それから少し冷静になったヘスティアは、北西のメインストリートを進みつつ、無難に仗助の帰りを待とうかと思案する。プレゼントを一刻も早く渡してやりたいのは山々だが、仗助がどこにいるのか分からないからだ。
「ん? ……ははぁん、なるほど」
うーんと考えをまとめていたヘスティアだったが、とある店頭に張り出されたチラシを見て、誰に見せるわけでもなくにやりと口角を上げ、したり顔を作った。
チラシには、今日開催される『
(今日は年に一度のお祭り……あの子なら当然興味を引かれて足を運ぼうとするはず!)
すなわち自分も向かえば、ばったり遭遇するかもしれない。祭りは大混乱が予想され、そのように上手く話が進むはずもないだろうが、浮かれきったヘスティアはそんなことに頓着しなかった。
『ジョースケ君の行動パターンなんてお見通しさ!』とヘスティアは無駄な自信を発揮して祭りへと赴くことに決めた。
──────目指すは東のメインストリート。
「ヘーい、タクシー!」
その小柄な身体と小さな手を一杯に伸ばして、通りを進んでいた流しの馬車を呼び止める。まだ年若い青年が操る馬車はちょうどヘスティアの正面で止まった。彼女は車両に乗り込むと『東のメインストリートまでお願いするよ!』と行き先を告げる。
「へへっ、承りました。お目当ては
「ああ、まあね!」
パチン、と軽い鞭の音がなり馬車は動き出す。石畳の上を回る車輪とともにやや強めな上下の振動が、座席に腰掛けたヘスティアを包み込んだ。
「なるべく早く向かいたいんだ。今日は賑わっているけど、急げるかい?」
「なぁに、お客様のお願いを断れるわけないですよ、っと!」
ヘスティアの注文に快く応え、素早く、器用に馬車を操った。
人混みでごった返す大通りのルートは避けて何本もの小街路を経由する。時には幅スレスレの道を通り、東のメインストリートを目指した。仗助と五つも離れていないだろうヒューマンの青年と陽気に会話を続けながら、ヘスティアは祭りによって活気づく街に目を楽しませる。
「あちゃ〜……すみませんお客さん、ここからはもう進めないみたいです」
「あらら」
順調に進んでいた馬車が動きを止める。東のメインストリートを目前にしたところで一気に人の密度か増し、馬車の通れる隙間はなくなってしまった。頭を抱える青年の背後で、ここまで来れば大丈夫かとヘスティアは考え、馬車を降りる準備をする。
「いいよ運転手くん、十分さ。ここからは歩いていくよ」
「本当にすみません。ちょっと暗いですけど、この裏道を使えばメインストリートに出れると思うんで」
そう言って、青年は傍にあった小道を指さした。
「ありがとう。で、お代はいくらだい?」
「90ヴァリスになります」
ヘスティアは取り出した巾着袋をひっくり返し、全てのお金を景気よく青年に手渡した。
「ふふん、お釣りはいらないぜ! 残りは君へのチップだ!」
「あの……お代ピッタリですが……」
青年の言葉を聞く間もなく、機嫌よく走り出したヘスティアは裏道へ出る。物悲しそうな視線が己の後頭部を見つめているとは露に思わず、その場を後にした。
裏通りは人気が全くないが、とても細く薄暗い中でもスムーズに進むことができた。ナイフの入ったケースを大事に抱えながらテッテッと走っていく。
自分以外の人影が裏道に現れたのは、それから間もなくだった。
「あれ、もしかしてフレイヤかい?」
「……ヘスティア?」
二本の通りが交差する箇所でヘスティアとは別方向からやってきたのは、紺色のローブに身を包んだ女性だった。
「君も
「ええ。人通りが激しいところは堂々と歩けないから、こうして人目を忍びながら先を急いでいるの」
「あー、『美の神』も大変だねぇ」
美の化身とも言える彼女が大通りを歩いては、それだけで周りは大混乱だ。自分のように馬車も使えなければ、こうして人目につかないように目的地を目指すしかないのだろう。フードの下で微笑むフレイヤに、ヘスティアはうんうんと頷く。
「あ、そうだ。ボクの『ファミリア』の子を見なかったかい? 今探しているところなんだ」
「……」
「こう、ここら辺では見ないような格好をしていてだね、こぉんな感じの髪型をしてるんだ」
身振り手振りで嬉々として仗助のことを説明するヘスティアに対し、フレイヤは一時の笑みを消し、黙る。
