硬い地面の上で目を覚ます。辺りを見回して、そこが薄暗い路地であることが分かった。
なぜ自分がこんなところで寝ているのか。
そんな疑問は、コンクリートに飛び散った様々な物体を見ればすぐに思い出せた。
僅かに鮮赤が混じって、透明感の失われた脳漿。彩度の低いピンク色の臓器のような物体。所々に転がっている白い石のような物は頭蓋骨の欠片であろうか。
思い返してみても、地面に激突した痛みの記憶がない。ほっ、と息を吐く。どうやら即死できたようだ。まあ、これが生き返っているのか、そもそも死なずに再生したのかは分からないが。軽く口の端を上げるように意識すると、今回は笑っているように見せかけることができた。
桜には悪いことをしてしまったな。
後悔がないと言えば嘘になる。でも、きっとあれが最善だった。ああすれば人々の恨みは全て僕に向いて、桜は被害者として扱われるはずだ。
「…終わっちゃったな」
これで僕は晴れて人類の敵である。しみじみと感じ入ってみようかと考えたが、何を今更、という気持ちの方が強かったのでやめておいた。
数日関わっただけで分かる。桜は優しい子だ。でも、普通の子だ。無敵の力を持っているわけでも、折れない心を持っているわけでもない。きっと暫くは僕を思って胸を痛め続けてくれるだろう。
早く忘れてくれたら嬉しい。そう思っていると、ちくりと胸が痛んだ。自我も意識も、まだ足掻こうとしている。厄介なものだ。
それにしても、建物から飛び降りた先が路地とはなんて都合の良いことなのだろう。薄暗いと形容したこの場所であるが、その実、今が夜だから暗いだけであった。日中はそれなりに明るくなるだろう。そんな比較的浅い場所にある路地で何日間横たわっていたのかは分からないが、自分が目を覚ますまで誰もこの場所に訪ねてこなかった事が不思議でならない。
『——引退した魔法少女の現在は!? 会いに行きましょう!』
近くのビルの壁に備え付けられている大きなモニターから、明るい声が聞こえた。今日は週末なのだろうか。もう夜も更けていそうな程に大通りの方は暗くて静かなのに、まだバラエティ番組の賑やかな音が流れている。
これは良い。『孕娼の魔女』についての報道にさえ気をつければ、何もなくなった僕にとってそれは唯一の娯楽となりえる物だった。
今まで誰にも見つからなかったのだ。これからも大丈夫だろう。
そんな根拠のない予想をして、僕はその路地を拠点に生活することを決めた。
「……かゆい」
またダニに噛まれた。どうせ掻きむしったところで数分で治るので、気にせず血が出るまで患部を爪で引っ掻く。痛みよりも痒みの方が不快だったから。
ため息をつく。まだ路地に住み始めてからたったの数日。この場所は思った以上に居心地が悪かった。
死なない、ということは食べなくても生きていけるという事。水たまりに溜まった泥水をすすってお腹を壊した次の日、それに気づいてからはもう何も口にしていない。
不思議なことに食事を取らなくても体は健康なままだったが、いかんせん精神状態が最悪になった。
空腹を堪えるために三角に座り込んで顔を膝に埋めていると、いつも頭に浮かぶのは。
飛び降りる寸前に目を合わせた、桜の絶望したような顔。
確かな敵意をもって、自分を睨みつける迷子の少女の顔。
飲みかけの缶を差し出した僕を、呆然とした表情で眺め続ける杏一の顔。
怪人に殺される寸前に面に浮かべた、恐怖に染まった両親の顔。
まさか他人が自分より辛い思いをしていることを願って安心しようとしているのだろうか。自分の深層意識に反吐が出そうだ。また、気分が沈んだ。
「——先週の大会、どうだった?」
「あと一勝で本戦だったのに負けちまった…」
「うわー!おっしい!」
「う"っ……おぇ」
