今際望は外なる神であるシュブ=ニグラスの狂信者であり、マッドサイエンティストである。
他方で狂信者の癖に正気度76もある探索者でもある。
正義感の強い探索者、人類の安寧を願う者ならば外なる神やグレート・オールド・ワンの狂信者というのは危険極まりない存在だ。
外なる神であるシュブ=ニグラスを信仰する今際望は勿論、自身の信仰を漏らすことは危険な行為だと理解している。
…微妙に、いや、かなりズレている認識ではあったが。
望は学校や会社が昼休みの時間にリサ・ホルツマンに電話をかけた。
連絡先をわざわざ手渡しで、隠すように渡された望はある種の覚悟を持っていた。
その時に中断されたリサからの折り返しの電話は夕方のことであった。
望は部屋でコーヒーを飲みながら休憩していた。
リサが来た時は体が万全ではなく上手く淹れられたと満足できなかった。
だが、今は違う意味で満足できない味になってしまった。
望はリサの電話を受け取った。定型文的なやり取りの後についに告げられた。
「貴方の、消える前にいた少女は誰なんだ?」
リサは望が転移する前に見た最後の光景を思い出して言った。
漆黒の髪に吸い込まれそうになる白い肌、リサは手術で薄れゆく意識の中で印象に残った。
望は自分が気を失ったと思っているだろうとリサは考えていた。
望は不自然な程にその存在に触れようとしない。
気のせいだとも考えたが、望の自宅には明らかに一人ではない生活痕があった。
「…」
望は沈黙した。無人島の手術後にリサが起きていたのかと驚きがあった。
自宅の痕跡から把握した『誰か』ではなく『少女』と言い切った。
実の行った治癒の影響で一瞬だけ目覚めたのかもしれない。
望は自分の失態であると反省した。実は会いたくないと思えば転移できる。
自分の正体を自分で明かすということも容易である。
それ故に望は実が在宅中でも客人を招くことはある。
…リサに説明するのを実がどう思っているのか人間である望には判断しきれない。
なお、ヘレナ・ノートンの場合は時間転移等の事情が事情だけに他で匿うことができずに強制的に望の自宅へ泊めて療養させたことがある。
ヘレナ・ノートンは豊穣実の正体を知っている数少ない人物の一人である。
他の友人で実の正体を知っている者はほぼいない。
黄泉尊は知らないはずだが、知っていても問題になるまでは放置するタイプだと望は認識していた。
「…すまない、私の気の所為だったかも知れない」
リサは望の沈黙にそう答えた。同時に自分が踏み込んで良い領域を超えていたと反省した。
リサにとっては命の恩人であるが、望にとっては自分はただの女子高生であった。
特別になりたい感情に、衝動に任せた行為だったのだろう。リサは自分が情けなくなった。
「…」
望は心理学(96−25)でリサの判断に悩む感情を読み取れた気がした。
電話越しなのでかなり曖昧であり、透視による補正もない。
「もし、また今度…」
望はリサを一個人と見るか、未成年と見るかで葛藤した。
アーベルとの付き合いはあるが、望は個人の意思を尊重している。
故に、
「もし、また今度私の家に来た時、何か話せるかも知れない」
望はリサに告げることを選択した。実が在宅ならば、話すことを許せばである。
望は過去のトラウマに踏み込めた。
それは本来はリサではなく他の誰かだったかもしれない。
だが、この世界では本来死ぬ運命にあったリサ・ホルツマンは生きていた。
そして、今際望という人間に踏み込めた最初の一人となった。
「…あ、ああ!コーヒーを先に注文しても良いだろうか?」
リサは望が何かを決断したのだと悟った。望が言い淀んでいた言葉をリサは聞き取った。
リサは不調で望が満足に淹れられなかったコーヒーを注文した。リサの大雑把な味覚でもあの時とは違う味だろうと確信できた。
「ああ。…でも次はアーベルさんに許可をとって来てくれ」
望は親バカに親バカされて疲弊した記憶を思い出して何でもないように言った。
リサはそれでは来ないでくれというのと同じではないかなどと言ってきたが、望はリサの言葉を無視した。
その間に実に伺う機会もあるだろうと望は判断した。望は過去の霧が少しだけ晴れた気がした。
それは些細な変化であった。だが、秘密を自分の意思で伝えるか、流れで明かさなければならないのかでは大きく違う。
どちらにせよ望はリサに然程のことを明かさないだろう。だが、確実に望の心の枷は良い意味で外すきっかけとなったのは事実だった。