その後、桃髪の少女の言葉になんと答えたのかは覚えていない。気づけば僕は、彼女に手を引かれて住宅街を歩いていた。
「魔女さん、お名前はなんていうの?」
「……ナーサリー、です」
少しの逡巡の後、大嫌いな名前を口にする。ずきりと胸が痛んだ。でも「椿です」なんて言えない。言えるはずがない。もう、過去に自身が紅露 椿であったことすら辛かった。
「ナーサリーちゃんっていうんだね。私は桃崎 桜。桜って呼んでね!」
自身を桜と名乗った少女のあからさまな空元気に曖昧な返事を返してしまう。現在彼女は変身を解いているが、桜と対面した時、確かに彼女は魔法少女だった。
一体桜は何が目的なのだろう。そもそも地上は今の僕にとって地獄だ。彼女の提案を断るべきだったのではないか。
そう思っても、自身の手を握る柔らかな熱を振り払うことは、僕にはできそうになかった。
「ほら、ここだよ」
初めて顔を上げた。なんの変哲もない一軒家。鞄から鍵を取り出し扉を開けて、桜は僕を手招きした。
躊躇する。しかしここまで来てしまったのだ。これが僕の選択だ。魔法少女の、
桜の自室へと入る。淡いパステル調の壁紙に、棚に置かれた可愛らしいインテリア。
女の子らしい部屋だな、と思った。窓から差し込む穏やかな光に包まれて、僕はひどく居心地が悪かった。
桜に促されてフローリングにお尻を着ける。地下室と違って、その床は木材特有の暖かみがあった。
クッションを渡されたが、その上に座ることは
途端に悲痛な面持ちを浮かべた桜を怪訝に思っていると、彼女はぶんぶんと頭を振って、強い意思を持った目でこちらを見てきた。
「ナーサリーちゃん。あなたは望んであそこにいたわけじゃない。そうだよね?」
「——っ」
「ねぇ、何があったのか、話してくれないかな」
桜の言葉が真っ直ぐに僕に突き刺さる。久しぶりに向けられた
でも言えない。もう思い出したくない。それを誰かに語ってしまったら、あの悪夢が正しく現実になってしまう気がして。かろうじて形を保っている
「………ごめんなさい」
頭を深く下げる。そんな僕を見て、桜は慌てたように言葉を続けた。
「あっごめんね!?突然見知らぬ人に事情を話せって言っても無理に決まってるよねあはは」
気を遣わせてしまった。彼女の顔を見たくなくて俯くと、桜の手が震えていることに気づいた。
「…僕が怖いでしょう?無理に関わろうとしなくていいですよ」
その言葉に、桜は硬直する。
歩み寄ってくれた彼女を心の奥底では待ち望んでいたくせに、彼女に感謝の一つもこぼさずただ突き放す。自分の醜さに嫌気がさした。
「……ちょっとお母さんに、ナーサリーちゃんが居候する許可をもらってくるね」
そう言って部屋を出る。一人になったことに安心感を覚える。それ以外の感情は何もない。一人になった瞬間胸に広がった僅かな痛みなど、知らない。
カーテンを閉めた。光が怖かったからだ。途端に暗くなった部屋の中。疎外感が和らいだ気がした。部屋の端でうずくまる。今は魔法少女のことも、怪人のことも、我が子のことも。何も考えたくなかった。
逃げた。私は耐えられなかった。部屋から出た瞬間、堪えきれなかった恐怖が私に膝を付かせた。
怖い。怖いのだ。魔法少女に変身している時は彼女の心が見えた。恐怖など感じている暇がなかった。魔法少女チェリーブロッサムならナーサリーを救えると思った。しかし、桃崎 桜にはそれは至難の業だった。
ナーサリーを抱きしめた時に固めた決意。早くもそれに
私は何をしているのか。魔女は浄化しなければならない存在ではないのか。そんな冷静な自分を全て無視して、私は衝動のままに行動した。
行動したのだ。作戦から抜け出してまで。……作戦。
「あ」
思い出す。桜はすぐさま変身をして、再び『家』へ走った。
桜が現場に戻った時には、すでに怪人は一人もいなかった。しかし『家』の中は大きく荒れていた。どうやら混戦となったようだ。自身が姿を消していたのを気づかれていないことに安堵した桜は、ずっとその場にいた風を装って菫に話しかけた。
「やっと終わったね」
「あぁ、桜。お疲れ様。貴女は怪我してない?」
現場には、互いに正体を知っている魔法少女しかいない。そのため本名で尋ねてくる菫に、首を振って否定の意を示す。当たり前である。戦っていないのだから。しかしそれを見た菫はほっとしたように肩の力を抜いた。
