昏き太陽の小夜曲   作:志生野柱

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 ドアに激突する寸前で何とか姿勢を制御し、受け身を取ることには成功した陽人だったが、それは頭や背骨を守れただけ──即死を回避したに過ぎない。

 交通事故なら十分に身を守れたといえるが、相手は脇見運転の原付ではない。一度ぶつかって終わりではないし、通行人や運転手が応急処置してくれる状況でもない。

 

 どちらかと言えば、相手は陽人に対して深い恨みを持つ復讐鬼で、原付は凶器といった感じだ。轢き逃げどころか、確実に殺すまで追ってくる。

 

 「仄火……?」

 「私は大丈夫。それより、貴方は?」

 

 呻く陽人。仄火は彼の腕に抱かれたまま縋るように安否を問うが、陽人には軽口を返す余裕もなかった。ただ、大丈夫、とだけ呟く。

 

 大丈夫というのは、まだ死んでいないし、まだ動けるというだけだ。

 土蜘蛛の追撃が来たら、今度は受け身も何もない。壁と妖怪に挟まれて、死ぬ。毛むくじゃらの肢に刺されて死ぬのか、叩き潰されて死ぬのか、毒牙から涎のように滴る毒で死ぬのかは定かではないが、過程はともかく、結果は一つだろう。

 

 「魔弾、通じるか?」

 「……厳しいわね」

 

 仄火の魔弾は、狐火妖怪にしては極めて強力だ。妖怪特攻性能もあり、陽人のメインウェポンの座を確立している。

 しかし、陽人が狙う獲物は、戦闘能力があると言っても刃物を振り回すだけの口裂け女や、動きに隙の多い絡新婦のような雑魚ばかり。多くを救いたいという志とは乖離している。

 

 それは、陽人が身の程を知っているからだ。

 仄火の魔弾は、一定の強さを持つ妖怪を相手にすると、途端に効きが悪くなる。その閾値の見極めは終わっているから、勝てる相手を狙って──出来る範囲で、手の届く誰かを守ることにしている。自分自身と仄火を守るために。

 

 そして、土蜘蛛はその閾値を大幅に超えている。

 いや、そもそも、普通は土蜘蛛は外注に回されない。本職の人間が対処する相手だ。

 

 「正直、貴方が逃げる時間を稼ぐのも難しいと思う」

 「そうか。……よし、こうしよう。お前は窓から飛び降りて逃げる。俺はなんとかして覚おねーさんに連絡を取る」

 

 上体を起こすと、少し離れたところに黄土色の毛むくじゃらが見えた。上手く焦点が合わせられず、視界は鮮明になったり、ぼやけたりしていた。

 

 陽人が動くのを待っていたかのように、土蜘蛛が牙を鳴らして嗤った。ぎちぎちぎち、と、嘲りを多分に含ませて。

 

 だが襲い掛かってはこない。

 入口ドアのすぐ側の壁にぐったりと凭れかかったまま動かない──激突の衝撃で脳が揺れ、脚に力が入らず動けない陽人に、止めを刺しに来ない。

 

 舐められるのは、まあ、仕方がない。彼我の実力差、戦力差を正確に分析した場合の、適切な対応だと認めよう。土蜘蛛が陽人と仄火を相手にガチになる必要は、全然まったくこれっぽちもありはしない。

 

 「……」

 「──仄火?」

 

 腕の中からするりと抜け、立ち上がった仄火は、そのまま陽人の前に立った。両腕を広げて、陽人をその身で庇うように。

 

 陽人は言葉もない。

 狐火妖怪と土蜘蛛では、物理的な運動能力も妖力の出力も、何もかもが桁違いだ。狐火妖怪の総合的な強さを1としたら、口裂け女は50ぐらいはある。物理的な干渉力の有無は、それだけ大きな差異だ。仄火は妖怪特攻の魔弾込みで75ぐらいだろう。

 

 土蜘蛛は200とか300とか、そんなオーダーだ。

 

