昼休み直前にかかってきた電話への対応を終えた岡田早苗が、社員食堂に来ると、もう空いている席が無かった。
「岡田さん。こっち、良かったら」
キョロキョロしていると、同僚達にはまだ内緒で付き合っている営業の加治屋が声をかけてきた。加治屋は、同じく営業主任の糸原と向かい合わせに座っている。同じテーブルに大竹も居た。
研究部の才媛、大竹は、ちょっと癖のある人物だ。正しい事は正しいが、面と向かって口にするのは憚られる、そういう事を強調して言ってしまうところがある。
数か月前、早苗は、この食堂でまさにそんな場面に出くわしてしまった。尤も、それがきっかけで、加治屋と付き合い出したのだが。
とは言え、空いている席は他に見つからず、声をかけられたのに断るのもおかしいので、素直に加治屋の方へ向かった。
雲行きが怪しくなったのは、それからだ。糸原がため息をついて箸を置いた。見ると結構食べ残している。
「今日、なんだか元気ないですね。体調でも悪いんですか?」
加治屋が気遣う。
「実は、昨日、奥さんと喧嘩しちゃってさ」
糸原が話し出した。多分、元々聞いて欲しかったのだろう。加治屋は結構聞き上手と評判なのだ。早苗は、チラリと大竹の方を見る。今は黙って食事をしているだけだが、口を開いた時の彼女の攻撃力は高い。発揮される機会がなければいいと思う。
「奥さんとは、前から子供2人目が欲しいって話をしてたんだけどさ。奥さんの勤め先、忙しそうでね」
加治屋が頷きながら聞いている。
「それで、気を遣って、言ったんだ。『仕事辞めたら?』って。それっきり、口きいてくれなくなったんだよ」
「え?」
思わず、声が漏れた。糸原の様子を窺うと、聞かれずに済んだらしい。ついでに大竹の方を見ると、少し目が丸くなっていた。
「それは……、だって、奥さん、やりたくてやってる仕事なんですよね?」
加治屋は、糸原の妻の事情を多少なりとも知っている様だ。
「そうだけど、他にどうしようもなくないか?」
ああ、そう言えば、前にも同じ様な事、あったんだよな。奥さんが熱を出した時、洗ってない食器の事を気にしてたから、『熱が下がったら、洗えばいいよ』って言ってあげたんだ。
でも、やっぱり、しばらく無視されるようになって。具合が悪いからかなって思って、放っておいてあげたら、起きられる様になってから、『私の事、なんだと思ってるの?』ってさ」
糸原との心理的な距離はもう、この社員食堂の端から端位までは離れているが、残念ながら物理的な距離は変わっていないので、こちらの反応に構わず話す声は十分に届いていた。
「もしかして、結局、食器、洗ってあげなかったんですか?」
たまらず口を挟んでしまう。
「看病は、流石にしましたよね?」
加治屋が恐る恐る尋ねる。
「え? 起き上がれないみたいだったから、お義母さんを呼んであげたよ。その時に、食器も洗ってくれてた。でもさ、本人の仕事じゃない?」
悪びれない糸原。
「それは、奥さんが悪いですね」
何とも言えず固まる早苗達に、大竹のため息交じりの声が響いた。
「お、そう思う?」
糸原が嬉しそうに、大竹を振り返る。
「当然でしょ」
一見すると穏やかなままの表情の糸原も怖い。
(言ってる事は、尤もなんだけども!)
妙に明るい大竹の声。
「『仕事辞めたら?』って話? そんなのそれぞれ家庭の事情だろ? そんな事に首突っ込んでくるなんて、本当にソシオパスだよね」
「糸原さん、それは無いでしょう。自分から話し始めた事じゃないですか。それでソシオパスは言い過ぎじゃないかと。奥さんの話は、戻って聞きますよ」
意見を言うのが苦手だった加治屋が取りなす。先日、主任になってからは、言うべき事を言う様に心掛けていると言っていたのが思い出される。
続きは戻ってから、と加治屋が言って、二人は食堂を去っていった。なんとなく取り残された早苗は、大竹の方を見る。目が合ってしまった。
◇
「あ、あの、さっきの、酷かったよね。気にしない方がいいと思う」
気まずくて、気になっていた事を言ってしまった事を後悔する。
「さっきの? ああ、ソシオパス? 別に気にしてないよ。サイコパスと言われるよりはましさ」
「意味が分からない」
「分からなくてもいい。空気が読めるとか、共感できるとか、察するとかって、私はむしろ欠点だと思ってるんだ」
「欠点?」
大竹の返しがあまりにも意外で、聞き返す。
「そう。同調圧力に弱いとも言えるじゃない? その能力のせいで、必要な時に必要な事が言えないなら、ただの欠点だと思う」
「え? そう?」
『自分だったら、この言い方で分かる』で留まってるのは、ただの仕事が出来ない人じゃない?」
「……分かるけど、ちょっと厳しくない?」
「じゃあ、岡田さんは、取引先に必ず伝えないといけない事を『何度も言ったけど、分かってもらえなかったんです』って開き直ってる人をみたら、どうする? 『じゃあ、しょうがないよね』で済ませられる?」
「いや、それは、ちょっと」
早苗は岡田を見据える。
「そういう人って、『そういう事じゃないと思う』って言うと『じゃあ、私が悪いって言うんですか?』って言うよね」
尤もな事を言っている気もするが、何か言い返したい気持ちもある。
