目覚ましの音がする。
カーテンを開けると、窓に霜が降りていた。今日もきっと寒いだろう。
昨日暖房を入れておいてよかった。ぐっと伸びをした後、そう独り
「おはよう、椿」
「母さんおはよー」
「ほら、鮭が焼けたから早く顔洗って来なさい」
「うげぇ」
洗面所にはもちろん暖房はついておらず、さらに早朝の水はとても冷たい。正直洗いたくなかった。しかしそう言えば母の雷が落ちるのは必然なので、おとなしくその言葉に従う。
冷たい水を顔に浴びると、目が一気に覚めた気がした。
凍える手を脇に挟んで暖をとりながらリビングに戻る。食卓に並ぶのは、焼き鮭、味噌汁、卵かけご飯。
もう我慢できない。すぐさま座って手を合わせ、まずは味噌汁の器を両手で包んで音を立ててすすった。
じんわりと口に広がる美味しさ。久しぶりの感覚に、思わず頬が緩んだ。
———久しぶり?
ふと胸に浮かんだ感情を怪訝に思いながら、焼き鮭へと手を伸ばす。頬が落ちそうなほど美味しかった。その後も止まることなく食べ続ける。
最初に僅かに感じた違和感は、朝食を平らげた時にはもう消えていた。
制服に着替えながら、母と会話する。
「父さんは?」
「まだ寝てる。あと30分以内に起きなかったら叩き起こしてやろうかしら…」
「父さん昨日夜勤だったんでしょ?もうちょっと寝かせてあげなよ…」
着替え終わったら、洗面所で髪を整える。…これでよし。
「それじゃ、行ってきます!」
「いってらっしゃーい」
当然返事が返ってくる。それが今日はなんだか無性に嬉しかった。
外に出て、いつものように近所の杏一の家にインターホンを鳴らしに行く。
「もう行く時間だよ」
インターホンのスピーカーからドタバタという音が聞こえ出して数分後。勢いよくドアを開けて、杏一が出てくる。
「はぁ、はぁ、今日はなかなか早かったんじゃないか!?」
「確かに早かったけどさ…いい加減に僕が来る前に準備を済ませておきなよ」
誤魔化すように笑う親友にじっとりとした目線を送るが、そのささやかな非難は受け流されてしまった。
いつものようにくだらない事を話しながら学校へ着く。予習は昨日終わらせたので、余裕の表情をしながら授業に臨んだが、残念ながらその日の英語の授業に必要だったのは予習では無く復習だった。
「…杏一は何点だった?」
抜き打ちの英語長文の小テスト。完全に油断して文字通り抜き打たれた僕は、休み時間に杏一の机を訪れた。杏一は僕の声に振り向き、無言で用紙をぴらりと見せてくる。
10点中、10点。
「あ"〜!負けた!」
「お前は何点だったんだ?ん?」
「あ、ちょ、この後に見せたくないんだけど!」
「7点、か。椿くん、復習が足りんようだねぇ?」
そう言って煽ってくる杏一に思わず歯噛みしてしまう。杏一は本当になんでもできる。僕を煽る癖さえなければ素直に尊敬できていたのに、とギリギリと歯を鳴らす。
「このハイスペックめ。知ってるぞ僕は。昨日また告白されてただろ」
そう言うと、少し気まずそうに僕から目を逸らす。そんな彼の様子に思わずため息が溢れそうになった。また断ったのか。
「えぇ〜、椿、もしかして羨ましいの?」
僕らの会話を聞いていたのか、前の席で次の授業の準備をしていたクラスメイトがニヤニヤとしながら話しかけてきた。ちなみに彼女も小テストは満点である。
「は?なに急に。そんなことちょっとしか思ってないんだが?」
「語るに落ちたじゃん。あぁ、おいたわしや椿くん。高2にもなって彼女いない歴イコール年齢とは…」
「お?僕にそんな口利いていいの?もうお弁当分けてあげないよ?」
「すいませんでした」
何を隠そう、僕の料理技術は彼女を虜にするほどなのだ。ふっ、と息を漏らす。最初から大人しく僕の味方をしとけばいいものを。
「今の発言、小物臭がすごい」
「おいそこ!なんて言った!」
「椿はかっこいいねって言った」
「ならよし」
なんだか最初と言っていることが違う気がするが、僕はとても優しいので彼女の言葉を信じてあげることにする。
「ちょろ」
「おい、聞こえてるからな!!」
喧しく騒ぐ僕たちを、杏一は黙って見ていた。
「……お前の方がハイスペックだと思うけどな」
微妙な顔でそんな言葉を発する杏一に、僕は疑問の声を漏らした。
放課後。2人とも部活は休みだったので、杏一と一緒に帰路に就く。真冬の木枯らしに対抗するために自販機で買った温かいココアを一口。あぁ、美味しい。
「冬に外で飲むあったかい飲み物って美味しすぎる…」
「俺のコーヒーも飲むか?」
そう言って缶を差し出してくる杏一をじろりと睨む。
「僕が苦いもの苦手なの知ってるでしょ」
それを聞いた杏一は、顔をいたずらっぽく歪めてこちらに近付いてきた。
「そろそろおこちゃま舌を卒業したらどうだ?椿くん。いや、椿ちゃんと言ったほうがいいかな———効かん!」
なっ…僕の渾身の後頭部叩きが、防がれただと…?
