王女サンドラの眼前に現れた、端正な顔立ちをしたその少年は10代半ばに見えた。
これは16歳になったサンドラ王女とそう変わらない年齢である。
当然ながら冒険者アウノラの年齢よりもずっと若い(消息を絶った13年前の時点で28歳だった)。
サンドラが呟く。
「随分と若い子が出てきましたね」
すかさずレーナが突っ込んだ。
「若いって……君と同い年か、ほんの少し下くらいじゃないか?」
「いやまぁ、エンシオ・アウノラが入ってるもんだと思ってたからさ」
「わたしもてっきりそうだとばかり……思ってましたけど」
二人は棺桶型のベッドの中を再び覗き込む。
眠っている少年が、かの冒険者ではないことはもはや決定的だった。
たが、伝説の冒険者で無かったにせよ、いずれにしろこの少年の素性は気がかりだった。
(一体この子は誰なんだろう)
はじめ棺桶型ベッドに詰まっていた黒い煙は次第に小屋中に広がっていきサンドラの視界を狭くしたが、すぐに空気に溶けて消えてなくなっていく。
この黒い煙は少年の大部分を隠していたものの、徐々に薄れていくことによって全貌をだんだんと顕わにしていった
サンドラは黒い煙の中の少年をまじまじと眺め、観察する。
彼女の金髪とは対称的な黒に近い髪色。
煙を払うことで垣間見える上半身は、細身だがよく鍛えられている。
きめ細やかな肌には傷や痣などは一つとして見当たらない。
少年はまるで純粋さと完璧さの同居した芸術品のようであった。
サンドラは少年に思わず見惚れ、息を呑んだ。
(……素敵)
首元にそっと手を触れるとリズムを伴った拍動とほのかな暖かさに驚く。
「この子、生きているんだ」
「そんなまさか……え?」
サンドラは少年に接吻を試みようとする。
レーナは目の前の行動に驚いたあまり静止出来なかった。
王女は背徳感のなか、それでも己の欲望に忠実に、吸い寄せられるようにして、顔を近づけていった。
* * *
ずっと長い夢を見ていた。
──夢の中で、男は一頭の獣の背に乗っていた。
男と獣は、長い夢のような森と山脈、雪原を跨っていく。
道中、四方八方から次々と襲い来た怪異を盾で防ぐと、手に握った弓で矢を放ち、薙ぎ倒していく。
そしてそれを幾度となく何度も何度も繰り返してゆく。
無限に続いてゆく景色の中で、男は数えきれないほど幾度も怪異と対峙してきた。
男の向かう先は、宿敵である憎き魔女の根城。
男は、魔女の妖艶で不敵な笑みを思い出す。
これまでの果てしなく長い旅路がフラッシュバックして、これから待つさらに困難な道のりを想像して、引き返したいという思いが去来する。
そんな時は、ふっと息を吐いて、必ず打倒するのだ! と昔に決めた決意を思い返す。
退くまいと心に誓う。
そうして男は迷いを振り払って再び前進する。
男は、これをひたすら繰り返した。
しかし、男の試みはやがて強さを増していく風に阻まれ、さらに彼の視界までもが吹雪く雪により遮られる。
雪、雪、雪。
一面、白に包まれた世界で、身動きの取れなくなった身体。
体の隅まで冷えていき、朦朧とする意識の中で、男はかつて自らを助けてくれた女性の姿を思い浮かべた。
彼女が名前を呼んでいる気がした。
瞬間、極寒の世界にはあるはずのないほのかな温かみが、首元にやってくる。
男は、彼女のことを長い間ずっと想っていた気がした。
* * *
次の瞬間、少年は突然に長い眠りから覚めていた。
少年は眩しそうに目を開け、周りの空気を吸い込もうとする。
──眠っていたのは、黒い煙の蔓延るベッドだった。ただし、それが棺桶の形状をしていたという事実を彼はまだ知らない。
少年の視界にたった一人、金髪の少女が立ってこちらををじっと見つめているのが映った。
彼女は目覚めたばかりの少年の上体をそっと起こすと、話しかけた。
「おはよう。はじめましてでごめんね、聞きたいことがあるんだけど──」
「俺は……まだ……」
少年は何かを呟きかける。が止まってしまう。
その焦りと恐れのまじった表情を少女は気にかけた。
「どうしたの」と少女が問うと、少年は思い出すようにして話し出す。
「俺、ずっと戦ってたんだ。雪の降ってるところで、延々……」
「嫌な夢ね」
少女が慰めると、少年は周りを見渡した後で安堵するように息を吐いた。
──敵らしきものは周りになく、目の前には少女が一人いるだけ。
まだ眠りから覚めたばかりで頭が真っ白だった彼には、この状況が何が何だかよくわかっていない。
ついさっきまで少年が見ていたはずの夢は、両の目に入ってきた光景に上書きされてしまった。
