「お兄さま」→「お姉さま」
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なお、本作にメジロドーベルは登場しません。
その少女の存在を初めて認めたのは、学園の広場であった。
栗毛の美しいウマ娘だったのを印象深く覚えている。背中まで届く長髪は艶やかに輝き、他の娘らと同じくよく手入れの行き届いた髪だった。
その髪が微風に揺れ、彼女の存在感を一層際立たせている。私の居る地点からは少女はやや後ろ向きに佇んでおり、その表情は窺い知れないものの、ウマ娘であるからには例に漏れず、容姿端麗である事は想像に難くない。
学園の制服に身を包み、三女神像をぼうっと見上げているその少女の後ろ姿に、私はつい目を奪われてしまった。成人していながら何とも恥ずかしい話ではあるが、不覚にもその少女に見惚れ、耽ってしまったのだ。
故に、その少女の境遇にまでは考えが及ばず、遅れてしまったが、ふと思い至る。今は始業5分前だ。
恐らく彼女は迷子だろう。
「君」
助けに入ろうと声をかけた。
ただのお節介に終わるとしても、それはそれで構わない。ただ、困っているなら力になりたかった。
少女が私の方へ振り向き、その無機質な瞳が私を捉えた時、言い知れぬ感覚が走った。
美しい少女だった。特徴的な碧眼をしている。後ろ姿も見惚れる程に美しかったが、正面から見るとより一層綺麗に思う。
息を呑みそうになるが、堪えて言葉を絞り出した。
「もうすぐ授業が始まるよ。そろそろ戻った方がいい」
「……」
絞り出した言葉はしかし、少女に届いたか定かではない。
少女の瞳はこちらを捉えたまま微動だにしない。顔には一切の表情が見られず、その心の内を窺い知る事は不可能なように思えた。
聞き逃してしまったのかと思い再度口を開くが、それと同時に少女の口が動いた。
のだが、どうも声にならないようで、口をパクパクと開閉させて、再び閉口してしまう。
平常ならざる様子であると確信し、少女の袖口に触れた。
「一旦落ち着こう、まずは深呼吸して、座った方が良い。
こっちのベンチへ」
これは授業どころではないと思った私は、先ず彼女を落ち着かせ、その後必要ならば保健室にでも案内すべきだろうと考えた。
単純にぼうっとしていただけならば良いが、意識がはっきりしていないのであれば一大事だ。声は出ないにせよ口は動くようだが、現状で意思疎通が出来ているとは考え難い。
場合によっては助太刀を呼ぶ必要もあるだろう。相手はウマ娘、並の膂力では太刀打ちできない。
焦らず冷静な対応を意識しつつ、私自身も深呼吸を繰り返す。
少女を誘導しようとベンチの方向へ促すと、少女が再び口を開いた。
「……」
唐突だが、私はずっとこの少女の事を可憐な乙女だと思っていた。
初めてその後ろ姿を見た時から今の今まで、深窓の令嬢もかくやという美貌を以って、表情は無くともなお人を、私を魅了せしめる。恐ろしくも美しく、それでいて力強い。
言うなれば存在感がある。そう表現するしかない程に、私は彼女に魅入られていたのだ。
だからこそ、私は少女の言葉に少なからず衝撃を受ける事になる。
「エラー……エラー発生。不明な事態により演算能力が低下。
機能回復の為、オペレーション『深呼吸』を開始します」
もしかしたらこの娘は、私が思っているよりもかなり面白いのかもしれない。
精巧なる乙女、
これが、私と彼女の、初めての出逢いであった。
少女は深く、深く息を吸い、そしてゆっくりと吐き出した。
深呼吸を繰り返す少女の手を引いて誘導し、一旦ベンチに座らせる。
やがて少女は満足したのか、改めてこちらを見上げてきた。
「ありがとうございます。不明の事態により、五感の知覚能力と演算機能が低下していましたが、深呼吸により回復しました」
「どういたしまして。不明の事態っていうのは、具体的にはどんな感じだった?」
「はい。説明のため、オペレーション『過去回想』を開始します」
あれは、今から15分47秒前の事です。
と、自分の身に何があったか説明を始めた少女だったが、私は慌てて回想を止めた。
そういえば、授業開始が近いのだという事を思い出した。
「あ、いや、ごめん。授業開始まであと5分も無いんだった。
今、身体に異常が無いのなら急いで戻ろう。大丈夫そう?」
「はい。メンタル面で若干の混乱がありますが、バイタルに異常はありません。つまり、大丈夫です」
少女の言い回しは独特で機械的だが、何とか解釈し理解する事は可能だ。
抑揚の無いその喋り口調はまるでアンドロイドでも相手にしているかのようで、とても違和感がある。しかし、少女の手の温もりは私の体温よりも高く、少女が確かに生命体として生きている事を伝えてくる。
「ならばよし、僅かでも不調があれば、保健室に行くようにしてね」
「"授業中、バイタルに異常があれば保健室へ行く"をインプットしました。重ね重ねお気遣い、感謝します。
それでは、失礼します」
綺麗に一礼した後に早足で歩き出した少女を見送った。
ガタイの良い大きな背中越しに、「授業開始まであと2分23秒。オペレーション……」と聞こえてきて、あれが
