授業を終えて、自宅への帰り道を歩く。足取りが重い。あの日から、私は彼女の部屋へと一度も行っていない。
——助けたいと思って行動に移したのなら、きちんと責任を果たしなさい。
つい数日前の母の言葉を、私は裏切ってしまった。何も成せず、誰も救えない。胸が絶え間なくずきずきと痛む。
どんなに辿り着きたくなくても、帰っているのだから家に着くのは当たり前。ドアの前でしばらくの間立ち尽くす。今となっては、
今日も私は、扉の向こうで泣いている彼女から目を背けるのだろうか。
陰鬱とした気持ちで玄関のドアを開けた瞬間、お母さんが焦燥した様子で私に捲し立ててきた。
「桜…!あの子は、なんなの!?あの目は何!?あの子は怪人なの?桜知っているでしょう?怪人を助けることは犯罪なのよ!それに、私に見つかったら窓から飛び出して行って…」
「っ!?」
先ほどまで感じていた暗澹たる感情。それらが全て吹き飛んだ。頭が真っ白になる。ばれた。耳に
お母さんの言うとおり、怪人の匿うことは明確な
——お母さんは、ナーサリーちゃんのことを何も知らないくせに。
母がナーサリーを拒否したことに冷たい感情が湧いてくる。元々自分だって魔女を浄化しようとしていたのに。自分のことを棚に上げた偽善心に反吐がでそうだった。
問題はそれだけじゃない。
逃げた、といえども、彼女に逃げ場所はない。
もしナーサリーが他の魔法少女に見つかってしまったら。彼女は潔く死を選ぶだろう。心の奥底ではそれを怯えているのに。
それに私が彼女と出会った時、彼女は監禁されていた。誰に?そんなの一つしかない。もし怪人に見つかってしまったら。
なぜあの日部屋に行くのを諦めてしまったのだろう。彼女は正気ではなかった。壊れていた。だからこそ私が側で支えるべきだったのに。
今も肩を震わせながら私に疑問と焦燥の言葉を浴びせるお母さんに碌な対応もせず、私は再び家を飛び出した。
走る。何かから逃げるために、ひたすらに走る。自分が何から逃げているのか分からないまま。
まるで鉛が流し込まれたかの様に足は重いのに、自分のお腹は病的に細くて軽い。お腹の
まるで凍りついたかのように頭は冷たいのに、心臓は沸騰していると勘違いするほどに熱く、激しく跳ねている。
自分は怪人なのに、ひとりぼっちなのに、僕を呼ぶ声を聞いてしまったからだ。
絶不調の体を無理やり動かして、あてもなく前へ進む。後ろを振り向くのが怖かった。
そうしていると、視界にだんだんと背の高い建物が増えてくる。この街の比較的都会である地域。
もう二度と目を見られるわけにはいかない。ぼろ布を再び目に固く結びつけた。
道ゆく人の数が増えてきている。好ましくない。
人間から距離を取るべきだ。誰もいないところへ行くべきだ。見つかったら魔法少女に浄化されてしまうから。
そうであるのに、できない。僅かに蘇ってしまった「椿」がそれを許してくれない。ひたすらに寂しい。寂しさで胸がいっぱいだった。
足が重い。必死に動かしても前に進まない。
拍動の度に心臓が激しく痛む。一人でいることに激しい拒否感を感じる。
一体僕は何を考えているのだろう。自分で選んだんじゃないか。最悪の堕胎を。希望の拒絶を。
一歩が辛い。もう歩くことも億劫になる。必死に動かしていた足を止めてしまう。駄目だ駄目だ駄目だ。ここで止まってしまったら、僕はもう進めない。
それなのに。
とうとう僕は、立っていることすら辛くなった。
道の真ん中で膝を抱え込んでうずくまる僕を、周囲の人々は怪訝に思いながらも無視して去っていく。
誰にも見つかってはならなかった。
誰かに僕を見つけて欲しかった。
相反する理性と感情が胸の内で激しく争う。
僕を避けるように通り過ぎる数多の足音。規則的なその音は僕のそばを横切る瞬間に僅かに遅くなり、また興味を失ったように速度を戻して遠くなっていく。ハイヒールの硬質な音。革靴の甲高い音鳴り。スニーカーのゴムが擦れる音。
遅くなって、遠くなって。近くなって、通り過ぎて。
その中の一つが、僕の目の前で止まった。そのことを疑問に思う間も無く、誰かが僕の肩に手を置いた。突然の接触にびくりと肩を震わせる。
「——ぼくが居ない間に、ずいぶんと勝手なことをしてくれたね」
凍りついた。聞き覚えのある声。一番聞きたくなかった声。
いつも少年のような無邪気さを感じさせるその声は、今回ばかりは憤怒に歪んでいた。
硬直した僕を、マーダーは存外優しく抱え上げて体を起こさせる。声色に合わないその行動に凄まじい恐怖を感じた。
「ほら、自分の足で立って」
そう言って腕から下ろされる。僕はこの怪人に従うほかなかった。目の前のマーダーの姿を視界に収める。変装でもしているのか、彼の黒檀の髪も澄み切った青い目も、今はありふれた茶色に染まっていた。
「行くよ」
マーダーが手を差し伸べてくる。彼に似合わない不自然な優しさに怯えと違和感を感じても、僕は彼に逆らえない。大人しくその手を握——
「——ッ!?」
瞬間、鋭い痛みが走った。手の平に刃物が突き刺さった感覚に驚き、悲鳴を押し殺すのに苦労する。マーダーが僕の手を強く握ると、不可視の凶器はより深く僕の手に食い込み、ついに手の甲まで貫通した。
