杏一の羽織っていたジャケットでよく目立つ白髪を隠し、彼に手を引かれて住宅地から離れる。相当強く頭を叩きつけられていたようで、傷が治るのが異常に早いこの体でも、まだ血は止まらない。
ジャケットに赤い染みが広がっていく。
「あの人は?」
「…今は、気絶してます。私がさせました。しばらくは起きないと思います」
「ひとまずは安心、ってとこか」
顔を服で覆っているので何も見えない。杏一の袖を掴んで、おぼつかない足取りを晒す。
僕は、自分に心の底からの憎しみを向けたあの魔法少女のことを知らない。だが、彼女の憎しみには心当たりがある。あまりにも大きな心当たり。
きっと、『魔女の児』が彼女の大切な人を殺したのだろう。
忘れていた訳じゃない、つもりだった。僕は一方的な被害者ではない。確かに我が子は誰かの人生を、幸せを奪ったのだ。たくさんの人が絶望に喘いだ。僕が産んだから。
何故誰にも助けを求めなかったのか。求められなかったのか。ただ意地を張っていた、だけではない。
ずっと奥底で燻っていたのだ。
僕は助けられていいのだろうか。
助けを求めながら死んでいった人から目を背けて。僕だけが。
「……杏一?」
突然彼が立ち止まった。こちらに振り向く気配がする。
「どうしたの…わぷ」
ジャケットの上から杏一が軽く抱きしめてくる。上半身が彼の胸にすっぽりと包まれて、鼻腔を彼の匂いが支配した。
「余計なことを考えるな」
ジャケットをめくって僕と目を合わせてくる。そして、ニヤッと笑った。その悪戯っぽい笑顔が、彼にはよく似合っていた。
「俺の顔だけ見とけ。この整った相貌をな」
…くだらない。誰が得をするんだそれは。自信たっぷりの表情で顔に指を当てる杏一の冗談に鼻を鳴らす。
「…あ」
その時、自分の顔が綻んでいることに気づいた。
はっとして自身の頬に触れると、彼は安心したように息を一つ吐いた。袖を僕の手に握らせ、再び前を向いて歩き始める。
やはり、彼には敵わない。僕は恨まれるべき存在なのだろう。罪は、償われるために在る。償わなければいけない。直面しなければならない。
でも今だけは、彼の優しさのぬるま湯に浸かっていたい。せめてそれくらいは、望んでもいいだろうか。
やけに鼓動がうるさい。
眼前の不快なものを見ないようにする。変身を解いた。椿が杏一に向ける感情を視たくなかったからではない。ただ、変身を解いた方が目立たないと思っただけだ。それだけ。
その時、菫とひまりの、自分を案じて不安そうにする顔が脳裏をよぎった。続けざまに浮かぶのは、綾芽の自分を心から信頼してくれている顔。そしてまだ
彼らだけでは飽き足らず、自分にも嘘をつくのか。
違う。これは私を守る盾だ。むしろこれは彼らに対する善意だ。
めちゃくちゃな論理で濁る思考に蓋をする。
だってこの感情に名前をつけてしまったら、私は杏一を嫌いになってしまうから。
「…二、いや、三名ですか?」
もうすっかり日が落ちた。闇に染まった今日を乗り切る為に選んだ逃げ場所は、民家のような古い宿屋。
「これから」を考慮していない、その場しのぎの案。
ジャケットで体を覆った
「…いえ。私と、彼女。二人です」
三人で決めた事。杏一は
彼は「紅露 椿」とあまりに深い繋がりを持っている。彼が事情を隠して魔女を手助けしているのが白昼の下に晒されてしまったら。
杏一は勿論、「紅露 椿」の周りの人間にも危険が及ぶ。それほどまでに魔女は疎まれている。自分のせいで無関係なかつての友人が苦しむのが、椿は耐えられなかった。
苦渋の決断だったのは間違いない。杏一は大きな未練を残したのが丸わかりの表情を隠そうともしない。そのまま、年若い少女二人だけで宿泊を願い出たことに眉を顰めている主人に頼み込む。
「お願いします」
