早朝。まだ闇の抜けきらない空に包まれながら、ひっそりと宿屋を出る。お金は昨日杏一が払ってくれた。置き手紙も置いていったし、鍵はフロントに放置しているが、僕たち以外に宿泊者はいなかったので盗られる心配もないだろう。何も言わずに去ることに大きな問題はないはずだ。
ただ、なんとなく後ろめたい。
数時間後、もぬけの殻になった部屋へ杏一が来るだろう。置き手紙を見つけて、少し怒るかもしれない。
しかし彼はきっと僕を見つけられない。
『紅露 椿』を枷にしないでほしい。
昨日、僕と桜だけで泊まることを渋った彼に言った言葉。僕のせいでまた誰かが傷つくのが耐えられない。善意でもなんでもない。ただ、罪悪感に潰されたくないだけの我が儘。
しかし、杏一が僕の願いを破ることは決してないだろう。つまり彼は僕を大々的に探せない。
「どこか長期的に住める隠れ家みたいな場所があればいいんだけど…」
桜の声は、心なしか昨日よりも明るい。昨日はよく眠れたようだ。
実は少し不安だった。他者に迷惑をかけたくないから彼女の提案に乗ったのに、結局桜に四六時中僕と一緒に居ることを強いている。だからこそ、彼女の笑顔に罪悪感が和らぐ。
「僕ら二人だと泊まれる場所もないし、しばらく野宿だね———」
あっ、と言葉を止めて思い至る。
野宿。野を宿とする、と言えば聞こえが良いが、今まで僕が行ってきた
「…いや、やっぱり桜ちゃんも夜は家に戻ったほうがいいんじゃない?ほら、…家族、も心配してるしさ」
駄目だ。彼女はまだ中学生だ。僕だけならまだしも、年下の女の子を路上で寝かせるなんて論外だ。ただでさえ桜は、両親に秘密で僕を手助けしてくれているのだ。……そう、親。
彼女は僕とは決定的に違う。彼女には、僕には居ない大切な人が居る。彼女を想っている人がいる。
その言葉を言い淀んだことに気づかれていないか不安だ。それだけはいけないのだ。自分に手を差し伸べた人に嫉妬することだけは。
本音を隠そうと桜から視線を外す。そのためか、彼女が吐いた息がやけに固かったことに違和感を感じることができなかった。
「…そんなに、私は役に立たないかな?」
「え?」
「私も、椿ちゃんを助けたいの。私じゃ力不足なの?私は必要じゃないの?」
ずい、とこちらに顔を近づける。澄んだ目だ。ただ、いつもと違う。深い。
どこかで見たような穴のような大きな瞳から、目を離せない。まるで、縫い止められたかのように。
今の僕より少し大きい桜の手が、僕の肩を掴んだ。その力は見た目に反してかなり強い。
「——
嘘だ。痛かったわけじゃない。驚きからか、距離を取りたかったからなのか。気づけば喉からそんな声が漏れていた。
僕の小さな抗議に、桜が慌てて手を離す。
「…あっ。あっごめんね!?大丈夫?」
「…大丈夫、びっくりしただけ。こちらこそ大袈裟でごめんね」
目に再び光が戻ったことを確認して安堵する。眉尻を下げて、本当に申し訳なさそうに謝罪を続ける桜の姿。勝手に被害者面をしたのは自分なのに。ちくりと胸が痛んだ。
「…桜ちゃんの思いを考えてなかったよ。申し訳ないけど、僕のことを助けてくれないかな?」
罪悪感や居心地の悪さに耐えきれずにそう口にする。その瞬間、彼女の顔がぱっ、と明るくなった。優しい子だ。自分よりも他人を想える子だ。彼女が僕を支えてくれていることは、非常に幸運なことだ。
それならば。
なぜ僕は、桜の顔を直視できないのだろう。
なぜ僕は、彼女の差し伸べた手を握ることを躊躇っているのだろう。
形容し難い不安を燻らせながら、だんだんと明るくなっていく道を進む。
「お昼ご飯、買ってきたよ!」
「喉渇いてない?お水取ってくるね!」
「地べたで寝ると痛そうだし、このダンボール使ってよ!」
独りで逃げ隠れていた時には考えられないほどに、この逃亡劇は苦痛にはならなかった。ひとえに桜の尽力のおかげだ。
「ありがとう。何もかも任せちゃってごめんね」
「全然!これで椿ちゃんが少しでも楽になればいいな!」