極め付けはこれ。この場所はどこかの高校の通学路のすぐ近くであるようだ。耳を塞いでも間隙から入り込んでくる高校生の声。明日に希望を持って生きる同年代の生活を感じると、発狂したくなるほどに頭が痛くなって必ず嘔吐してしまう。ずっと何も食べていないので、口から出るのは胃液だけ。最近はそれすらも出なくなってきた。
対処法は簡単だ。今すぐこの場所を離れたら良いだけ。でも、できない。もう誰にも見つかるわけにはいかなかった。
この路地だけは自分を肯定してくれているような気がして。自分だけの場所である気がして。
こんな生活は、決して日常とは言えないかもしれないけれど。何にも怯えずに生きることができるのは初めてだったのだ。初めて僕は逃げ場所を見つけることができたのだ。これ以上の幸福を求めることは、きっと僕にはできないんだよ。これが僕の精一杯なのだ。
だからさ。
「…やっと見つけたぞ、椿」
壊さないでよ。僕を。
「………椿?なんのことですか?貴方もご存知の通り、僕は魔女ですよ?」
「嘘を吐く時に一瞬上を見る癖、そんな簡単に変わらないよな」
しらばっくれてみるが、どうやら杏一は確信を持って僕を椿という人間だと見なしているようだ。
ごまかせない、か。深いため息が溢れる。
「お前は、紅露 椿だよな?」
「……今は
限りなく消極的な肯定。諦めて杏一に言葉を返すと、杏一は僅かに顔を歪めた後、真剣な顔で僕に視線を合わせてきた。
マーダーなんかより遥かに澄んでいて、桜よりも強い意志を持った焦茶の美しい目が僕を捉える。彼の瞳から、僕は目を離すことができなかった。
「何があったのかは聞かない。ただ、一つだけ。
……帰ってきてくれないか?」
「…っ!」
この男は。この親友は。この人間は。何を言っているのだろう。誰に言っているのだろう。その言葉をどれだけ欲していたのか、その言葉がどれだけ僕を傷つけるのか分かっているのだろうか。
もう遅いのだ。帰る?違う。僕は椿じゃない。椿
「…僕ね、びっくりしたんだよ。女の子になっちゃったから。誰でもびっくりするよねあはは。それだけじゃないよ!それから数分後にレイプされたんだよ僕!すごくない?僕、処女だった時間が世界で一番短いんじゃないかな?」
いいだろう。聞かないのなら、自分から話そうじゃないか。
どろどろした汚い感情が、毒が、呪詛が、口から溢れ出る。もう止まらない。これは拒絶だ。決別だ。餞別だ。もう存在しない希望を未だに抱いているかつての親友への。嗚呼、僕はなんて醜いんだろう。まるで魔女だ。
その通りじゃないか。
「こんなに小さい体になっちゃったのに何回も出産させられてさぁ。いやー、痛かったなあ、辛かったよ!」
「それにね、僕が産んだ子たち、みんな『魔女の児』って名付けられていっぱい人を殺したんだって!罪悪感に押し潰されそうでさ!やっぱり僕が子供たちを怖がっちゃったからなのかな?」
「あ、そうそう。僕、不死なんだって。そのせいか襲ってきた怪人はみんな僕に暴力を振るう人ばっかりでね!もう痛みしか覚えてないよ!変な趣味の人が多くてもう嫌になっちゃう…」
汚い言葉を吐き続ける自分のことが
でも、これで最後だから。自分の目に、脳に、彼のことを焼き付けたかった。それがたとえ負の表情であったとしても。
「僕にとってはただの暴力と変わらないね。でも、セックスって本当は気持ち良いんでしょ?気になるなぁ……ねぇ杏一。
自分が何を話しているのかさえも分からない。
ただ真っ直ぐに彼の目を見据える。初めて、自分の意志で魔眼を行使した。
お願い。僕に怯えて。僕を拒絶して。僕から逃げて。
僕の紅く光る濁り切った瞳を見た杏一は。
表情を変えずに僕に躊躇いなく近づいて。
僕を強く抱きしめた。
困惑する。なんで魔眼が効かない?なんで杏一は恐怖を感じていない?