「…いや、貴方は泊まらないんでしょう?いたく必死なようですが」
「今日だけでいいんです。お金なら余分に払います。明日には二人を迎えに来ます」
主人の眉が僅かに下がる。杏一に向ける視線が不審な男を見る目から、保護者を見る目に変わった。怪しいことは変わりない。しかし、明日迎えに来る、という言葉に、家庭内でのいざこざを想像したのかもしれない。
「……わかりました。この宿も古い。趣味でやっているようなものです。事情は聞きませんよ」
適当で、今の自分たちにとっては非常にありがたいその言葉を聞いて、無意識に込めていた肩の力が抜ける。
「…ありがとう、ございます」
杏一の背から、少女の小さな声が響く。主人はただ頷くのみで、それ以上言葉を発することはなかった。
「…悪いな、椿。修学旅行みたいに一緒に泊まれたらよかったんだが」
「仕方ないよ。むしろ、ここまで付いてきてくれてありがとう」
椿が曖昧な表情で、しかし眉尻を下げようと努める。そんな下手な取り繕いに、彼が気づかないわけがない。唇をぐっと噛んで、私の方へ向き直る。
「…桜さん。椿を、頼む」
……よくわかる。大切なんだろうなって。果たして私は椿にここまでの感情を向けていただろうか。
彼の言葉に頷くと、杏一は何かを思い出したかのように耳元へ顔を近づけてきた。
「…さっきの緑髪の魔法少女のこと、後で教えてほしい」
「!……わかり、ました」
ほら、また。彼が私の耳元で囁いたのは、この話を椿に聞かれないようにするため。彼女に少しでも負担をかけたくないのだろう。
「…それじゃ、また」
最後に再び椿の方へ体を向けて、名残惜しそうな声色で手を掲げる。
椿はその手をじっと見ていた。少しの逡巡の後、軽く背伸びをして自身の手の平を杏一の手に叩きつける。
ぺちん、と頼りない音が鳴った。
沈黙。二人は一度表情を固めたかと思うと、ばつが悪そうに苦笑し合う。作り笑いだった。
手を下ろす。今度こそ本当にお別れだ。
「……あっ」
玄関で彼を見送る。余計な心配をかけたくないのだろう。部屋の前に着いてからはずっと暗い表情をしないように努めていた彼女は、閉まる扉を見て、不安げに小さく声を漏らした。
椿の視線は扉から離れない。なんとなく、杏一も扉の前から動いていないだろうという確信があった。
頭では分かっている。彼こそが最善だ。杏一と椿の邪魔をしないことが私のできる最良の行動だ。でもヘドロみたいな汚い思考が、嫉みがこびりついて離れない。
彼女の眼は、私を捉えない。
「椿ちゃん」
私の声を聞いて我に返り、慌てたようにこちらを見る。彼がいた時よりも少し昏くなった紅い瞳に、私の姿が映る。私の顔は、嫌悪に歪んでいた。
ぞわり。全身が粟立つ。湧き出す恐怖、自身の表情への疑問、困惑。
——なんで私じゃ駄目なの?
違う。私は特別じゃない。彼とは違う。だから、こんなことを思ってはいけない。現に魔眼に怯えてしまっているではないか。彼が乗り越えた
「…どうしたの?」
紅い瞳が不安げに揺れる。
私には魔女を救えない。私は魔女の「大切」になれない。今までも、これからも。
杏一の去った扉へ近づく。突然の私の行動に、椿は声もかけられない。それでいい。疑問と不安の入り混じった視線を背に受けながら、ドアに手を伸ばして。
かちり。
鍵を閉めた。
「…杏一さんに、迷惑かけたくないの?」
「ぇ?…あっ、うん」
振り返って、白髪の少女を見下ろす。目は合わせない。
「明日に杏一さんが迎えに来るの、申し訳ない?」
虚をつかれたように吐息を漏らす。そのまま、彼女は俯いた。
これは私情だ。椿のためじゃない。だから、これは彼女を惑わすための戯言。
これじゃあどっちが魔女か分からないな、なんて心の中で苦笑を漏らしながら。
「じゃあ明日、杏一さんが来る前に逃げちゃおっか」
ひどく気分が良い。