痛みを堪えつつ碇シンジは艦の外へひたすら歩いていた。激烈な戦闘中なのが功を奏し、彼の逃亡を察して行く先を阻んだ者は先のサクラだけだった。だが、戦闘配置の関係で所々の区画は扉が閉められてしまい、区画ごと隔絶する処置がされたことが障害となる。道具も何も持っていない碇シンジでは突破することが出来ない。迂回したくても迂回路まで隔絶されてしまえば、もはや動きようが無かった。まさか来た道を戻るわけにはいかない。ただ、前に進むしかないのである。
よって、彼は己に秘めていた力を発揮させることにした。
「アヤナミ…ありがとう。僕はアヤナミのおかげで前に進めるよ」
扉を前にしたシンジは小さな声で呟くと壁に手を当てた。一旦両目を閉じて意識を集中させてから、カッと目を開いた。その直後に扉は豆腐を小振りに切ったみたいに、いとも簡単に合金製の扉が切り裂かれた。そして、彼に進行を邪魔しないよう左右にばらけさせておく。一体誰がこんなことをと疑いたくなる光景だが場にいるのは碇シンジ。彼ただ一人のため下手人は彼としか言いようがない。とは言え、普通の人間ではなくても、非力な彼がこんな芸当を出来るとは思えなかった。
いや、彼だから出来ることだった。彼の両眼を覗いてみれば赤く染まっており、一切の濁りがない透き通った瞳をしている。その瞳を眺めていれば、あっという間に深淵へ引きずり込まれそうな感覚を覚えた。だが、同時にその目は彼の並々ならぬ覚悟を見知ることが出来た。
「アスカのところに行かなきゃ」
AAAヴンダーの艦橋では戦闘がひと段落したことを受け取った。急に敵艦2隻が交戦をやめ、南極のセカンドインパクト爆心地へ降下を始めたからだ。敵艦2隻の戦闘力はまさに化け物であって、未完成が幸いして機動力で優れるヴンダーでも、真っ正面からぶつかれば十中八九ですり潰されてもおかしくない。この絶対的不利を葛城ミサトの卓抜した戦闘指揮でヴンダーは覆していた。敵艦がいない以上は南極に突入できる。それでも敵艦の妙な動きを受け、一旦は思考を重ねることにした。
艦内の状況を把握しているオペレーターの1人が突如として素っ頓狂な声を上げる。
「艦内にパターン青を確認!?」
「なっ!」
「そんなことがあるわけないでしょ!」
誰もが一様に驚愕の声を挙げるしかなかった。艦を動かすどころかヴンダーの全てを掌握しているのが旧NERV本部を動かしていたMAGIをコピーしたMAGIコピーである。一度も誤探知したり、誤報を発したりすることは無かった。よって、意味が分からない報告でも信じる以外の選択肢は存在しない。
「どうしたことかしら」
「リツコ…ちょっと席を外すわね」
プライベートな時間や空間でなければ「副長」と呼ぶはずのミサトは、作戦中の真っ只中で「リツコ」と呼んだ。これが何を意味するのか。単に呼び間違えたり、昔馴染みが出てきてしまった?いいや、そんな容易い話ではない。ミサトは親友として、赤木リツコに頼んだのだ。
(私は自分の保護者としての責務を果たしてくるから、この場は心から全幅の信頼ができる親友に任せたい。あなたならできるでしょ)
以心伝心とはまさにこのことで、短い一言で事足りる。
リツコは何も言わずにミサトの肩をポンと叩いた。そして、軽く頷いた。
「ありがとう。でも一応は暫く現状を維持して。Willeの私たちに出来ることはもう無いから。これ以上は、彼に任せます。仮に突発的な事態が発生した時は柔軟に対応することをお願い」
「えぇ、わかったわ。ただし、その代わり。彼とちゃんと話をつけてきなさい」
この一言が葛城ミサトWille司令としての最後の命令だった。
~甲板上~
数多もの障害を超常的な力で突破し尽くした碇シンジは甲板上に立ち、地獄の様相を見せているセカンドインパクト爆心地を眺めていた。周囲一帯は赤く、見ていると目がチカチカする。この光景が目に悪いことは言うまでもない。しかし、その割には居心地は決して悪くない。まるで、自分が帰ってくるべき故郷のように思えるほどだった。
と。
「シンジ君…」
「ミサトさん。やっぱり来てくれたんですね」
甲板上に立って誰かを待っていた。その誰かが向こうから訪ねて来てくれたのは嬉しい。そう、葛城ミサトが。彼女は今回Willeの司令として来たのか、それともまた別か。
「言ったでしょ。あなたは行かせないと」
「確かに。ミサトさんはそう言いましたね」
そう言うと、ミサトは徐に護身用の拳銃を取り出した。NERV時代から愛用してきたH&K USPの45口径を握っている。たとえ相手が防弾アーマーを着込んでいても、着弾時の衝撃で動けなくなる高威力を誇った。彼は制服姿で防弾の「ぼ」の字も無いため、一発が致命傷になり得るだろう。
「ふぅ…本気なのね。今度こそ、行きなさいシンジ君。あの時と一緒よ。自分の願いを叶えるためにね…」
「ミサトさん、せめて挨拶はさせてくださいよ」
シンジは笑って自動拳銃を下したミサトを抱きしめようと歩む。もう両者に会話なんて必要なかった。ミサトはシンジの覚悟と願いを理解し、それを拒絶せずに全面的に尊重することを選んだ。嘗て自分のせいで彼を苦しめてしまった経験。それが彼女の脳裏に焼き付いていたため、もう彼の選択がどうであろうと邪魔することはしない。
「ふざけんじゃないわよ!」
ドン!