なんで…なんで。
なんで彼の腕の中は、こんなにも温かいの?
ただでさえ固く抱きしめた腕の力が、さらにさらに強くなる。もはや痛みを感じそうな程に強く抱きしめられているのに、ただただ温かい。
「…馬鹿。抱くって、そういう意味じゃないよ……」
もう耐えきれない。ぼろぼろと涙をこぼす。ふと、頭の上に雫が滴ったのに気がついた。どうやら杏一も泣いているらしい。
恐る恐る、控えめに、しかし確実に、杏一の背中に腕を回して抱き返した。杏一の背中がびくっと跳ねて、片手でそっと僕の頭を撫でてくる。
なんてことはない。ただ杏一の腕が僕の体を包んでいるだけ。それをしたから事態が好転するわけでもないし、僕が魔女であることは何も変わらない。でも、胸から湧き出る熱は、どうしようもないほどに僕に心地良さを与えてきて。
「生きるのが辛い」
「うん」
「もう終わりにしたい」
「…うん」
「でも本当は死にたくなんかない」
「うん」
「誰にも嫌われたくない」
「うん」
「逃げたい」
「うん」
「帰りたい」
「うん」
「でももう戻れない」
「…うん」
「さみしい」
杏一は、僕の頭を優しく撫でていた手を再び背中へと回す。
「なぁ椿。ナーサリーじゃない。椿。お前に言っているんだ。魔女でもいい。怪人でもいい。でも俺の前では。俺だけには!白井 杏一と関わるお前だけは、『紅露 椿』でいてくれないか?」
無責任な言葉。身勝手な言葉。世界の敵、孕娼の魔女の宿木に立候補するなんて。なんてずるい奴なんだろう。なんて悪い奴なんだろう。
せっかく収まってきた涙が再び勢いを取り戻す。声が出ない。だから、杏一の胸の中で何度も何度も頷いた。
また僕を固く抱きしめる。杏一の腕は、今まで感じた中で1番力強く、優しく、温かい。
『———26日から全国的に平年よりも高い気温が続きそうです。来週からはやっと暖かくなりますね』
遠くでニュースの流れる音が聞こえる。
長い、長い、冬が終わった。
なんで。なんで今まで気がつかなかったのだろう。あんな高いところから飛び降りた後、平然と動けるはずがない。いや、普通に考えて生きているはずがない。
なぜ私は、彼女が飛び降りた建物の周りを調べようともしなかった?
分からない。でも今それは重要じゃない。どんなに辛くても、たとえ物言わぬ姿で横たわる彼女を見つけたとしても。
もう彼女がひとりぼっちであるのを見たくなくて。無我夢中で、走って走って走り回って。
比較的大きな路地の奥に見えた人影。こちらに背を向けて立つ、白髪の少女。見つけた。生きていた!
「!! ナーサリー…!ちゃ……ん?」
彼女だけじゃない。もう一人、誰かいる。
白髪の少女を優しい顔で抱きしめる長身の青年。彼に抱きしめられた彼女から
いつもの「諦観」も「絶望」も今だけは鳴りを潜めて、青年に向けられた全幅の「信頼」と「安心」。
私はこの時、魔女の幸福な感情を初めて視た。
ナーサリーはこちらに気づかずに、青年に縋り付いて泣きじゃくっている。ただ抱きしめられただけ。だとしても、それは彼女にとって救いだったのだろう。
よかった。
彼女の笑顔が見たかった。だから連れ出した。きっとあの青年は彼女を笑顔にしてくれるだろう。これで良いはずだ。
それならば。
この感情はなんだろう。自分の感情を視ることはできない。だから今自分がどんな風に視えているのか分からない。
嫉妬ではない。それよりももっと複雑で、もっと深い何か。
桜はそれに名前をつけることができずに、ただ青年の胸の中で泣いている彼女を見つめていた。