眠りの聖女とは何か。羊人の隠れ里で口伝されてきた、おとぎ話の類である。
曰く。とある夜、森の奥から恐ろしげな声が聞こえてくるようになった。里の者達は夜ごと聞こえてくるその声に苦しみ、眠れなくなってしまう。声の主を確かめようと森へ探しに行っても、何も見つからない。羊人達が途方に暮れている所に、まだ幼い里長の娘が口を開いた。
「皆が眠れるように、私が手を握ります」
その日から、里長の娘は毎晩隠れ里の家々を巡り、眠りにつこうとする羊人の手を握っていった。不思議なことに、里長の娘に手を握られた羊人はあっという間に夢の世界に落ちていく。恐ろしげな声が聞こえていても、ぐっすりと眠れるようになったのである。
やがて、里長の娘は羊人達から眠りの聖女と崇められるようになった。そうなっても彼女の献身振りは変わらず、隠れ里には穏やかな夜の眠りが戻ってきたのだった。めでたし、めでたし。
───この話には、奇妙な点が一つある。森の奥から聞こえてきた、恐ろしげな声。それについての説明が一切無いのである。正体不明のままで、声の問題自体は解決していない。この手の古い伝承には、よくあることだ。しかし、教訓を伝えるべき寓話にしては随分とおかしい。根本的な物事を解決せず、里長の娘の超常的な力によって解決する。ここから、どのような教訓を読み取るべきなのか。あるいは教訓など存在しない、単なる事実が物語として伝えられてきたのだろうか。
もし、事実だとしたら。声の主は、誰だったのだろうか。
もう一つ。実は、隠れ里以外の場所でもこれに似た話は伝わっている。同じく羊人達が住まう、とある高原。そこに伝わっている話は、とある一部分を除いて隠れ里の話と一致していた。唯一違う部分とは、恐ろしげな声。高原の羊人達に伝わる話では、狼の遠吠えに置き換わっていたのだ。この差異は、どうして生まれたのだろう。
そして、何故グロムは眠りの聖女と同じ力を得たのだろう。何故、同族化の秘術で幼い羊人の体になってしまったのだろう。それはまだ、誰にも分からない。
「ふぅー。疲れた疲れた。全く、頭が固いったらありゃしないねぇ」
「お疲れ様です、主様。紅茶をお淹れしましょうか?」
「うん、頼むよ」
共和国首都、タリレアノ。その中心に堂々とそびえ立つ建物。九つの尖塔を組み合わせた荘厳なそれは、権力的にも精神的にも地勢的にも、共和国の中心と言って過言ではない。名を、九治の議会塔と言う。
「それにしても・・・・・・やれやれ。思っていたよりも感触は悪いな。好意的に受け止めたのは三つ。残りの六つは保守に過ぎるよ。まぁ、ある程度は予測していたけど」
「ですが、最悪ではありません。特に、獅子が肯定してくれたのはいい交渉材料になるかと」
そこから離れた高級そうな宿屋の一室で、ニェーク伯爵とラソンは言葉を交わしていた。清潔に整えられた部屋の中には、二人以外誰もいない。
「獅子、獅子ねぇ・・・・・・まぁ、あそこは理想主義に傾倒してるからね。現族長は特にそうだ。悪い人じゃないんだけど、周囲の者を巻き込んであらぬ方向に走り出しそうな危うさがある。ほどほどに付き合っていくしかないかな」
「では、密使の方は」
「それは送ろう。くれぐれも、他の人達に見つからぬように」
「手練れを選抜します。お帰りの馬車の手配は如何しますか?」
怪しげな会話内容にも関わらず、二人の表情は平静そのものだ。慣れているのだろう。ラソンは部屋の隅に置かれたティーセットを用意しながら、主人に問いかける。
「そうだねぇ。昇魂薬の件で少し訪ねたい人がいるから、三日後で頼むよ。あぁ、そうだ。『鏡像』からの連絡は来てるかな?」
「一度だけ。定期連絡ですが、三件目の被害が出た、と」
「・・・・・・そうか。時間が足りないね。全方面に対して後手後手だ。家名を背負ってなければ逃げ出したいくらいだよ、もう」
おどけたように腕を左右に広げ、ニェークは椅子の背もたれに体を預けた。ラソンはその様子を微笑ましく眺めながら、水の入ったケトルを暖炉の火で温める。口ではこう言いながらも、ニェークが決して責務から逃げないということをラソンは知っていた。
「ははは、いつものことですね。主様の努力はよく知っています。多少休んでも誰も文句は言いませんよ」
「状況が文句を言ってくるのさ、私のことを虐めるみたいにね。言い返すことも出来ないからたちが悪い。持つ者の義務が、どうも重くて仕方ないなぁ」