真っ直ぐな笑顔が眩しい。
今日の寝床——といっても、ただの廃屋であるが——へと帰って来た彼女は溌剌と返答し、僕の手をぎゅっと掴んだ。
「椿ちゃんの手、冷たいね」
「……そうだね」
今ので三回目だろうか。僕を物陰に隠して様々な物を入手しに行ってくれた。
その単独行動から帰ってくると、彼女は決まって僕の手を握る。そして言うのだ。「手が冷たい」と。その後に紡ぐ言葉も決まっている。
「手が冷たい人って、心があったかいんだよね」
「…そうだったら、いいんだけど」
「きっとそうだよ!」
励ましてくれているのだろうか。
今日だけで三回、全く同じ言葉を繰り返している。明るい声が、優しさがなんだか機械的に感じる。そんな彼女がなんとなく怖くて、同時に自分を元気づけようとしている人に恐怖を感じていることが申し訳なくて、結局桜から目を逸らす。
「椿ちゃん、大丈夫?」
勿論目の前に居る彼女は、そんな僕の態度に違和感を覚えるだろう。
「大丈夫。…ただ、ちょっと疲れちゃったみたい」
彼女の純粋な心配も逸らす。何もかも僕を捉えて欲しくない。
でも、逃げていても何も変わらない。何かを変えなければいけない。
この逃亡劇に好転は存在しない。
「ちょっと、疲れちゃったみたい」
その言葉を最後に押し黙ってしまった椿を見下ろす。途端に彼女の意識の中から
はっとして取り繕った顔を晒す白髪の少女。よかった。彼女の眼に、私は映っている。
「…ちょっと早いけど、今日はもう寝ちゃおっか」
「え。でも、まだ20時だし、明日はどうしたらいいか決めてないし」
「それは私がやっておくから」
ぐいぐいと椿の背を押してダンボールを敷いた場所へ誘導。自身が羽織っていた薄い上着を毛布代わりにしてかけてやる。
「ここまでやってもらわなくても…」
少し不満気に漏れた息は、五分と待たずに寝息へと変わった。
あまりに滑らかな入眠に苦笑する。本当に彼女は
彼女は他者の視線にひどく怯えている。それは私の視線すらも同様だ。だから、椿のことをじっくりと見たことは今まで殆ど無い。
これ幸いと頬を撫でてみた。
幼い容姿に似合わないアンバランスな美貌。眠っている彼女の姿はまるで精巧な人形のようだ。
だからこそ、小さな傷がよく目立つ。
「っ!?」
耳のすぐ後ろに、無数の切り傷の跡を見つけた。今はほぼ完全に治っており、ただ幾つもの赤い線が重なっているだけ。
それはもうただの跡で、触れても痛みどころか違和感すら感じないほどに治癒が済んでいるだろう。
そのことに、私はぞっとした。
忘れていた訳じゃない。ただ、思い描いてしまったのだ。彼女の体内に、胎内に沈む夥しい数の傷を。
ポケットから端末を取り出す。昨日から切りっぱなしにしていたそれの電源をつけた。
不在着信
お母さん 18:30
お父さん 18:29
紫野 菫 16:00
お母さん 15:04
菖蒲 綾芽 13:05
お母さん 11:52
お母さん 9:13
紫野 菫 8:00
「…あはは」
今日だけで通知がこんなに増えてしまった。皆が魔女を探しているのだろう。分かってる。こうやって隠れていられるのも時間の問題だって。危険だ。守らないと。
「渡さない」
誰にも。
ショーウィンドウに写った自身の真っ赤な眼に驚く。
いつものように日が出る前に寝床を発ち、中心街の歩道を歩いている。意外にも、数日間僕らは平穏を謳歌していた。
久しぶりに対面した自身の顔。朝一番から嫌なものを見た。げんなりとしながらも、僕の手を繋いで不思議そうに首を傾げる桜に何でもないと空いた方の手を振る。
やっぱり僕の眼は血のようにどろどろに濁ったままだ。
…このままでいいのだろうか。
好転しない毎日に、胃に重い何かが溜まっていく感じがする。誰にも見つからないように身を隠して各地を転々としているのに、終わりを求めている自分がいることに困惑している。
ぶんぶんと頭を振って、なんの益にもならない思考を打ち切る。その時、ふと気づいた。
「…そう言えば、桜ちゃんって僕の眼を見てももう大丈夫なの?」
