孕娼の魔女   作:甘朔八夏

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2.崩壊

「へっぷし」

 

……寒い。目を開ける。午前六時五十分。目覚ましがなる十分前。ベッドの下を見ると、布団が床に落ちていた。どうやら蹴飛ばしていたらしい。寝起きなのにすっかり冷えてしまった体をぶるりと震わせて、体を起こす。

カーテンを開け放つと、窓には霜が降りていた。特に理由はないが、今日はそれを拭き取るのが億劫だと感じた。静かに迫り来るカビの脅威から目を背け、台所へ向かう。

 

よかった。昨日の残りの味噌汁があった。この気温で温かい汁物がなければ、寒がりの僕は発狂していたかもしれない。

そんな馬鹿なことを考えながら、慣れた手つきで卵焼きを作る。味噌汁が煮立たないように注意するのも忘れない。二品が完成したら冷凍の米をレンジで解凍し、朝食をいつもよりのんびりと楽しむ。冷えていた体が内側から温まっていくのを感じ、ほぅ、と息が漏れた。手早く皿を洗い、身支度を済ませる。ふと壁にかかった時計を見ると、もう家を出るべき時間を過ぎていた。いつもより早起きしたはずなのに。慌てて鞄を背負い、家を飛び出す…っと、その前に。

 

「いってきます」

 

仏壇に手を合わせる。もちろん返事はない。それが今日はなんだか、無性に寂しかった。

 

 

 

 

「遅いぞ」

 

家を出ると、門の前で僕を待つ友人がこちらを軽く睨んでいた。

 

「ごめん杏一。待たせちゃった」

 

「まあまだ間に合うだろうしいいけどさ。それにしても、椿が遅刻なんて珍しいな」

 

「いやぁ… 恥ずかしながら、布団を蹴飛ばしたまま寝ちゃっててね。体を温めるのに時間がかかっちゃった」

 

なんだよそれ、と呆れた目でこちらを見る彼は、白井 杏一(しらい きょういち)。小学校からの付き合いの親友だ。

 

意外とねちっこくこちらを責める親友に平謝りする。ふっと表情を緩めて、やれやれ、仕方のない奴だ、と言いたげにこちらを見る杏一に、少しイラっとした。いつもは僕———紅露 椿(こうろ つばき) の方が早く準備を終わらせて、杏一を迎えに行っているのに。

 

少し恨めしそうな視線を送ってみると、何を勘違いしたのか、にたにたと調子の良い笑みを浮かべながら話しかけてくる。

 

「お?どうした椿くん。そんなに俺の身長が羨ましいか?いやーすまんねぇ。180cm超えの俺の隣にいることで、椿の小ささが際立っちゃうんだよな——いっでェ!!」

 

戯言を抜かす友人の背中を手加減なしで叩いておく。僕だって165cmはあるんだが。小さいと言うのは言い過ぎではなかろうか。なお、頭を叩かないのは届かないからではない。決して。

 

その後も、くだらない話題で駄弁りながら通学路を歩く。やはり杏一の隣は居心地が良い。変に気を遣われる方が居た堪れないのだ。まして、愛する家族のいる彼らが僕に向ける同情なんて。そのお返しに、僕は彼らにどんな感情を向ければいいのだろう。わからない。善意の行動だってわかってる。なのに心は納得しない。どうすればいいのか、ずっとわからない。

 

「——っ!」

 

突然額に衝撃が走った。無意識の内にうつむいていた顔が弾かれたように上がる。

目の前には、悪戯が成功した子供のような表情で、でも僕を見守るような優しい目をした親友のアンバランスな顔。こんな不可思議な顔をしていても格好よく見えるのだから、美形は本当に得だ。そんな彼を見ていると、心の燻りが鎮火していくのを感じる。杏一の顔がへにゃりと崩れた。

 

「ほら、さっさと行こうぜ」

 

そう言って僕の手を引く。あぁ、本当に。杏一には敵わない。固まっていた頬を緩めて、そっと頷いた瞬間。

 