言葉とは裏腹に、ニェークの顔には薄笑いが浮かんでいる。誰に対してのものなのか、そのまま言葉を続けていった。
「そういえば。少しずつ見えてきたこともある。昇魂薬に隠れ里の件、細い繋がりがあるかもしれない。というより、昇魂薬の件が想像以上に大きいと言うべきかな。ラソン、もしかしたら再び隠れ里に向かってもらうことになるかもしれない。そうなったら頼んだよ」
「はっ、仰せのままに」
垂れ耳を揺らしながら、犬の亜人であるラソンは頭を下げる。例え何があろうとも、自身は主の為に動くだけだ。昔からの忠誠を深く確かめ、彼は紅茶を淹れる用意を再開するのだった。
「・・・・・・」
無言で『水禍』が見つめる先には、殆ど完成しかけの家があった。先日里に残ると決めた冒険者達、その住処になる場所である。
「いやぁー、『水禍』さんもありがとうございました!これ、少ねえですがお礼です」
羊人の一人・・・・・・確かグジンという名前の男が寄ってきて、カゴを渡してきた。色とりどりの野菜に、頑丈そうな陶器までも入っている。先日もお礼は貰っており、『水禍』は未だに食べきれていなかった。
「陶器の中身は、なんだ」
「あぁ、こいつは雑多な木の実を付け込んだお酒でさぁ。味の方はボチボチですが、とにかく量が作れるもんで。よかったら晩酌にでも」
「・・・・・・。うむ」
歯切れ悪く呟いて、押し付けられる形でカゴを受け取ってしまう『水禍』。感化されている。周囲に流されている。そして、この現状が心地いいと感じている自分に何よりも苛立っていた。
「あ、『水禍』さーん!私達と一緒に夕飯食べませんか?グロムちゃんが美味しい鍋料理を作ってくれるみたいで!」
物怖じせず声をかけてきたのは、冒険者の内の一人である女剣士だった。確か、名はイニマ。騒がしい様子でまくし立てる。
「最近ミュリアちゃんが忙しいみたいで、それなのに寝過ごして夕飯を作れなかったんですって!それのお詫びにとっておきの料理を振る舞うって言ったら、ミュリアちゃんが皆で食べた方が美味しいからと私達を誘ってくれたんですよ!カロロさんや守り神さんも来るみたいだし、『水禍』さんも一緒にどうかなーって!」
呑気な言葉に、『水禍』は顔をしかめた。彼女の後ろにいる二人に目をやると、イニマとは違う雰囲気が伝わってくる。オーギスからは怯え、チャロからは警戒。そちらの方が、『水禍』には馴染み深いものだ。
「すまんが、遠慮させてもらう。私が行ったところで、空気が悪くなるだけだろう」
嫌な返事だ。場を弁えたような、自分らしくない言い方。何故、周囲を慮っているのだろう。柄じゃない。そう思いつつ、『水禍』は踵を返しイニマに背を向けた。
「そんなこと無いと思うけどなぁ・・・・・・じゃあ、また今度誘いますね!」
その言葉に返事はせず、早足でその場から離れる。殆ど逃げるように、自分が住んでいる小屋へと駆け込んだ。
「あぁ、クソ。何をしているんだ、私は」
怨嗟に近い言葉を零し、『水禍』は外套も脱がずベッドへと倒れ込む。もこもこふわふわの感触が体を包み、肉体だけではなく精神まで癒していくようだ。しかし、それすらも今の『水禍』には不快だった。正確には、羊毛のベッドに癒しを求める自分が不快だったのである。
だが、羊毛の心地良さには抗えない。ベッドに体を沈めながら、『水禍』は先ほどのことを思い返した。感謝の気持ちと善意で貰った野菜に酒、そしてイニマの夕飯の誘いを。
「馬鹿げている。なんだ、これは?なんなんだ、畜生」
呻いて、ベッドの上でじたばたと蠢く『水禍』。心が二つあるような感覚だ。里での生活を受け入れている自分と、軽蔑するように周囲を遠ざけようとする自分。どちらも本心であり、だからこそ『水禍』は苦しんでいた。いっそどちらかに傾倒出来ればいいのだが、想いが真実故にそれもままならない。なので、今の彼には苦悩する以外の道が無かったのである。
「・・・・・・はあぁ・・・・・・」
暫くの後。どろりと濁ったような溜め息を吐いて、『水禍』はベッドから起き上がった。横に置かれたカゴから、生食出来る野菜を掴みかぶりつく。新鮮かつ品質もいいそれは、なんの調理を施さずとも十分に美味しかった。煩悶している彼の心に、様々なものが染み渡る。陶器が視界に入ったが、酒に逃げるようなことはしたくない。結局再びベッドで横になり、遠くで鳥が鳴いてる声を聞きながら眠れぬ夜を過ごすのだった。