だがずぐに再び微笑みを浮かべ、自分がたどってきた道を示した。
「そういえば見かけた気がするわ。この先の東の大通りで」
「本当かい!?」
「ええ。まっすぐ闘技場を目指していたようだから、この道を左に曲がれば上手く先回りできるんじゃないかしら」
喜色満面になるヘスティアは笑顔で『ありがとう!』と告げ、彼女の言葉を鵜呑みにする。クスリと一笑し別の道へ消えようとするフレイヤと別れ、それぞれの道を進んだ。
やがてしばらく道なりに進んでいくと、通りの奥から暖かな日の光が届き始める。ヘスティアは裏道の出口を一気に抜け、メインストリートに飛び出した。
彼女を待っていたのは、枚挙に暇がない人の群れと、そんな人波の中、人混みをどうにかかき分けて前に進もうとする仗助の姿だった。
「おーいっ! ジョースケくーんっ!」
〜〜〜〜〜
「ん?」
耳を叩いた自分の声に振り返ると、思わず目を丸くしてしまった。
「か、神サマッ!? どうしてここにッ!?」
「おいおい、馬鹿言うんじゃないよ。君に会いたいからに決まっているからじゃないか!」
目の前に立ち止まった神様は何故か誇らしげにその大きすぎる胸を張ってそんなことをのたまう。
「いや、それより今までどこ行ってたんだ?」
「いやぁ〜、それにしても素晴らしいね! 会おうと思ったら本当に出くわしちゃうなんて! やっぱりボクたちはただならぬ絆で結ばれているのかな〜、ふふふ!」
どうやらこちらの言葉が届いていないようだ。
完全に自分の世界に入っているヘスティアに仗助は置いてけぼりにされてしまう。
「妙にテンション高ぇけど、なんかあったのか?」
「へへっ、……知りたいかい? ボクが舞い上がっている理由を!」
「あ、あぁ……?」
先程からずっと相好を崩している神様は、後ろに手を回し、何かをごそごそといじり出す。仗助は不思議に思いながらヘスティアの次の言葉を待った。
「実はね……」
と、そう言いかけた所でヘスティアは言葉を止めてしまう。祭りで賑わう大通りを軽く見渡した後、待てよと言うように軽く空を見上げ、何事を考えているようだった。
「うん、せっかくだ。今は教えな〜い!」
「ええ……」
「楽しみは後で取っておくことにしよう!」
まさかのお預けに仗助が呆気に取られた。
そしておもむろにヘスティアは仗助の手を取って歩き出した。
「デートしようぜ、ジョースケ君」
そしてこちらに振り向いてそう言った。
「デ、デート?」
「ああそうさ。こんなに街が盛り上がっているんだ、ボクたちも楽しまない手は無いだろう?」
「いやでも……デートって……」
『デートって言うよりも、これじゃあ仲良し兄妹だ』と言葉が出そうになるが、ギリギリのところで飲み込んだ。以前もそれによってヘスティアが拗ねて、機嫌を直すのに相当苦労したのだ。
「さぁ行くぞジョースケ君!」
(ったく、そそっかしい人だぜ)
こちらにお構い無しにとても嬉しそうに笑っているヘスティアを見ると、少しだけならいいかなと思ってしまう。
小さくて柔らかい指が仗助の手を絡め取り、賑々しい雑路の中へ誘って行った。大通りに構えられた数々の出店の活気は衰えず、手ごろに食べられる小料理や、
遠方で鳴り響く花火が、大きくも心地よい音を奏でて空に散っていく。
「か、神サマ、ちょいと待ってくれ。おれァ今、頼まれ事の真っ最中なんだ」
「ん? そうなのかい?」
「あぁ。ある人に届け物をしなきゃいけなくてよ」
「よし、それならデートしながら人探しをしようじゃあないか! 楽しみながら仕事もこなせる。まさに一石二鳥だ。あ、おじさーん! そのクレープ二つくださーい!」
「えぇ……」
簡単に受け流され、仗助はほとほと困ってしまった。
これではシルの財布も届けられない。
隣のヘスティアを見ると、祭りではしゃぐ子供のようだ。
「ジョースケ君、ジョースケ君」
「ん、どうした?」
「はい、あーん」
「ええっ!?」
仗助は思わず素っ頓狂な声を上げた。大通りでそんなカップルみたいなことが出来るわけが無いだろう。
「あーん!」
しかし、ヘスティアの手は引っ込むどころかズイズイとこちらに向かってくるではないか。
(いや、相手は子供だ……年の離れた妹だと思えばいける……ッ!)