地味に悔しくて、その後も何度か隙を見て杏一の頭を狙ったが、残念ながら攻撃を当てることは叶わなかった。
「美術のデッサンの宿題だるいねー。なに描こっかな」
「俺はやっぱり王道のリンゴだな」
「それって静物デッサンだったら王道だろうけど、リンゴ単品で描くのは逆に珍しいんじゃない?」
「え、そうなのか?」
「いやごめん、知らない」
なんだよーと言いながら、杏一が僕の髪をくしゃくしゃと乱暴に撫でる。それに僕は笑って抵抗していた。
満たされている、と思った。
僕は幸せだった。嫌悪感を感じるほどに。いつもの日常。憂いなき毎日。そのはずなのに朝に一度霧散したはずの違和感は、時間が経つほどにじわじわと存在感を増していた。
ふと、賑やかに駄弁っていたはずの僕たちの間に沈黙が落ちる。なんとなく不安になって、杏一の顔を覗き込んだ。
「…え?」
彼の瞳は僕の姿を捉えていなくて、虚空を見つめる視線に言いようのない恐怖を感じた。僕と顔を突き合わせているのに、杏一はまるで僕を透過してその後ろを見ているようだった。
急に押し黙った杏一の目線の先が気になって、もう一度前を向く。
「——っ!?」
そこには、怪人がいた。突然の出来事に、思わず後ろに飛び退くように尻もちをついてしまう。
何故怪人がここにいるのか分からなかった。怪人警報も鳴っていないのに。それに、何故杏一がこんなに平然としているのかも分からなかった。
「…ど、どうしたの杏一?はやく逃げようよ」
そう言って縋り付く僕を、突如杏一は突き飛ばした。再び尻もちをつく。整った相貌を心底不思議そうに傾げ、彼は言葉を紡いだ。
「なんで?お前が産んだんだろ?」
凍りつく。
何故かお腹がずぅんと重くなったような気がした。
「………ぇ?杏一、なに…言ってるの?」
彼の顔が、憎々し気に歪められる。
「いつまで人間の振りしてるんだ?『孕娼の魔女』。怪人の分際で穢らわしい」
剣呑な目でこちらを睨む杏一の瞳には、呆然とした顔でこちらを見る、白髪の小柄な少女が映っていた。
「待って杏一、違っ!」
虚空に手を伸ばす。その視界に映ったのは、いつもの地下室。目の前から消えてしまった親友の存在を探す。そんなことしなくても、もう気づいていた。
夢だったのだ。柔らかな布団の感触も、温かいココアの甘みも、親友の笑顔も。
その場にうずくまる。
ひどいよ。もうとっくに諦めてたのに。こんな夢を見たら、憧れてしまうではないか。平凡な人生に。普通の日常に。夢想してしまった。また彼らの隣に立つことを。
でも、紅露椿はもう死んだのだ。もう僕は紅露椿じゃないのに。どうしてこんなことを思ってしまうのだろう。会いたいよ。杏一。みんな。
それに、久しぶりに鮮明に思い出せた母の顔が悪夢だなんてつくづく僕は親不孝だ。両親は死んだ。僕が小学生の時に死んだのだ。まだ家に帰れば彼らに会えるのではないかと思ってるのか。でも今は、そんな幼い幻想すら抱けない。もう地上に僕の帰る場所は無いから。
羨ましい。妬ましい。目元に熱が集まる。しかし乾き切った瞳からは、何も出ない。
無性に寂しさに襲われて、無意識のうちに膨らんだお腹を撫でる。中の子が強めにお腹を蹴った。