孕娼の魔女   作:甘朔八夏

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20.休息

 

魔女が飛び降りた。

 

狂ったように歓声をあげる者、目の前で怪人の自殺を目にして呆然とする者。混乱そのものになった現場で、正気を保っている者は一人もいなかった。

 

「いやっ、嫌だ!嫌だよっ…ナーサリーちゃん!!!待ってよ!ねぇ!」

 

「ブロッサム!!待って、一度落ち着いて!」

 

ひたすらに誰かの名前——恐らく魔女のことであろうか——を叫びながら魔女を追って飛び降りようとする桜を、放心から脱したバイオレットが必死に止める。幸いにして桜の力はあまり強くない。羽交い締めにして暴れている彼女を抑え込む。身動きの取れなくなった桜はそれでもなお、取り憑かれたかのように無我夢中で手を前へ、前へと伸ばす。

 

「離してよっ!今行けばまだ…!ナーサリーちゃんが!そんなことをして欲しかったんじゃない!!違うの!」

 

「ブロッサム!!!」

 

「——っ!」

 

自分を強く呼ぶ声が、耳元で強く響いた。信頼している友人の、頼れる仲間の声。体を硬直させて、弾かれたように自身の体を抑え込む人物の顔を見る。桜はやっとバイオレットの存在を認識した。

 

「…菫、ちゃん?」

 

呆然として、目の前の友人の名前を呟く。まるで心に穴が空いたかのような空虚な顔。無力感に押し潰されたかのような顔。菫には、桜の姿がとても小さく、弱々しく見えた。堪えきれずに彼女の頭をそっと胸に抱く。

 

「…自分のことを魔女の仲間だと思い込んでいるんでしょう?大丈夫、貴女は私の仲間で、大切な友人。魔女に絆されても、そのことは絶対に変わらないわ」

 

桜の背中を優しくさする。桜を救おうと、魔女の呪縛から解き放とうと発した菫の言葉。

 

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それは桜の心をあまりに深く抉った。

 

「ちがう…ちがうの…」

 

だって、そうじゃないと。

 

———無理に関わろうとしなくていいですよ。

 

彼女が心の底からの「寂しい」を必死に抑え込むようにそんなことを言ったのは。

 

———すいません。ごめんなさい。

 

彼女の部屋に行けなくなったあと扉の隙間から渡された手紙に、水滴が落ちたかのような滲みが幾つもあったのは。

 

———…ありがとう。ごめんね。

 

私より何倍も痛くて、何倍も辛いはずなのに、私を助けるためだけに全部を抱え込んだ彼女は。

 

「助けられるって思ってたのは、私だけだったの…?」

 

仲間になれると、歩み寄れると思っていたのは幻想だったのだろうか。ナーサリーの中に『桃崎 桜』は不要だったのではないか。

 

菫が自身を背を撫でる優しい手つきが、まるで(やすり)で心を削られているように痛かった。

 

 

 

 

 

 

その後は怒涛だった。次々と現場に集まる魔法少女たちに拘束されて、対策課へと連行される桜。治癒を持つ魔法少女による、存在しない症状(せんのう)の治療。

 

どうやら私はあくまで被害者として扱われるらしい。

 

魔女が洗脳の能力を持っていたことなど、世間にとってはちっぽけな話題だった。それどころではない。魔女の姿がついに明らかになったのだ。

魔女の味方をしたにも関わらず、桜の元へ届く言葉はほとんどが同情。仲間たちに慰められるたびに、桜の心は悲鳴を上げた。

 

入院中に母が来て。散々泣き腫らした目尻になお涙を浮かべて桜に抱きついて。

何も知らない彼らからすれば、桜に降りかかった災難はこれで終わったのだろう。

 

魔女が本当に悪ならどんなに良かっただろうか。そんなことを考えてしまう自分が嫌いだ。

 

 

 

 

 

平穏と間違えてしまいそうな空虚な日々が続く。何か大切なことがある。しかし、それが何か分からない。考えを巡らせようとすると、頭に靄がかかったように思考がまとまらなかった。

 

魔法少女の役目も復帰した。

眼前で、声も上げずに光の粒子になって消えていく怪人をぼんやりと見つめる。ふと、小太刀の存在を思い出した。手の平を見つめて軽く念じてみる。桜の手の上に、誰かの手が重なった気がした。

白くて小さな、守りたかった手。

 

「!!!」

 

すぐに走り出した。目的地は、とうに知っていたはずだった。それから走って奔走して探し回って。

 

——彼女は今、私の隣にいる。

 

 

 

 

「…なんで、僕を見つけられたの?」

 

「俺もよく分からないんだが、なんか変な靄が見えたんだよ。それを追いかけてたら椿の所に着いたってわけ」

 

「…よくわからないな」

 

「だろ?」

 

彼らの会話はぎこちない。しかし、自然体だと思った。青年を見る魔女の顔が、彼の声を聞くたびに僅かに綻んでいることに、私だけが気づいている。

 