「い"っ…!あ"っ!」
「まだ叫ばないでよ?これから
どういうわけか滴る血はマーダーの手に吸収されるように消えていき、地面に赤い染みを作らない。だから周囲は、僕の怪我に気づかない。違和感に気づかない。
「あっ!!」
マーダーが僕の手を強く引いた。穴の開いた僕の
「どうせ死なないし、地下室でいっぱい折檻したいところなんだけど、」
悍ましい彼の発言にびくりと体が跳ねる。そんな僕を見てマーダーは歩みを止め、楽しくてたまらないと言ったような表情で言った。
「ぼく、地上での『孕娼の魔女』の評判が気になるんだ。
僕の顔を覗き込む。興奮に朱に染まった頬も、茶色になっていても透き通るような美しさは変わらない大きな目も。今だけは濁り切った黒にしか見えなかった。
きっと真っ青になっているであろう僕を無視して、再び前を向いて歩き出すマーダー。
消えろ。化け物が。死ね。
以前僕に向けられた嫌悪が走馬灯のように頭の中を駆け巡った。足がすくむ。しかし、マーダーは止まらない。彼の手の平から生える刃に、自身の手を串刺しにされている僕は止まることを許されない。
「今日はあのビルの屋上でイベントがあるみたいなんだ」
マーダーが指を指す。避けられない絶望から逃れる術を、僕は持っていない。
老若男女の喧騒が響く。マーダーが目指していたとある商業施設の屋上では、なにかのフェスであろうか、仮設の割には豪華なステージとたくさんの露店があった。
「っ!」
マーダーが僕の手から刃を引き抜く。今朝に自傷をしていたからか、そこまで多くの血は流れ出なかったのに、ふらついてしまうほどの激しい眩暈がした。
『以上、ーー高校ブラスバンド部の皆さんでした!ありがとうございました!今から10分間の休憩を……って、君たち!勝手にステージ上に上がってはいけないよ!』
司会の注意を無視し、マーダーは僕を連れてステージに上がる。ステージ前の見物客の数はかなり多く、皆が僕たちを不思議そうな目で見ていた。
一拍置いて、大きく息を吸い込む。
「——皆さん、どうか落ち着いて聞いてください。
ぼくは、魔女にずっと虐げられてきた『農場』の怪人です」
マーダーの突然の訴えに、弛緩していた会場の空気が一瞬で凍りついた。
少しの沈黙の後、
混乱していた群衆は一人残らず押し黙った。
「ぼくは
…しかし!以前の『農場』突入作戦によって魔女は傷つき、仲間を捨てて『家』から逃げ出したのです!」
マーダーの悲痛な声に、群衆は息を呑んだ。今まで自身の子にばかり悪逆を尽くさせ、本人について何も分かっていない魔女という存在。そんな彼女の初めて明らかになった直接的な悪行に群衆は震え上がり、それと同時に憤る。
もはや彼らは怪人であるマーダーに同情を抱くほどになっていた。
「仲間の怪人にも酷いことするのかよ…」
「やっぱり悪い奴だったんだ」
「逃げた…って、まだ浄化されてないのか!?」
「なんで…なんで!なんで親友は死んだのに、魔女はのうのうと生きてるんだよ…!」
彼が危険度Aの怪人、マーダーであると気づかれたならば一瞬で彼の主張は破綻するだろう。殺人者の言うことを鵜呑みする人間はきっと存在しない。
しかし人間とは単純なもので、目と髪の色が変わっただけで、誰もその正体に気づかない。
マーダーは無遠慮に僕に近づき、ステージの中心に立たせる。僕の頭を鷲掴みにして逃げられないように押さえつけた後、一気に目隠しを取り払った。
「その魔女が——彼女です」
聴衆の視線が一気にこちらに向く。
「…っ」
息が詰まる。幾重にも重なったあまりにも重い感情の層に、押しつぶされそうだった。
この中には、家族を『魔女の児』に殺された者もいたのだろう。僕と目を合わせた者もいるにも関わらず、彼らから感じる僕への感情は恐怖だけではない。彼らの目は憎悪と、非難と、殺意に染まっていた。
「…よし、これでおっけー」
僕の魔眼よりも遥かに強い感情を伴った視線を
刃渡り十数センチのナイフ。
彼の意図が分からず、マーダーの顔色を伺う。すると彼は至極当然のように言い放った。
「死ななくても痛いのは痛いんでしょ?…
三日月形に歪んだ口元に、いつかの蛇人を幻視する。
絶句した。この少年はどこまで僕を追い詰めたいのだろう。僕は今、選択を迫られているのだ。凶器を手に取り、人間を害するか。人を傷つけるのを拒み、罰を受け入れるのか。
選んでしまえば、もうきっと戻れない。僕はこの刃を取るべきなのだろうか。駄目だろう。自分でその道を選んだ瞬間、僕は。
いや、違う。そうなるべきなのかもしれない。諦めてしまえば、僕はもう苦しまなくていいのだろうか。これを取ってしまえば、僕はもう期待しなくていいのだろうか。
震える手を、伸ばす。
少年の笑みがより一層深くなる。やめてくれ、と僕の中で誰かが叫んでいる。僕はそれを、心中で他人事のように見ていた。
ナイフの持ち手に手が触れる。それを、握ろうとした瞬間。
「——待って!!!!」
淀んだ空間を
息を切らしながらも、背筋をはって堂々と立つ姿。強い覚悟を秘めた、淡く光る瞳。そこには、大きな和弓を携えた桃髪の少女が立っていた。