そう自分に言い聞かせ、仗助は差し出されたクレープにかじりついた。
「おっ、なかなか美味いなこれ」
「よし、ジョースケ君、次だ。今度はじゃが丸くんを食べようぜ!」
「ちょ、早ぇって!」
『ファミリア』を支えるために、仗助はダンジョンに潜り、ヘスティアはバイトに行って……こうして二人で羽目を外せることなんて数える程しかなかった。
とは言え、すっかりヘスティアに振り回される仗助だった。
〜〜〜〜〜
それは大きな歓声とともに始まった。
ぶわりと土煙が舞い、鎖から解き放たれたモンスターが咆哮を上げながらまっしぐらに突っ込む。
二メートルにも及ぶ巨大なイノシシのモンスター『バトルボア』の体当たりを、たった一人で待ち構えていた彼女はその短い髪をなびかせながら、すんでのところでかわしてみせた。
重なり合い響き渡る歓声。熱気の渦が観客席を包み込む。
──────都市部の東に位置する円形闘技場。
中央のフィールドでは、この日のために捕獲されたモンスターがその凶暴性を解放し、目の前の小さな獲物に襲いかかる。
『ガネーシャ・ファミリア』の調教師テイマーは軽やかに回避。すると観客席から声援が巻き起こる。
モンスターの雄叫び、拡声器によって轟く司会者の口上、波打つ観客の叫喚。会場のボルテージは留まることを知らない。
「始まった……」
会場の盛況ぶりにエイナはポツリと呟いた。
会場の外に待機していた彼女は、内側からビリビリと伝わってくる音と振動を肌で感じながら、背を向けていた建物に振り返る。
現在、エイナ達ギルド職員は闘技場の至る所に動員されていた。主に観客の誘導、そして『ガネーシャ・ファミリア』のサポートを行うためだ。
都市レベルの危険は無いとはいえ、モンスターを地上に上げる行為は本来行われるべきでは無いはず。少なくともエイナには抵抗がある。
オラリオの管理、ひいては都市の平和を謳うならば、大事だろうが小事だろうがその芽は摘んでおくべきではないだろうか。
娯楽を追及するあまり、危険の中へ足を突っ込むのは本末転倒。そう、エイナはそう思うのだ。
「あーあ……さっさと終わらないかなぁ……」
「えぇっ? エイナ、なんか言ったぁ?」
独り言を聞かれた同僚に、エイナは苦笑しながらなんでもないと首を振った。
オラリオはその都市柄、多くの冒険者を抱えている。
聞こえはいいが冒険者とはすなわち荒くれ者、無法者たちが大半を占める。彼らのマナーの悪さが時折一般市民との軋轢を生み、治安への不満を募らせるのもまた事実だ。
(何も起きてくれなければいいんだけど……)
自分も見に行きたいなぁ、と隣でこぼす友人の同僚を見ながら、エイナはうーんと額に指を当てて少し悩んでしまった。
「ここにもいない……」
「やっぱりもう闘技場に入っているんじゃないかい?」
(ん?)