「私は、通じない時、5W1Hで考える様にしてる。全部を考える必要は無いと思うけど、『誰が悪いのか』だけを結論にするよりも有意義な考えが出てくると思う」
「仕事だったら分かるけど、家族だったら、そこまでしたくないなあ」
「『相手と価値観が違うって思わないといけないんじゃない?』って言うと、『分かってる』って言われるけど、自分の中に元々あった価値観までしか想定してないんだと思う」
「自分の中に元々あった価値観までしか想定してない?」
早苗が出そうになったしゃっくりがとまる。
「自分がAという考え方をしているとして、最終候補だったBとか、『自分では選ばないけど、世の中にはこんな考えもあるよね』って既に分かってるCまでしか想定してない」
「大竹さんが言ってる事、分かる様な、分からない様な……」
「比喩って『その例えは違う』ってよく言われるから、あんまり使いたくないんだけど、例えば、食事の時間の過ごし方。岡田さんが、『家族でテレビを見ながら食事する』という習慣としていたとしても、『食事時はテレビを消して家族と会話しながら食べる』は割と簡単に受け入れられると思う」
大竹が、一旦言葉を切って、こちらを見るので、同意のために頷く。
「結婚した以上、何らかの妥協が必要だとしても、『あなたのやり方は間違っていて、私の方が正しい。だから、私のやり方を取り入れて』って問答無用で言われて、嫌な気持ちにならないと思う?」
「……でも、そんな人はそんなに居ないと思うし」
「そう、それ。それが、さっき言った、『自分の中に元々あった価値観までしか想定してない』んだよ。『察する』事が出来るのは、元々、自分と考え方が近い場合に限られるんだ。だから、文化や風習が大きく違う場合とかで、『察する』事が出来なかったりする」
「それは……、そうかもしれないけど、外国人だって、喜怒哀楽の感情とかは一緒だし、察せる事もあるよ」
「逆に言えば、察せない事もある訳でしょう? まして、見た目に違いが分からない場合は? 外国人なら、少し話せばすぐに分かるけど、脳の障害とかは分からないよ」
「でもさ、察しようとする事で分かる事もあると思う」
「それよりも本人にちゃんと聞いた方が良くない? 『どう思っているのか、教えて欲しい』って」
「そうかなあ?」
早苗はぬるくなったコーヒーを口に含む。
「酷い例えだと、さっきの糸原さんもそうだったんだと思うよ。本人の中では気遣いとか好意のつもりだったんじゃない? つまり、『察する』は相手と価値観に違いがあると、間違う上にリカバリーの機会が無いんだと思う」
「ええ?」
「糸原さんの奥さんは、幸せになりたかったら、そもそもあんな旦那と結婚しない様にするとか、結婚してももっと早くに別れるとか、逆にちゃんとコミュニケーション取ろうとするとかするべきだったと思う」
「うーん。糸原主任は、ぱっと見はあんなだって分からないから、結婚して初めて知ったってのも分かる気がする」
「だから、結婚前に、聞くべきだって」
「それは……、まず結婚するために、多少の妥協も必要だし、結婚した後に分かる事もあるし……」
「結婚も出産もしなきゃいけないものでもないんだから、最初から頭の片隅には入れておいてもいいんじゃない」
「え? でも、結婚して子供を産んで育ててって、普通の幸せだよね?」
「今のもジェンダーじゃない? 自分で呪いをかけちゃってる女の人も多いと思う。家事や育児は完璧にしなきゃいけない、とかね」
「完璧を目指すのは、悪い事だと思えないけど」
「本当の『完璧』なんて、そもそも現実に存在しないよ。存在するのは、それぞれの理想」
早苗が口ごもると、大竹は「そろそろ昼休み終わっちゃうね」と言って、席を立って行ってしまった。青年が一夜にして禿げなければいいなと他愛もないことを思いつつ早苗も後にした。
◇
後日、加治屋とのデート中。
「そう言えば、糸原さんって、結局どうなったのかな」
ふと、こぼしてしまった。先日発表されたばかりの主任を降格になったという辞令を思い出したのだ。
「離婚しちゃったみたいだよ」
加治屋がちょっと言いにくそうに答える。デート中の話の内容としては、いまいちだからだろう。
糸原が、あの後すぐ別居したという噂は聞いていた。業績も下がり、明らかに憔悴した本人が、そう話していたという。
「そ、そう言えば、あの後、大竹さんと話をしたんだ」
話を変えようと、咄嗟に出て来たのが、大竹との会話だった。
何を話したかを説明しながら、少し切り出した事を後悔する。あの時の話は、早苗の中でまだ消化しきれていない。
「そっか、あの後、そんな事を話してたんだ。……大竹さんの言い方って極端だけど、間違ってはいないよね」
「え? そう?」
「うん。僕も前は、あんまりハッキリ言うのは苦手だったんだ。相手を傷つけるかなと思って。でも、営業やってると、都合の悪い事もハッキリ伝えてくれるお客さんの方が楽なんだよね。ハッキリ言うのは、実は相手への思いやりかもしれないと思ったんだ」
でもそれって勇気が要るけどね、と締めくくった加治屋に、早苗は何も言えなかった。
いかがだったでしょうか。