「よりにもよって…お前かよ」
つい先程まで愉悦に染まっていた怪人の顔が一気に不快に塗り替えられる。マーダーは、積年の恨みがこもったような真っ黒な怨嗟を桜に流した。
「お前がっ!余計なことしてくれたから…!ナーサリーはこれで許してあげようと思ってたのに!またぼくの邪魔をするのか!」
血走った目で叫ぶマーダーの言葉を聞かずに、桜は静かに怪人に照準を合わせた。
「——がっ!?」
いつ射られたのかさえも分からない程に自然な行射。音を置き去りにした桜の矢は、気づけばマーダーの肩を打ち抜いていた。
驚愕した。つい数週間前は子供の遊戯に過ぎなかったはずの彼女の攻撃を、見切れなかった。
「…ごめんね」
気づけば僕の隣まで来ていた桜がそっと謝罪を口にする。その言葉からは強い自責と、色濃い後悔を感じた。
思わず彼女の顔を見上げると、桜は穏やかに笑って目を瞑り、どこからともなく美しい小太刀を取り出した。
桜に初撃を許してしまった衝撃からか、数瞬の間動きを止めていたマーダーがその小太刀を見て、以前と同じように大きく目を見開いた。
「……
その叫びを聞いた桜が、少し驚いたように目を軽く見開いた。
「……魔女さんの名前?…あなた、あの人と知り合いなの?」
「知ってるも何もっ!……はぁ。もういい。チェリーブロッサム…だっけ?君だけは目障りなんだよ。頼むから死んでくれ」
「なんで——」
桜の言葉が言い終わらないうちに、頭上から不可視の
殺った。完全な意識外からの攻撃。本来これは殺すための道具だ。命中すれば命はない。踵を返す。結果を確認するまでもない、はずなのに。
「
「…ほんっとに面倒くさい奴だなあお前は!」
髪の乱れ一つ見えない。最小限の動きでマーダーの不意打ちを完璧に避けていた桜。
もう何もできないのは嫌だから。
覚悟を固く振り絞った魔法少女の第二射が、放たれた。
危険度不明。五分以内に魔法少女が到着します。近隣の皆様は直ちに避難してください。
危険度不明。五分以内に魔法少女が到着します。近隣の皆様は直ちに避難してください。
危険度不明。五分以内に魔法少女が到着します。近隣の皆様は直ちに避難してください。
危険度不明。五分以内に魔法少女が到着します。近隣の皆様は直ちに避難してください。
危険度不明。五分以内に魔法少女が到着します。近隣の皆様は直ちに避難してください。
被害者を語る
「おい…なんだあの魔法少女は?」
「あの怪人を浄化しに来たの…?」
「あの怪人は被害者だろ?怪人なら問答無用で悪なのかよ…」
代わりに場を支配しているのは、困惑。
突如現れた桃髪の魔法少女。魔女に制裁を加えようとした瞬間に割り込んで来た彼女は何者であるのか。
どうやら魔女を庇っているような振る舞いに、
マーダーの能力は不可視である。そのため聴衆からすれば、魔法少女が丸腰の少年を弓で痛ぶっている様にしか見えない。先手を打ったのが魔法少女側であることも、彼らの疑念を際立たせていた。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ…!」
マーダーは大いに焦っていた。自身の能力の不可視の特性は桜の能力で打ち消されて遠距離では攻撃を当てることは敵わず、あの小太刀のせいで近づくこともできない。
それに対して相手の主の武器は弓。マーダーは桜に一方的に攻撃を許す形となっていた。
なんとか専念すれば桜の矢を避けることができるが、逆に言えばそれに集中しないと重い一撃を喰らってしまうということ。
屈辱だった。かつては片手間に処理できた相手に優勢を許してしまうことが。どんな手を使ってでも、敗北なんて悪夢を避けなければならなかった。
「…チェリーブロッサム!」
だから、彼女には
「魔女を助けるなんて、一体どういうつもりなんだ!」
白々しくもそう言い放ったマーダーに、桜は怪訝な顔を返す。
彼がナーサリーを乱暴にステージに引きずっていたのを遠目に見ていた桜は、マーダーが普段から魔女にどんな扱いをしているのかは容易に予想できた。だから彼が魔女を悪く言う理由が読めない。彼から視えるのは「
「…彼女は、助かるべき人だから」
狙い通り。桜の本心を聞き届けたマーダーの口が大きく愉悦に歪んだ。
「魔女が!?助かるべきだって!?見てよ!ここにいる人たちを!…魔女に大切な人を殺された彼らを見ても、同じことが言えるのか?まさか魔法少女にも魔女の手先がいるなんて!」
困惑の渦中にある民衆に向かって手を広げるマーダー。ナーサリーに夢中で彼らに全く意識を向けていなかった桜は、自身の発言の迂闊さを呪うことになった。