ふと、エイナの視界に見知った人物が入り込んだ。仗助だ。
闘技場の外周部に当たるこの場所で、まるで誰かを探すように当たりを見渡している。彼のすぐそばにいるのは彼の『ファミリア』の主神だろうか。
エイナは背後の持ち場で固まっている職員たちを軽く一瞥した後、少しなら問題ないだろうと判断し、自分の担当冒険者である少年の元へ歩み寄った。
「ジョースケ君」
「えっ、エイナさん?」
「誰だいジョースケ君、このハーフエルフ君は?」
きょとんとする仗助に苦笑し、エイナはまず彼の隣にいるヘスティアに会釈をした。
「わたくし、ジョースケ・ヒガシカタ氏の迷宮探索アドバイザーを努めさせてもらっているギルド事務部所属、エイナ・チュールです。初めまして、神ヘスティア」
「ああ、そういう事か。いつもジョースケ君がお世話になっているね」
自己紹介を済ませると、ヘスティアは納得するように手を振った。エイナが恐縮ですと再び頭を下げると、仗助が頃合を
「どうしてエイナさんがここにいるんスか?」
「フィリア祭はギルドも一枚噛んでいるから、環境整備を手伝っているの。で、私はお客さんの誘導係。ジョースケ君はこの催しを見に来たの?」
「おれは人探しを頼まれたんで。あ、ここら辺でお金を持ってなさそうな女の人見ませんでした?」
「うーん、ちょっと分からないかなぁ〜……」
挙げられた具体例にエイナは苦笑いする。
それを聞いた仗助は困ったように頭をかく。
闘技場に入るのは僅かながら入場料が取られるため、財布を持っていないらしい仗助の探し人が会場の中にいる可能性は低い。その旨を知らせると、仗助はわかりましたと頷いた。
「それじゃあ、おれはもう少しこの当たりを回ってみます。もしかしたら行き違いになったかもしれないんで」
「うん。もし見かけたらここで待ってるように呼び止めておくから、見つからなかったらまたおいで」
ありがとうございます、と頭を下げて仗助は立ち去ろうとしたが、連れ添いであるヘスティアがエイナのことを見つめて動こうとしない。
エイナが小首を傾げていると、彼女がおもむろに口を開いた。
「時にアドバイザー君」
「はい、なんでしょうか?」
「君は自分の立場を利用して、ジョースケ君に色目を使うなんてこと……してないだろうね?」
最初何を言われたのか分からず、エイナはぽかんとした顔をしてしまう。
じーっと見上げてくるヘスティアが本気で尋ねているのだとわかると、彼女は静かに口元をひきつらせた。
「公私の区別はつけているつもりですが……」
「うん、その言葉、信じたよ」
厳かに頷くヘスティアにポンポン、と腕を軽く叩かれる。
彼女はそれから怪訝そうな顔をした仗助を引き連れて離れていった。自分は釘を刺されたのだろうか、とエイナは二人の後ろ姿を見送りながら汗を流す。
軽い頭痛を錯覚しながら、エイナも同僚の元へ戻った。
「ったく、何やってんだアイツら」
「愚痴は後でいい、早く人を回すぞ」
「……?」
職員達の間で流れるざわつき。
先程まではなかった空気に、エイナは訝しげな顔をする。
「すいません、何かあったんですか?」
「ああ、西ゲートに待機している職員が、何人かぶっ倒れたらしい」
「えっ……!?」
「あーいやっ、意識はあるんだ。ただそいつら、腰を抜かしたみたいにへたりこんでいるらしくて……まぁ、昨日酒でも飲んで羽目を外しすぎたんだろう。使い物にならないみたいだから、こっちから代わりを出す」
獣人の男性職員はやれやれと首の後ろに手を回す。
エイナはその話を聞いて、妙な胸騒ぎに襲われた。嫌な緊張感が背筋を這い上がってくる。
(私が神経質になり過ぎてる……だけ?)