傍に少女がいて自分を見つめているという現実のほうが、ずっと刺激的だったからだ。
夢は急速に少年の記憶から薄れてゆき、断片すらも跡を残さず消えていった。
少年も少女も、少年がこんな場所で上衣も着ずに眠っていた理由を知らない。
さらに少年は、この少女が歴としたリシャレア王国の王女サンドラであることも知る由がなかった。
彼は少女に名前と状況を問おうとする。
「君は……誰……ここは」
しかし、言葉の途中で少年は悶え、咳込んでしまった。
さっきまで煙の噴き出していたこの空間は、寝起きの少年にとって心地の良いものではなかったのだ。
少年は涙目になりながら苦しそうに咳込む。
サンドラはすぐに近寄り、あたりの煙を手で払ってあげる。
その手をそのまま少年の胸にあて、もう片方の手で少年の背中をさすったり叩いたりした。
そうしてしばしの間止まらぬ咳と格闘しやっと咳が止まったところで、少年はサンドラの方をちらと見て申し訳なさそうに声を漏らした。
「あの……ごめんなさい」
「いいって。それより、体調は平気?」
「ああ。さっきはむせてたけどもう大丈夫」
「そっかーよかった。私心配でさ……あなたのベッド、煙がたくさん出てたんだよ? それに…………」
サンドラの視界には少年の裸の上半身があったが、思わず目を逸らした。
「あの」
少年がすかさず話を遮る。
彼は助けを欲するような目で少女を見つめた。
「……俺、この部屋のことも、ベッドのことも覚えてなくて。なんでこんな風に寝てたのかも」
「本当に? 覚えてないの?」
うん、と少年が頷く。
こんな風とは紛れもなく半裸のことである。
服を着ていない状態に恥じらいと罪悪感があった少年。
自分がいわゆる記憶喪失の状態ではないかと不安だった。
(こんなに不安げな顔をするなら、わたしのほうは明るく振る舞うしかないじゃない)
少年の気持ちを和らげるかのようにしてサンドラが口を開いた。
「ちょっとそこで待っててね──お姉さん、服持ってくるから」
──もし自分に弟がいたらこんなふうだったろうなあ、と思いながら振る舞うサンドラ。
サンドラはベッドから離れ、何気なく部屋の遠くの方を見つめたが……。
彼女の視界には、レーナが呆気にとられた様子で壁に寄りかかり、しゃがんで頭を抱えているのが飛び込んできた。
「何してるの? そんなところで」
「だって、びっくりしたんですよ! ……殿下があんなに大胆なお人だなんて……!」
「男の子拾っちゃったんだよ? やることと言ったら決まってるじゃない」
「そ……そうなのですか? あれが?」
「ええ。そうよ」
サンドラはレーナの問いをあっけらかんとした様子で流すと平然とかばんに向かい、折り畳まれた洋服を何着か取り出して少年に持ってきた。
「──これに着替えて、朝食にしましょう? 私のパンとスープ分けてあげるからさ」
「えっ。嬉しいけど、なにもそこまで……」
「喜んでよー。さすがに何も着せないまま放っておけないしさ、ありがたく受け取って頂戴」
──それに、部屋がだんだん冷えてるし。と服を手渡そうとするが少年は恥ずかしがる。
「……実を言うと女の子から服を貰ったことない」
「気にしちゃ駄目だよ。きっと似合うし着てみよう?」
「俺に似合うかな?」
「似合うよ。腕広げて」
サンドラが間髪入れずに服を広げて体に近づけたので少年は圧倒されてしまった。
(近っ!)
ほとんど距離のないところにサンドラの手が迫り、少年は思わず息を呑んだ。
緊張によりとくん、という心臓の鼓動がどんどん大きくなる。
サンドラはそんな少年を見つめながら、ふっと微笑を浮かべて囁いた。
「ほら、ぴったりだし似合いそう。着せてあげるね」
「マジで言ってるのか……?」
戸惑う少年にサンドラが言う。
「綺麗な子には綺麗な服を着せたいからね」
「そういうものなの?」
「私それが趣味だからさー」
少女はそう言ってベッドの少年に上衣を着せていった。
世界の情報
3. エリア50
濃霧に覆われたリシャレア最北部の俗称。
詳細の多くは謎に包まれている。
本来、エリア50とは王国に全50ある行政区画のうち最北に位置する一区画を意味する名称だった。
ただし、この地から霧が発生し、さらには年々拡大・南下して他エリアをも飲み込んでしまったため、飲み込まれた複数の区画を総称しエリア50と呼ばれるようになった。
この霧は現在、従来の国土の約半分を飲み込んでしまっている。
霧が迫ると、近くに住む人々はそれまでの生活の放棄を余儀なくされてしまう。
人類は、霧を防ぎ失った領土を取り戻すための手段を早急に模索すべきだ。