それはちょっと、いやあまりにも、面白すぎるのではなかろうか。
トレセン学園にはトレーナー、ウマ娘共に個性的な人が集まりやすいものだが、それにしても少女はかなり強烈だった。
まぁ、ここではよくある事だと割り切る事にして、私もまた、自身の業務に戻る事にした。
チャイムが鳴って暫くした後、あてがわれたトレーナー室へと到着し、気持ちを落ち着ける為に紅茶を一杯用意する。
未だに担当しているウマ娘のいない身としては、仕事量もそう多いわけではなく、着々とこなしていきたい所。なのだが。
「困った。何も手につかない」
脳裏を踊る栗毛の美少女を消す事が出来ない。
不覚だ。言動は正直な所、面白サイボーグ芸人みたいな感じだったのに、それすらをも魅力にせしめる程には、彼女の美貌は素晴らしかった。
「美しさの暴力……」
顔の良さが全てをプラスに持っていく。魅力を感じる要因には、本人の邪気の無さも関係しているのは勿論そうだが。
それにつけてもあの顔の良さよ。
「それに……」
外見から僅かに観察する程度でしかなかったが、彼女の筋肉には目を見張るものがあった。体躯の良さもさる事ながら、トモ周りの筋肉も良い。身体がかなり高い領域で仕上がっているのだ。
触れたのは僅かに腕と掌の一部に留まるが、正直に言うとトモを重点的に触らせてほしい。
そんな事ばかり考えてしまう。完全に心を奪われてしまった。
彼女はスプリンターなのだろうか?或いはマイラーか、ミドルディスタンス、ステイヤーという事もある。
距離適性もそうだが脚質もだ。彼女について知りたい事が山ほどある。
しかし、重賞を勝っているウマ娘ならば凡そ名前程度ならば把握しているが、その肝心の名前を聞きそびれてしまった。
流石に顔だけでは、学園のデータベースあってしても個人を特定出来ない。未勝利だったり、デビュー前だったなら尚更だ。
出来ればデビュー前であってほしい、それも担当トレーナーのいないウマ娘であってほしい。そう願うばかりだ。そうであれば、私の入り込む余地がある。
彼女をスカウトしたい。私の担当になってほしい!
顔だけを手がかりに彼女についてデータを漁るべきか。と思案し始めた頃。コンコン、と扉を叩く音がした。
「どうぞ」
担当のいないトレーナーの元に来客など珍しい。とは思いつつも、たづなさんか同僚が様子でも見に来たのかな。と思い、入室を促した。
学生に現を抜かし、仕事が手についていない現状の私を見たら、たづなさんは怒るだろうか。
「失礼します」
紅茶に手をかけつつあった手が、その声を聞いてピタリと止まった。
「心拍機能とメンタルの混乱の為、保健――。これは……」
「おや、さっきの」
さっきの少女だ!
あまりにも運命的な再会に心が踊る。早速
どうやら私に用事があるというわけではないらしい。
「どうかした?」
「いえ、その……保健室へ向かおうとしたのですが……目的地とナビゲーションにエラーがあったようです。つまり、間違えました」
それはまた……なんとも可愛らしい間違い方をしたものだ。
サイボーグのような印象こそ受ける彼女だが、流石に少し恥ずかしいのか、僅かに頬を染めて目を逸らす少女を微笑ましく思う。
「保健室なら……ここから少し歩く。ちょうど私も暇だし、良ければ案内しようか」
トレセン学園は広く、特に入学して間もない頃は迷いやすい。彼女が最近編入されたか、もしくは入学したのであれば、場所を間違えるのも無理はないだろう。
本音を言うと彼女と話していたいのだが、彼女の身体面を考慮するなら、保健室まで案内するのが良いだろう。道すがら、彼女について少しだけ教えてくれればそれで良い。
最悪名前さえ分かれば、後はこちらで調べられる。
と、そう考えていたのだが、
「いえ、問題ありません。心拍機能、メンタルの安定度、共に正常値まで回復の兆しがあり、優先度は低くなりつつあります。
よって、より重要な目標である"あなたと会話する"を先に実行します」
「……私と?」
不思議な言動のまま、不思議な事を言い出した彼女の、その余りにも唐突な展開に、さしもの私も困惑してしまう。
だが、まぁ一先ずは彼女の話を聞いてみる事にした。
「先程はありがとうございました。
そして、自己紹介が遅れました。私はミホノブルボンです」
「これはどうも、ご丁寧に。『バイタルの異常』は平気?」
「はい。授業中、先程の――三女神像前での事が自動再生され、心拍数が平常時よりも高くなる事態が発生した為、保健室に向かっておりました。
しかし、今は……いえ、今も6%ほど心拍数は高めです。ですが、平常の範囲内かと、つまり、『平気』です」
少女……ミホノブルボンはそう言うと、徐に手を胸に当てて、深呼吸を行った。
私は少女の胸が大きく上下し、息を整える様を静かに見守っていた。
そして、衝撃的な発言が飛び出した。
「本日は、あなたにお願いがあって来ました」
「ふむ……伺いましょう」
「あなたには、私のマスター……つまり、担当トレーナーになっていただきたいのです」
それが、ミホノブルボンの持ち出してきた、最も重要なタスク『逆スカウト』であった。