歓声と悲鳴が混ざる観衆の声を耳にしながら、目の前にそびえ立つ巨大闘技場を仰ぎ見る。
地の底から昇ってくるようなモンスターの遠吠えが、エイナの鼓膜にかじりついた。
〜〜〜〜〜
光源が心もとない、暗く湿った場所だった。
天井から吊るされている魔灯石は一つを除いて沈黙し、部屋の至るところに影を作り出している。1m四方の木箱が辺りに散乱しており、周囲はどこか雑然とした印象。壁には武器を始めとした様々な道具が掛けられていた。
一見して倉庫のように見える薄暗い空間には、いくつもの『檻』があった。鎖に繋がれた多数のモンスターが閉じ込められており、金属の擦れる音が頻りに鳴り響く。
鉄格子の隙間に鼻面を突っ込む犬型のモンスターが、牙を剥きながら唸り声を上げていた。
地下に設けられた大部屋。闘技場の舞台裏、言うなればモンスターの控え室だ。
モンスター達はこれから担当者によってアリーナへ檻ごと運ばれる手筈になっている。地上に上げられた際に束縛を解かれ、中央フィールドにいる調教師テイマーと相まみえるのだ。
地鳴りのような観衆の声が、遠くの方から反響するように響いている。
「何をしている! 次の演目が始まるぞ!! なぜモンスターを上げない!?」
鋭い足音とともに大部屋の扉が開かれた。
『ガネーシャ・ファミリア』の女性構成員が激しい形相を作って部屋の中へ飛び込む。
彼女は祭りの裏方を取り仕切る班長だった。出番が迫っているのにも関わらず運ばれてこないモンスターに業を煮やし、急いで様子を見に来たのだ。
怒気を孕んだ彼女の声に答える者はいない。
「な……お、おいっ、どうした!?」
部屋に広がっていたのは、ことごとく床にへたり込んでいる仲間たちの姿だった。
この場を任されていた四名の運搬係が、腰を下ろした格好で固まっている。
驚愕に見舞われながら慌てて一番手前の者に駆け寄ると、息はあった。外傷も見られない。顔を上げ、他の者を窺っても同じだ。皆命に別状はない。
ただ糸が切れた人形のように、全身から力が抜けきっていた。
「ぁ……ぁ」
(モンスターの毒……? いや、違う……なんなんだこれは……!?)
細く漏れる声。上気した頬。目の焦点が定まっていない。
まるで見覚えのない症状。屈みこんで仲間の顔を覗き込んだ彼女は軽い寒気に襲われた。彼等の陥っている異常な状態に心当たりは何もない。
ここで何が起きたのかと、彼女はその場で立ち上がり、モンスターが唸る暗い室内を見回す。
「───────」
不意に、背後の空気が揺れた。
襲撃を思わせる鋭い動きではなく、なんてことは無い、友人へと歩み寄るようなゆったりとした動き。害意も欠片もないが故に、致命的なまでに反応が遅れる。
何者かが、真後ろに立った。
「動かないで?」
「─────ぁ」
そっと後ろから両目を塞がれた。
恐ろしく滑らかな肌触りのする細い手が、目隠しをする。
次には、痙攣するかのように一度、ずくんっと己の体が打ち震えた。
鼻腔を舐める甘い香りが、密着している肉のやわらかさが、肌を通じて感じる温もりが、彼女の感覚という感覚を麻痺させる。底の知れない『美しい何か』が覆いかぶさってきた。
信じられない『魅了』。
視界外からの『魅了』。
ありえない。抗えない。逆らえない。
頭が真っ白になり、何も考えられなくなる。意識が断線する。
たちまち彼女は自由を奪われた。
「鍵はどこ?」
「────────ぇ」
「檻の鍵は、どこ?」
息を吹きかけるように、囁くように耳元へ添えられる。ぞくりと背筋がわなないた。
脳に染み込ませるように告げられた二度の言葉に、彼女はもはや条件反射のように従った。
がくがくと震える左腕を動かし、腰に取り付けてある鍵束を手に取る。カチャカチャと音を鳴らしながら、モンスターの檻の鍵を肩の高さまで持ち上げた。
「ありがとう」
差し出していた鍵が取られ、目を塞いでいた手も消える。が、瞳が機能することは無かった。自失した彼女は何も見えていない。