「?……あっ。言われてみればなんともないかも」
そう言って笑う彼女の顔は、どんよりとした天気に反して晴れやかだ。
どういうことだろう。以前彼女は僕の魔眼に苦しめられていたはずだ。いつからか、桜はどこまでも真っ直ぐに僕を見始めた。
「今も大丈夫なのかな…ちょっと試してみてもいい?」
そう言って僕の頬を両手で包み込む。そして目を見開いて、僕の瞳をしかと見据えて、
「目、合わせてほしいな」
『目、合わせて?』
突然。鼓膜の奥底にこびりついた声が、桜の声に重なって聞こえた。
僕はこの言葉を知っている。
知っている。頬を包む感触も。
知っている。奥底まで探ってくる深い目も。
知っている。僕を焼き焦がした妖しい光も。
眼前の少女の姿が溶けていく。その代わりに、眼球を紅い何かが満たしていく。
『ナーサリーちゃん』
知っている。
『…魔女』
知っている。知っている。知っている。知っている。
「——!——きちゃん!椿ちゃん!!」
「………ぁ?」
真っ赤に染まっていた視界が次第に色を取り戻していく。目の前にいたのはテレパシー…ではなく、勿論桜だけ。彼女に押し倒されているような体勢に困惑する。
「椿ちゃん?……よかったぁ……」
状況が読めなくて、目に入る物に手がかりを探す。視点を動かしていると、ある一点の鮮赤に目が釘付けになった。
僕の肩を抑える桜の腕にある、無数の引っ掻き傷。
「え?」
なんとなく、本当に無意識に、自身の手を見た。爪に付いた血を見た。
「あ。…あ、あの、これは違うの!椿ちゃんが暴れたのとは関係ないから!今こけちゃっただけ!」
僕は、自分自身の手で、直接誰かを傷つけたのか?
傷つけなくなかったから、ずっと一人で抱えていたのではなかったのか?
縋り付くから、結局こうなってしまう。
この血は僕の血じゃない。不死が流す際限ない液体じゃない。命だ。誰かに望まれて生きてきた、命の一部だ。
「ごめんなさい」
そんなつもりはなかった? 否。
許してほしい? 否。
「ごめんなさい」
僕の存在は誰かを傷つける。そうだ。
望んではいけない。その通りだ。
「大丈夫!大丈夫だから!」
頭を地に擦り付ける僕を抱えて
こんなことで桜は僕を見捨てないだろう。分かってる。
でも、もしこのまま捨て置いてくれたなら、僕はどれだけ絶望して、どれだけ安心するだろう。
「落ち着いた?」
「…うん。ごめんね」
「それよりも聞きたい言葉があるんだけどな〜」
「…ありがとう」
「どういたしまして!」
怪我をさせたのは僕なのに、桜は明るく振る舞って僕に負い目を感じさせないようにしている。
彼女の笑顔はまるで本心かのように自然だ。そんなにも気を遣わせてしまっている。これもまた、罪のように思えた。
彼女は魔法少女だ。そして、僕は怪人だ。怪人は特異な性質を持ち、通常の手段ではまず死なない。魔法少女の『浄化』を除いては。
「…やっぱり、僕は——」
僕の手を包む力が強くなる。
「私がずっと支えるから。助けるからね。もっと頼ってよ」
素直に頷けない。当然だ。僕は魔女だから。縋ってしまったら、きっと壊してしまうから。
思考の澱が溜まっていく。脳の深いところでぐるぐると廻って抜けていく。淀みの生産が止まらない。
「ね?言ってよ。助けてって。呼んでよ。桜って」
「…できない」
「…え?」
「できないよっ!僕が関わればみんな不幸になる!桜ちゃんだって!駄目なんだ!僕が望んじゃ!」
吐き出す。僕の慟哭を、桜はただ黙って聞いていた。
「……椿ちゃん———」
「久しぶり、桜。そして初めまして、『孕娼の魔女』」
「——ッ!?」
雁字搦めになった僕たちの世界に、抑揚の無い声が割り込んだ。
弾かれたように後ろを振り向く。声の主を視界に捉えた途端、桜は驚愕と、微かな諦めの色を浮かべた。
「…案外、早かったね。……綾芽ちゃん」
僕でも知っている。小柄な体躯にアンマッチな、肩にかけた巨大な
『銃』の魔法少女、アイリス。彼女の目は、遂に僕らを捉えた。