オーギス達との夕食後、俺はミュリアちゃんと一緒に異形の旦那の小屋へ訪れていた。理由はまぁ、いつもの添い寝である。別に旦那から請われてるわけじゃないんだが、眠れない呪いを一時的にとはいえどうにか出来るのは俺だけみたいだからな。数日置きくらいで三人仲良く添い寝しているというわけだ。
「入ってくれ」
同じく夕食に招待されていた旦那と一緒に、小屋の中に入る。見慣れた光景だな。飛び筒が四方の壁にかけられ、様々な道具が所狭しと置かれている。足の踏み場も無い程ではないが、片付いているとはとても言えないような小屋の中だ。
「何か飲むか?と言っても、今は茶くらいしか出せないが」
「気を遣う仲じゃあるまいし、気にせんでいいよ。さっきの夕飯でたっぷり飲み食いしたからな」
さっきの夕食会では、傭兵時代に何度も調理していた鍋煮込み料理を披露したんだが・・・・・・どんな食材でも食えるように味付けを濃い目にしていた為、賛否両論の結果となった。男衆には高評価で、ミュリアちゃんやイニマは口に合わなかったらしい。料理の腕も、これから磨いていかなきゃな。
「そうですよ、お気遣い無く。私達が好きで来てるんですから」
・・・・・・そういえば。穏やかに微笑んで言っているミュリアちゃんは、この状況をどう思っているのだろうか。一応、新婚の夫婦だし。別の男、この場合は異形の旦那と添い寝するというのは不義に当たらないか?いや待て、でもミュリアちゃんも一緒に寝ているしな・・・・・・。女性関係の経験は乏しい為、正解が分からない。と、
「あっ、そうだ。二人とも、ちょっといいですか?少し、気になることがあるんですけど」
ミュリアちゃんが、眉根を顰めつつひそひそ声で話す。それにつられて俺たちが口元に顔を近付けると、彼女は悲しそうな表情で告げた。
「最近、『水禍』さんの様子が変なんです。話しかけても、遠ざけられている気がして。今夜も夕食会を断ってみたいで・・・・・・やっぱり、私が里の皆に事情を説明しているせいでしょうか?」
「ふぅむ。俺も昨日声をかけたが、確かにちと妙な態度だったな。こっちと距離を取っているというか・・・・・・。まぁ、ミュリアちゃんが気を病むことじゃない。仮に君の行動が原因でも、『水禍』自身の問題だと思うよ、俺は」
「そ、そうでしょうか。思えば里の皆と話をしてみると伝えた時も、なんだか変な感じだったような・・・・・・」
心配そうに呟くミュリアちゃん。この娘は優しいからな、どうしても気になってしまうんだろう。
「ならば、俺が聞いてこよう。幸い、明日は時間がある。グロムとミュリアには言えぬことでも、俺には話してくれるかもしれん。それが無理なら、多少強引に聞き出すまでだ」
「あの、あまり無理強いはしないでくれると嬉しいです。『水禍』さん、精神的に参ってるみたいで。あんな強い人が、どうしてそうなるのかは分からないんですけど」
「人の心ってのは、見かけも実力も関係無いもんだからねぇ。俺だって悩み続けだ。まぁ、それじゃあ『水禍』のことは旦那に任せるよ」
俺の言葉に、旦那は大きく頷いてくれた。今でさえかなりの仕事を受け持っているはずなので心苦しいが、俺やミュリアちゃんだと『水禍』は話さない気がする。さて、礼や詫びという訳じゃないが、今夜も三人で睡眠を取るとしますかね。話もそこそこに切り上げつつ俺たちはベッドに入る。異形の旦那の上に俺たち二人が乗るという、いつもの構図だ。
「思うんだが。ベッド、作り直した方がいいんじゃないか?」
「私は大丈夫ですけど・・・・・・やっぱり寝にくかったりしますか、守り神様?」
「いや。お前たちは綿のような重さだ。問題は無い。ベッドを大きくすると、他の場所が狭まる。小屋自体を拡張せねばならん。それは、面倒だ」
・・・・・・まぁ、他ならぬ旦那がよければいいんだけどな。旦那の体の上で肩を竦めて、節ばった胸元に寝転がる。これがまた、存外に悪くない寝心地だ。人肌の温もりは安心出来るらしいが、これがそうなのかね。
「それじゃあ、お休み」
「はい、お休みなさい」
「あぁ。お休み」
短く言葉を交わし、俺たち三人は目を閉じる。眠りの聖女の力なのかは知らないが、今夜もぐっすりと眠れそうだ。
全身ずぶぬれレベルだよもう。