背後にいた気配が離れていくと足首から崩れ、臀部をぺたんと床に落とす。
先刻まで起きていた光景を巻き戻すように、彼女も仲間と同じ結末を迎えた。
「ごめんなさいね」
フレイヤは崩れ落ちた女性を置いて奥に進む。
西ゲートを監視するギルド職員と、猛者と知られる『ガネーシャ・ファミリア』の冒険者。両組織の構成員を無効化し、彼女はここまで侵入を果たしていた。
フレイヤに戦う力は皆無だ。下界にいる限り、彼女は無力な神の一人でしかない。
だが、彼女には異常なまでの『美』があった。いや、彼女自信が『美』そのものだった。
理性では制御しきれない力。ヒューマンや亜人は勿論、神々にさえ及ぶその支配力は圧倒的だ。彼女がその気になれば何人たりとも忘我の淵にたたき落とすことが出来る。
今回はその力を少々悪い方向に使わせてもらった。意識が定まらないほど、文字通り立っていられなくなるほど、男女問わず相手を骨抜きにした。『魅了』して見せた。
不意打ちまがいのことをすれば、彼女でもこのような芸当は可能だった。
「……」
フレイヤは大部屋の中心で足を止める。
周囲にはモンスターを閉じ込めた大小の檻がいくつも並んでいた。捕らえられているモンスター達は興奮しているのか、フレイヤに四方八方から吠え声を浴びせかける。
しかし、彼女が被っているフードに手をかけた瞬間、けたたましい声はピタリと止んだ。
『……!』
絶世の美貌が晒される。
雪のような
凶悪なモンスター達でさえ、彼女の美の対象外にはなりえなかった。
「……貴方がいいわ」
吟味するようにモンスター達の顔をなぞっていた銀の視線が、ある一点で止まる。
そのモンスターは真っ白な毛皮を全身に生やしていた。ごつい体つきの中で両肩と両腕の筋肉が特に隆起しており、フレイヤと同じ銀色の頭髪が背を流れて尻尾のように伸びている。
野猿のモンスター『
「出てきなさい」
手に入れた鍵を使って檻の錠を解く。
開かれた鉄格子から、銀猿はフレイヤに従うように一歩歩み出た。繋がれっぱなしの錠がジャラリと鳴る。
モンスターを放つ、ともすれば危険な行為。
自由奔放な女神の傍迷惑過ぎる気まぐれ。
───────目的はただ一つ。
(あの子も、ここに来ている……)
フレイヤは想う。少年、『東方仗助』のことを。
(……ああ、ダメね。しばらくはあの子の成長を見守るつもりだったのに……)
フレイヤは知っていた。仗助が凄まじい『力』を有していることを。
その身に宿す、
女神の眼には、それが見えていた。
(……ちょっかいを出したくなってしまったわ)
まるで子供のようだとフレイヤは笑う。
愛しい相手にイタズラをして気を引こうとする。
イタズラを受けた相手の反応を見て楽しもうとする。
本当に、ただの子供がすることだ。
けれど、もう止まらない。見初めた相手に対する衝動が、体を火照らせる胸の奥の疼きが、愛が、フレイヤを突き動かす。
少年の困った顔を、少年の泣く顔を──────────そして何より、彼の『勇姿』を、見たい。
「……」
『フーッ、フーッ……!?』
激しい息遣いが響く中、慈しむように銀猿の頬を撫でていると、そこではたと思う。
モンスターを外に放ち、もし何かの間違いで仗助が死んでしまったら、と。
そこまで考えもしなかった可能性に、しかし、フレイヤはすぐ微笑を浮かべた。
もし、少年が死んでしまったならば。
(追いかけてあげる)
下界を離れ天界へと昇るその魂を、どこまでも追いかけよう。
(抱きしめてあげる)
そして捕まえた魂を、愛を司る
慈愛と優しさに染る銀瞳の奥に、確かな嗜虐の色を宿しながら、フレイヤは目を細め愉悦の笑みを浮かべた。
やがて笑みを残したまま、両手で頬を包み込んだ銀猿に顔を寄せる。モンスターの体が可哀想な程震えた。
(だから)
次の瞬間、フレイヤはモンスターの額に唇を落とす。
(待っていてね?)