耳をつんざくけたたましい警告音があちらこちらから響く。最近聞くことのなかった、怪人警報。慌ててスマホを取り出し、情報を調べる。

 

危険度B。五分以内に魔法少女が到着します。近隣の皆様は直ちに避難してください。

 

騒がしくなる周囲。道を歩く人々や近隣の住民が一斉にその場を離れようとし、通学路はごった返した。

 

「椿!」

 

杏一は、人の波に流される僕を掴もうと必死に手を伸ばす。届かない。今すぐに合流するのは難しいだろう。それならば仕方ない。

 

「杏一!またあとで!」

 

それだけ叫んで、完全に人並みに埋もれる。きっとすぐに魔法少女が怪人を倒してくれるだろう。今は諦めて別々に逃げることにする。が、混み過ぎ。まるで満員電車の中にいるみたいだ。自分の意思で全然動けない。人混みから逃れるのを諦めて流れに身を任し、周りの人の様子を観察する。

逃げ惑う人々の顔には、不安や焦燥がむき出しになっていた。無理もない。怪人、それも危険度Bなんて一般人からすれば災害そのものである。その災害が悪意をもって我々を襲うのだから、逃げるのにこんなに必死になるのも当然だ。いつもほのぼのと生きているくせにこういう時にだけ大慌てするのは、きっと人間の性なのだろう。

 

 

 

 

 

———そんな呑気なことを考えていたからだろうか。

 

「ぅわっ!」

 

まるで故意であるかのように人混みから弾き飛ばされ、路地裏へ飛び入る。

 

 

 

 

 

 

———それともこんな状況でも自身が当事者になることはないだろう、と他人事のように捉えていたからだろうか。

 

アスファルトに強く打ちつけた臀部をさすっていた手を、無意識のうちに止める。

 

 

 

 

 

寒い、信じられないくらい寒い。震える手でマフラーに顔を埋めるも、感じる温度は変わらない。違う。これは、気温が下がったんじゃない。全身を駆け巡るあまりにも強い悪寒。焦燥。恐怖。

 

すぐ後ろのはずの大通りの喧騒が、聞こえない。その路地だけ、世界が切り取られたかのように静かだった。

だからだろうか。

 

ザッ——

 

僕のものではない足音が、やけに大きく響いた。

 

いる。前から感じる強烈なプレッシャーと忌避感。逃げたい。逃げられない。死んだ。死にたくない。なにかないか、なにかあるはずだ、この場から離れる方法が———

 

「顔を上げろ」

 

———ああ、無理だ。

恐怖で指先すらも動かなかったはずの僕の体は、圧倒的強者の命令にすんなり従った。自分の体のはずなのに、僕の言うことは無視して自分より強い者の言うことを優先するなんて、被支配者根性が本能に刻み込まれているみたいで嫌だ。

 

諦めからか、心中で不満を漏らす余裕ができ、目の前の怪人の姿を見ることができる。

 

一見ただの中肉中背であるのに、途方もない密度を感じさせる金属のような体。捕食者であることを体現した、縦長の瞳孔を持つ鋭い眼。そして、髪の代わりと言いたげに頭の上で蠢く無数の蛇。

 

危険度B。蛇人(ゴルゴン)

 

「ほう。その濁り。良い眼だ」

 

蛇人は僕の顔を覗き込むと、常人よりも大きな口を三日月型に歪めた。

 

「もともと今日は暴れる気分ではなかったのだ。こいつでいいだろう」

 

そう言って僕の首を無造作に掴む。思わずびくりと体が跳ねた。蛇人はそのまま目を閉じ、床を足で三度叩いた。突如、僕と蛇人の真下に真っ黒な穴ができ、重力に従い落ちていく。

 

「畜生にならずに、我々の同志となることを期待しておく」

 

首を掴んだまま語る蛇人の声は、黒に沈む僕には届かなかった。

 




危険度S 国が滅ぶ
危険度A 都市が滅ぶ
危険度B 町が滅ぶ
危険度C 未熟な魔法少女が死ぬ
危険度D 一般人が死ぬ
危険度E 子供が死ぬ
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