠く感じた。プラグスーツを大事そうに持って歩く学生服の少年は異様であり、彼が一番避けていた人の目を一身に集めることになる。それでも、彼は一向に構わない。
歩くこと約20分ほど。慣れ親しんだ我が家にたどり着く。ガラガラとドアを開けると、アスカが心配そうにこちらを見つめて立っていた。帰りが遅くなったから、彼が事故に遭ったのではないかと不安なのだろう。不安そうな彼女は、彼がアヤナミのプラグスーツを持っているのを見たことで、更に心配そうになった。
「アヤナミは生きているよ。僕と一緒にね。彼女はここにいるから」
この一言でアスカは全てを理解した。彼と彼女の関係性は表から裏まで全部把握しているから、今日何があったのかを読み切ったのだ。
アスカは何も言わない。
今日の第三村は悲しみに包まれている。