「よかった。貴女まで傷ついていたらどうしようかと…」
菫が表情を曇らせる。その視線の先には、つい先程まで左手があった部位を呆然と見つめる片腕の魔法少女の姿。桜も何度か共闘したことがある人物だった。
「彼女、引退ですって」
「……」
押し黙る。桜の肩に罪悪感が重くのしかかった。私が戦いに参加していたら、彼女は左腕を失わなかったのではないか。
「…貴女の悪い癖よ、桜。いつも言ってるじゃない。貴女のせいじゃないって」
今回ばかりは、彼女の慰めが桜の胸に深く突き刺さった。
菫といったん別れて、事後処理を手伝う。恐らく『農場』の主な情報を握っていたであろうワームホールやテレパシー。彼らが逃走してしまったため魔女の情報を直接得ることは叶わなかったが、テレパシーはアイリスに吹き飛ばされた時に一つのメモリを落としていた。その解析によって謎に包まれた魔女の情報が得られるかもしれない。沸き立つ周りに、桜は冷や汗を滲ませた。
都合の悪いことは後回しにして戦績を見る。今回の作戦で『農場』の戦力を約半分に減らすことに成功したようだ。そのことに桜は怪訝に思った。本来なら有り得ないほどの成果。
それを成し遂げた大きな理由は二つ。アイリスの健闘と、マーダーの不在である。前者は指摘するまでもない。しかし、後者の理由には違和感を禁じ得ない。確かにあの黒髪の怪人は『農場』の戦闘員を名乗った。ではなぜこの場にいないのか。桜はそれが不気味だった。
「桜」
振り向く。嫌な予感がした。そんな心中の不安はおくびにも出さず、桜は平然と彼女に疑問を呈した。
「どうしたの、綾芽ちゃん?」
「さっき、『家』の中にいなかったよね。何処にいたの」
「——」
綾芽の顔色を伺う。その相貌には、純粋な疑問の色が見えた。
——大丈夫、伝えられることだけを素直に話せばいい。
隠し事をする後ろめたさから目を逸らして、桜は答えた。
「実は、『家』の先に変な部屋があるのに気づいてそこに行ってたの。独断で先行してごめんなさい…」
「そうだったの。何事もなかったからよかったけど、それは危ないこと。次からは絶対しないで」
桜がいなくなったら私は寂しい、と言って軽くハグしてくる綾芽に罪悪感が湧いた。その感情に蓋をして綾芽を抱き返した後、話題の地下室へと彼女を案内する。
こっそりと現場を抜け出そうとした二人に気づいた菫とひまりと共に。
かつて扉があった場所を潜り抜け、四人で地下室へと入る。
先程入った時はナーサリーとの対面で気づかなかったが、地下室の中の雰囲気は重苦しく、言いようのない嫌悪感を感じさせた。
綾芽がしゃがみ込んで床を凝視する。
「う…わ」
「どうしたの?」
「この部屋の血痕、まるで拷問の後みたい」
「「「——ッ!?」」」
桜は絶句した。それは、ナーサリーが自身のことを話してくれなかった証明だったから。
「大方、魔女が気に入らない怪人を痛めつけるための拷問部屋って感じかな」
違う。桜は叫びたかった。しかしそれを否定する証拠を、彼女は持っていない。桜が持っているのは、魔女が自宅に存在しているという不都合な事実だけ。
それを知らない三人は、『農場』に突入しても姿さえ見つけられなかった魔女のさらなる悪虐に歯噛みする。
「ひどい…こんなことって」
「もうこうなったら、絶対に魔女を見つけ出すしかないねっ」
魔女を倒す。決意を固め直す三人を見ながら、桜はどうすることもできない。
今ここで3人に洗いざらい話す?なんて愚かな行動だろう。彼女らはもちろん初代魔女を知っている。
原初の魔女、『
だからこそだろう。
彼女が当時活躍していた魔法少女の大半を怪人に変えて異界へと帰った時、天まで届く魔女の評価は一瞬にして反転した。
欺騙者、悪魔、死神。もうこの世界に存在しない魔女に呪詛を吐く。当然届かない。
魔法少女の力に甘えていた人類は、一度崩壊した。
魔女は、罪だ。呪いだ。
一度救い上げられ、どん底に落とされた人類にとっても。ただ家畜でしかなかった人類に力を与えたことで、増殖の邪魔をされた怪人にとっても。
特にアイリス。彼女は怪人を浄化することに心血を注いでいる。そんな彼女に魔女の存在を伝えたら、きっとアイリスはナーサリーを殺すだろう。それだけは避けたかった。
ではどうすればいい?どうしようもない。
桜には、魔女を救う方法など考えもつかなかった。