いつか聞こえた鈍い銃声が再び戦場に響いた。
「シンジ君っ!」
「あんた、またやる気でしょ。数え切れない数の人間を消して来て、その態度は何なの」
甲板上には乱入者がいた。乱入者はそれこそ自動拳銃を構えて、引き金に指を添えて、いつでも撃てることを示している。だが、先の銃弾を受け取っても全く動じないのがシンジだった。直線上でミサトが危険であることを素早く察知し、彼女の盾となって立つ。彼女を守ることは凶弾を一身に受けることになる。五体満足ならともかく、彼に銃弾が直撃していた。
「全て無駄。今の彼は人間と使徒の狭間の存在じゃない。彼は完全に使徒となって、それどころか更に上の存在になった。そう、神と同等かそれ以上の存在になってしまったの」
「僕は第十の使徒との戦いで使徒を吸収し、第十一の使徒となりました。アヤナミのおかげで…その力をこうして使役できるように。だから、銃弾を受けて痛みは感じても、僕の命に影響を及ぼすことはありません」
「だったら、尚更!」
ズドン!
今度は重々しい銃声が。
「いい加減にしなさい。あなたがこれ以上碇シンジ君を狙うなら、私は彼の保護者として実力を行使します」
「ミサトさん。いいんです、既に1発受けているけど、何発だって貰いますから。ミサトさんの手を血にまみれさせることは僕が許しません」
ミサトが牽制でミドリの足元に銃弾を放ったが、シンジが二発目を制止した。ミサトは碇シンジの母として彼を守ろうと必死だが、守護対象のシンジがやめるよう勧める。彼の表情は爽やかそのもの。右目を失っていても、左腕を失っていても、それどころか満身創痍の肉体でも、彼は淀みなく笑っていた。
なに、彼の姿勢は狂気だと?
馬鹿なことを言わないでくれ。
れっきとした、彼の覚悟の現れである。
「さぁ、撃ってください。僕は逃げも隠れもしません。まぁ、この体は所詮見せかけですが」
「馬鹿にするのは大概にして…撃てるわけがないじゃん。あぁ…何なの!」
あれだけ血気盛んに撃ちたそうにしていたミドリは萎んでしまった。何故なら、様々な私怨を込めて弾倉内の弾丸を全部撃っても、彼には何にもならないことは理解できたからである。また、これ以上の私的な制裁は何も生まない。勝手に人を撃っておいて引き下がるとは極めて自分勝手だが、シンジは「そうですか」と一言だけ。
そして、ミサトに振り返った。
「ミサトさんは…ミサトさんのするべきことをしてください。向こうであなたを待っている人がいるはずです」
「そうね。あなたの言う通り。でもね、シンジ君」
「はい」
「必ず帰ってきなさい。全てのカオスにけりをつけたら、アスカとマリと一緒に戻りなさい。約束よ」
ミサトはシンジを抱きしめ返した。シンジはミサトの母性を感じつつ、しっかり伝えた。
「約束します。姿は変わっているかもしれませんが、絶対に帰ります。帰ってきます」
時間は有限であるため、母と子は離れる。そして、今生の別れと言わんばかりの挨拶をした。
「いってらっしゃい。シンジ君」
「行ってきます。ミサトさん」
シンジは顧みずに甲板上を駆け始め、甲板が途切れるタイミングで元気よく地面を蹴った。
少年が天使となれ。
続く