孕娼の魔女   作:甘朔八夏

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16. 一縷

 

 

あれから桜は部屋に来なくなった。それでいいと思った。むしろ、あの日桜がこの部屋に入ってきたせいで見苦しい惨状を見せてしまったことが申し訳なかった。

 

いつものようにカッターナイフで手首を切る。どばどばと噴き出る鮮やかな血に、僕は満足して頷く。もちろんあの日と同じ轍を踏むことはない。扉の隙間から手紙を送り、バケツを借りることに成功したのだ。これで床を汚さなくて済む。

 

バケツの中の血がたぷたぷと揺れた。このバケツは五リットルらしいから、おそらく今日で三リットルは溜まっただろうか。

 

まだ貯め始めてから二、三日であるのにこの成果。自身の努力が目に見えて嬉しかった。

 

気絶して血を垂れ流したまま床に倒れ伏すにはいかないので、意識が遠のく寸前で地下室から持ってきたぼろ布を使って止血をし、次は足の爪を剥ぐことにする。

生々しい音を立てながら根本からちぎれる。まるで自分の汚い部分も一緒に剥がれているような気分になり、顔に笑みが浮かんだ。

 

右足の爪を全て剥がし終わった時、ひどい眩暈が僕を襲った。ぎりぎりで止めたつもりだったが、どうやら血を抜き過ぎてしまったようだ。床に勢いよく頭を打ちつける。鈍い音が響いた。

 

遠のく意識に脳震盪の追い討ち。つい気絶しそうになるのを、咄嗟にカッターナイフの刃先を折ってそれを飲み込むことで防ぐ。喉が裂ける痛みに意識が覚醒し、僕は安堵のため息を吐いた。

 

体が思うように動いてくれない。今日は調子が悪い。まだ昼前だが、もう一眠りしよう。そんなことを考えていると、突然部屋の扉が開いた。

 

予想外の出来事に肩をびくりと跳ねさせる。先ほど頭を打った音がかなり大きく響いていたのか、心配して見に来たらしい。

 

こんなことで桜に来てもらうのを申し訳なく思いながら、後ろ手に血で満たされたバケツを隠して何でもないことを示すために済まし顔で扉に向き直る。

 

「………え?」

 

僕か、彼女か。それとも両方か。困惑したような声がぽつりと漏れた。

そこにいたのは桜ではなかった。桜と同じ桃色の髪を後ろ手に纏めた、壮年を少し過ぎたであろう女性。彼女の母親だろうか。

 

()()()()()()()。僕を正しく認識した瞬間、彼女の顔がさっと青くなった。しかし彼女はその場にへたり込んだりも、尻もちをついて後ずさったりもしない。強い人だな、と思った。桜が僕と面と向かって話せる意思の強さを持っているのはきっと彼女譲りなのだろう。

 

呑気に考え事をしているが、状況は最悪に近かった。彼女の表情を見るに、桜は母親に僕のことを伝えていないのだろう。しかし、今それが露見してしまった。

もうここには居られない。貯めた血を放ったらかしにすることに申し訳なさを抱きながら、僕は窓から飛び出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

道を歩きながら、止血のために腕に巻いていたぼろ布を目に巻き直して魔眼を隠す。もう腕の傷が塞がり始めていたことに気づいた。毎度自分のことながら感心する。

 

裸足ではあるが、服は桜に借りている可愛らしいものだ。手首を切る時も気をつけていたので汚れ一つない。これなら、たとえ靴がなくたって()()薄汚い服で街を歩いた時よりも違和感は少ないだろう。

 

穏やかな日差しを浴びながら並木通りをゆっくりと歩く。もうすぐ三月だったと思う。これから暖かくなっていくことが不思議と不快だと思った。

 

ふと布の目元の部分に冷たさを感じた。怪訝に思ってそこに触れる。濡れていた。なぜだろう。分からない。あの日から本当に分からないことだらけだ。

 

 

 

 

周囲には誰もいない。これ幸いと目隠しをとって歩みを続ける。

川沿いに、自販機とベンチを見つけた。そこへ向かう。目の前に辿り着き、自販機の下をあさる。百円玉を見つけて、ありがたく頂戴する。自販機のラインナップを確認する。紅露 椿の好きなココアを見つけた。一本百円。今時では破格の安さを誇るその自販機の料金設定に感謝する。その値段に免じて、冷たいものしか無いことには目を瞑る。

彼と同じ好みを有する僕は、躊躇いなく購入を選択した。

 

ごとり、と案外重い音を立てて缶が出てくる。取り出し口に手を入れると、ひやりとした温度に包まれた。

 

