「えっ。椿ちゃん…じゃなくて椿君って高校生!?…ずっと年下だと思ってた…すみません椿ちゃ…くん」
「…敬語はいらないよ。あと、もうちゃん付けでいいよ…」
あれから桜との距離がぐっと近づいた気がする。手を差し伸べてくれた彼女のために、一人で立とうとしていた。しかし、それが間違いであったことに気づけた。
僕は、誰かに頼るべきだったのだ。助けを求めるべきだったのだ。そんな簡単なことに気づくのに、随分と時間がかかってしまった。
先ほど桜に本音を晒せた時。感謝を伝えられた時。あの時だけは桜に魔眼が効いていなかったように思う。もう一度やれ、と言われたら無理だろう。しかし、この呪縛は制御できるのかもしれない。一抹の希望を得た気がした。
僕たちの会話を杏一が後ろで静かに聞いている。彼には一番の感謝を送らなければいけないだろう。僕の意地が桜をずっと傷つけていたことを教えてくれたから。
路地は想像よりもずっと長い。もう一時間ほど歩いただろうか、しかしまだ端は見えない。進む度に、会話がしだいに少なくなる。口数が減っていく。
無理もない。二人は僕に配慮して、学校の話も魔法少女の話も避けてくれている。
僕の心は地雷まみれだ。二人はそれらを探知機も無しに避けて進まなければならない。そんな些細なことまで気を遣わせていることが申し訳なかった。しかし、それに助かっているのも事実。
ならば僕から話せばいいのではないか。話したいことも、話すべきことも沢山ある。しかし、それ以上に話したくないことが多すぎて。
沈黙は続く。
くるぶしの痛みによって歩みが遅くなる。二人は何も言わずに僕の速度に歩幅を合わせてくれている。
そう言えば、こんなに長く歩いたのは久しぶりだ。使わなければ衰えていくのは当たり前の事。弱々しくなった自身の足腰に呆れてしまう。
杏一が度々休憩を申し出てくる。それを手で制して歩く。どこに向かっているのかは決まっていない。急いだからって事態が好転するとは限らない。
しかし、これ以上二人に迷惑をかけたくなかった。彼の顔から目を逸らす。そんな顔をして欲しいから、彼の優しさを断ったわけではないのだ。
心配の視線が痛くて、それを消したくて。杏一に一方的な笑顔を向けた。
「…着いた」
たとえ亀の歩みであっても、ひたすら歩けば前へ進むのは当然の事。数十分後、僕らは路地を抜けて住宅街へ到着した。
「ここからどうします?…私の家へ行きますか?母は仕事からまだ帰っていませんし」
「…いや、やめとこう。隠し通すのはきっと無理だ。危険だと思う」
「…っ! そう、ですよね」
薄暗い路地の中では分かりにくかったが、今はもう夕方らしい。
「…あっ」
吸い寄せられるようにその前まで行く。
なんの変哲もないラインナップ。色褪せた広告に、少し錆びて赤みがかった硬貨の投入口。僕はそれらから目を離せなかった。
「ほらよ」
いつのまにか後ろまで来ていた杏一が、僕の手を開いてそこに小銭を握らせる。そして自分も缶コーヒーを購入しながら僕に言った。
「今日は俺のおごりだ。感謝しろよ?」
思い出す。杏一の寝坊によって僕も一緒に遅刻してしまった時、彼はお詫びとしてよく僕に飲み物を奢った。
自分は苦手なくせに、馬鹿の一つ覚えみたいにココアばかり買って。僕がココアの気分ではない時はどうするつもりなのか、と尋ねたら「ココアの気分になった時に奢ろう」と返された時は流石に笑ってしまった。
そんな杏一は現在、財布を家に忘れた桜にも奢ろうとしている。必死に遠慮する彼女となだめすかして小銭を握らせようとする彼を傍目に、僕は自販機のボタンを押した。
ゆっくりとそれを取り出す。奢り奢られの攻防に勝利した杏一は、僕が買った物を見て目を見開かせた。
「椿、それ」
「……たまには、ね」
ホットコーヒー。それが僕の買った商品だ。杏一は、僕が苦い物が得意でないことを知っている。しかし、彼は僕が
「…?」
もちろん桜はその事を知らない。怪訝な顔をして、黙りこくった僕らを交互に見ている。こんなくだらないこと、彼女に説明する必要はないだろう。
