『万魔殿』議長室
「ご苦労だった、有馬ウレイ」
あれからしばらく経ちました。エデン条約は明日にでも締結され、先生の長期出張もそろそろ終わるそうです。
……あの密偵の少女が何者なのか、何が目的なのか、何もかもがいまいち掴めていないまま。
「風紀委員会に大立ち回りしたそうだな?このマコト様も見ていたが、なかなかじゃないか。特に給食部の車両で風紀委員会を撥ねるところは見物だった!キキキ、笑わせてもらったぞ」
「やりたくてやったわけじゃないですけどね……」
ゲヘナはエデン条約への同意を示し、条約書類は今日の夜にトリニティ本館へ運ばれます。そこでティーパーティが同意を示すことで、条約締結を完了させます。
「とにかく、だ。エデン条約は明日締結されるだろう。邪魔立てもなく進んだことは、貴様の貢献のおかげだ。謝礼は追って渡そう。それと、調印式にも呼んでおく。立派な式典であることはこのマコト様が約束しよう」
「あ~、ありがとうございます」
エデン条約が締結されれば、私の仕事も終わる。イロハ先輩も安心の色を浮かべています。私もその顔色で一安心です……が。
「さて、話は変わるが」
マコト先輩におかれましては、少し話をしたいようです。
「ウレイ、貴様、少し前に襲撃を受けたようだな」
「ああ、襲撃というか、何というか……」
あの事件です。見たことない制服、見たことないガスマスク、見たことないスタングレネード。一応報告書に書いておいたものですが……
「イロハ!報告書には何と書いてあった?」
「マコト先輩、読まなかったんですね」
「読んだ。が、こういうことの覚えはイロハの方がいい」
「はぁ……アリウスとの関連を考慮しつつも、あらゆる可能性を視野に入れて捜査する、とありました」
「アァ、そうだ、アリウスだ。そのアリウスに関しては、こちらでも調べておく。感謝しろよ?キキキっ!」
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とは、言われたものの。
「 されても困ります
あんまり期待
しても駄目でしょうね」
帰りの廊下において、イロハ先輩と私の意見は一致していました。そもそも、ゲヘナから知ることのできる情報は限られています。いかに充実した情報網でも、その実像を知る人はトリニティの首脳クラス。まったくもって取り付く島はなさそうです。
「また何かあったら連絡します。それと、先生によろしくお願いします」
「はい……」
ただ、拭えない。『万魔殿』への……いや、羽沼マコトへの不信感。これでエデン条約に関する業務は確かに終わる。エデン条約を脅かせる人物は存在しません。もしマコト先輩がエデン条約を乗っ取ろうものなら、即座に空咲先輩が動くでしょう。
でも、それでも消せない不安。物語と現実を混同するわけではないですが、ここで終わるのは都合が良すぎる、そう私の直感が言っているのです。
「イロハ先輩」
「どうしました?」
「……これから、エデン条約が覆る余地ってあるのでしょうか」
「ありません……というには少し余地がありますが、これ以降エデン条約の破壊を企てるのは基本的に悪手です。エデン条約が一体どんな条約か、覚えてますよね?」
「ええ、まあ」
「エデン条約が気に入らず、テロをする。そのような蛮行をする存在は調印が終わった後も想定されています。ですが、それらはゲヘナとトリニティの連合戦力……ETOに対する挑戦です」
まず、エデン条約に勝てない尤もな理由。単純にどんな存在であろうとETOには勝てないということ。
「内部からの破綻も考え難いです。条約は絶対かつ公式な約束ですから。一度締結してしまえば、それを裏切ることはできない。裏切ってしまえば、多くの中立校は裏切られた側につきます。裏切った勢力は連邦生徒会から徹底的な糾弾を受けるでしょう」
第二の理由、正当性。他学園の生徒たちや連邦生徒会まで敵に回すリスクは誰も負わないこと。
「ひとたびエデン条約破壊に失敗すれば、それは条約の神話の基礎になるでしょう。実績を残してしまいます。そうなると、破談は益々困難になりますね」
多大な衝撃を伴う一撃で外部と内部の破壊を同時に行い、さらに報復を防止するためにトリニティとゲヘナの弱体化は必須……
どう考えても無理ですね。……普通なら、ですが。
「……杞憂ならいいんですけどね」
「はぁ、そう考えこんでいると、意味のない疲れだけが溜まっていきますよ」
じわじわじわ……廃校舎のある丘の方から、大合唱の先駆けが聞こえ始めます。
「そろそろ、夏が来ます。楽しむ余裕はお互い無いでしょうが、仕事の少ない夏になることを祈りましょう」
うららかだったあの日差しは、いつの間にかつまみを最大まで回されていたようです。今はもう、刺すような日差しでした。
「イロハ先輩って夏はどうするんですか?」
「変わりませんよ、私は私の仕事が山ほどあるんですから。ただ……」
「ただ?」
「調印式までの間は手が空くので、イブキと一緒に遊べる時間が増えますね。それは悪くないかもしれません」
はにかむイロハ先輩は、少し珍しい気がしました。
「……夏」
高校初めての夏。私は、どうやって過ごそうかな。