咆哮が、轟いた。
〜〜〜〜〜
「神サマ、エイナさんと何を話していたんスか?」
「まぁ、ちょっとね」
シルさんを探すため闘技場の周辺を一頻り見て回った僕は、神様と一緒にまた東のメインストリートに戻って来ていた。
祭りのショーが始まったのを皮切りに、もうほとんどの人が闘技場へ入場したのか、大通りの人影は行きの際と異なって随分まばらだ。
「なぁ、ジョースケ君。君が探している相手も女の子なんだよね?」
「あぁ、シルさんっスよ。ほら、あの飯屋で会った」
しかしヘスティアはどうでもいいかのように聞き流して、こちらを責めるような半目で見つめてきた。
非難がましい視線に、仗助はわけも分からず首を傾げる。
「おい、神サマ?」
「……さっきのアドバイザー君と言い、君も中々抜け目がないよなぁ」
「……? どう意味だよ……?」
「さぁーねっ!」
ヘスティアはぷいっとそっぽを向いた。
頭の左右に結われたツインテールがうねりだし、こちらの非を訴えてくる。
不機嫌になったヘスティアに、また地雷を踏んでしまったかと仗助は頭を抱えた。
「───────ッ!?」
「……どうしたんだよ、ジョースケ君?」
前触れなく足を止めた仗助を、数歩前に出たヘスティアはぶすっとした表情で振り返る。
返答も忘れ、仗助ぐるりと周囲を見回した。
今、確かに。
何かが耳に引っかかった。
まだ冷めきらない祭りのざわめきとは別の、何か切迫じみた鋭い声。
「なんか変だぜッ!? 神サマ、俺から離れるなよ!!!」
そう叫んだ瞬間だった。
刹那、耳を
『モ、モンスターだあああああああああぁぁぁっ!!!』
凍りついたかのように、平和な喧騒に満ちていた大通りは一瞬言葉を無くす。
そして、仗助は見た。
闘技場方面から伸びる大通りの奥。
石畳を激しく蹴る音を従わせながら、純白の毛並みを持つ一匹のモンスターが、荒々しく進んでくるのを。
〜〜〜〜〜
モンスター──────
猛る息を吐き、全身の筋肉を躍動させる。長く伸びる銀の頭髪が風によって大きくなびく中、何かに取り憑かれたように前進を繰り返した。
───────彼は探していた、『女神』を。
脳裏を過ぎるのは、きらめく銀髪を翻して部屋の外へ消えていった彼女の後ろ姿。身も心も完全に『魅了』されたシルバーバックは、これまで抱くことのなかった抑制不可能な衝動に翻弄され、見えない鎖に引かれるように彼女の後を追っていた。
女の愛を!
女神の寵愛を!
どこまでも純然かつ純粋な本能がモンスターを行動させる。
そこに獣の性が介する余地は無い。それは確かに神へ願い乞う『求愛』だった。
『ガアアアアアア!!!』
「ひいっ!?」
街路の中央を進んでいた荷車を突撃させながら蹴散らす。
間一髪被害を逃れた馬の
頼りにしていた女神の残り香は既にあやふやだった。
正気を半ば失ったことで道を間違えたのか、甘い芳香の残滓は完全に途切れてしまっている。
銀猿は頭をぶるりと振り、その場で一度停止した。ふぅ、ふぅ、という己の呼吸を聞きながら周囲を四顧する。
───────大勢の人がいた。
腰を抜かす者、呆然とする者、口を両手で塞ぎ蒼白になる者。ちょうど銀猿を中心にして大きな円が出来上がっている。
そして、銀猿が自分を取り囲む人々を見回し終えようとした、その時だった。
ぴたりと、視線がある場所で止まったのは。
銀猿は血走った両眼で『彼女』を見た。
唖然とした表情で自身を見る、黒髪の小さな少女。
周囲の者とは明らかに異なる特別な存在。
それはきっと何よりも崇高な存在。
追い求める『女神』と、本質を等しくする存在。
思い起こされる。
『───────小さな私を追いかけて?』
最後に耳元で囁かれた『彼女』の言葉が。
───────見ツケタ。
瞳を見開く少女に向かって、彼は一歩、大きく踏み込んだ
〜〜〜〜〜
「─────」
その一歩が踏み込まれた瞬間。
人垣の群れは、絶叫を放ってばらばらに散っていった。
「……ジョースケ君」
仗助は神様を庇うように前に立つ。
動物園にいるような霊長類とは訳が違う、規格外の大きさ。白い
そいつは理性の欠けらも無い瞳をぎょろりと、仗助に、そしてヘスティアに向けた。
仗助の心臓がドクン、と跳ねる。
どうしてここにモンスターがいるのか、一体何が起こっているのか、そんな状況把握は二の次だった。
そいつが持つのは、吉良吉影のような人間的な恐怖ではなく、動物的な怖さ。一睨みされれば、たちまち恐怖で足がすくんで動けなくなる。
─────さぁ、頑張ってね?
そんな声が、どこからか聞こえた気がした。
6月20日6時40分時点で、僕の作品が日間ランキングに27位でランクインいたしました。
このサイトに来ての夢が叶ってとてもとても嬉しいです。スクショして友達に回しまくりました。
同時に、僕のことを評価してくださり、そして毎回の投稿を楽しみにしてくださっている皆様。
本当にありがとう───────それしか言う言葉が見つからない…っ!
引き続き、皆様に愛されるような作品が投稿できるように精進していきます。