「…魔法少女ってのは、人間を守るための組織じゃなかったのか?」
「なんで魔女に味方してるんだ?」
「…あのお姉ちゃん、魔法少女なのに、悪い人?」
同情心を向けていた哀れな怪人と、彼に突然襲いかかった魔女の味方をする魔法少女。
マーダーの正体に気づかない彼らの民意は、大きく前者へと傾いていた。
「——っ!!」
今まで魔女に一心に向けられていた
息を呑む。今まで向けられたことも、視たこともない程に汚くて真っ黒な感情。大人だけじゃない。まだ年端もいかない子供でさえも、自分に嫌悪を抱いているのが視えた。思わず後ずさる。
痛い。人に拒絶される痛みは、想像を遥かに超えていた。
改めて魔女の悪名を思い知る。彼女はずっとこれを一人で受け止め続けていたのか。ナーサリーのことを何も知らないのにただ石を投げ続ける人たち。しかし、きっと彼らも被害者なのだろう。私に彼らを止める権利はあるのだろうか——
「——い"っ!」
反応が遅れる。初めてマーダーの一撃を喰らった。浅く肩を切り裂かれただけではあるが、とうとう反撃をお見舞いできたことにマーダーの笑みが深くなる。
そのままの勢いで民衆を扇動しようと、開きかけたマーダーの口が、止まった。桜の後ろを一瞥したかと思うと、突然彼はにたにたと笑い始めた。
そのことを怪訝に思う暇もなく、桜の真正面から不可視の大槌が振るわれた。
意識を切り替える。油断していなければ、迎撃は可能だ。応戦のために矢を放つ。
「!?」
しかしその矢は大槌とぶつかり合うことはなく、
「——到着しました!怪我人はいません…か………ブロッサム?」
その場に崩れ落ちるマーダー。俯いており誰もそれを確認できなかったが、彼の相貌は抑えきれないほどの愉悦の感情を浮かべていた。
警報に反応してこのビルの屋上まで駆け上がってきた魔法少女、バイオレット。しかしそこで彼女が見たのは怪人に襲われる人々ではなく、人々を守るために応戦する魔法少女でもない。
腹に大きな穴を開けて苦しそうにうずくまる少年と。肩口以外は無傷で、少年に弓を射ったままの姿勢の友人。そして、怪人ではなく
「よかった!普通の魔法少女が来てくれた!」
「あの怪人を助けてあげて!あの魔法少女に殺されそうなの!」
「あの魔法少女も魔女と一緒に浄化してくれ!」
バイオレットに向けられる要望はいつもと真逆。なぜ友人にこれほどまでの悪感情が向けられているのか。その答えはチェリーブロッサムのすぐ後ろにいた。
今にも折れそうな程に細い、こちらに背を向けている白髪の少女。民衆は確かに、彼女を『魔女』と呼んだ。あれが、人類の敵。災禍の化身。あの幼い少女が。
先日、桜から魔女を助けて欲しいと言われたことを思い出す。桜の言葉と、今の光景。どちらが正しいのか、わからない。バイオレットの思考は雁字搦めになり、一歩も動くことができなくなった。
怒号をあげる者、混乱に喘ぐ者、桜を睨む者。あまりにも喧騒に満ちたその場所で、一つの小さな足音が異常な程によく響いた。
皆が一斉に黙り込み、全員の視線がそちらへ向く。今までずっと沈黙を維持していた魔女が、立ち上がった。
「…洗脳して駒にしたのはよかったけど、思ったより使えなかったね」
「——ッ!? ナーサリーちゃっ…!?」
魔女は桜の口を塞ぐ。そして彼女の耳元で、誰にも聞こえないくらいの小さな声で。
「…ありがとう。ごめんね」
もう一度立ち上がる。全員の視線が自分に向いていることを確認した彼女は、周囲の人全員に届くように大きく息を吸い込んだ。
「今回は僕の負けだ。この魔法少女にかけた、僕の配下になる洗脳は数日も経てば解けるんじゃないかな。…いくら命令しても何も悪事をしてくれないからつまらなかったよ」
彼女の声が僅かに震えていることに、すぐ近くにいる桜だけが気づいている。もう一度ナーサリーを視る。
強い「諦観」と、今にも崩れそうな弱々しい「覚悟」。ほんの少しの「後悔」に、視ているだけでも押し潰されそうな程に大きな「恐怖」。
彼女が何を言っているのか理解できなかった。だから、反応がたった一拍遅れた。間に合わなかった。
「……待っ!」
突然走り出したナーサリー。咄嗟に彼女に伸ばした手が、寸前で空振る。
彼女が一目散に向かうは、立ち入り禁止となっているビルの端。そこへ辿り着く寸前に、魔女はこちらを向いた。泣きそうな顔をしていた。
「さよなら」
飛び降りる。桜の手は、最後まで魔女を掴むことができなかった。