 狐火は大概、幽霊やそのほかの妖怪のオマケだ。妖力の残滓や余波から生じた、書物によっては語られないことすらある、単なる舞台装置。

 対して、土蜘蛛は英雄譚の怪物、対英雄の悪役として相応しいだけの、その祷祓を偉業として語り継ぐに相応しいだけの化け物だ。

 

 勝てるわけがない。絶望とか悲観とか、そういう主観を限りなく省いた客観的事実として、勝てる理由(わけ)がない。

 

 それなのに、仄火は毅然とした態度で土蜘蛛に正対し、小さな身体で陽人を隠すように立っていた。

 

 「……お前、自殺志願者だったのか?」

 「馬鹿言わないで。貴方に貰った命なのよ。……だから、貴方のために使ってあげる」

 

 陽人の位置から仄火の顔は見えないが、声色は不敵な笑みを思わせる。

 しかし、陽人は全く笑えない。表情は怒りの一色だ。

 

 「馬鹿はお前だ。何秒稼げるつもりなんだよ」

 「貴方が私を逃がすために稼げる時間以上には。お願いだから、早く立って」

 

 脳震盪中の身に無茶を言うなと言いたいところだが、今は無理も無茶も必要な状況だ。這ってでも──仄火を逃がす。

 

 その決意は強靭なものだ。普通に生活していては絶対に到達できない意思強度、所謂、決死の域にある。

 

 だが、陽人が立ち上がれないのは脳震盪で四肢に力が入らないからだ。

 そして脳震盪とは、脳が物理的に揺れ機能障害を起こしている状態。医学的で、論理的で、現実的な傷害だ。たとえ妖怪などというスピリチュアルが存在しても──その現実は、精神論では覆らない。

 

 「く、っそ……! 青龍、白虎、朱雀──」

 

 不随意な身体に悪態を吐き、痺れた指先を曖昧に動かして九字を切ろうと試みる。

 魔弾は撃てない。撃っても効かない。それは分かっている。だから仄火に命じるのは、この場からの全力逃走だ。

 

 意図を察した仄火が愕然とした表情でこちらを振り返り──その隙を、土蜘蛛に突かれた。

 

 八つ肢の巨躯は恐ろしいほどに敏速で、原付どころか中型バイク並みの速度に見えた。助走ゼロ、ほぼ無挙動でその速度。まさしく化け物──というか、これと切り結んで勝った奴がいるのか、と、状況に反して安穏としたことを考える陽人。

 

 それは土蜘蛛が稲妻のようなステップで仄火を避け、自分目掛けて突っ込んできたからこその、諦めが齎したものだった。

 

 仄火は目を瞠り、緩慢な動きで土蜘蛛を追う。

 いや、仄火の動きは必死さを帯びた全力だ。だが自転車の全力は、レーシングカーの全力の前では牛歩に同じ。

 

 仄火が陽人を庇う前に、そして陽人が詠唱を終える前に、土蜘蛛の頭が陽人の鳩尾に突き刺さる。

 

 ナイフのように鋭利で、脇差ほどもある大きさの毒牙が深々と突き刺さり、致死毒を流し込んで死ぬ。突進の威力が壁と土蜘蛛とに挟まれた身体に直撃し、内臓と脊椎がぐちゃぐちゃになって死ぬ。或いは、また別の原因で死ぬ──とにかく、死ぬことだけは確実なはずだった。

 

 その攻撃が、当たっていれば。

 

 「──ッ!?」

 

 死を前にした極限状態で意識が加速し、灰色の時間がゆっくりと流れていく。交通事故の瞬間に被害者が見るという、一瞬が引き延ばされ、一秒が切り刻まれた世界だ。

 その中で、土蜘蛛はゆっくりと飛んでいく。陽人に飛びかかっていたはずなのに、陽人とは反対方向に。……八つの目が並ぶ顔面を、見覚えのある木の板に叩き潰されながら。

 

 ──入口のドアだ。

 そう思った瞬間、意識の加速が途切れる。咄嗟に真横、入口を見ると、レディースの革靴がちらりと見えた。陽人にも仄火にも見覚えのある、サンダースの黒いミリタリー・ダービー。脚は女性もののパンツスーツに包まれていて、すらりと長い。たったいま廃ビルの一室のドアを蹴り破ったとは思えないほどに。