ブルタブを開けて、中の冷たい液体をすする。

 

「…まずい」

 

舌に粘つくような甘ったるさが張り付いた。おかしい。確かに紅露 椿の好きな飲み物なのに。

もう一度口にする。やっぱり美味しくなかった。メーカーのせいにしたくて、ラベルを眺める。紅露 椿がいつも飲んでいたメーカーの商品だった。紅露 椿はこのココアを美味しいと感じるはずであった。

 

「…あっ。僕、苗床(ナーサリー)だった」

 

すとんと、腑に落ちた。安心してもう一口飲む。不味い。

そういえば、前に街へ出してもらった時は飲みたくても飲めなかったな。あの時なら、美味しいと感じたのだろうか。

 

捨てる訳にはいかないので、嫌々容量を減らす。そのつもりで飲んでいた。それなのに、甘ったるい液体が喉を通るたびに、何かが満たされていく変な感じがした。

 

「……は?」

 

また視界が滲んだ。意味が分からない。強引に袖で拭う。性懲りも無くまた(あふ)れてくる。とても鬱陶しいと思った。

 

もう自分の体を自分で制御できないのが嫌だったので、飲み残しを捨てることにする。

そんな時にふと、後ろに誰かがいるのに気づいた。こんな人気の少ない川岸に訪れるなんて、ずいぶん暇な人だ。

 

丁度いい。流石に捨てるのは少々ばつが悪いのでこの人に飲み残しを処理してもらおう。見知らぬ人に飲みかけの安い飲料を押し付ける。くだらない悪事だ。そんな程度の低い悪事が似合う怪人になれたらいいなと思う。

 

「すみません、少し体調が悪くて。このココアを飲みきれそうにないので、代わりに飲んでいただけませんか?」

 

そう言いながら、振り向いた。

あ。目隠しを付け直すのを忘れていた。もうこの地域には居られないな。わりと致命的な失敗を軽く流そうとした瞬間、頭が真っ白になった。

 

白井 杏一。紅露 椿の親友がいた。彼は苗床(ナーサリー)と目が合っているのに、全く怯えたそぶりを見せなかった。むしろ顔を合わせてから余計に僕を凝視する彼の様子に、こちらが怯えと困惑の感情を持ってしまう。

 

彼は僕をじっと見つめたまま、

 

「………椿?」

 

ぽつりと、言葉を溢した。

 

「———ッ!!?」

 

逃げる。その場から走り去る。先ほどまでゆっくりと歩いていたため気にならなかったことだが、裸足でアスファルトの上を走ると尖った部分が足の裏に食い込んで痛かった。

 

彼はなんと言った?僕が彼の名前を呟いてしまったか?いや、そんなことはないはずだ。彼は僕を知らないはずだ。彼とは初対面なのだから。そもそも僕はなぜ逃げたんだ?関係ないじゃないか、彼が椿と言ったって。

あぁ、そういえばそろそろ椿の咲く季節だ。また落椿を杏一と見たい。

ココアを置いてきてしまった。彼にお願いをしたから処理してくれるだろうか。しかし杏一は甘い物があまり得意ではないと言っていた。先程の僕のように顔を顰めながら飲むのだろうか。また杏一と会えたら感想を聞きたい。

『赤い椿白い椿と落ちにけり』という俳句を思い出す。僕の名字に(あか)が入っているからって、高校入試の直前にニヤニヤとしながらそれを見せてきた。()井君も頑張ってね、と言うと彼は硬直していた。久しぶりに言い負かすことができて嬉しかったのを覚えている。

 

足を止める。しかし、溢れ出した思い出は止まらない。視界が滲んだ。今回は、その理由を正しく認識していた。

 

杏一は誰にでも人当たりが良くて友達も多いくせに、必ず僕と登下校を共にする。

 

杏一は自分も料理が得意なくせに、僕の作った弁当を本当に美味しそうに食べる。

 

杏一はいつも僕を馬鹿にするくせに、僕が落ち込んでいるとすぐに気づいて欲しい言葉をくれる。

 

 

違う。違う違う違う違う。

僕は人間じゃない。紅露 椿じゃない。杏一の親友じゃない。

 

僕は魔女だ。苗床だ。怪人だ。化け物だ。

 

水溜まりを発見して、そこへ走る。覗き込むと当然水面に写る自分の姿。

枯れ枝のような頼りない手足。老婆のような真っ白な髪。どろどろとした汚い瞳。

 

大丈夫、僕は悪魔だ。

爪を荒く噛んでとがらせて、お腹に大きくバツの傷をつけた。ぴりぴりと走る痛みにひどく安心した。

 

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