杏一の視線を受け流して、案外固いプルタブを開ける。力を込めすぎたせいで中の液体が揺れ、手に熱い水滴が付いた。肌を焼く感覚に僅かに顔を顰めると、桜が焦ったように僕に近寄る。
ハンカチを差し出した彼女に対して首を横に振り、手の上の黒い水滴を舐めた。
…これだけでは分からない。缶の飲み口を覗き込んだ。その中の漆黒にほんの少しの怯えを感じながらも、僕は珈琲を喉へと流し込んだ。
缶を勢いよく傾けた椿は、突然肩を激しく跳ねさせて咳き込んだ。
「椿ちゃん!?」
すぐさま椿の肩に手を置く桜。それに対して、椿はばつが悪そうな顔で苦笑した。
「大丈夫、火傷しちゃっただけ」
年下の少女に些細な失敗を心配されたことを恥ずかしく思ったのか、頬は僅かに朱に染まっている。
「ほら、桜ちゃんも杏一からお金もらったんでしょ?買ってきなよ」
そう言って桜の背を押す。椿の「大丈夫」が今まで真実であったことは無い。だから、こんなくだらない事で心配できるのも初めてだ。桜は、ただ椿がうっかりしていただけだと思い込んで、安堵の息を吐きながら自販機へと向かった。
桜は自販機で飲み物を買ったことがない。母から高いと教えられていたからだ。見慣れない自販機特有の商品群を眺める。それから随分と自販機の利用に慣れているように見えた椿のことを思い出し、そちらへ振り返った。
「ねぇ椿ちゃん。なにかおすすめは———」
頭蓋骨が路上に激しく激突した。鈍く痛々しい音が数メートル離れた桜のところまではっきりと聞こえ、叩きつけられた椿の頭から血が溢れ出す。美しい白髪が真っ赤に染まった。
「お前が!お前がっ!!!」
瞬きの内に、長い緑髪をはためかせて桜たちの死角から
「お前が殺したんだ!!お前がいなければっ!!姉さんは!!」
椿の頭を両手で鷲掴みにして、何度も硬い地面に叩きつける。椿の口からはくぐもった息が漏れるのみで、声すら上げられない。
それだけでは飽き足らず、緑髪の魔法少女は虚空から
なんの躊躇いもなくその凶器を振り下ろす。魔法少女の視界には、すでに潰れた
禍々しく夕日を反射する
すでに変身を終えていた桜は、自身を
魔女の殺害に失敗した魔法少女の視線は、桜の方へ縫い止められてぴくりとも動かせない。桜の能力を受け、彼女と顔を突き合わせた魔法少女はそこで初めて桜に気づき、憎々しげな表情を隠そうともしなかった。
———彼女…姉を『魔女の児』に殺されてるの
『農場』突入作戦の直前の綾芽の言葉が蘇る。
魔法少女クローバー。
暗い目で魔女に対する呪詛を吐いていた彼女は、現在血走った目で桜を睨んでいた。
「チェリーブロッサム。やっぱり貴女は狂っていたのね」
「…椿ちゃんから離れて」
「ほら答えない。そもそも、魔女に味方をしているような人外と話が通じると思った私が馬鹿だったわ」
すぐさま会話を打ち切り、何の感慨もなくもう一度
「——ッ!」
すぐさま金属矢をつがえてクローバーの武器を弾き飛ばし、彼女に体当たりをする。クローバーの体は不自然なほどに痩せ細っており、軽い桜の突進でも簡単に椿の上から吹き飛ばされた。桜はクローバーと一緒に地面を転がりながら杏一に向かって叫ぶ。
「椿ちゃんと逃げて!!——がっ!?」
背中に鋭い衝撃。
手足を地面に擦りつけながらもなんとか振り返る。緑髪の女は桜の背を蹴りつけた後、無防備に背中を晒しながら武器を拾っていた。もう一度、こちらを向く。魔法少女の目は、桜を見ているようで何も捉えていない。彼女の双眸はまるでぽっかりと穴が開いたかのように真っ暗だった。
「…なんでなんでなんで邪魔するのお前も敵なの?」
ぼそぼそと口から漏れ出る言葉。桜は理解した。椿を救いたければ、彼女と決別しなければならない。
かつて共闘した時の頼れる彼女の姿が脳をよぎる。暫しの逡巡の後、桜は沈痛な面持ちで小太刀を顕現した。
「なんで姉さんが!!魔女が!!お前が死ねば良かったんだ———あ?」
「…ごめんなさい」
飛びかかってきたクローバーの攻撃をそっと逸らし、彼女の胸に小太刀を軽く刺しこんだ。瞬間、変身が解けて糸が切れたかのように意識を失う緑髪の女。
倒れそうになる彼女の体を支えてそっと寝かせる。まるで死人のように意識を飛ばしたクローバーの顔を一瞥し、桜は椿と杏一を追った。