ナーサリーの顔が割れてしまったので、少しでも見つかる確率を減らすために路地の奥へ進む。どちらとも目を合わせておらず、現在魔眼は発動していない。だから私でも彼女とごく普通に話すことができる。

しかし、違う。杏一と名乗った青年は、本当の意味でナーサリーに怯えていなかった。

 

たとえ内心にどれだけ歩み寄りたい意志があっても、怪人と対峙することを人間は本能で嫌う。このことに例外はない。それにも関わらず、杏一だけはナーサリーを等身大に見ているように思えた。

 

そのことには彼女も気づいている。だから溢れてしまったのだろう。

 

「…僕が、怖くないの?」

 

ぽつりと漏れた疑問。桜という前例がいるからこそ、口から出てしまったその言葉。それが桜にとって呪いであることを魔女は知っている。沈黙とも呼べないほどに短い一瞬の静けさが広がった。

慌てて自身の言葉を取り消そうとするナーサリーの頭に、温かな手がやや乱暴に置かれた。そのまま白髪を乱すように頭の上を撫で回す。

 

「阿保。お前がいなくなることが、俺は一番怖いよ」

 

「…っ」

 

心からの本心だと、そう信じられる声だった。熱くなる目頭も、くしゃくしゃになった顔も。今だけは誰にも見られたくなくて、椿は杏一の胸に顔をうずめる。もちろん、杏一にそれを受け入れる以外の選択肢は無い。優しく椿を包み込む。辺りに小さな嗚咽だけが響いた。

 

 

そんな彼女に、桜はなんと声をかければいいのか分からない。ただ一つ分かったのは、青年との圧倒的な差だけ。無意識に彼女に手を伸ばして、何もできずにその手を下ろす。

 

今この場所で、私は異物なのではないか。

 

ひどく居心地が悪かった。

 

 

 

 

「…よし、一旦ここで休憩だ」

 

四半時ほど歩いただろうか。前を見ても後ろを振り返っても、視界を埋めるのは依然として路地のまま。しかし杏一が立ち止まった場所は道端が広く、小休止に適した空間になっていた。

椿に座って休むように言い、杏一は桜に向き直る。どきりとした。ここまで迷いのない眼をしている人を初めて見たから。

 

「桜さん」

 

杏一は、桜に深く頭を下げた。

 

「改めて、椿を助けてくれてありがとう」

 

明らかに年下であろう桜に向けられた、地面に頭がつくのではないかと錯覚するほどの深々とした感謝。桜は慌てて杏一の体を起こそうとする。

 

「そんな…!私は、助けたかったのに…。何も、できなくて。私なんか——」

 

「そんなことない。君が椿を連れ出してくれたんだろう?君のおかげで俺はまた椿に会えたんだ。君が、助けてくれたから」

 

杏一が椿の背中を軽く押す。

 

「ほら、椿。言いたいことはちゃんと言わないと伝わらないんだぞ?お前は昔から素直に気持ちを伝えるのが苦手なんだから」

 

呆れたような顔をしている反面、その声はひどく優しげだった。

杏一に促された椿は勢いあまって数歩前へとよろめき、桜のすぐ前まで来た。下を向いて所在なさげに手をいじり、何かを口にしようとしては躊躇って、を繰り返している。居心地が悪くて、桜は助けを求めるように杏一の顔を見た。彼は桜に向かって軽く頷いた。

 

少しの静寂。やがて彼女は覚悟を決めたように口を一度固く結び、こちらに向き直った。当然目が合う。いつもは根源的な恐怖を掻き立てるはずの魔女の魔眼。その時だけは、桜はそれがまるで満開になった花のようで、磨き上げられた宝石のようで、とても綺麗だと感じた。

 

「目の前で飛び降りておいて何を、って思うかもしれないけど。…桜さんが僕を助けてくれて、生きたいって思えたんだ。誰かのために生きてみたいって思えたんだ」

 

桜に笑顔を向ける。

 

「ありがとう」

 

ずっとずっと救いたかった人。笑顔にしてあげたかった人。彼女の笑みを見て、絶えず燻っていた無力感も杏一に対する暗い感情も今だけは弾け飛んだ。

 

「わっ!?桜…さん?」

 

気づけば白髪の少女は自身の腕の中に居た。突然抱きしめられた椿は分かりやすく体を固めて、しかし控えめに桜を抱き返す。

 

「本当の名前、椿っていうの?」

 

「…隠していて、すみません」

 

「これからは私も、椿ちゃんって呼んでいいかな?」

 

「……はい」

 

曖昧な返事。それを聞いた桜は息を詰まらせて椿から体を離した。

 

「あっ、嫌ならそれ…で?」

 

彼女は、なぜか気まずそうに顔を軽く顰めていた。躊躇いがちに口を開く。

 

「あの、できれば呼び捨てか君で呼んでほしい…です」

 

本名なので、と付け加える椿の意図が分からない。怪訝な表情を隠せずにいると、彼女は覚悟を決めたように言葉を紡いだ。

 

「僕、男だったので」 

 

「……………え?」

 

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