 

 ドアの吹き飛んだ入口から突風が吹き込み、陽人と仄火の髪が靡く。二人の鼻腔を不自然に甘いバニラの香りが擽った。鼻の奥に染みるような、煙たくて、なのに甘い、アークロイヤルの匂いだ。

 

 「……フゥ──」

 

 ビル内の火災報知器が機能していないのをいいことに、咥え煙草で紫煙を燻らせながら入ってきたのは、パンツスーツ姿の長身の女性だった。

 ローポニーに結われた艶やかな長い黒髪は、まあいいとして。ブラウスの第二ボタンまでを開けて豊かな胸の谷間やくっきりとした鎖骨を露出し、春先だというのにサングラスを付けている。おまけに左手に刀を持っており、誰がどう見ても一般のOLだとは思えない。

 

 刀は鞘に納められたままだが、その鞘はチープな光沢を放っていて如何にも玩具っぽい。柄の飾りや鍔の作り、拵えの端から端までがとにかく安っぽい。剣術とは関係なく教養として、骨董美術品、文化財の日本刀を何本か見たことのある陽人が笑ってしまう外観だ。修学旅行の中学生でも買わないような代物。今日日、コスプレの小道具でももっとマシな、「それっぽい」見た目をしている。

 

 しかし、陽人が眉をひそめたのは、その頼りないを通り越して怪訝さすら覚える武装にではない。彼女の、相変わらずの偽装センスにだ。陽人は彼女を知っていた。

 ゆっくりと抜き放たれた刀の身、茎から刃の切っ先までは、全く以て笑えない、()()()()()()であることも。

 

 刃部長80.3センチ。反り2.7センチ。元幅2.91センチ。刃文は小乱れで、足よく入り、砂流し、金筋入り、匂口深く小沸つく。

 小峰小切先、格調高く優美な姿の、日本が誇る名刀。陽人が使う模倣刀剣のオリジナル、大包平に並ぶ刀剣界の両横綱。()を、童子切。太刀、安綱。或いは名物童子切安綱。──その影打作。本来であれば国立博物館か美術館で静置されるべき、歴史的美術品だ。

 

 決して、安物の拵えを不細工に纏わせていい代物ではない。

 

 「……覚おねーさん?」

 「……フゥ──」

 

 呆然と呟く陽人の声に、女性は紫煙を吐くばかり……いや、視線を完璧に覆い隠すサングラスのせいで、陽人が一瞥されたことに気づかないだけだ。

 

 「……どんな不運な奴が巻き込まれたのかと思えば、橘君か。アンタは五年前に幸運を全部使い切ってるから、無理もないかな」

 

 冷たく、そして気怠そうな声で、陽人は人物を完全に特定した。尤も、サングラスで隠れた目元を抜きにしても、すらりとした顎や首筋と、煙草を咥えた口元に覗く、人並みより大きい牙のような犬歯を見れば、服装や煙草の銘柄抜きでも察しは付くが。

 

 「夕魅、助かったわ」

 

 安堵の息を吐く仄火に、彼女はサングラスを忘れてウインクする。

 紫煙を燻らせるこの女性こそ、陽人と仄火の恩人である“覚おねーさん”こと、酒々井(すずい)夕魅(ゆみ)だ。中務庁陰陽部祷祓課の陰陽師、妖怪狩りのプロ。日本屈指の対妖怪戦能力を誇る、人間もどき。

 

 安物の鞘を放り、開いた左手でポケットから携帯灰皿を取り出した彼女は、それを咥えていた煙草と一緒に陽人に渡した。

 

 「消しといて」なんて言いながら、また左手でポケットを探り、煙草の箱と白銀のZippoを取り出し、煙草を咥えて小気味の良い音と共に着火する。

 

 「土蜘蛛なんて、バイト君にはキツいでしょ。公務員のおねーさんに任せなさい」

 

 キン、と澄んだ金属音を立ててオイルライターの蓋を閉めると同時、ドアの下敷きになっていた土蜘蛛が起き上がり、意趣返しのようにドアを撥ね飛ばした。

 

 

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